第2話 モーゼル郷の兄妹

 ノサエルト国は中央部を除けば、七つの属州から成る。

 その最北端はスーペルビア属州であり、その属州都も、属州と同じ名前のスーペルビアと言う。属州都スーペルビアの面積は広く、都邑部分を越えて、行政上の境界すべてに城壁が張り巡らされている。その城壁に接する辺りは、町と言うよりは、村落であるのだが、そうした属州都スーペルビア内の近郊村落のひとつが、モーゼル郷であった。

 レニングス家は、そのモーゼル郷においては、最大の地主であり、最も富裕な家であったが、必ずしもモーゼル郷の有力者と言う訳ではなかった。

 それはレニングス家が元々、他郷から移住してきた余所者であり、にもかかわらず、強引と言うかかなりあくどい手段で、自作農らを借金漬けにして、その土地を奪ってきたからである。いわば、モーゼル郷内では憎悪される存在であった。

 そのレニングス家には今は兄と妹の二人しかない。

 兄と妹と言っても既にそれぞれ四十歳を越えている。いずれも結婚をせず、独身のままであった。

 この二人は気立ての良い、まあ、善人と言ってもいいのだが、何しろ彼らの父親である先代の振舞が酷かった。その兄と妹、マタイとラケルが、善き隣人であるのはモーゼル郷の他の者たちも知っていたが、先代が亡くなったとは言え、すべてを水に流せるほど、先代の悪行は生易しいものではなかった。


 早朝まだ早く、ラケルは既に家事に忙しい。

 レニングス家ほどの身代であれば、使用人が四五人はいても不思議ではないのだが、昨年、女中が結婚して退職してからは、ひとりも使用人がいなかった。

 レニングス家の悪評があるから、よっぽどでなければ、郷の者は同家には奉公しないのである。


 もっとも、先代が死んでからすでに二十年、マタイとラケルの人柄を知って、友人づきあいをしてくれる者たちもいる。それらの口利きであれば、女中の手配がまったくつかないと言うことは無いのだが、先に退職した女中も、レニングス家に奉公しているからと結婚の話がまとまるまではひと悶着があった。そう言うややこしい事柄まで引き受けなければならないのならば、どうせ住人は兄妹の二人きり、ラケルは自分が働いた方がよほど気楽なのだった。

 そうは言っても、ラケルの友人の、世話好きのリード夫人がいつまでも、レニングス家を放っておくはずが無い。主婦の仕事だけではなく、ラケルには家畜の世話もあり、地主としてレニングス家の経営にあたる仕事もある。リード夫人が近隣の郷にまで口を利いて、女中数人は搔き集めてくるはずだから、女中不在のレニングス家の状況も、せいぜいがひと月、ふた月と言うところだろう。


 マタイが、レニングス家に捨てられた赤ん坊を連れてきたのは、そんな女中不在の時だった。


「おやおや、兄さん、その子は一体どうしたんだい?」

「魔域のほとりで、どうも捨てられていたようだ」


 スーペルビア属州自体が、ノサエルトの最北端にあり、属州都スーペルビアは更にその北端にある。ノサエルトの国境を越えて北には魔域が広がっているから、つまりは、属州都スーペルビアの城壁を抜ければそこには魔域がある。魔域と言っても、国境近くであるならば、結界の影響があるため、比較的、弱い魔物しか出没しないのだが、リンクス程度であっても、何ら身を護るすべを持たない赤ん坊であれば、容易く食い殺されてしまうだろう。


「まあ、そんなところに捨て子かね」


 魔域の方向には、人里に向かう道も無いのだから、常人はそもそもそんなところにはいかないし、城壁を越える術もない。マタイは、リタイアしたとは言え、領軍に属する兵士長であるから、巡回をするために魔域に足を踏み入れていたのだ。

 赤子を抱きなれていないのは、女とは言え出産の経験がないラケルも同じことであったが、ラケルは本能的に腕を差し出して、マタイから奪うようにしてその赤子を抱いていた。赤子は恐れることも無く、すやすやと眠っている。


「ちょっと待っておくれ ― ああ、この子は女の子だね。それにこの産着。なんて上質な木綿だろう」

「あんなところに子供を捨てるなんて、まともな親のすることではないさね。いくら良いべべを着せて貰っているとしても」

「ああ、兄さん、馬は放ったらかしになっているんだろう? この子は私が見ておくから、水と飼葉を馬にやっておくれ」

「ああ、じゃあ、ラケル、頼んだよ」


 ラケルはその間に、火を起こして山羊の乳を温めて、バスケットに布を敷いて、赤ん坊の寝床を整えた。

 赤ん坊が目を覚まして、空腹のせいなのか泣き出せば、ラケルは清潔な布に山羊の乳をしみ込ませて、それを赤ん坊に吸わせた。


 一通り落ち着いて、出された茶で体を温めながら、マタイは言った。


「どうだろう、ラケル。これも何かの縁だ。この子は、うちの子として育てたらどうだろう?」

「バカをお言いでないよ、兄さん。私とあんたは夫婦じゃないし、結婚をしたことも無ければ子を育てたことも無い。そんなあたしらに、子育てなんて出来るはずが無いじゃないかね」

「それはどうだろう、ラケル。うちの身代なら、この子ひとり養うくらいはどうとでもなるし、儂らで手が足りないなら、子守りをやとってもいいじゃないか」

「犬猫を育てるんじゃあるまいし、そんな簡単な話じゃないよ。悪名高いレニングス家だ。気性の真っすぐな子守りがそうそう来てくれるとも思えないし、うちで育てたらこの子もレニングス家の悪名を背負うことになるんだよ。そのことは分かっているのかい?」

「それは…そうだが。この子は、寂しく暮らす儂らに神様が恵んでくださったのかも知れんよ」

「神様がそんなに慈悲深いならば、うちの父さんが気の毒な農民たちから土地を取り上げた時、何とかしてくださったのではないかね? 神様は何もなさらず、農民たちは流民になって、レニングス家は身代を大きくしてきたわけさ。私たちが神様の慈悲に預かれるはずがないさね」

「むむ…」

「神様と言えば、教会が孤児院を営んでいるじゃないか。あちらは何と言っても孤児を育てるのが仕事さ。手慣れているはずさ。あんたも巡回で疲れているだろうから、今日一日は休んで、明日の朝、この子を一緒に教会に連れて行くよ。銀貨を10枚も遣れば、丁重に扱ってくれるはずだよ」

「…金貨1枚(銀貨100枚)ではいかんかね?」

「兄さん…まあいいさ。あんたの気がそれで済むなら」


 そう言う次第で、レニングス兄妹は、翌朝、馬車に乗って、赤ん坊を連れて教会に行ったのだが、相手をするために出て来た神父がいかにもやつれていた。


「教会に布施をする方も最近は少なくなっていましてね」


 神父はそう言った。

 慶事弔事は教会で執り行われるのだが、それ以外では、信者と言えども近寄る者は滅多にいないのだ、と神父は言った。

 年々、信心と言うものは低下している。属州府からも教会には援助金が出ているのだが、貴族の子弟が司祭となって赴任してくるような裕福な教区の教会ならばいざ知らず、モーゼル郷の教会のような弱小の教区であれば、孤児院の子供たちに回す食べ物も足りないのだと言う。


「孤児院をご覧になられますか?」


 神父の案内のまま、孤児院を視察すれば、どの子も、栄養失調の、死んだような顔をしていた。

 ラケルは首を振った。


「知らぬこととは言え、教会がこのようなことになっていようとは思いもしませんでした。申し訳ありませんでした。急に布施を思い立ったのも神のお導きでしょう。どうぞこれを」


 ラケルは金貨を2枚取り出して、神父に握らせた。


「おおこれは神のご加護があなたがたにありますように。これで少しはこの子たちに満足な食事を与えられましょう」

「今後のことはレニングス家でも何か出来ないか、検討させていただきます。今日のところはこれで」、


 その足で、ラケルはそそくさと馬車に乗り、マタイが御者台に乗り込むと、急いで出発させた。


「ラケル、その赤ん坊を預けるのではなかったのかね?」

「兄さん、あなたは鬼ですか! この子をあんなところに置いておけるはずがないでしょう!」

「まあ…儂としては同意だが、と言うことはその子はうちで育てると言うことでいいのかね?」

「幸い、この子を連れて来たのを他の誰に見られたわけでもなし、遠縁の子を引き取って育てることにした、としましょう。捨て子と知られれば、可哀想なこともあるでしょうからね。あたしたちの母方はラーリー家ですから、この子の姓はラーリーにしましょう。レニングスの重荷は、この子には与えたくありませんから」

「ああ、それがいいさね。で、この子の名前なんだが、儂も幾つか考えたよ。孤児院に預けるにしてもせめて名前くらいは与えてやれんものかと思っていてね」

「いえ…この子の名前は…マーヤ。それがしっくりきます。マーヤ・ラーリー。いい名前じゃないですか」


 マタイは肩をすくめた。妹がこうと決めた時、言い争っても無駄なことをマタイは長年の経験から理解していた。

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