第2話 亡国の魔女

 町外れに大きな屋敷が聳えている。

 辺りを木々に囲まれた豊かな緑の溢れるその屋敷は、ディオドール家の所有する別荘のひとつであり、クロナ・ディオドールが仮住まいとしている住居でもあった。


「ただいま……って、誰もいないか」

 

 広い屋敷の中は冷たい静寂に包まれて、彼女の帰宅の音を寂しく響かせる。

 クロナは玄関で靴を脱ぎ、リボンを緩めて、ワイシャツも第二ボタンまでだらしなく開ける。

 と、それによって僅かに見える彼女の柔肌には幾つもの青あざができていた。


「……はは、これ治るかな」


 乾いた笑いを浮かべ、体の至る所の痣を撫でる。

 古いものから新しいものまで。

 もうどれがどれだか分からない。


「……はぁ、お腹すいたし何か食べようかな」

 

 クロナは長い廊下を歩き、それから広い食堂を抜けて厨房へと入り、食材を冷蔵保存する為の箱型の魔道具(要は冷蔵庫のような役割のもの)を開き、中身を確かめる。が、もうほとんど何も無い。


「ああ、そうだった。買い出しを忘れてた……、どうしよう」


 ぐぅーとお腹は「今から買い出しに行け」と鳴いているが、彼女の心身はそれを「面倒」だと拒む。

 冷蔵庫を閉じて厨房を出て、食堂の適当な椅子を引いて座る。


「……今日は何もいらないかな。いや、でも」


 そう考え、その考えを纏めるためにブツブツと呟いていると不意に「ガタッ」という音をクロナは聞いた。


「ん?」


 クロナは首を傾げる。


(今の物音は何だろう)


 この広い屋敷に今いるのは自分だけのはずだ。

 両親や妹は本宅の方にいるし、本宅の方に住んでた時に仕えていた使用人も今ここの家にはいない。

 彼女一人で住んでいる。

 だからその物音がとても気になり、クロナはゆっくりと立ち上がり、物音の正体を確かめる為に音の方へと歩いていく。と、


 それはいきなりのことだった。

 

 突然、薄闇の中から現れた細い腕が、クロナの口を覆うように押さえ付け、そのまま流れるように彼女の体を冷たい床へと組み伏せた。


「!!」

 

 クロナは驚き、しかしあまりの力の強さに抵抗することはまるでできず、なすがままに倒れた。

 何が起きたのか、誰の手なのかも分かるはずもなく、ただその手のひんやりとした不気味な体温だけを彼女は感じ取る。


「動くナ」


 それは淡々とした抑揚のない機械的な声だった。


(……誰?)


 しかもまるで聞き覚えのない声。

 その声が自分の家に現れて、今こうして自分を組み伏せている。

 その状況にようやく彼女の心の中に恐怖の感情が湧き上がってきた。


「キサマ、ココの家主か。悪いがこの家はワタシの隠れ家にスルことにした。だからキサマはシネ」


 もう片方の手が薄闇の中から伸びて、クロナの喉元に指をかけた。

 

「!!」


 ゾクリとクロナの背筋に悪寒が走る。

 それは直感だった。

 直感で理解した。

 この存在は本気なのだと。

 今から本気で自分のことを殺すのだと。

 ただ家を奪うためだけに今まで全く関わったことのないような無関係な自分のことを、まるで道端の蟻を踏み潰すかのように躊躇なく殺すつもりなのだと、彼女は理解した。


(や、だ。やだ、死にたくはない)


 彼女にとって生きることは苦痛である。

 だが、それでも彼女は死ぬことは望まない。

 生きることを強く切望している。

 彼女は首を振って、薄闇の中の存在に無言の懇願を示す。


(この家から出ていくから……だから殺すのだけは)


 その懇願の意味を薄闇の中の存在は理解した。だけど、理解しつつもその手を止めることはしない。


「ワタシという存在を見た以上は生かして逃がすワケにはいかないのデス。なので運が悪かったと諦めナサイ」


 やだやだと泣きじゃくる子供のように首を振り、必死に抵抗をするが、その手の力強さを振りほどくことはできず、ただ徐々にゆるやかに首が締められていく感触が彼女の恐怖の熱をさらに炎上させる。

 断頭台に首を括られた罪人のような気分だ。

 ぶるぶると震えて、為す術もなく死へのカウントダウンを苦痛という形で受け取った。


「この家のことは任せて安心していくとイイ」


 ぐぐぐぐぐと首を締められ、もうほぼ呼吸が出来ない状態にまでなっていた。あまりのことに目尻から涙が零れ、また死の直前にあるせいか下腹部がひんやりと湿ってきた。

 漏らしたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ、もはやそんなことを気にしている余裕すらも彼女には残されてはいない。


「ぁ、が……」


 あともう少しで首の骨が折れる。

 これで彼女の人生は、十六という短い生涯は膜を閉じることになるだろう。

 彼女はゆっくりと目を閉じていく。

 もう無理だ。死ぬ。


 そう思い、全てを諦めかけた次の瞬間、


「ようやく見つけましたよ、リオウ」


 彼女の閉じかけた世界の中にその声が響き渡り、


「がふっ!」


 彼女の首を絞める薄闇の中の存在を吹き飛ばした。


「……え?」


 首絞めから解放されたクロナは先ずは絶たれていた酸素を補う為の呼吸をむせるように始め、それから直ぐに目の前の光景に驚き、呆然と自失する。

 目の前には一匹の黒猫と、その体当たりによって吹き飛ばされて転がる骸骨の仮面を被った存在が共に睨み合うような形で身構えていた。


「キ、サマ……、亡国の魔女……、マリア=オールドウィッチ! クソ……、何故ここが分かったのダ……!」

 

 骸骨仮面の存在は吠え、その仮面の中に動揺の色を濃く見せる。と、その焦燥に黒猫は笑って答える。


「この私から逃げられるとでも思ったのかしら」


 猫が喋ったことにクロナは驚きつつ、しかし直ぐに思考は切り替わり、別のことに彼女は驚いた。

 マリア=オールドウィッチ。

 彼女はその名前を知っていた。

 というよりその名前はこの世界においては誰もが知っている存在であり、また知っているのは半ば常識のような存在である。


「……マリア=オールドウィッチ」

 

 クロナはその名を確かめるように復唱する。と、くるりと黒猫が振り向き、その金と銀の瞳にクロナの困惑する姿を映し出す。

 そこで彼女は初めてその黒猫が帰路で助けたあの黒猫だということを理解した。


「というかあなたは」


「ええ、先程はどうも」

 

 平然と人語を解する黒猫にもはや驚きはない。


「あなたは本当にあのマリア様なのですか?」


 黒猫は銀の目を閉じて小さく頷いた。


「まあ信じられぬのも無理はないでしょう。あれを追いかける為に擬態したこの姿には、全く存在感はないのですから」


 骸骨の仮面の存在はゆるりと起き上がり、身構えると、それに応じるかのように黒猫も前を向き、


「とはいえどの道、今からこの擬態は解きますよ」


 そう言った。





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