第5話 天井裏から
それからサダオは、家の中で彼女の名を連呼するようになった。階段を上っては、寝室の戸の前に行き彼女に呼びかけた。
「アヤさん! いらっしゃいますか」
実際、彼女がどこに居るのかが分からないので、家中に、いや隣家にも聞こえんばかりの大音声で、サダオは呼びかけ続けた。
ある日、いつものように、サダオが居間に居ると、寝室から足音が聞こえた。そして、いつものようにサダオは階段を上り、寝室の前へとやってきた。いつもと違ったのは、その時に、寝室の中、おそらく寝室の天井のほうから何やら音が聞こえたことだ。
「アヤさん! 失礼します」
サダオが寝室の引き戸を開けると、やはり、いつものように、そこには誰も居ない。しかし、先ほど聞こえた音は何であろうか。
彼女への礼儀を重んじ、寝室への進入を避けてきたサダオであったが、今日は何かが違う。そんな気配に押されるように寝室へと足を踏み入れた。
寝室に入り、改めて人が隠れられそうなところが無いかを探す。まず目に付くのが押入れだ。
「すみません。失礼します」
押入れの戸を開けてみるが、初日同様、もちろん中には何も無い。
彼女はどうやって寝室に出入りをしているのだろうか。寝室と外とを繋ぐ経路がどこかにあるのか、サダオは寝室の中を探して回った。窓の鍵は閉まっているし、出入りできる場所は階段へ通じる引き戸のみのはずだ。
いや、外に出ているとは限らない。もしや、天井の上か。実際、先ほどの音は天井の方から聞こえた気がする。
サダオは天井を眺めた。天井は、幅30センチほどの板が規則正しく並んでいるだけで、特に怪しいところは無い。サダオが少し腕を伸ばすと、天井に手が届いたので、念の為、天井のあちこちを押してみたが、案の定、どこも開かなかった。
次に、サダオは押入れの天井を押してみた。すると、押入れの天井はいとも簡単に持ち上がった。
ここか。彼女は、音を立てることも無く、かつ迅速に、ここと寝室を行き来しているのか。しかしその挙動は、サダオの知る地球人のそれとは大きく異なる。
サダオは意を決して、天井の板を横にずらした。
「アヤさん! 失礼します」
入る前の礼儀も忘れない。
サダオは身体を持ち上げ、屋根裏に顔を入れて、見回してみた。
予想に反して、屋根裏に彼女は居なかった。代わりに、すぐ手が届く位置に、潰れた巻物のような紙があるだけであった。
これは、書物の一種だろうか。彼女の日記かも知れない。勝手に触ってはまずいかと思ったサダオであったが、好奇心から、ついつい手を伸ばし、一番外側の紙を開いてみた。しかし、そこには何も書かれていなかった。
サダオがさらに紙を引っ張ると、巻物の中心が、ゴトッと音を立てて回転した。これは書物ではない。何か、板状のものを紙で包んでいるのだ。
両手でそれを持ち、丁寧に紙を解いていくと、中には、赤黒く汚れた刃物が入っていた。
何故こんなものがこんな場所にあるのか、調べてみたくなり、サダオはそれを拝借することにした。しかし、無断で持ち出すのは失礼にあたる可能性があるため、一度居間に戻り、紙とペンを用意し、彼女に置き手紙を書くことにした。少しの間だけ借りる旨と、アヤへのメッセージを綴り、最後に署名をする。サダオは、再び天井裏へと行き、汚れた刃物を拝借し、代わりにその場所に置き手紙を残した。
サダオは居間に戻り確認した。やはりこの刃物は、包丁と呼ばれるものだ。地球人が料理の時に使う道具である。おそらく彼女のものだろう。通常、包丁は台所にて、料理を作る際に使われるものだ。何故あんな場所に置いてあったのだろう。そこまでして、自分と会いたくないとういことだろうか。
台所は、サダオが普段拠点にしている居間の横に備え付けられている。彼女は、本当は台所で包丁を使いたいのだが、サダオを避けたいがために、頑として台所には来ず、仕方なく屋根裏で包丁を振るっているのだろうか。
サダオは、何故自分がそれほどまでに彼女に避けられているのかを考えた。やはり、初対面時の失礼が致命的であったのだろうか。それ以外に思い当たることが無い。それに加えて、彼女の包丁まで持ち出してきてしまった。もう彼女との関係は修復不可能なのかも知れない。
この包丁を元の場所に返すべきだろうか。サダオは思案した。現時点で、彼女は自分に会ってすらくれない。包丁を返したところで、事態は進展しないかも知れない。むしろ、この包丁を使って、現状を打開することはできないだろうか。
この包丁はあまりに汚く、このままでは用をなしそうにない。この包丁を綺麗な状態に戻すことができれば、彼女も喜ぶのではないか。彼女は、包丁を綺麗にしたかったが、自分が邪魔でそれが果たせなかったのではないか。
サダオは包丁を洗面所に持って行き、水で軽く流してみた。多少の汚れは落ちたものの、赤黒い汚れは依然として強く残り、その殆どは錆であるようだった。サダオは、包丁を綺麗にすることを一旦諦め、洗面所の流し台の脇に置いておくことにした。
その日以降、少しずつ変化が起き始めた。
サダオが居間に居ると、例の足音が聞こえる。しかし、その足音は寝室を歩き回っているのではなく、階段を下りてくるのだ。彼女がようやく寝室から出てきてくれた。あの置き手紙が功を奏したに違いない。喜び勇んでサダオが居間の戸を開けると、しかし、そこには誰の姿も無かった。
そんなことが何度か続き、サダオは再び疑問にぶち当たる。一体、彼女は階段から下りてきてどこへ消えるのか。足音から察するに、廊下まで下りてきていることは間違いないのだが、その瞬間に居間の戸を開けても、もう居ないのだ。サダオは、彼女の敏捷性と静粛性に驚くばかりであった。地球人の運動性能を大幅に見直さざるを得ない。
そして、次にサダオが考えついた手は、居間の戸を開けたまま生活することであった。これであれば、彼女が階段から下りてきたその瞬間を、しっかりと目視することができるであろう。その機会はすぐに訪れた。
23時頃、サダオが居間の電気を消して、今か今かと足音を待ちわびていたところ、階段から音が響き渡る。
トン、トン、トン。
足音は間違いなく階段を下りてきている。戸が開いているため、今までよりも音が鮮明に聞こえる。いよいよ、その音が階段を下りきるであろう瞬間、サダオは見た。
廊下へと下ろされた、白く、細い足。その足を辿って、視線を上にずらしていくと、足の上には白いスカート、その上には白の上着、いや白のワンピースのようだ。ワンピースの上には、低く項垂れた頭が付いており、垂れ下がった長髪が、彼女の横顔を完全に隠している。彼女は廊下に下り立つと、音も無く身体を右へ九十度回転させた。つまり、サダオに背を向けた状態になる。
彼女が背を向けると、白のワンピースと思われた服に、墨汁をぶちまけたような黒い模様があるのが見えた。
サダオは同じ轍は踏むまいと、ガバっと上体を起こし、すばやく立ち上がった。前回は、横になったまま自己紹介をしてしまったのが、少なからず礼を失していたとの反省からである。一度、直立してから、深々と頭を下げ、サダオは言った。
「アヤさん、こんばんは! その洋服の黒い染み、素敵ですね」
女性に接する時は、服装を褒めると良いとマニュアルに書いてあったのを覚えている。サダオはゆっくりと顔を上げ、彼女の反応を窺った。
しかし彼女は、全く反応を示さないまま、玄関の方へと少し移動し、やがて左を向き、洗面所へと消えていった。
サダオはぎょっとした。彼女は音も立てずに移動したばかりか、洗面所の戸を開けることもなく、洗面所へと入ったのだ。地球人は、物質を透過することができるのか。そんな情報は、過去のどの報告書にも載っていなかった。これは新発見である。
新たな発見に興奮したサダオであったが、ふと我に返り、急いで洗面所へと向かった。戸を開けた時には、すでに彼女の姿は無かった。遅かった。そう思った瞬間――
ガチャン!
流し台の横で、包丁が、つい今しがたまで誰かが持っていたかのように、音を立てて倒れた。
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