第百三十六話 花

 マーガレットは愕然としていたのだ。


「エ、エメラネウス? 山脈越え?」

「そう」


 子供たちから彼女が心労で倒れたと聞いたメグは、もうそれこそ泡を食って蛇たちが駐屯している神社へとやってきたのだが、本人はすでに回復したようでそれは良かったのだが。


 ウォーダーの向かう先が大陸随一の難所と聞いて、そちらの方が遥かに衝撃であった。ベッドに身体を起こしたミネアの脇に両手をついたメグは続く言葉が見つからない。同じく部屋に来ていたバクスターとフューザも入り口の端で考え込む。


 ベッドの足元で、フォレストンが耳の後ろを掻いて。さすがの導師も困り顔だ。


「北からは進路ルートがないぞおマーガレット」

「わ、わかってる。そうか……」


 バクスターが提案する。


「エメラネウスに関しては、情報が足りません導師。幸いクリスタニアの辺境軍も来ていることですし、少し話を聞いてみてはいかがでしょうか」

「そおだなあ」



——エメラネウス山系はサンタナケリア大陸の難所であると同時に、地政学的にも極めて不安定な地域である。


 山脈の南側は聖域シュテを抱き、さらに南方は魔導国ファガンの東域、東ファガンを国の長兄が治めていると聞く。西は山脈の端からエマトナ山系に変わりエストマ、ルドファン、セト等の小都市が点在している。こちら南側は難所ではあるが比較的混乱はない。


 問題は北側である。まさにウルファンド方面より攻略するそこは完全な紛争地帯なのだ。


 クリスタニアの南、前の戦争で帝国に割譲されたネブラザ地方はそもそもがひとかたまりではなく、クオタス、キバル、ララカルデといった山岳都市ごとの自治体の集まりであった。


 旧アルター国の南西部と位置付けられていた頃ですら経済の流通はあっても政治的には自主独立を貫いていたそれらの街は、頭越しに帝国への割譲を謳われたことに全くもって納得していないのは当然で、よって今でも辺境軍の侵出には激しく抵抗している。ネブラザの各都市群が『抵抗軍レジスタンス』と云われる所以である。


 併せて、神出鬼没の獣人たちがいる。彼らは狂獣と呼ばれていた。賊のようでありながら統制が取れており、一体どこより調達しているのか昨今ではその装備も帝国辺境軍にも引けを取らない。


 こうした都市国家群、帝国ガニオン辺境軍、狂獣軍が攻防を繰り返し三つ巴の様相を呈しているのがネブラザを含む北部エメラネウス山岳地帯の現況であった。——



「いくらこっちが味方だと言っても帝国ガニオンの辺境軍は当事者だからなあ。聞き方は気をつけた方がいいぞお」

「はい。少し当たってみます」


 それだけ答えてバクスターとフューザが部屋を出ようとして。


「あ、待て待て」「はい?」

「俺も行く。あとで連絡するぞおマーガレット」

「えっ?」「じゃあなあ」


 フォレストンも入り口で軽く手をひらひらと振って消えた。「あ、いや」と伸ばした手のやり場がないまま、去ってしまった扉を見たままのメグは改めてミネアの横にちょこんと座り直す。

 うつむき加減の頬が少し赤い。なんだかずいぶんかしこまってしまったその姿に、ベッドに起きるミネアがちょっと笑って。


 その肩に。頭を預けてきた。


「ミ、ミネア」

「気を遣ってもらったなら、甘える」

「あ、あはは、そうか?」


 照れ笑いのメグもまた少し支えるように体を寄せた。しばし何も言わずに二人が黙ったままで。肩に心地よい重みのかかるメグは、じっとしたままの猫の頭に目をやった。

 寄りかかる栗毛の髪を分けて時折ぴくっと動く耳は昔からだ。ふと。小さい頃に二人で遊んだ東屋で、よくこの動く耳を脇からつまんだ手をぱしっとはたかれていたのを思い出して、可笑しくなった。ミネアが聞いてくる。


「……笑ってる?」

「うん? いや、ちょっと昔を思い出して」

「メグはさ」「うん」

「少したくましくなったよね」

 

「えっ。そうか? いやそんな、腕、太くなったかな?」

 慌てる彼女にミネアが笑った。

「そういう意味じゃなくて」


「——ミネア。街に駆けつけたときなんだけど」

「うん」

「わたしは、ヴァルカンの中で頭を打って気絶してたんだ」


 ミネアがメグの顔を見上げる。視線をやって。


「そうなの? 大丈夫だったの?」


「うん。でも、あとから聞いたらひどい戦いだったって。バクスターも怪我をして、フォレストンも、ぼろぼろだった。彼らですらこれまで見たことも戦ったこともないような相手だったって言ってたから、起きていたならいたで、わたしは何もできなかったと思う。あの三人みたいに戦えるわけじゃないから。……これでもねミネア」


 メグが視線を返してくる。


「エールカムにいた頃は、けっこう頑張ったつもりだったんだ。戦場に出ること、誰かと戦うこと、それをずっと何度も何度も頭の中で考えて、繰り返して。——それでも全然違った。わたしは確かに、戦場がどんなものか知らなかった。まったくわかってなかった。今は、ミネアが言ってたことが少しだけ、わかったような気がする。もしわたしが何か変わったのだとしたら、それくらいかもしれない」


 自分の言葉で伝える伯爵令嬢は。もはや令嬢ではなく。あのアイルターク国境の沢で泣きながら抱きついた彼女ではなく。


「今は理解してる。わたしは。彼らみたいには戦えない。きっとミネアみたいにも。そんな力は持ってない。でもそれで悩んだり落ち込んだりするのは、もうやらない。みんなを危険に晒すから。力がないままで、そのままで、わたしはしっかりしていなければいけない。戦えないわたしが戦場でできることは、戦う彼らを支えることなんだ。だから泣きごとも言わない」


 まるでみずからに言い聞かせるように話すメグが、ふと気づいたのは、少し見上げるように頭を寄せるミネアの瞳がなんだか熱を帯びていて。なので。


「そ、その、もちろんウォーダーのみんなも、ミネアのことも、わたしは。……ネブラザだって、きっと方法はあるから、諦めたりなんか……えっと、ミネア?」


 ぎゅうっと胸元に顔を埋めてくるミネアにいよいよ慌てる。あ、あれ? こんなに甘えたがりだったっけ? メグにはわからない。うずめる中から声が聞こえた。


「支えてくれる?」

「も、もちろんだって。言ったじゃないか。……ミネア。大丈夫なの」


 胸の中でかすかに頷くのを感じた。戸惑うままにメグが抱き寄せる。

 ミネアには、その温もりがありがたい。今はひたすら、いのちの温もりにしがみついていないと。


 こころがくらくなりそうで。





「ああ、えっと。これ喋っていいのか十一ひといち?」

「え。いや俺に聞かれても」


 こちらから出向くまでもなく、たまたま神社の境内で出会った帝国の女兵士が、ちょっと困ったように髪を掻くので、フューザが愛嬌のある笑顔で今度は隣の青年兵士へと言葉を続ける。どうもこちらの彼の方が話が通しやすそうだ。


「迷惑はかけないよ。通信打てばこっちがカーン所属なのはすぐわかるんだろうけど、小型でも一応、無限機動だからさ。なるべくなら刺激しないように動きたいんだ」

「要するにかち合いたくないんですね、うちの隊と」

「そうそう」


 フューザの横で無言のバクスターが感心する。こいつは話のとっかかりが相変わらず上手い。


「そうですねえ。て言っても自分たちも座標を把握しているわけじゃないんですが。そのための四隊構成だし」

「四隊? ああ、確かそう言ってたねクリスタニアで」

「はい。ベスビオ三機。リボルバー一機です」


「ベスビオ? 四隊中の三隊が? ネブラザに?」


 隣のバクスターが驚くのに青年兵が慌てた。


「いえいえっ。二機は完全に補給艦です。拠点ベースの代わりで砂漠に停泊してるはずです。載せてるのも物資と魔導槽ダクトセルばっかりだし」


「ああ」とバクスターが頷く。結局そういうことなのだ。今回の蛇たちが行うエメラネウス攻略がどういう類のものかは知らないが、どうしてもこのウルファンド断崖船渠のような、魔力や物資を補給する基地ベースキャンプが要るはずなのだ。


 帝国は特定の場所でなくベスビオ——本来が輸送艦なので正しい運用と言えるその二機を、砂漠に配置しているらしい。上手いやり方だが、逆を言えば。


「やはり、地上に特定の拠点を設けるのは危険なのか?」

「ですねえ、前に行った街が次に行ったら破壊されてもぬけの殻だった、なんて話は普通にありますよネブラザは。あっちこっち罠も多いと聞いてます。——あの方面に行く予定があるんです?」


「いや、まだ分からないんだがな。……それは?」

 話を濁すのに、女兵士の脇に抱える小箱へ目をやれば。


「あ。これ。イングリッド様からの届け物です。エイモス先生ってお医者さんいますかね?」

 彼女があっけらかんと笑って答える。



 兵士たちとは別に、フォレストンは境内の広場から少し奥まった崖のそば、以前は獣たちが水浴みずあみに使っていた泉の岩場に来ていた。あたりには誰もいない。

 顔の前に差し出した右手人差し指の上でぼおっと輝くこぶし大ほどの光は幻界通信クロムコールの光球だ。


「ちょっとみんなの前では話せなくてなあ。俺らの立場的には、ネブラザ行きはどうなんだあ?」


『蛇の後を追いかけていく分には、まあなんとかなるとは思うが。問題は帝国ガニオン抵抗軍レジスタンスの交戦の場に居合わせてしまうことだ。——姫がどっちにつくと思う?』


 声の主は、今は首都エールカムに駐留するアーダン所長マインストンであった。眉根を寄せてフォレストンが答える。


「マーガレットのことだからなあ。正直、ネブラザの連中は帝国を拒んで、生まれた場所に立て篭ってるだけだからなあ。あいつには、攻める帝国に大義があるようには映らないんじゃないかなあ」


『それだとまずいぞ。今のカーンはあくまで帝国の一員だ』

「あんた前は『雇い主は帝国じゃなくてカーン卿だ』とか言ってたじゃないか?」

『だからだ。卿の立場が危うくなる』

「うーん」


 差し出した右手はそのままにフォレストンが悩む。


「たぶんなあ、もう間違い無いと思うんだけど蛇の連中が喧嘩しようとしてるのはエメラネウスの狂獣たちなんだよなあ。そうなるとどうしたって俺たちはネブラザ勢と共闘するかたちになるはずなんだよなあ。狂獣とは一緒になって戦うけど、帝国と戦うときはお互い敵同士なんて、そんな器用な立ち振る舞いは無理じゃないかあ?」


『俺たちは、って、獣勢と戦うのは蛇の連中だろ? 言っておくがフォレストン。地元の連中と接触するのが一番まずいのは、お前だ。ネブラザの民は帝国を嫌う以上にシュテの介入を嫌っているからな』


「そうなのか?」

 少年の目が丸くなった。


『そうだ。考えてもみろ、狂獣と帝国辺境軍を敵に回して、どうしてネブラザがあれだけ必死に持ち堪えているか、わかるか?』


「それは、え? ひょっとして根付きの魔導師がいるのか?」

『いる。正確には〝いた〟だな。今は存命ではない』

「いやそれなら……」


 眉間の皺がさらに深くなって。


「まさか、死んだあとでも契印シールが活きてるのかあ? あんたと同じ法術系の使い手かあ?」

『私など、あのお方の足元にも及ばんよ』


 さらっと所長がとんでもない返事をする。

 




 簡易の診療室では、部屋が少し騒がしかったのだ。座るロイがいる。子供たちが数人、リッキーとエリオット、そしてリザだ。ちょうど大部屋の薬を取りに来たときに、その場に居合わせたのだ。

 部屋の大人は飛竜の他に、エイモス医師、神主のグレイ、そして親方タイジがロイのすぐそばに座っていたのだ。診療椅子に座るロイの右手は机の上に置かれ、まるまる四角い金属製の箱で覆われている。


「生えないの?」

「生えないな」

「なんでさっ。治癒魔法の子がいるじゃんっ!」


「あのなリッキー」

「こら動くんじゃねえロイ。型がおかしくなるじゃねえか」

「ああ、すみません」

 飛竜が謝るそばから。またリッキーが吠える。


「じゃあどうすんだよその左手はっ!」

「うるっせえぞちびっ。ちゃんと型取れるまで口閉じとけっ」

「ちびって身長同じくらいじゃんか!」

「な、なんだとお?」「親方っ」


 呆れてグレイが笑う。エイモスも苦笑していた。

 ロイは今、義手作製用の型取りをしているところだ。右手を採って反転させ、調整する。飛竜の鱗までどのように再現するのかは親方の腕の見せ所なのかもしれない。が、そこに子供らがやってきたのでひと騒ぎしているのだ。さらに。


「お邪魔します、よろしいですか?」


 兵士四人が現れた。カーンの二人と帝国兵だ。露骨に親方が苦い顔をして。


「おいおいなんだなんだ、部屋せめえんだぞ」

「すみません。ちょっとこちらの二人がエイモス先生に」

「——わたしに? どうした?」



 女兵士が持ってきた箱の中身はさまざまな医療器具であった。かちゃかちゃといくつかの道具を手に取ったエイモスが「これだ」と言って取り出したのは、鉛筆よりやや長い、細身の平たい金属棒だ。

 他のものたちが見る中で、すこし悩んだ医師が棒の背を両手で握り、継ぎ目を引いてかしゃッ! と戻す。と。ぽっ。とその先端に光の薄刃のようなものが突き出る。極めて小さい。


 最も見入っているのは親方だ。顎を掻きながら感心したように。


「こりゃあ、緻密な刃だなあ。医療用か?」

「そうですね。鋭刃針スカーペルです。こっちは……結索帯バンドか」

「止血用です」「です」


 兵士二人がうんうんと頷きながら答えた。他にはしかし、ホチキスのようなてこで動く器具と、切れないハサミと、管のついた丸い器具など。中には一緒に薬品の入った瓶もあったので、それは外に出して別で包んで。


「こっちは持って帰りたまえ。獣には使えないかもしれない」

「え? は、はいっ」


 慎重な医師をロイが見ている。この二人に悪意はなさそうだが、器具はともかく服薬するものはもらえない。また箱に目を戻してエイモスが言う。


「本当にもらっていいのか? 助かるが」

「ええ。イングリッド様が持っていけと」

「なにからなにまで今回はすまない。ただ、私でもちょっと扱いがわからない道具があるな」


「アキラなら分かるかもしれない、先生」

「うん?」


 ロイが言う。確かに老婆は話していたのだ。彼は元いた世界で、医道に携わっていたと。エイモスも否定しない。


「確かにそうだな。それに、これは彼が一番欲していたものだし……リッキー、アキラくんはどこにいるか知ってるか?」

「え? ああ、今日はほら。船便がついてるから」

「船便?」「ああ、そうそう」


 続けたのは神主だ。


「北からの第一便がぼちぼちと到着してるんだよ。夕方にかけて次々届くはずだ。え? じゃあアキラちゃん手伝ってくれてるのかい? みんなも?」

「もっちろん」「ですよぉ」


 リッキーとエリオットが胸を張ったが藪蛇だ。ロイが言うのだ。


「だったらこんなところでさぼってたらいかんな」

「げ。わ、わかったってえ」「行きますっ」


 慌てた子供たちが、手にお使いの薬を持ってぱたぱたと出て行ったのだ。笑いながらその背を見送るロイが、エイモス医師に振り向いて言う。


「ひょっとして。パメラの?」


 医師も少し笑う。自らの左頬骨を少し突ついて。彼らは覚えていてくれたのだ。あれはいつだっただろうか。そうだ。飛竜が思い出す。クリスタニアのまだ前の話だ。少し目を伏せ、ひとり頷く。


「なんだロイ、嬉しそうじゃねえか?」

「そうですか? ——そうかもしれません」


 昔っからの人間嫌いなど吹き飛んでしまったのだろうか、それほどに。彼ら二人の存在は大きなものになっていた。蛇にとっても。子供らにとっても。


 おそらくは、自分にとっても。





 街道から何台かの搬送車キャリアで到着した物資の荷台には、街からたくさんの獣たちが集まって、それぞれに手をあげて品物を求めている。荷台に上がったリリィが拡声器で「押さないで。あわてないでっ。まだ後から着くからっ!」と声を飛ばしている。


 アキラは街を回る運搬係だ。ビークルに繋いだ荷台に子供たちと一緒になって積み荷を積んで。そろそろ満杯になったのでサンディとリリィに叫んだ。


「こっち出かけますっ!」

「お願いします!」

「いってらっしゃーい!」


 二人の声を受けてシートに跨った後ろから、アキラに声をかけてきたのは。


「僕、手伝います。後ろいいですかっ?」

「えっ? ああ。お願い。助かるよ」


 珍しく荷台に飛び乗ってきたのは少年アランだった。特に何も考えずに、アキラはビークルを発進させたのだ。



 昼前の時点で搬送ルートは決まっていた。ウルファンドの街は大滝の溜まりから流れる川が最も大きく、そこで街全体が南北に分かれている。だが今回の戦禍でいくつかの橋が焼け落ちてしまっていた。

 獣たちも皆が皆、通りまで受け取りに来られるものばかりではない、年老いたもの、子を見るもの、まだ傷の癒えぬものには住居すまいまで届けてやらねばならない。


 南部よりはるかに入り組んだ北の街中を、しかしアキラは間違うこともなくすいすいとビークルを走らせるのにアランが舌を巻く。今は風防も解除した荷台の上から声をかける。


「アキラさんっ! 道全部わかってるのっ!?」

「え? はは、なんとかねっ!」


 アキラは少年の生き返った経緯いきさつを知っているだけに、荷台に乗る彼にわずかに気まずくもあったのだが、とにかく今は積み込んだこの荷物を届けることに集中する。

 昨夜のレオン、そしてソフィアから伝えられた言葉は正直、ずっと頭の隅に残って消えていない。


——世界を救ってくれないか——


 彼らはそう言ったのだ。あまりに途方もない話で、自分に何ができるのかさえわからない。この不思議で、獣たちがいて、人間がいて、争いもあるがそれぞれに暮らしている目の前に広がる世界に、いったいどんな危機が訪れるのか?


=あまりに情報がない。まずはその九番の呪文を探すのが先決だろう。だが蛇は蛇で、これからは戦いの旅路だぞアキラ=


 運転しながら声に頷く。

 アランの助けもあって、荷物をあらかた配り終えたのは二時間ほど経った後であった。



 大通りに戻る道すがら、荷台のアランが少し休憩がしたいと言うので。ビークルを道に停めた二人が川縁かわべりの土手に登って腰掛けた。まだ耳をすませば街の方よりかんかんと家を建て直す音がする。


 いまだ傷癒えぬ街にもったいないほどの晴天だ。いや、傷ついた街だからこそありがたいのか。天気が保つのは屋根の補修には、さいわいだろう。座ったままうーんとアキラが伸びをした横で、同じようにアランも伸びをした。


 土手のそこかしこには黒く焼けはだけて上から土を撒かれた場所もある。また一面に青々とした景色が戻るのは、もう少し時間がかかるかもしれない。それでも。たくさんの獣が死んで、焼けて傷ついて、涙も流されたこの街で。


「すごいよなあ」「え?」


 つい呟きが声に出たので。


「いや……俺って、こんな戦闘とかで被害にあった街って、初めて見たんだ。そういうのって頭で知ってただけで、経験したことなんてなかった。みんな酷い目にあって、つらい目にあって、でもさ」

「うん」


 アランがおとなしく聞いている。


「夜が明けたら。みんな、家を片付けたり、直したり、怪我人を看病したりしてさ。あたりまえだけど、なんていうんだろう。……きっと、今度またこの街に来る頃には、また普通に暮らしているんだよね。傷は残ってるかもしれないけど、みんなまた暮らしているんだ、ここで」


「それって、すごい?」

「すごいよ。強いよ。俺、頭が上がらない」


「そんなの、初めて聞いた」

「そう?」


「うん。街の人たちは、戦えないから弱いのかと思ってて」

「弱いことなんかない。戦うことより、ずっと強いと思うよ」


 少年の長い頬毛がさらさら揺れている。

 猫の瞳でじっとアキラを見つめる。


「……あのねアキラさん」

「なに?」

「聞きたいことがあるんだ。僕が生き返った時、そこにいたんだよね」


 どきり、と。アキラがわずかに。

「え? えっと、なにかな」


 横に座る少年は、少し目を伏せて。ちょっと頭で考えているのだろうか、やがて。


「僕は、眠ってる時に、おかしいんだ。なんだか〝まぼろし〟を見るんだ。眠ってる間に」

「えっ……」


「その、なんだろう。まぼろしの中で、僕はいろんな場所にいるんだ。眠ってたところじゃなくて。まわりにキーンもマーカスもいなくて。家の中でさえなくて。布団も何もなくて。どこか別の場所にいて。わかるかな……」


?」

 つい。アキラがそう聞く。


「ゆめ? ゆめって? ゆめって言うの、それ」

「そう、そうなんだけど。生き返ってから?」


「あのさ」

 そう言ってアランがズボンのポケットからごそごそと取り出して、アキラの目の前で広げた紙が。


「わあっ。ちょ、ちょっとこれっ」

「これアキラさんが描いたんだよね」

「いや。ああ、あはは。ははは。なんでアランこれ」

「僕もこんななんだ」「え?」


「これ。アキラさん」と言ってアランが指差したのは、例のつたない象の絵だ。思わずアキラが苦笑いするに構わず。


「これ、手と足じゃないよね?」

「へ?」


「前脚と後脚だよね。四つの足だよね。僕もそうなんだ。その〝ゆめ〟の中で。僕は僕じゃなくて。もっと、その、小さくて。これくらい」


 紙を持ったまま広げるアランの手幅は、まさしく猫くらいの大きさで。アキラの笑いがだんだんと、真剣な表情へと変わっていく。


「……それで?」


「それで。そのどこだかわからない場所で。僕ははだかなんだ。服も着てなくて。ちがう生き物なんだ。小さくて。前と後ろの足で走って。すっごく早くて。でも身体中の毛は、一緒なんだ。こんな長くて。ずっと走って、走って。それで。」


 川の流れに陽が揺らめいている。

 堰を切ったようにアランが話す。


「場所は。わからないんだ。河原だったり、草はらだったり、森だったり。いろんなところを、ずっと走って。地面を鼻で嗅いで。また走って。ぼくは。ぼくは探してるんだ、ずっと。花が咲いてるんだ。花が、点々と続いてるんだ。その花の匂いを追いかけていくと、そこにあるんだ。それを探して」


「探してる? なにを?」


「かけら、を」

「かけら?」


「うん。なにかはわからない。わからないんだけど。花の先で、光るかけら。それはすっごく大切なもので、僕はそれを集めなくっちゃいけなくて。散ってしまったんだ。アキラさん。それは散ってしまったんだ」


「散った? いつ? どこで?」


 アランが言う。


「あの日。撃たれた時に」


 そのひとことに。

 アキラは声を失って。


「散ってしまったんだアキラさん。だから。僕はその〝ゆめ〟の中で、ずっと。花を探して。走り回って集めてるんだ。そして目が覚めるんだ。見ない夜もあるんだけど。見る時は必ず、僕は走って、探してるんだ。そのかけらを集めなきゃいけなくて。どうしても、どうしても僕はそれを……アキラさん、アキラさん」


 いつの間にかアランの目にはいっぱいの涙が溜まっていて。


「やらなきゃいけないんだ。どうしても。でも、僕はおかしくなったのかな? 変になったのかな? わからないんだ。わからないから僕は——」


 瞳の涙が宙に飛んだ。


 少年の長い毛を包むように。

 アキラが胸に抱き寄せたのだ。


 はっ、と短く息をしたアランがそのまま胸の中にしがみついて。泣いている音がする。かすかにしゃくりあげる音がする。だからアキラが、抱きしめたまま言うのだ。


「アラン」

「うん」


「君はなにも、おかしくなんかない」

「ほんとに?」


 川が流れている。水は澄んでいる。

 陽が当たって、輝いている。


「なにも、おかしくない。だから。集めてほしい。きっと、そのかけらも、君が集めてくれるのを待ってるはずだ。待ってるはずなんだ」

「うん。うん。」

「集めてあげて。それは君を待ってる」


 同じことをアキラが繰り返す。

 胸の中で。アランが頷く。泣いたままで。


=なんということだ——アキラ。この子は、別人でもなんでもなかった。まちがいなく、アラン本人だった=


 頭の声に、アキラもただ少年を抱きしめたまま頷くのだ。


=死んだのは、だ。=


 子猫の背を撫でながら、ただ頷き続ける。


=そしてこの子は、だ。=

 

 川面かわもを撫でる風が優しい。


=肉体の共有が行われている。人間の魂と、獣の魂とで。なぜこのようなことが起こっているのだ。この世界はいったい——=

 



◆◇◆




 その街は不思議であった。


 平地から谷あいへと続く街並みは煉瓦と土壁で固められた粗末な家々が、さながら獣の巣のように立ち並んでいる、だが時折。陽の光を受けて硝子のように風景が透き通り、そして。蜃気楼のように消える。やがて暫くののちに、また気まぐれに現れるのを繰り返す。


 街で歩く人々も同じだ。消えたり、現れたりを繰り返すのだ。


 ひとつの奥まった断崖のくり抜かれた高い洞穴の、そのまた奥で、男たちは話していた。服は戦闘服で不可思議な紋章が描き込まれ、その上に布を巻くように羽織っている。浅黒い顔と日差しで焼けた髪は一様で、大きい机に顔を寄せて。


「クオタスが落ちたのはあまりに痛い。なんだってデイモンドの馬鹿野郎は魔術なんかに手を出したんだ?」


 別の男が大きくため息を吐く。


「気持ちは分からんでもないがね」

「なんだと?」

「嫁と娘が吊るされて殺されたって聞いたぞ? そんなの、俺だってやるさ」


「ふざけんなッ。玉砕するなら別の方法がいくらだってあるだろうが。よりによって蟲なんか使いやがって。おかげでこっちの結界は弱まるばかりじゃねえか」


「遅かれ早かれじゃないのか」

「あ?」

「導師様の加護だって、そんないつまで保つのかわかりゃしないって——」


 部屋の手前から声が飛ぶ。


「そういう思いが加護を弱くするんだ」


 男たちが振り向く。

 入口には女が立っていた。獣ほどの背丈に、たてがみのような溢れる赤毛を上だけバンダナで覆って。布の下の汚れたタンクトップから見える肌は、しかし傷だらけだ。日焼けした顔のあちこちにも傷がある。


 女が握る魔光剣の柄を男たちに向けて言う。


「他に方法があるか? 言ってみろ。魔導会ターガの助けでも呼ぶつもりか?」

「あ、危ないですってアイシャ様」

「だから言ってみろ。ここは見捨てられた土地だ。こんな砂しかない大地に腰を据えて、死してなお私らを護ってくださる導師様以外に、頼る術があるなら言ってみろ」


 柄の口で男たちを交互に指して。


「魔導会のやることは、どうせ仲裁だ。大人しく武装を解いて仲良く暮らせ、とな。その先に何が待つ? 獣も、黒騎士も同じだろうが。人は減るぞ。街は滅ぶ。連れていかれるんだ。子供たちから先にな」


 最後に柄を自分の首元に当てて。女が言う。


「酷い死に方をしたくない奴は私に言え。つらいなら言え。私が首を掻き斬ってやる。いいな」


 それだけ言って、アイシャと呼ばれた女は奥の部屋へと消えた。男たちは各々に首を振り、やはり出るのはため息ばかりだ。



 洞穴の最深部は祭壇であった。行き止まりの土壁に一段高く積まれ、たくさんの灯りが灯るその場所に、アイシャが膝をつく。


「帰りました。西には未だ帝国の兵が闊歩しております」


 両手を組んで祈りの格好でアイシャが語りかけるのだ。


「皆の不安は増しております。お護りください。どうか。この弱き私たちをお護りください。私たちはこの地を捨てません。捨てられません。ここが私の生まれた場所です。モネ様が愛してくださった場所です」


 祭壇に置かれていたのは木乃伊ミイラであった。男性の亡骸だ。しっかりと魔導の服を着たまま座禅を組み、そのまま息絶えてしまったような、まだ頭髪も残る亡骸であった。


 つう、と。ひとすじの涙を流してアイシャが言う。洞穴の灯りがささやかに揺れている。


「私もまた、弱くなります。外に敵を、内に絶望を振り払うので、いっぱいになります。弱くなります。でも。この地を離れたくはありません。故郷なのです。ここが私たちの故郷なのです。モネ様。どうか。どうかお護りくださいモネ様。」


 泣く彼女が訴える。亡骸は何も語らないままで。





 荒野に吹く風が止んだ。また谷間のその街が、結晶のように光を反射して、やがて消えてしまった。その谷の名も、街の名も。


 今はまだ、誰も知らない。




      ——第二部「使途不明呪文編」 了——

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