第60話 俺は凹んだ
「遅くなりました」
玄関まで行き、解錠すると田部が澄まして立っていた。
「香川さんはもういらっしゃってますか?」
学校帰りのまま、病院に行ったらしい。首をかしげるようにして室内を伺う田部は、学生服姿のままだ。背中に学生鞄を背負い、手には、衣料品店の名前が入った紙袋を持っていた。上からちらりと中身を見ると、優奈ちゃんの着替えのようだった。
「田部君、お帰り」
背後からは、ずいぶんと親しげな香川さんの声が聞こえて、振り返る。
リビングから、香川さんは座ったまま学生のように田部に手を振っていた。
「
田部は香川さんに声をかけて玄関に入り、靴を脱ぎ始めた。俺はもう一度施錠をして、田部のうしろについてリビングに戻る。
「お話は、もう終わってしまいましたか?」
田部は俺が座っていた場所と香川さんの場所の、ちょうど中間あたりに座り、こそり、と荷物を壁際に置いた。香川さんの顔を見上げ、相変わらず表情に乏しい顔ででそう尋ねる。
「うん。もう大丈夫。ありがとう」
香川さんは、ちらりと向かいに座りなおす俺に視線を向け、それから田部に向き直ってそう答えた。
「田部君、これよかったらどうぞ。先にいただいちゃったけど、美味しかったよ」
香川さんはどら焼きを勧め、田部は「そうですか」と言いながら、遠慮なくどら焼きに手を伸ばす。俺はそんな田部にお茶を注ぎながら、二人の様子を伺った。
年の離れた従兄弟同士。そんな風にさえ見えるほど、なんだかとても親しげだ。
田部が何か言い、香川さんがそれに対して笑う。
香川さんがちょっと頓珍漢な事を言うと、田部は斜交いに香川さんを見て、冷めた口調でつっこんだりしていた。
どういうことだ。
いつの間に、こんなに仲が良くなってるんだか。
そう思い、唐突に気づく。さっき、香川さんに言われた言葉だ。
『先生は、前のカノジョさんと、どうやって知り合ったんですか?』
何故、香川さんは、俺と沙織が別れたことを知っているのだ。
少なくとも、最後に車に彼女を乗せた時は、『俺が誰かと付き合っている』とは確信していたようだ。
それなのに。
さっきの話の流れからは、すでに過去のことだと知っているような口ぶりだった。
ということは。
朝、田部に話したことが、そのまま香川さんに流れているのだ。
思わず、田部のキッズ携帯の履歴を覗き見たい気分で俺は彼を一瞥する。
中学生男子相手になんだか、焼きもちに似た感情を抱く自分というのもどうだ、と憮然とした顔を隠すようにお茶を飲んだ。
「先生」
不意に声をかけられ、俺は目を丸くして田部を見た。もう少しで誤嚥するところで、むせながら「なんだ」と答える。
「着替えたんですか?」
田部の端整な顔が俺に向けられている。俺は目を瞬かせて頷いた。
「掃除して、汗だくになったから」
お前が手伝わないから、とは言えなかった。
「よかったですね」
田部は今度は香川さんを向く。香川さんはぎょっとしたように、膝立ちになって腰を浮かせた。
「好きな方の先生で……」
「ぎゃああああ」
香川さんが突然悲鳴を上げ、俺は慄いて背を反らせた。
「先生、香川さんね」
ぐりん、と今度は田部は俺に顔を向けるが、その顔に香川さんが手を伸ばす。
「黙って!」
唖然としている俺の前で、田部の口を香川さんが塞ぐが、田部は存外素早い動きで手を振り払う。
「『
「しーぃ! 田部君っ! しーぃ! 喋らないっ!」
「『私は仕事中の行橋先生も、すてき……』」
「行橋先生っ! 違いますからっ。えい、黙れっ!」
「痛っ! なにするんですか、香川さんっ!」
俺の目の前で、田部と香川さんがもみ合いになりながら、互いに俺に向かって何か言い合っている。当初こそ聞こえていたものの、だんだん両方が同時に話し始めるからさっぱりわからない。
「俺の私服がなんだって? だらしないってことか?」
戸惑って田部に尋ねると、「はぁ?」と顔をしかめられ、香川さんには、「そういうことにしておいてくださいっ」と、断言されてへこんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます