第52話 これは、なんだ
「まずは挨拶だろう。おはようございます、だ」
俺は振り返り、声の主を探した。
「おはよー、先生! 教室開けて!」
下足室の方から、体操服のまま全速力で駆けてきた
「朝練か?」
一七八センチの俺と、視線があんまり変わらない相模と相対しながらも首をかしげる。サッカー部の朝練の途中に、何故俺の学級の教室が関係するのだ。
「朝練に行こうと思ったら、スパイクを教室に忘れててさ。取りに入りたいけど、施錠されてるし」
相模は屈託なく笑ってそう言う。俺は苦笑し、鞄を手に提げたまま、校舎内に二人で向かった。
「朝錬、間に合うのか?」
そう尋ねると、「もう皆、アップしてる」という。大丈夫なんだろうかと思ったら、相模は「俺は家から走ってきてるからアップ済み」と親指を立てて返答された。若いっていいなぁと心底思う。
「新人戦、もうすぐだな」
俺は言いながら、職員用の下駄箱からクロックスを取り出す。
相模は、無造作に学校指定の靴を脱ぎ、靴下のまま廊下に上がった。幾ら毎日掃除しているとはいえ、廊下は砂だらけだ。俺は少し顔をしかめるが、本人は全く気にならないらしい。保護者さん、すみませんと心で詫びつつ、仕方なく相模を従え、自分の教室に向かった。
背後では相模が一生懸命自分のチームの強みと弱点を伝えているが、正直サッカーのことは良くわからない。
ふんふん、と頷きながら俺はスラックスのポケットから鍵を取り出した。俺の教室は、一階の東端にある。
「先生。田部は、大丈夫?」
何人かの生徒とすれ違い、その度に「おはよう」と挨拶をしていたのだが、その合間を縫って、相模はさりげなさを装って俺に尋ねる。
思わず振り返り、相模を見ると、意外に真面目そうな顔で俺を見ていた。
「大丈夫だ。存外、肝が座っている」
俺が笑ってそう言うと、相模も笑顔で、「ならよかった」と答えた。
本当に、良い子だな、とこんな時思う。
田部のことを同じ学年の一員として認め、気遣えている。共感しようとする姿勢を見せている。
だからこそ。
この子を、真っ直ぐ育ててやろう。そんな風に思うのだ。
「先生、ちょっと男前になったんじゃね?」
背後からそんなことを言われ、俺はしかめっ面を作って相模を振り返った。
「俺は昔から男前なんだ」
「じゃあ、更に男前度が上がった」
相模は笑う。俺は自分の教室の前で立ち止まり、鍵穴に鍵を差し込んだ。背後ではまだ相模が喋っている。
「給食も喰えるようになったしさ。あれだろ、きっと。カノジョできたんだろ」
「できてないよ」
「約束したじゃん。お互い運命の女に出会ったら合わせる、って」
「だから、まだいない、って」
そう笑いながら、教室の扉を開く。
「スパイク、どこに置いてるんだ?」
そんなことを言いながら、二人で教室内に入り、「どこだっけ」という相模と笑い合っていたが。
教室内に視線をめぐらせ。
同時に。
笑みが消える。
「……なに、これ」
相模が呟く。
俺はそれに応えられない。
教室には。
4つの机と4脚のイスがある。
その机とイスが全てひっくり返され、そして、黒板にはチョークで幾何学模様が書き殴られていた。
もう、『黒板』と呼べる状態ではなく、むしろ白墨で汚されて真っ白だ。
その。
黒板に書きなぐった手で、床を触ったのだろうか。
フローリングの床には。
小さな手形が、無尽蔵に付いていた。
チョークで汚れたためだろう。手形はすべて白い。
ぺたぺた、と。
ぺたぺた、と。
まるで、紅葉の葉が床を埋めるように。
白い子どもの手形が。
床一面を占めていた。
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