一国一城の主になる
「これでワシとあんたは相棒じゃな」
乾杯して酒が入ったからか、ベンユさんの口調はかなり慣れ慣れしく変わっていた。
「爺さん、あんまり飲むと体にさわるよ」
私もしゃちほこばるのはやめ、普通の口調ではなすことにしたす。
「こんな客のこねー宿屋を買う、物好きに乾杯!」
なにか一言いうたびに、のどが焼けるような酒をグイグイあおるベンユ爺さんを眺めながら、二年前に死んだ父を思い出していた。父はふだんは寡黙な男だったが、酒がはいるとやたらと陽気になった。飲むとなぜか裸になりたがり、兄嫁を困らせていたものだ。父は、毎日毎日朝から晩まで働き、流行り病でころりと死んだ。
「この宿屋赤銅亭のいっさいを、わたしロワに譲り渡す。わたしロワは、ベンユさんにヴィーネ金貨で9枚と正銀貨10枚を支払う。これにくわえて」
さえぎるようにベンユ爺さんが口を開いた。
「すべてのものを譲るが、鉱泉はいつでも利用してもよい!」
「はいはい。これにくわえて、ベンユさんは、わたしロワに宿屋の主人としての心得を親切丁寧に教える。その代償として、宿屋の鉱泉をいつでも好きな時に利用してよい。これでいいんだな」
この宿屋には、山で湧き出る熱い湯を木の樋で送ってくる仕組みがあった。残念ながら湯の湧き出るところからの距離がかなり遠いので、宿屋に湯が届くころにはすっかり人の体温より冷たくなってしまう。鉱山が盛んだったころは、ガンガン焼き石を投げこんで風呂として使っていたそうだが、すっかり客足の遠のいたいまでは、温度の低い鉱泉として利用されている。
このひなびた宿屋を買い取る理由の一つが、この鉱泉だった。
まだ肌寒かった三か月前、はじめてこの鉱泉に入ったときに茶褐色の湯と少し冷たい湯温に驚いたが、しばらくつかっているとなぜか体がポカポカと温まることに気がつき、泊っている間は毎日この鉱泉を利用していた。鉱泉からあがったあと、肌がベタベタすることが少しだけ不快だったが、すっかりこの鉱泉が気に入ったのだ。そもそも、貧乏な農家には風呂なんてなかったから、時々体を拭くぐらいで、湯につかることを知らなかった。旅をする中で覚えた、たった一つの贅沢が風呂だった。その風呂に毎日入れるというのは、他にはない魅力だった。金貨半枚、正銀貨10枚を値引きしても鉱泉に入りたいベンユ爺さんの気持ちもよくわかる。
すっかりできあがったベンユ爺さんの姿を見ながら、自分のものになった赤銅亭に思いをはせる。鉱泉風呂の横に井戸水の入った水桶を置いておけば、ベタベタを流すことができる。食堂の窓にはガラスを入れよう。暗い食堂だとメシもまずくなる。二階に上がる階段をはやめに修理して、もっとたくさんのお客さんが泊まれるようにしよう。
今までの人生は人のためのものだったが、これからは自分の好きなように生きる。贅沢は必要ない。毎日腹いっぱい食べて、毎日鉱泉につかり、たまに客を泊めて小銭を稼ぐ。手元のお金でつつましやかに暮らせば、10年や20年は仕事をしなくとも暮らしていけるはずだ。
この町で、
いつのまにかベンユ爺さんは、テーブルに顔を突っ伏して眠っていた。それほど飲んでいないつもりだったが、気がつけば私も瞼を開けていることができなくなり、そのまま椅子にもたれかかって眠ってしまった。
翌朝目を覚ましたとき、自分のうかつさに背筋が寒くなる。大金を持っていると公言している旅人が、なんの警戒心もなく赤の他人と同じ部屋で眠ってしまったのだ。
しかし、ベンユ爺さんはまだ高いびきで眠っており、心配は杞憂であった。
とりあえず四号室に旅の荷物を運びこみ、金貨25枚を棚の裏側に隠しておく。探せばすぐに見つかる場所だが、袋に入っている金貨11枚とは別にこれほどの金貨があるとは思わないだろうと思ったのだ。
食堂にもどり、ベンユ爺さんに声をかける。
「おはようございます、ベンユさん。朝ですよ、朝」
いびきが止まり、血走った眼でベンユ爺さんがキョロキョロとあたりを見まわす。こちらに目を向け、なにが起こっているのかを頭の中で懸命に考えているようであった。
「ベンユさん、昨日はお酒ごちそうさまでした。さっそく話の続きをしたいんですが」
「あー、あんたはー、騎士の従者のー、話の続き?」
「宿屋を買いたいという話の続きですよ」
「ちょっと待ってくれ、少し顔を洗ってくる」
酒のせいで全然覚えていないなどといわれるのではないかと心配したが、顔を洗って戻ってきたベンユ爺さんは頭を振りながらこういった。
「昨日は飲み過ぎた。心配せんでも覚えとるよ」
手にした水差しをテーブルに置き、二つ持った木のコップのうち一つをこちらに差しだす。
「まあ、水でも一杯どうだい。酔い覚めの水は値千金だ」
コップを受け取り、水差しから水をなみなみ注いで一気に飲み干す。確かにただの水だがうまい。
「店を売れ売れというが、あんたどうやって店の権利を買い取るか知ってるのか」
そういわれてみれば、どう手続きをするのかといった具体的な事柄については、まったく知らなかった。
「わしが売ったといって、あんたが金を払った後に、そんなこと知らんといわれたらどうするつもりだったんだ」
いつのまにか、あんたよばわりされていることはともかく、私は己の無知さについて恥じ入るばかりであった。そもそも、家のことは父や兄がすべておこなっていたこともあり、法的な手続きなど全く知らなかったのだ。
「それは、なんとか、たぶん」
「正銀貨1枚」
「え?」
「正銀貨1枚でワシが指南してやるぞ。ほかにも色々、わからんことがあるんだろ? 料理に材料はどこで仕入れる。税は誰に払うか、わからないことすべて指南してやるぞ」
たしかに、手続きや法律のことでわからないことは多い。ベンユ爺さんは自分が不利になることであっても、正直に教えてくれた。信頼させたうえで、カモにして有り金全部巻き上げようとしている可能性もないわけではないが、そこまで金に執着しているようにもみえなかった。
「払いましょう。わからないことだらけなので、いろいろ教えてもらうことになりますがよろしくお願いします」
翌日は領主の代官所で手続き宿屋の譲渡手続き。その次の日は町の顔役へ付け届け。その次の次の日は腕のいい大工の親方を紹介してもらい、会談の修理と食堂の改造を依頼。その次の次の次の日は肉屋、野菜屋、雑貨屋へのあいさつ回り。その次の次の次の次の日は、鉱泉の湯元へあいさつにいく。その次の次の…。
ベンユ爺さんの指南が終わったのは十日後。報酬は正銀貨10枚。もともとヴィーネ金貨10枚の約束だったから、値引きさせたぶんをすべて支払うことになったが、支払った銀貨以上の価値はあったと思う。
二階へ上る階段の修繕が終わるのには、もうしばらく時間がかかりそうだが、ついに自分の城を手に入れたということへの感動は長く続かなかった。
そう、待てど暮らせど、私の赤銅亭に泊まるお客さんはあらわれなかったのだから。
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