取引
「犯罪者を見逃せ、というのか」
代官のネドは目を細めた。
「犯罪といっても、このロワとの間におきた痴話げんかの果てに、金を持って逃げたというのが真相だから、多少の慈悲があってもいいんじゃないか」
お願いします、といって私は代官に頭を下げた。
「犯罪を見逃すというのは、社会全体にどんな悪影響を与えるかわからないし、代官としての職務怠慢にもなる。それになにか私に利益があるのかね」
代官は憮然とした表情で答えた。
「盗まれた金貨などなかった、ということではどうですかな」
ベンユ爺さんのことばに、はじめて代官の口元に笑みが浮かんだ。
「若い男女の過ちを、人情あふれる代官様が慈愛をもって裁く。町の人々はネド様の大きなお心に称賛こそすれ、職務怠慢などというものはおりませんぞ」
代官はなにかを考えるような遠い目で、私たちの後ろの扉を見つめていた。
「あの女が持っていた金は、そこのロワという男のもので、二人の間に誤解があったということだな。そして、女の金は持ち主のところにもどったので、なんの犯罪もおきていない」
「そうです。そのとおりなんです」
私がいきなり大きな声を出したので、代官のネドは驚いたような顔をしていたが、すぐにニヤリと笑った。
「ひとつききたいんだが、いいかなロワ君。たしかにあの女は男好きする体をしておったが、あんな女にヴィーネ金貨20枚の価値があるのか」
「お金の問題じゃあありません。シェスは確かに間違いをおかしましたが、死をもって償うほどのことはしていません」
「金貨20枚は、死をもって償うことだと思うがな。まあいい、8の鐘までに押収品の金貨受け取りの証文をつくっておくから、そのころ来てくれ。女はその場で渡そう」
話がまとまったので、ベンユ爺さんが立ち上がり、代官のネドに頭を下げた。
「ありがとうございます。ネド様にひとつ借りができましたな」
私もあわてて立ち上がり、頭を下げる。
「こちらこそ実りのある話ができてよかったよ、ベンユ殿。ロワ君も、そんなに大切な女なら首に縄でもつけておけよ」
代官は機嫌よく、代官所を出ていく私たちを見送ってくれた。
二人で宿屋に帰る道すがら、ベンユ爺さんはずっと納得できないような顔をしていた。
「お前さんのいうとおりになったが、本当にあれでよかったのか」
私はうなずいて、協力してくれたことに礼をのべる。
「そんなに具合がいいのか、あの女は」
そういって、爺さんは下卑た笑いをうかべた。そういう関係がないといってしまうと、さらにいろいろ質問されそうなので黙っている。
「まあ、お前さんの金だから好きにすればいい。しかし、これで素寒貧になったんだろ」
残りの正銀貨もほとんど使ってしまったので、仕事を探さなくてはならなくなったのは事実だ。
「鉱山の仕事は、私のような人間にもできるものですかね」
「とりあえず口はきいてやるから、まずは体調を元に戻せ」
ベンユ爺さんとはあとで待ち合わせをして、いったん宿屋にもどった。
まだ残っていた食堂の食材で、ありあわせのスープをつくり、カビたパンのカビの部分を削り取りながらスープにつけて食べる。体調はかなり戻ってきているが、まだまだ力仕事をする自信はない。8の鐘までにはまだまだ時間があるので、ひさしぶりに宿の部屋を掃除することにした。
8の鐘が鳴った少しあと、ベンユ爺さんと2人で代官所にむかう。
すぐに代官の部屋までとおされ、押収した金貨の受け取り書類にサインした。満面の笑みで書類を確認したネドに、すぐに女をつれてくるから待つようにいわれたが、シェスを自由にしてもらえればそれでいいと伝え、宿屋にもどることにした。
代官ははじめ意外そうな顔をしたが、金貨のことで頭がいっぱいのようですぐに了解してくれた。
これで、シェスが縛り首になる姿をみることはないはずだ。金を失ったが、なぜかこころは満たされていた。
久しぶりにゆっくり眠ることができた。
意識を失うようにだったり、朝方までおきていて、疲労に耐えきれず少しだけ眠るような浅いものではなく、しっかりとした深い眠りだ。
布団の中で手足を伸ばし、左手を握ったり、開いたりしてみる。
違和感はもうない。
枕もとの水差しから木のコップに水をそそぎ、一気に飲み干す。
階段を下りて、一目散に鉱泉にむかい、肌着を脱ぎ散らして飛び込む。
鉱泉が真っ赤に染まっていたのは何日前のことだろう。
今はその痕跡はどこにもない。
ベンユ爺さんが洗い流してくれたらしいが、あのまま私が死んでしまえば、爺さんもこの鉱泉を使いにくくなっただろうと思う。
まだまだ暑い日が続いているので、鉱泉は少し肌に冷たくて心地よかった。
食堂の営業もやっていないので、今日も掃除くらいしかすることがない。
体力はほとんど回復したように思えるので、明日にもベンユ爺さんに鉱山の仕事を頼んでみてもよいだろう。
食料の在庫もほとんどなくなってきたので、食うためには働かなくてはならない。
鉱泉を堪能し、乾いた布で体を拭くと、脱ぎ捨てた衣服を身に着けて表の扉を開けておく。
急に泊り客が来るとも思えないが、閉まっていると勘違いされるのもこまる。
中庭の井戸から水を汲み、食堂の水のかめを満たし、鉱泉の中にある体を流すときにつかう水も継ぎ足しておく。
乾燥豆と香草はあったが、肉も野菜もなかったので、麦粉をスープに足してとろみをつけて腹を満たそう。
かまどに火を入れ、これも少なくなった薪を使って、鍋に入れた水を温める。
小袋から、残っているお金を全部テーブルの出して所持金を確認する。
銅貨10枚に
パンくらいは買っておくべきだろうか。それとも、せっかく窯があるのだから、自分でパンを焼くのはどうだろう。しかし、パンを自分一人で焼いたことはないし、薪代だってバカにならない。家ではいつも母親が2週間に1回パンを焼いてくれたが、7人家族のパンを焼き上げるのは一日仕事だった。男一人で食べるパンなら、買ってきたほうが間違いなく安くつくだろう。
鉱泉を温泉にするために、薪を山ほど使ったことをいまさら後悔した。
鍋が煮立つ前に、乾燥した豆と香草を入れる。肉もなにも入っていないので、腹を満たすだけのものになるがしかたない。
スープができるまで、1階の部屋の掃除をしていく。お客さんもいないのに、なぜ毎日掃除してもホコリが無くならないのか不思議だが、箒と雑巾で各部屋をきれいにしていった。
1号室と2号室を片付け、もうそろそろスープができたころかと台所にもどる。
クツクツと鍋が煮えていたので、麦粉を水に溶いたものを素早く鍋に回し入れた。
これで豆がゆの出来上がり。
木の椀によそい、食べはじめる。
味も素っ気もないが、腹はくちくなった。
木の椀を水につけ、掃除の続きだ。
1階の掃除を終わらせ、2階の掃除にうつり、気がつくと6の鐘が鳴っていた。
すみずみまで掃除をした満足感に包まれながら階下に降りると、入ってきたベンユ爺と出くわした。
いつもは鼻歌交じりで入ってくるベンユ爺さんの顔が、なぜか曇っていた。
「なにかあったんですか」
「表に、あの女がおる。気をつけろ。お前を逆恨みして殺しにきたのかもしれん」
渋い顔でいうベンユ爺さんのことばとは裏腹に、私の心は浮きたった。
シェスに会える。
向こうから会いに来てくれた。私には、ベンユ爺さんの心配は杞憂であろうという自信がある。
そして自分の身に起こっていることへの疑念が、確信にかわりつつあった。
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