第61話 よくやった、田部
「私、今日はもう、お
香川さんはポストマンバックをひっつかむと、顔が赤いまま鞄を肩にかけて立ち上がった。
「ああ。じゃあ、家まで車で送りますよ」
俺も中腰になってそう言ったが、開いた掌を突き出されて「結構ですから」と力強く断られた。
「田部君」
立ち上がった香川さんは、澄まして座る田部を見下ろす。
「分かってるでしょうね」
そう確認を求める香川さんに、田部は大人びた仕草で肩をすくめて見せる。
「どっちの意味で?」
「いろんな意味で、よ!」
香川さんは噛みつかんばかりに言うと、俺の視線を感じたのか、気まずそうにぺこりと頭を下げた。
「なんだか、何しに来たんだかよくわからなくなりましたが……。お邪魔しました」
香川さんは困惑したような、とても疲れた表情のまま、玄関に向かった。
「気を付けて帰ってくださいね」
それでも車で送ろうかと思ったが、今度は田部がひとりになることを考え、俺は仕方なく声だけかけた。ここからだと、香川さんが住んでいるであろうあたりは、電車で一駅か、バスで数駅といったところだろう。箱入り娘感があるとはいえ、大人だ。
「じゃあ、また」
香川さんは、靴を履き、にこりと笑って部屋を出て行った。俺はそんな彼女を見送り、扉を閉めた。
「香川さん、『婚活パーティーに参加しようと思うんだけど、どう』って僕に相談するんです」
足音が遠ざかるのを確認し、そっと鍵を締める。振り返ると、田部がテーブルの上のグラスを持って俺に近づいて来ていた。
「婚活?」
訝しげに尋ね、そういえばさっきそんなことを言っていたな、と彼女の言葉を思い出した。
「どうって、何がですかって、答えたら、『この格好で行ってもいいかな。普段着でどうぞって書いてあるし』って」
田部はミニキッチンの流しにグラスを置くと、慣れた手つきで洗い始めた。
「その時、Tシャツにチノパン姿だったから、『いや、ダメでしょ』って答えたんですよ。明らか浮きますよって」
なんだか本当に言ってそうで、俺は笑う。
「じゃあ、なに着ようかなぁ、って言うから、『身近に男はいなんですか』って僕、尋ねたんです」
泡立てたスポンジでグラスを拭い、田部はこちらも向かずにグラスを濯ぐ。
「『職場は既婚者ばっかりで、ボランティアは定年退職者ばっかりだし』、って香川さんがぼやいて。だから、僕が『だったら、
「俺?」
田部の言葉を喰い気味で尋ねてしまう。田部は一瞬顔を起こし、「迷惑でしたか」と不思議そうに訊いた。
「いや。……その。で? 香川さん、なんて?」
曖昧に濁して尋ねると、にやりと人の悪い笑みを浮かべられた。
「『あの人はダメよ。恋人がいるもん』と言うから、『僕もそう思ってたけど、一緒に住んで分かりました。多分、あれは元カノ。今はフリーだと思います』って答えました」
「よくやった、田部」
俺は何度も頷く。
田部は濯ぎ終わったあとのグラスを洗い籠に伏せ、タオルで手を拭った。
「『それでも、レベルが高すぎるから無理』って……」
「なんのレベルが!?」
「僕に聞かれても知りませんよ」
じろりと田部は俺を睨み、俺も仕方なく口をつぐむ。
「で。とりあえずは、僕が先生に恋人がいるかどうかを聞いてみて、香川さんに伝えるから、婚活パーティーはそのあと考えたらどうですか、って」
なるほど。それで田部は香川さんと情報交換を行っていたらしい。
「生徒の為に頑張る先生だなあ、ってずっと好感はもってたらしいですよ、香川さん」
田部は言い、リビングに戻る。何をするんだろう、と思って見ていたら、優奈ちゃんの着替えを持って戻ってきた。
「そしたら、普段着の先生の姿を見て、一気に惚れたらしいです」
田部は俺の頭からつま先まで眺め、首をかしげる。
「僕はスーツ姿の先生の方が断然男前度が上がっていると思うんですが、人それぞれですね」
「……なぁ、田部」
「はい」
「今度、一緒にご飯食べに行こうか、先生と」
「……ふたりで行ってくればいいじゃないですか、香川さんと」
「いや、お前。最初から二人はハードル高いだろ。明らかに、香川さん、警戒するだろ」
「だからって、なんで僕が」
田部は顔を顰め、「そもそもね」と、紙袋を持っていない方の手で俺を指さした。大分身長差があるせいか、ちょっと背伸びまでして鼻先に指を突き立てられる。
「良い大人が、なんで二人して中学生男子にこんな相談してるんですか」
「相談、っていうか……。人を指さすのはやめろ」
田部は呆れたようにくるりと背を向けると、ユニットバスになっている洗面所の扉に手を置いた。洗面と向き合わせに洗濯機も置いてあるのだ。それを使うのだろう。
「お前だって、俺の手料理より店の美味しいもの喰いたいだろ? なんでもいいぞ。先生、おごってやる」
「先生が食べられるものが限られてるじゃないですか」
ぶつぶつと田部は言い、扉を開ける。
開けて。
俺と田部は同時に動きを止めた。
扉の目の前は、洗面所だ。
壁にはめ込まれた鏡と、その下にある蛇口。それに陶器のボール。
おしゃれなのかなんなのか。
白に統一すればいいものを、入居当時から、何故だが陶器のボールは赤で、蛇口は金色だった。
そのボールも、蛇口も。
そして鏡も。
いまや、真っ白だ。
いや違う。
白く塗りつぶされ、ところどころ、手形が付いた部分だけ、下地が見える形になっていた。
一面。
手形で汚されていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます