第8話 急転

「それでは、行ってくるさね」


 マタイには背嚢を背負わせて、水筒と弁当を用意して、ラケルとマーヤは送り出した。

 貴族のお屋敷などではもちろん平民も働いているのだが、貴族から見れば平民は個性が示されるべき存在ではない。黒子のような、薄いヴェールで顔を覆うことが多い。

 今回の件が、領軍としての正式の行動であれば、領軍には無論、貴族と平民が集団行動をとる際のマニュアルがあるので、それに沿って処理されるのだが、今回の件は、総督の私的な行為に、マタイが随行するだけだとも言える。

 その辺りの扱いがどうなっているかはっきりとしない。

 総督とその側近団のためには、食糧と料理人が随行するだろうが、総督の料理人となれば下級貴族が務める場合が多い。料理人であっても下級貴族が、平民の随行者のために食事を用意するとは考えにくい。


 今のスーペルビア総督ガレアッツォは、元々はファーレンベジア伯だった人で、伯は属州内の民政に直接関与するポストなので、平民に対しても気が回る人だとは言われている。しかし随行の平民の食事と言う些末なことまで気に掛けるかどうかは分からない。それで、無駄になるかもしれないが、マタイには念のため、弁当を持たせてある。


 朝早くから、マタイは城に出頭し、魔域内の目的の現場につくのは昼過ぎになるだろう。


 午前中は、マーヤは、馬車で、小作の家と、レニングス家が委託している畑を見て回った。これもいつからか、マーヤの仕事になっている。地主として、言わなければならない苦情もある。マタイとラケルの性格上、苦情を言うのはなかなか難しいことだった。

 それだけではなく、小作人たちの家に寄って、小作人たちの暮らしぶりが成り立っているかどうかも見て回る。その際には、お菓子を作ったのでおすそ分けをすると言う形で訪問する。

 病人がいれば、薬師を手配する。


 この世界では平民の医療は薬師が担っている。モーゼル郷には3人の薬師がいて、それぞれ地主の子だ。地主の子の優秀な者が、既に薬師として開業している者に弟子入りして、十数年の修行の後、独立して開業するのだ。

 修業期間中は収入が得られないばかりか、学恩礼料なる名目で一定額を師匠に納めなければならないから、生活補助の当てがある上層平民の子弟でなければ、薬師になるのは難しい。

 薬師は菜園を経営していて、治療の主軸は投薬になるが、外科も多少は行っている。が、麻酔は無いから、外科処置は患者にとってはかなりの苦痛をもたらす。


 貴族が用いる魔法には、治癒魔法なるものがあり、これは魔力量、当人の技量と魔力の純度、適性によって使える者は限られるのだが、これは内科的な効果もあれば外科的な効果もあり、貴族の医療は治癒術師が担っている。治癒術師は当然、貴族であり、平民の治療にはあたらない。

 これは必ずしも治癒術師当人が平民を診療するのを拒否しているのではなく、国家が禁じているのである。魔力の総量とその回復速度に限界がある以上、治癒術に回せる魔力は限られていて、貴族と平民の間で治癒魔力のゼロサムゲームが生じるからである。


 ともあれ、マーヤが小作人関係の諸々を担当するようになってから、小作人に関わる医療費は、地主負担に切り替えた。これは他の地主との兼ね合いもあるから、他の地主から責められるのを恐れて、マタイとラケルも気にはなっていても踏み切れなかったことである。

 ただし、レニングス家が教会孤児院を援助するようになってから、モーゼル郷の地主階級の間では、社会的責任を果たすと言うことが意識されるようになり、それが各々の家のステータスを誇示することにもなったから、小作人福祉の向上についてもレニングス家が口火を切ればそれに追従する家も多数現れた。

 マーヤは愛らしく、社交的で、焼き菓子などを持って、他の地主の家を回ることもあったので、マタイとラケルがやるよりは、叩かれにくかったのである。


 昼頃に家に戻り、納屋に馬を入れていた時に、マーヤを急激な悪寒が襲った。


(これはなに!?)


 初めて経験する感覚である。体調が悪いと言うよりはもっと別の感覚。

 魔力が唸り荒れ狂っているような ― 。

 うずくまって、唸っていれば、それに気づいたラケルが駆け寄ってきた。


「マーヤ! どうしたんだい!?」

「だ、だいじょうぶ…体が悪いわけじゃないのよ…ただ」


 その瞬間。

 くっきりとした幻視が見えた。

 今この時。

 マタイが何かに襲われている。何か禍々しい物に呑み込まれようとしている。


「行かなくちゃ!」


 マーヤはそう叫んだ。

 そしてその時。

 ラケルも何もかもが消えて、真っ黒になった。ただし、マーヤ自身は逆に真っ白に浮かび上がっている。


(これは?)


【行っちゃ駄目だよ】


 それは、マーヤと同じく真っ黒な虚空に白く浮かび上がっていた。


(あなたは…誰?)


【君こそ誰だ? マーヤ・ラーリー。君はここにいるべき者じゃないだろう?】


(何を言っているの?)


【君は特異点だよ。この世界の人たちが大事なら。ただ見ていてくれないかなあ。君は人々の未来を滅茶滅茶にしてしまうかも知れない】


(マタイが危ないのよ! マタイが…。もしかして、あなたが?)


 その顔も分からない何かが、にやりと笑ったようにマーヤは感じた。


(馬鹿を言わないで! 黙って見てなんていられないわ!)


 その瞬間。

 すべての暗闇が消失した。


「マーヤ! どこかに行くなんてとんでもない! さあ、家の中に入って休むんだよ。薬師をすぐに呼んでくるからね!」

「ラケル。ありがとう。今までありがとう。愛しているわ。心から。お母さん…」

「マーヤ…あんた、いったい」


 マーヤはすっくと立ちあがった。

 そのまま、全速力で駆けだす。


「マーヤ!」


 すがるようなラケルの声を振り切って。

 小道の向こうからやって来る人影が見える。エリーだった。


「マーヤ、そんなに走ってどうしたの!?」


 エリーはジョッシュに告白をしたのだろうか。表情に決意のようなものが見える。

 それでいい、幸せになって ― 。

 マーヤはかすかに微笑みかけると、そのまま、駆け続ける。

 魔力が、体中に沸き起こる。


 そう、これが魔力。

 今まで押さえつけていたくびきから抜け出すのを歓喜するかのように、魔力がマーヤの体の中でうねっている。

 魔力が全身にみなぎり、それが光となる。


「飛べーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!」


 そう叫ぶと、駆けたまま、マーヤの身体は一条の光となって宙を走った。

 その光は迷うことなく魔域の奥へと、マタイがいる場所へと放たれたのだった。

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