第5話 鍛錬初日
「それでは鍛錬を始めます」
翌日、いつものように学校に行き、またいつものように虐げられる学校生活を送ってきたクロナを町外れの森の中に呼び出したマリアは、そう言った。
「鍛錬って何をやるんですか、師匠」
魔力のないクロナには、今から何をやるのかの検討もつかない。
「簡単な鍛錬よ」
マリアはパチンと指を弾く。と、その足元を起点に八方に光線が流れ、互いに互いを結び合い、一つの幾何学的な陣形を作り上げる。と、その中心から淡い光が広がり、半径百メートル程度を満たす。
「これは……」
広がる淡い輝きに呑み込まれたクロナは首を傾げ、それにマリアは答える。
「私の結界。この中にいれば致命傷程度までならば即時に再生してくれるわ」
「致命傷まで再生……? どうしてわざわざそんな結界を……」
「そんなの決まっているじゃない」
にこりと慈愛に満ちた表情で微笑むマリア。
その表情にクロナは本能的にゾクリと背筋に悪寒が走る。
「弟子の育成で死なれるのは非常に困るもの。私の沽券に関わる」
「えっと、今からするのって強くなる為の鍛錬ですよね。なんで死ぬ死なないの話になるんですか?」
たらりと頬に冷や汗が垂れる。
今から何をするのか、何をさせられるのかとても不安だ。
「まあ、これはあくまでただの保険、だから安心しなさい。あなたがきちんとやればこの保険を使うことはない」
そう言い終えるとマリアのその背後の空間からゆっくりと巨大な腕が生えて、次にその腕を伴った白い巨人が這うように夜の冷えた大気の中からのろのろと現れる。
「師匠、この巨人は?」
「……ルキアの巨人。あなたを鍛えるのに使うものよ」
全長三メートル以上の巨人を前にクロナは思わず一歩、下がる。
「これを使うってこの巨人と一体何をすれば」
「さっきも言ったと思うけれど簡単な鍛錬よ。今からこの巨腕による一振を避け続けなさい」
「……は?」
そうクロナが困惑の色を表出した頃には既に目の前の巨人は有無を言わさず、腕を振り下ろしていた。
「……迅っ!?」
見た目は鈍重で鈍そうな巨人ではあるが、その腕の一振は軽く車の移動速度を上回る。
避けられない。そうクロナの脳が理解するよりも前に、反射的に白い巨人の手を受け止めようと腕を上げていた。
ただ、無意味である。
その腕の一振の前では彼女の咄嗟の防御などは紙屑同然。
受け止められるはずもなく、そのまま巨人の巨腕に薙ぎ払われて、クロナは盛大に吹き飛んだ。
「ぁ、が!」
腕の骨は木っ端微塵に粉砕されて、内臓もグシャグシャに破裂した。
本来ならば即死の攻撃ではあった。が、これもこの結界の効能なのだろうか。
彼女はその重症を受けてもまだ生きていた。
そして、生きている以上、この結界本来の力が機能し、彼女の痩身を瞬時に再生させた。
「が、はぁ……はぁ! 」
クロナは起き上がり、胸を抑えて、死の直前を体感したことによる披露を一気に噴出した。
その彼女の姿を見下ろして、マリアは言う。
「クロナ、きちんと避けないと」
無理だ。不可能だ。
それを言いたい。
もはや人の体で避けられるような速度ではなく、また受け止められるようなものでもない。
「さあ、次行きましょうか」
ぐわんた振り上げられた巨腕を見て、直前の死の恐怖を思い出して彼女の足は固まった。
そして、そのまま振り下ろされた巨腕に弾かれて、また臨死体験を味わった。
何故こんな目にあっているのだろうか。
何度目かの瀕死の際に彼女の脳裏に過ぎる思考。
逃げ出したい。辛い。もう耐えられないーーと思考がどんどんと後ろ向きになっていく。
何故こんなことをしなくてはならないのか。
そう考えた時に導き出される答えはいつも一つ。
それは彼女が、無能であるが故。
それ故、彼女は常に苦痛の中に身を置く以外の生き道はない。
「……ぁ、」
もはや悲鳴を上げる余力すらなくただ力なくクロナは転がり、薄目で夜空を仰ぎ見る。と、ゆっくりとマリアが近付いてくる。
「そろそろ終わりにする?」
まだ時間的に余力はある為これは恐らく逃げ道の提示だろう。
この提案に頷くことは、逃げなのだろう。
クロナはそのことはよく理解していた。ただ、理解した上でクロナは頷いた。
精神はもう限界を通り過ぎ、あと何回かの臨死体験を受ければ彼女の心が死ぬかもしれない。
なので彼女は頷き、今宵の鍛錬を終える道を選んだ。
まだ何もなすこともないまま初日の鍛錬は終わる。
「そう。それは残念ね」
マリアはパンと一回手を叩き合わせるとその音に反応するみたいに光の巨人は、霧散するように消えた。
「続きは明日かしら? それとももうやめる?」
その声からはひしひしと落胆の色が伝わってくる。
クロナは即座に答えることができなかった。
現状から脱する為には、この好機を逃す訳にはいかないのはよく分かっている。だが、それでもこの無意味とも思われるような鍛錬という名の暴力を受け続けることに、彼女の心は耐え切れず、逃げたがっていた。
強くはなりたい。でも、こんな風に辛いのは嫌だ。それがクロナの思いである。
だから直ぐには答えられず、黙りを決め込んだ。
「……まあいいわ。その答えは明日聞かせてもらいましょう」
にこりとマリアは微笑み、張り巡らせた結界も解いた。
「それでは屋敷に戻りましょうか、クロナ」
そう言ってマリアは手を差し出し、その手をクロナは「……はい」と握り返して、引っ張られるように立ち上がる。
(今すぐ続けると返事をしたいのに……、どうして私はこんなに)
クロナの心が暗く沈んでいく。
だが、それは当然の思いである。
何度も臨死体験を受けるようなことは嫌がるのが普通の人間だ。
仮に大金を積まれていても即座に続けると決断を下せるような人間は余程金に困っているか、あるいはそういう被虐趣味を持っているような人間だけだろう。
普通は続けるかどうか思い悩む。
だが、自己の能力が低い彼女は必然的に自己の評価も相応のものになり、そのせいで彼女の思考は直ぐに悪い方向へと流れていく。
(私は根性がない。だからいつまで経っても弱いままなのかな……)
そう自身の内面を嫌悪しながら彼女は、顔を上げる。
森は静かで空気は冷たい。
彼女は溜息をつき、それからマリアと一緒に屋敷へと戻る。
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