第19話 俺に、手は貸せるだろうか
「誰のこと?」
「
ひそひそとした小声に、俺はゆっくりと顔を上げる。
えぐえぐと泣いている
2年部の教員たちがこちらに背を向け、頭を寄せてひそひそと話をしていた。小さな声だ。それなのに俺に聞える、ということは。
聞かせているのだろう。
「何が書けたって?」
「部誌みたいだな」
「文字が書けた、みたいな。……ってか、小学校から申し送りなしかよ」
「LDって、書けるんだ」
「そりゃ、教員一人がつきっきりで見てるんだ。書けるだろうよ。ぜいたくだねー」
忍び笑いが起こり、俺はノートを持って立ち尽くす。
何故、こちらを向いて言わないのか。
何故、小声なのか。
何故、俺に背を向けているのか。
「いいよなぁ。特別支援学級は、受け持ち生徒が少なくて」
「ひらがな教えてりゃいいんだから」
何故、俺を見て、言わないんだ。
腹と言うより、みぞおちが熱くなった。
「緊張」は俺の腸を動かすが、「怒り」は、俺の足を動かすらしい。一歩、2年部の教員に向かって足を踏み出した。
踏み出して。
違和感に気づく。
俺の目の前には
一歩踏み出せば、阿川先生との距離が縮まるはずだった。
ぶつかるとはいわなくても、すれ違う程度には接近するはずだと思ったのに。
阿川先生が、逆に遠ざかる。
なんだ、と目を瞬かせて気づいた。
阿川先生は、後ろ向きに下がり、だぁん、と音を立てて2年部の教員のデスクに凭れたのだ。
「じゃあ、先生がやってみたら?」
相変わらず涙でぬれた瞳のまま、阿川先生は、俺に背を向けたままの2年部の教員の顔を覗きこんだ。
「一対一で、たった数週間で、相模の『言葉』を取り戻してみてよ、先生」
阿川先生は、イスに座ったまま凍りついたように動かない二人の教員の顔を互いに覗き込んだ。
「国語でしたよね、英語でしたよね?」
阿川先生は指を差して確認し、にっこりとほほ笑む。
微笑むが。
目は、笑っていない。
「相模のLDに気づかなかったんでしょ? 別に気づかなくてもいいけど、それに対する対処はなかったんですよね。気づきもなかった。僕と一緒だ。カッコ悪」
阿川先生は、机に凭れたまま、低い声で、それこそヒグマのように唸った。
「特別支援学級はなぁ、生徒へのきめ細やかな配慮と工夫が必要だから、超少人数対応なんだ。知らねぇなら、もう一遍、初任者研修受けてこいや」
職員室が、しんと静まった。
何も知らず職員室にのんびりと戻ってきた教員も、何事かと目を丸くして扉の前で立ち尽くしている。
「知ってますよ。やだなぁ、阿川先生」
ことさら明るい声を芝原先生は上げ、椅子から立った。
「我々もね。もっとこう、情報共有をしないといけませんねぇ。いや、そうだ。そこを気づかせていただいてありがとうございます」
芝原先生はそう言って阿川先生に近づき、俺に向かって職員室の扉を指さした。『行け』。そう言っているらしい。
「そうですよ。芝原先生のご活躍なんかも、もっと若手に知らしめないとね」
阿川先生も、いつもの口調に戻り、机からゆっくりと離れる。途端に、硬直していた二人の教員の肩から力が抜けるのが見えた。
「芝原先生の、伝説の水泳授業とかね」
「阿川先生の、体を張った生徒指導には負けますよう」
あははははは、という快活な二人の先生の笑い声に押されるように、俺は鞄を抱えて職員室を出た。
少し。
気が晴れたのは確かだった。
左手に鞄を持ち、顔に触れる。
触れて、噴き出した。
顔が、笑っていた。
ありがとう、阿川先生。ありがとう、芝原先生。
そう思いながら、職員用玄関に向かう。
「先生、さようなら」
通りすがりに、生徒からそんな声を掛けられた。顔を向けると、緑色の名札を付けている。1年生だ。
「さようなら。気を付けろよ」
俺は笑顔のままそう言う。1年生の男子ははにかみながら頭を下げた。
笑え。
つい最近まで強迫観念的にそう思っていたのに。
今は自然に笑みが戻っている。
ふわりと心の中に舞い上がったのは、いつも底辺に燻っていた『自信』だ。
俺は革靴に履き替え、クロックスを下駄箱に入れる。生徒が見ているかもしれないから、踵を揃え、位置を正した。
通用口を抜けて自家用車に向いながら思う。
俺は『普通』と呼ばれる状態に、無理やり戻すことが良い事とは思っていない。
その子が無理なく、そして望む形にしてやるのが教育だと最近思い始めた。
その生徒が、『少人数学級で』と、望むのなら、俺は付き合う。
相模のように、『高校に行きたい』というのなら、彼が理想とする形に、できるだけ近づけてやろうと思う。
未来は明るい。そう思わせてやりたい。
世界はそれほど悪くない。
そう、気付かせてやりたい。
そう強く思いながら。
ふと、今から向かう田部のことを考えた。
彼の願いはなんだろう。
俺に、手は貸せるだろうか、と。
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