四章
行橋教諭と香川ボラコは、田部を連れ出す
第43話 俺は、正解だったかな、と思う
学校近辺では絶対に買い物をしない、と決めていた。
服なんかはネットで買ったり、毎日の買い出しでも、他地区にまで出向いていた。
『特価』とか、『二割引』のシールが貼ってある商品を手に取っていたら、受け持ち生徒の保護者に見られ、からかわれたことがあったからだ。
それ以降、学校周辺のスーパーや衣料品店で買い物はしないのだけれど。
今年から特別支援学級の担任になり、部活動顧問も外してもらって、保護者との接点がほぼなくなってからは、普通に勤務先や自宅近くのスーパーで買い物をしている。
いまも、賞味期限間近の『特価品』の絹ごし豆腐にするか、定価だけど、断然賞味期限の長い絹ごし豆腐にするかで、随分迷っていた。内容は、同じ絹ごし豆腐なのだが。
沙織と別れてからは、金に困るようなことも無いので、そりゃあ、定価で買っても問題はないのだけど、なんとなく勿体無い。『特価品』なら、二つ買えるじゃないかと思うが、そんなに毎日豆腐を食うのか、俺は、とじっくり考える。
休日の。
部活も恋人もいない昼間。
こんなに時間が贅沢に使えるとは思っても見なかった。
沙織とは別れて正解だったかも……。
ふとそんなことを考えるのは、昨晩、沙織がアパートに来たからかも知れない。
帰宅し、うどんを作ろうと鍋に水を張ったときに、玄関チャイムが鳴った。
誰だろうと思ったものの、すぐに宅急便だと思った。
ちょうど姉から「旦那に服を買ったらサイズ違いだった。送る」とメッセージアプリから連絡がきていたからだ。「いらない」と断ったのに、多分、送りつけてきたのだろう。
なんの疑いもなく、ドアスコープすら覗かずにシャチハタの判子を持ってドアを開けた。
『久しぶり』
だが、そこに立っていたのは沙織だった。
はにかむように微笑み、上目遣いに俺を見ている。
相変わらず高価そうな革製のバッグを右手に。左手にはこのあたりで有名な洋菓子店の紙バックを持っていた。視線を下げた関係で、脚が見える。膝頭より上のスカートからはすらりと伸びた脚。履いているのはピンヒールだ。沙織らしい、となんだか感心した。こいつ、変わってないなぁ、と。
『近くまで来たから、寄ったんだ』
言うなり、ちらりと俺の背後を見やる。多分、なかに入れろということなのだろうが部屋に上げる気はさらさらない。
『なんの用?』
俺は一歩も外に出ず、扉も薄く開けたまま尋ねた。
『ケーキ買ってきたの。一緒に食べない?』
そう言って目の高さまで上げてみせるが、苦笑しか出ない。
過敏性腸症候群の関係で、油分の多い洋菓子なんて一年近く喰っていない。
そのことを、まだ沙織とつきあっている時に伝えたはずだ。
忘れたか。はなから興味が無いか。そんなところだろう。
『悪いけど、今忙しいから』
『誰か居るの?』
素早く切り替えされ、唖然とした。何言ってんだ、こいつ。そう思った矢先、ずい、と一歩詰め寄られ、背をのけぞらせた瞬間、ドアを掴んで開けられた。
『おいっ』
思わず沙織を押し返すと、室内を眺めて『ふぅん』とだけ答えて俺から離れる。
『また来るね』
結局そうやって沙織は笑顔で帰って行ったのだが。
はっきりとあいつに『もう興味ない』と言ってやらないと、また来そうだ。
俺は深い息を吐き、絹ごし豆腐を手に取る。指先を通じて冷えが肘まで伝わった。意味も無くパッケージを見る。
見て。
もう一回、鼻から息を抜いた。
「……最近調子がいいしな」
一人の時間が増えると、独り言が増えだした。いまも思わず呟き、苦笑する。
つい一ヶ月前までは、ほぼアクエリとうどん、豆腐に卵しか口に出来なかったが、いまは病状も安定し、煮物程度なら消化できるようになった。
以前なら、まんま固形物が便に混じるわ、血便で貧血起こすわ、油分が多いと吐くわ、で大変だったが、いまは手に触れて「やわらかい」と思えれば口にできる。
約一年間豆腐を食っていたから、なんとなく、豆腐売り場で立ち止まるが、よく考えればなにも拘る必要がないんだし、と俺は手に取っていた豆腐を棚に返す。さすがに、油モノは挑戦する勇気が無いが、何か他に喰えるものはないかな、と物色しながら野菜コーナーを振り返ったときだ。
ジャージのポケットにつっこんでいたスマホが振動し始めた。
なんだろう、と買い物籠を左肘に引っ掛け、スマホを取り出す。表示パネルを見て驚いた。
香川さんだ。
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