第35話 彼女は、見ている

「か……」


 香川さん。あそこに、何か。


 そう言って振り返ろうとした。

 立ち上がろうとした。

 畳に着いた、膝を浮かせた。


 その矢先に。


 どん、と。

 背中に何かがぶつかってきて、とっさに畳に両手を着いて自分の体を支えた。


 一瞬、幼児用のキーボードを膝で潰すかと思ったが、どうにかこうにかそれは防げたようだ。


 ただ。

 心臓が止まるほど驚き、口からは「ふげっ」と、情けない声が漏れる。


行橋ゆきはし先生っ……!」


 シャツ越しに、誰かが背中にしがみついているのは感じていた。くぐもるような声と、淡い制汗スプレーの香りに、それが香川さんだと気付く。


「か……」


 薄暗い部屋で。

 ふたりっきりで。

 いきなり背後から抱きつかれて。


 いろんな妄想や空想や感情が一気に頭を巡って、今度は別の意味で小恐慌状態だ。止まりかけた心臓が、今度は荒れ狂うように脈打ち始める。


 香川さん、どうしましたか、と問いかけようとしたのだけど。


「で、出ましょう、ここ!」

 悲鳴に似た、ただ、とても小さな声で、香川さんに言われ、俺は目が覚めた。


 怯えている。


 香川さんの声にふくまれた感情に気付き、俺は畳に手をついて体を支えたまま、首だけ捻って背後の彼女を見た。


 香川さんは、俺の胴に抱きつくのは避けたようで、俺の肩甲骨辺りにしがみつき、ただ、ぴったりと自分の体を俺に密着させていた。


 てっきり。

 てっきり、俺は香川さんも、室内の押入れを見ているものだと思っていた。


 俺が感じた気配に気付き、視線を見、そして怯えたのだ、と。


 だが。

 違う。



 彼女は、俺にしがみつきながら、ずっと、を見ていた。



 俺は香川さんの視線を辿る。

 部屋の出入り口だ。

 俺が開けた、すりガラスの横引き扉を、彼女は見ている。


 同時に。

 濃く。

 柔軟剤に似た化学香料の匂いがした。

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