第36話 さっき俺達がいた部屋
ただ。
香川さんのうしろには、なにも見えない。
彼女が怯える理由が、俺にはわからない。
「……そうですね。何もいませんでしたし」
俺はできるだけ何事もなかったようにそう言うと、彼女を背中にしがみつかせたまま、ゆっくりと立ち上がった。香川さんは俺に引かれる様に足を伸ばし始める。
「田部のところに戻りましょうか」
香川さんは俺の背中に顔を押しつけたまま、頷いた。額が背中にこすりつけられる。
俺は『電車ごっこ』のように、香川さんとふたり、部屋を出る。
廊下に出ると、階段を挟むようにして、もう1つの扉が目に入った。
こちらは木を貼り付けたような、やっぱり横引き扉だ。
むっとするような。
喉の奥がいがらっぽくなるほど。
妙な『匂い』が顔周りにまとわりつく。
唐突に。
俺は思い出す。
そういえば、初めて田部の家に香川さんと来た時、彼女はこの二階の窓に『手跡』を見つけたと言っていた。壁のほとんどが窓のようなところの、随分下あたりに、小さな手形があったのだ、と。
そして俺は首を傾げた。
さっき俺達がいた部屋を思い出す。
雨戸が閉まってはいたが。
そんなに大きな窓ではなかった。普通のサッシ窓だ。
では。
香川さんが見た『手跡のついた窓ガラス』がある、『二階の部屋』は、方角的に、この木扉の部屋のことに違いない。
なんとなく俺は、木扉に近づこうとした。
濃密な。
甘く絡むような匂いのする、その扉に。
「
だけど背中から聞こえる悲鳴に似た声に足を止める。
見れば、俺は、腕を伸ばして引手に指までかけていた。
「……そうですね。田部のところに行かなきゃ」
俺はそう言い、伸ばした腕を今度は背後に回した。相変らずしっかりと俺の背中に顔を押し付け、しがみつく香川さんを、宥めるように軽く叩く。びくり、と香川さんは肩を震わせたのが背中越しに伝わるが、彼女は手を離そうとはしなかった。
俺はゆっくりと階段を下りる。香川さんが不測の動きをしたらかなわないので、手すりをしっかり持って一歩一歩踏み出した。
階段を一段下りるごとに、香川さんが徐々に落ちついて行くのが分かる。
俺は幾分安堵し、それから、俺と距離をとりつつある彼女に少しがっかりもしながら、階段を降りきった。
その頃には、彼女は俺の半歩後をついて来ていた。
なんだか気まずい雰囲気を背後から感じるが、どう声をかけたらいいものか分からない。俺は敢えて無視することに決め、居間の襖を開いて中を覗き込む。古いせいだろう。戸車がひっかかりながら、開いた。
その襖の音に、田部が反応する。
「……ふ。……くふっ……」
短く息を何度か吐くから、俺は慌てて田部に近づいて頭の側で坐った。香川さんも続いたようだ。
「大丈夫か?」
俺が覗き込むと、香川さんも田部を挟んで向かいの位置に、ぺたりとお尻をつけて坐りこむ。その姿勢のまま、田部の様子を伺った。
田部が、ゆっくりと目を開く。
「よかった……」
香川さんが、安堵の声を漏らした。
田部を挟んで、二人で彼を見降ろす。
そして。
同時に香川さんと顔を見合わせて、思わず噴き出した。
それぐらい。
田部は、なんとも居心地の悪い表情で、俺と香川さんを交互に見上げ、それからゆっくりと顔を隠すように手で覆ったのだ。
どうやら、二人から顔をのぞき込まれ、照れたらしい。
「動けるのなら大丈夫だな」
俺は笑いながら、田部の肩を軽く叩いてやった。
田部は相変わらず両手で顔を隠したまま、小さく頷いたようだ。覗き見える首元がやけに赤い。熱中症と言うより、羞恥の為に赤らめたようだ。まじまじと寝顔を見られていた、と思って恥ずかしがっているようだ。
「田部君、何か飲み物を持ってきましょうか? 台所に行ってもいい?」
香川さんは腕時計で時間を確認しながら、田部に尋ねている。俺もちらりと自分の腕時計に視線を走らせた。15時。そう長い間の失神ではなかった。
「台所に行ってもらわなくても大丈夫です」
田部は即答する。
「田部、勝手に家に入って悪かったな」
田部の言葉の硬さに、俺は慌てて口にした。あれだけ家に人を入れることを拒否していたのに、押し入った、とでも思って関係をこじらせたくは無かった。
「いえ、それは……。お手数かけました」
田部はそれでも、状況を考え、仕方ないと判断してくれたようだ。口ごもるようにそう応えると、ゆっくりと上半身を起こした。香川さんが慌てて手を伸ばして、その背を支えてやる。
「母がすぐ、帰ってくると思うので。もう大丈夫です。先生も、香川さんも。ありがとうございました」
田部は俺と香川さんを交互に見てそう言うと、がくり、と頭を折るように下げる。
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