焼石風呂
「おはよう、朝食二つね」
食堂に鉱夫の二人組が入ってきた。
「おやじさん、なんか今日この食堂暑いね」
背の高い男が、声をかけてくる。
え、おやじさんって私のことか。思わず苦笑する。
「トップさん、でしたね。はじめてパン用の窯に火を入れてみたんです。暑くてごめんなさい」
「へー、焼き立てのパンが食べられるなら、ますますこのお店に来なくっちゃ」
太った、確かリリとよばれていた男も話しかけてくる。
「ぜひ、新しいお客さん連れてきてくださいよ」
普通にお客さんと会話をしている、自分への違和感がすごい。なんだ、難しく考えなければお客さんとしゃべれるじゃないか。
代官所の役人も、大きなカバンを持って入ってきた。
「いらっしゃいませ。ご注文はなんにしますか―――あの、お名前をきいてもよろしいですか」
役人は一瞬こちらをまじまじと見たが、すぐに目をそらしてぼそりという。
「ゴタキンだ。代官所のゴタキン。朝食をひとつくれ」
「ありがとうございます。はじめてパン窯に火を入れたもので、食堂が暑くて申し訳ありません」
ゴタキンさんは無言でうなずく。
3人分のスープとパンを用意し、順に運ぶ。
パンが焼きたてではないと文句をいいながらも、あっというまに食事をたいらげたトップとリリは金をテーブルに置いて鉱山に出かけていった。ゴダキンは、カバンの中から取り出した書類をみながら食べていたが、食事が終わるとすぐに出ていった。
タダにしようと思っていたのに、いいそびれてしまったことに苦笑した。この期に及んで、
表のメニューを下げて、玄関の中に入れる。これで食堂は閉店。
ベンユ爺さんは6の鐘の後にしかこないから、時間はたっぷりある。
テーブルに紙を置き、できるだけきれいな字で書く。
<遺言状 私の死後、赤銅亭の権利を、すべてベンユさんに進呈します。食材そのほかも、すべてベンユさんに譲ります。 ロワ>
この紙にどれくらいの法律として効力があるのかはわからないが、ベンユ爺さんならうまくやってくれそうな気がした。
台所にもどって、火ばさみで焼いた石の具合をみる。真っ赤になったりするのかと思っていたが、そういうものではないようだ。鉄で補強された焼き石用の桶に、石をいくつか乗せてはこぶ。石からの熱で、桶を持つ手がかなり熱い。ふと、たくさん運ぶなら手袋かなにかが必要だなと思うが、これで石を運ぶのは最初で最後であることを思い出す。
もともと鉱泉の浴槽には、焼き石を入れる場所が用意されている。膝の上くらいの深さに、大人が3人横たわることのできる浴槽の入り口から近いところに二重の網で仕切られた焼き石を入れる場所があり、そこに適温になるまで石を放り込むのだ。
火ばさみで、焼けた石をはさんで鉱泉に入れると、ジュッという大きな音がして、一瞬だけ湯気が出る。
石は水の中で泡をまとっていた。
おそるおそる手を鉱泉につけてみる。こころなしか温かい気もするが、それほどでもないかもしれない。
桶の中の石をどんどん浴槽に放りこむ。
石を投げ入れるたびに鳴る、ジュッという音が心地よく、あっというまに8個の石をすべて投じてしまう。
もういちど鉱泉に指を入れる。
「熱い!」
思わずさけんでしまい、指先から熱を逃がそうと何度も手を振る。
自分の間抜けさに苦笑した。
浴槽の他のところにおそるおそる手をつけるが、まったく熱くないので、かなりかき混ぜなくてはならないようだ。倉庫に鉱泉をかき混ぜるための、先端が横に広がった棒があったことを思い出して取りにいった。長らく使われていなかった木の棒は、乾燥で変形していたが、そのこと以外は特に問題ないようだった。
鉱泉をかき混ぜ、焼き石を入れたところから一番遠い浴槽に指を入れる。たしかに少し温かくなっているような気がする。台所から、残りの焼き石を何度もはこび、どんどん浴槽に投げ入れた。
さらにかき混ぜる。全体がまんべんなく温かくなったような気がした。すべての石を浴槽に入れると、もう一度台所にもどる。
野菜を切る小さな包丁を手に取るが思い直し、二階の自分の部屋から、旅の途中肌身離さず持っていた短剣を手にして鉱泉にむかった。
服を脱ぎ、短剣を手に鉱泉に入ろうとしたとき、あることが頭をよぎる。
全裸だと、後で見つかった時に恥ずかしくないだろうか。
つまらないことばかり気になる自分が、おかしくなって笑う。そんなことはどうでもいいじゃないか。
浴槽に右足を勢いよく突っ込む。
「熱っ!熱い!」
あわてて湯船から足をあげると、湯につかった部分から下が真っ赤になっていた。
「さっきはちょうど良かったのに!」
誰に向けてよいのかわからない怒りから、大声をだしてしまう。
焼いた石からは今も熱が鉱泉に伝わっており、たくさん焼き石を入れすぎたことで湯温が上がりすぎたのだと気がついた。
熱くて浴槽にはいれないので、火ばさみと桶を取りにいき、焼き石を半分くらい取り除いたうえで、鉱泉を流すためにくみ貯めた井戸水を桶で湯船にくわえて湯温を下げた。
全裸で汗だくになりながら、湯温の調整をしていることがおかしくて、ニヤニヤしてしまう。
なぜ今日は、こんなに笑顔がでるのだろう。
世の中のしがらみから逃れることを決めたから、心が軽くなったのか。
もう一度、お湯をかきまぜて湯温を足ではかる。
まだ若干熱い気はするが、入れない温度ではない。
そろそろと湯船につかり、体を伸ばす。
あー、この風呂というものを考えた人は間違いなく天才だ。
体がとろける。
しばらく風呂を堪能することにした。
このままずっとこうしていたかったが、いろいろと無駄に手間取ったので、あまりゆっくりするわけにはいかない。少し前に5の鐘が鳴った。あと1刻もするとベンユ爺さんがきてしまう。
短剣をさやから抜く。
革細工でできた短剣のさやは、濡れてきたない色に変色しているが、手入れをかかさなかった短剣の刃には一点の曇りもなかった。
手首に短剣を当てる。
こわい。
死ぬのがこわいのではなく、血がこわいのだ。
左手をお湯につけ、右手の短剣もお湯の中にいれて手首にあてがう。
視線をあげる。
これで見えないはずだ。
手首にあてた短剣を、押しつけながら引く。
引きつるような痛みを感じる。
思っていたよりずっと痛かったので、つい自分のお湯の中の左手を見てしまう。
赤い花が湯の中で咲いていた。
私の命が流れ出している。
そして、なぜか体から黄色い光があふれだしていた。
あまりのまぶしさに、思わず目を閉じる。
この光は魂が抜けるときの光なのか?
もうどうでもいい。目を開くつもりはなかった。
「おい、ここにオッサンがいるぞ」
この声はテシカンだ。
「神託通りです。はやく手当てを。私が回復の術を使いますので、お湯からだしてあげてください」
神官のビッデだ。
「俺たちみんなで魔竜を倒すんだ。先に死のうなんて、そうは問屋が卸さないぞ」
声しかきこえないが、クデンヤがニヤニヤしているのはわかる。
「とりあえず止血を」
この冷静な声はウゼだな。
なんで、みんなここにいるんだ。
まさか私を助けにきたのか?
役に立たないオッサンを?
照れくささと、私をまだ仲間と思ってくれていたことへの感謝の気持ちでいっぱいになる。
私も――。
その瞬間、意識がもどった。
浴室には誰もいない。
チョロチョロと鉱泉が流れこむ音だけが響いていた。
まぼろしか。
みんな今頃なにをしているのだろうか。
寒い。
温かいお湯につかっているはずなのに、とても寒い。
あの4人にバカにされるのは仕方ない。あの4人は英雄であり、私はただのオッサンなのだから。
4人はきっと子どもの読む絵本の登場人物となり、たくさんの子どもの胸を躍らせる英雄になるだろう。
百年たっても、二百年たっても忘れられずに人々の心に生き続けることだろう。
私はいまここで死のうとしているが、ひと月後でさえ私のことを覚えている人間が何人いるだろうか。
人はいずれ必ず死ぬ。
だから死は受け入れることができる。
しかし、自分がこの世界に存在したことを、誰も覚えていないことは悲しい。
子どもでもいれば、父親が死んでもその記憶は残るだろうし、孫は優しいおじいさんを忘れはしないだろう。
誰にも愛されず、誰からも忘れられる。
死は恐れないが、忘却は恐ろしかった。
浴槽はきれいな朱に染まっていた。
そのときはじめて死にたくないと思った。
早く血を止めないと、と思うが両腕がうまく動かない。
寒い。
まずは湯船をでなければ、と思うが膝に力が入らず、立ち上がることができない。
ダメか。血が流れすぎだ。
手遅れになってから後悔するとは、いままでの人生そのものだ。
あー死にたくないなぁ。心の底から願う。
その時、突然頭の右うしろで鐘の音がした。鐘というより、お祭りの時に鳴らす
チキチン、チキチン、チキチン。
三度なって音は止まった。
頭は浴槽の後ろ側に持たせかけているから、後ろは壁のはずだ。壁の向こうからきこえたにしては、音がはっきりしすぎていた。
振り返りたかったが、体が思うように動かない。ふと自分の体をみると、また黄色い光が全身をおおっている。この光はなんなのかと考えるが、答えはみつからない。
そのとき、鉱泉から食堂への出口の扉が突然開いた。
「なんじゃこりゃ」
湯気ではっきり見えないが、声はなじみのあるものだった。
助けて、といいたかったが声が出ない。
ベンユ爺さんが湯船に入り、私の右腕をつかんで湯船から引き上げようとしているが、重いのでなかなか動かない。
そのとき私の意識は途切れた。
気がつくとベッドに寝かされていた。
部屋の家具からすると二階の自分の部屋ではなく、一階の宿泊客用の部屋のようだ。
左手首には布が巻き付けられていたが、血はにじんでいない。
どれくらい眠ったのだろうか。
水が欲しい。
のどが渇くのだから、生きてはいるのだろう。
また意識が遠のいていった。
扉の開く音で目がさめる。
私の首が動くのをみて、ベンユ爺さんは驚きの表情をみせる。
「おお、気がついたか。テキン様も回復術では血は戻せんから、意識が戻るかどうかはわからんといっておったが、よかったよかった」
ベンユ爺さんの、打算のない笑顔がうれしい。
声を出そうとしたが、唇が渇いていてうなることしかできなかった。
「水を飲むか」
枕もとの水差しから皿に水をそそぎ、頭をもちあげて私の口元にあてがう。
皿からすするように水を飲み、目でもっと水を欲しいことをうったえた。
「水くらい、いくらでも飲め」
何度も皿に水がそそがれ、口とのあいだを往復する。
「ありがとう」
かすれた声で、ベンユ爺さんに礼をいい、気になっていたことをきいてみた。
「何日」
「何日。何日寝ていたかということか。今日で3日目になる」
思っていたよりも眠っていた時間は短かったようだ。
「ちょっと待っていろ。急いでテキン様をよんでくる。意識が戻ればもう一度回復術をかけるとおっしゃっていたからな。絶対に眠るんじゃないぞ」
また意識が薄れそうになるが、さきほどの水が与えてくれた力でかろうじて踏みとどまった。
どれくらい時間がたったのかわからなかったが、ドタドタという音とともに、ベンユ爺さんが枯れ枝のような老人をつれて部屋に入ったきた。
「おお、本当に意識がもどったのか」
枯れ枝のような細い老人は、その体躯と比較すると驚くほど大きな声でいった。
「ベンユの頼みだから半信半疑で回復術を使ったが、正直なところ意識が戻るとは思っておらなんだ」
うるさい。
「わしらは傷は治せても、血をつくることはできん。体の血を取り戻すには何か月もかかるもんだが、その前に人は死んでしまうからな」
とにかくうるさい。
「これもヴィーネ神の加護に違いない。きっとヴィーネ様は、この男にその血を分け与えたのだ。この男、どんな善行を積んできたのやら」
ほんとうにうるさい。なんとか声の音量を下げてもらうようにしたいが、体が思うように動かない。
「テキン様、そろそろ回復術を」
ベンユ爺さんがそういうと、テキン様とやらは呪文のようなものを唱えはじめた。
しばらく呪文を唱えると、その両手から黄色い光が湧きでる。
神官のビッデが使っていたものなので、この後どうなるのかは知っている。
その両手で患部に触れるのだ。
当然左手に触れられると思っていたが、なぜか
温かい力が体に流れこむ。
その心地よさに、目を閉じて身をゆだねる。
いつまでもそうしていたかったが、離れていく手を名残惜しそうに見つめることになった。
術の効果はてきめんで、はっきりと目が開くし右腕も動く。
左手にはまだ違和感があるが、動かないわけではない。
体をベッドから起こそうとするが、まだそこまでは回復していないようだった。
私の動きを察したベンユ爺さんが、背中を支えてくれたのでなんとか体を起こす。
「水をもらえませんか」
かすれた声でベンユ爺さんにお願いする。
ベンユ爺さんは水差しから水を木のコップにそそぎ、こちらに手渡してくれた。
自分の手でコップを手にし、水をゴクゴクと飲み干す。全然足りない。
コップ5杯の水を飲んで、ようやく人心地がついた。
「ありがとうございます、ベンユさん、テキンさん。いまこうして生きていることが奇跡だと思っています。本当にありがとう」
二人にお礼をいって、頭を下げた。
「ヴィーネ様は、自殺を禁じているのは知っておるな。なぜ自殺しようとしたのかは知らん。だが、ヴィーネ神の加護に感謝しなさい」
いかにも神官らしいことばに、黙って頭を下げる。ベンユ爺さんがテキンさんを表まで送り、部屋に戻ってくる。
「これはお前に一つ貸しだぞ。テキン様をよぶのもタダじゃない。正銀貨3枚返してもらう。お前さんの命の代金が金貨1枚くらいかな」
笑顔で話しかけてくるベンユ爺さんに、私は申し訳ない気持ちで答える。
「デキンさんに支払った正銀貨は払えると思います。でも、本当に申し訳ないのですが、命の代金はお支払いできません。お金がないんです」
「じゃあ正銀貨は支払ってもらおう」
ベンユ爺さんはにっこり笑う。
「命の代金は別に払わなくてもかまわん。金が欲しけりゃ、あんたをあのまま見捨ててた。死んだらこの宿屋をワシに返してくれるんだろ。ここにある金も荷物も、すべてワシのものになったんだ。金のことは気にするな」
たしかにベンユ爺さんのいうとおりだった。法律のくわしいことはわからないが、ベンユ爺さんならうまくやったはずだ。
「なにがあったか、はなしてみないか。こんなジジイでもいい知恵が浮かぶかもしれんぞ」
「その前に、水をもう一杯もらえませんか。それほど長い話ではありませんが、いくら水を飲んでも乾きがとれなくて」
そして、ベンユ爺さんにポツリポツリとシェスとの事をはなしはじめた。
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