第44話 俺は慌てた

「はい、もしもし」

 店内の隅に移動しながら、俺はスマホに話しかけるが、語尾は完全に切迫した香川さんの声に消された。


「今、どこですかっ!?」

「ど、どこ!? 家の近所のスーパーです」


 反射で答え、続いて店名を告げた。「近いですねっ」。そう応じた香川さんの声は、よく聞くと呼吸が荒い。はぁはぁ、という音と、時折混じるざらついた音に、彼女が走っているのではないか、と気付いた。


「車で来てるんですか?」

 香川さんの声に、俺は店内出入り口に向かう。


「来てます。どうしましたか?」

 手に持っていたカゴを、山積みされた場所に戻し、俺は自動扉を出た。


 外は、7月に相応しい薄水色の空が広がっている。

 山の方に沸いているのは、まだまだ小さいが入道雲のようにも見えた。


「さっき、田部君から電話があったんです。彼の家に連れて行ってください」


 語尾が、はぁ、とも、ふぅ、ともいえない呼吸音で潰え、ある意味ちょっと色っぽかったりもするんだが、そんな考えも「田部」という固有名詞に吹っ飛んだ。


「田部がどうしましたか?」

「今……。今、スーパーの駐車場付近につきました」

 香川さんの言葉に、俺はそう広くも無く、休日だと言うのに車がまばらな駐車場内を見渡した。


「先生っ!」

 声が、スマホからも外部からも聞こえ、俺は反射的に声のする方に顔を捻る。


「会えてよかった!」


 香川さんだ。

 スマホをデニムの尻ポケットにねじ込み、俺に対して盛大に手を振っている。その彼女は、何故だか左手に新聞を握り締め、俺のほうに駈け寄ってきていた。


 随分と。

 印象が違って、ぱくり、と心臓が拍動した。


 いつもきっちりとまとめてお団子にしている長髪は、今日は緩く二つにまとめて流している。いつもはポロシャツにカーゴパンツの仕事着だが、今日は、えらくだぼだぼな半袖のパーカーに、スリムフィットのデニム姿だ。


 なんというか。

 一言で表すなら、幼い。


 いつもなら俺と対して年が変わらないと思っていたが、こうやって見ると、ひょっとして大分年が下なんじゃないか、と慌てた。


「田部が、どうしましたか?」

 駈け寄ってくる彼女に、俺は内心の動揺を押し隠して尋ねる。


「田部君! 電話が……」

 そう言って彼女は俺を見上げ、それから少し、ぽかんと黙り込んだ。


「……行橋ゆきはし先生、ですよね」


 そんなことを尋ねられ、俺のほうが面食らう。「そうですが」と答え、それから彼女の視線を追って気付く。俺のほうこそ、服装云々がいつもと大分違うのだ。


「仕事ではコンタクトなんです。今日は休みだから……」


 俺は高校時代から使用している、黒太縁の眼鏡をすり上げて見せた。髪の毛もワックスなんて今日は使ってないから、随分とあちこち跳ねているだろう。服だって、大学時代にノリで作った剣道部のTシャツだし、下はジャージにクロックスだ。


「あ。失礼しました」


 まじまじと見すぎた、と思ったのかもしれない。香川さんは、見る間に首まで真っ赤になって顔を背け、それから自分で手に持っている新聞に気付いて、また慌てて顔を上げる。今日の彼女は随分と忙しない。


「田部君が、電話をかけてきて……。私の携帯に。『助けて』って」


 随分と物騒な内容に、俺は目を見開く。


「すいません。今日、兄が車を乗って出てしまってて、私、車が無いんです。一緒に送ってもらえませんか?」


「もちろん」

 俺は彼女の背を押し、駐車場に停めた自分の車まで足早に向かう。


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