第百三十五話 まだらの銀の猫を追え

 その石段は許可を受けたものしか、登ることができない。


 遠景として見ればくねくねと長くはあれど、ただ低木の茂る高地の坂段であるだけのそれは、だが一羽の小鳥すら飛んでいない。風の音もしない。伸びた石組はどれほどの歳月が経っているのか、さらさらとした風化の砂が歩く足元に埃をあげる。


 少女と僧竜は息切れ一つせずに、ただ黙々と登っていく。


 本来ならば身体には猛烈な粘性の魔力がまとわり付いているはずなのだ。だから許可なき者は登れない。登れば登るほど魔力は濃くなり身体が絡め取られて、やがて前にも後ろにも進めなくなる。そうして朽ちてしまったものの古い屍も、この石段にはそこここに時折転がっている。


 許可を受けその魔力の抵抗が無きにせよ、延々と石段を踏む二人はどれくらいの時間だろうか、その間に互いがひとことも言葉を交わすことはなかったのだ。



 登り詰めた頂上は平地となっており、これもまた古い遺跡のような石畳と並ぶ石灯籠が真っ直ぐに先へと伸びている。ただ歩き、歩いて、だんだんと、周囲の風景は淡く白い光に包まれていく。


 やがてひらけた、そこは。

 天に貯められた光の海だ。


 高みの空より幾本もの光芒を降ろす雲より、海は大きい。眼前すべてを覆い尽くすほどに広がるそれは、巨大な噴火口というよりはそこだけ世界に埋め込まれたかのように遥かな輝きが地平すべてに満たされて、中にあちこちに山の頂すら顔を出している。

 消え入るほど遠くの山稜まで海は続き、そして時折、空に遠雷が鳴って。いくつかのまとまった光の筋が恒星より伸びる紅炎プロミネンスのように、中空に噴き上げてどこかへと流れていくのだ。


 聖域シュテ。ラーマ、源流。

 大陸すべてに流れ出す竜脈のみなもとがここにある。


 近場に見える石の寺院より、痩せた数人の僧侶がこちらを見ている。シェイとイスラの下げた頭に、僧もお辞儀をした。そしてゆらりと腕をあげて指差した、その先に。


 数段高くしつらえられた石は神殿なのだろうか、光のほとりに座禅を組んだ老人の後ろ姿が見えたのだ。頭髪はなく、ただ相当に髭をたくわえているのだろうか、後ろ背にかすかに揺らめくのが見えた。

 なにも言うことなく少女と竜がさらに登って歩み寄る。だんだんと近づいて、そして足を止めた。まさにそこは輝く海のほとりであった。


「シェイか」

「はい」


 振り向かずに問いかけた老人の背に答えて、少女と竜が石畳に膝をついた。老人の声が続く。


「例の依頼でも、なされたかの?」


 それに少女が頭を上げて。


「ご存知であられたのですか?」

「いや、ご存知ではないな。そろそろかと思っておった」

「なぜです?」


「虎が絡んでおるのだろう? 儂の代で依頼がなされるなら、やつが絡むしかあるまいて。ずいぶん虎の周りが騒がしくなっておったからなあ。だから、そろそろだろうとな」


 そして初めて、老人が少しだけ振り向く。肩越しに見える瞳は厚い眉に隠れて、それでも優しげで。


「簡単な読みだて。きっとその——依頼を受けたものを、ここまで連れてくるのも虎だと思うておるのだが。ちがうかのおシェイ?」

「ご慧眼、恐れ入ります」

「ご慧眼かのう? 寺では皆、当たり前に言うておるぞ『虎が来るやもなあ』と、な」


 そう言って老人が少し肩を揺らした。笑っているかのようだ。ちょっとシェイが怒った顔をするのに、その背が察したのだろうか。


「あまりそう、かしこまらんでよいぞシェイ」


「では。言いますけど」

「シェイ。」

「黙っててイスラ。——ブラウダ様。私はこの件、ターガの連中には降ろしたくありません」

 

 はっきりと物申す少女に、老人の背が答える。


「連中ときたか。よいのではないか?」

「えっ?」

「老師。しかしそれは」


「イスラよ。依頼はノエルとクレセントが遠い昔に交わした密約の果てではないか。紡ぎのらぬ魔導会が関わることでもなかろう。しかもゆえなき御伽噺じゃて、一笑に伏すか狼狽えるより他に、奴らが何をすることがあろうか?」


「それは、そうかもしれませぬが。ことが大き過ぎます。我らだけで抱え切れるかどうか」

「なさけないなあイスラ」

「おまえは……それと、仮に他所より話でも紛れ込めば円卓に呼ばれもするでしょう。あの場で隠し事はできぬ決まりにて、ならばなぜ先に話さなかったかと」

「責めを受けるか」


 姿勢良く座る竜が頷く。


「はい。無論、隠していたのは我ら二人にて、寺が責められる謂れはありませんが」

「えっそうなの?」

「当たり前だろうが。そんなものおまえ——」


「呼ばれなければ良いのではないか?」

「はい?」

「留守なら呼ばれもすまいて」


 その言葉に。

 シェイの顔がみるみる綻んで。花が咲くようだ。


「ラーマを出ていいんですかっ? ブラウダ様。ホントに?」

「こらっシェイ。——老師。私らに旅をせよと?」


「あまり遠くは行けぬぞ。虎と行き違いになられても困る。お主らの目と耳で調べてくればよかろうて」

「どこへ行けと仰られますか老師」

「覚えておろうイスラ。クレセントの他に、この世の終わりを口にしたものが過去にひとりだけおる」


 老師の答えに、二人がはたと顔を見合わせ、そして。

「……クレア殿?」


「あの不思議な女子おなごにもう一度話を聞いてこい。あれにはのうイスラ、虎に頼まれて寺の小僧をつけておるのじゃ。セトの修道院まで、ちょうどよい旅路だろうて。ひとことだけ、ソフには言うておけばよい」


 そう言ってまた少し肩が揺れる。大僧正ブラウダは、かすかに愉快そうであった。


「世のかけらが騒ぎ出すのは、時の流れに陽が当たるからじゃ。これよりは同じようなことが起こる。あちこちで起こる。あちこちでな。お主らのまなこで、確かに見てまいれシェイ、イスラよ」


 話す僧正の身体越しに、彼方で遠雷が鳴った。

 


◆◇◆

 


 雲の疾く走る空の下、切り立った岩場に囲まれた小さな広場は闘場なのか、古い血の跡で赤黒く染まった上に新たな砂が撒かれていて。

 だから跳ぶたびに砂煙が舞う。互いに上半身が裸の若い獣たちは短槍を構えて睨み合い、だがまだ距離を詰めずにいた。


 彼らをぐるりと囲む兵もまた獣たちで、長槍を構え整列し一言も喋らない。ただ決着がつくのを待っているかのようで、それは崖の中腹から見下ろしている犀の獣人も同じであった。皮膚が鎧のような裸の上半身に交差する、鋲のある黒々としたベルトの前で腕を組み、じいっと戦う二人より視線を離さない。


 動きがない。それでも。

 戦いは拮抗しているようには見えなかった。


 犬の若者は明らかに気圧されていた。背は曲がり両手で槍を構え、ふっふっと息を継ぎながら相手の出方を伺っている。対して。


 すらりと立つ相手の獣は猫種に見える、が。真っ直ぐな栗毛の髪も長いが横顔から垂れる頬毛も髪の一部のように長い。中性的な顔立ちは目尻から墨で引いたように滑らかな毛紋が流れて、細身の身体を覆う体毛にはうっすらと茶色い斑が浮いている。尖った両耳の上には房毛が揺れていた。


 犬が叫ぶ。

「うっがああああああッ!」


 飛び込んだ。前に出る。しかし突き出す穂先は乱れて定まらない。猫が躱す。僅かに身を傾け、同時に片手で獲物を回し持ち替えて、柄の根元で。


 どおッ! と。

「ぐぶッ」


 犬の鳩尾を突き返したのだ。細身にありえぬ膂力りょりょくは全身が発条ばねのようにしなやかなのだろうか、突かれた犬が元いた場所まで転がって。乾いた白塵が舞う。がらああん、と猫の足元に犬の短槍も落ちて残ってしまったのだ。


 武器は失った。勝負ありだ、が。それでも周りは声を発しない。殺すのが決まりだからである。とどめを刺すまで、崖から見る犀も腕を組んだままで。


 腹を押さえうずくまる犬に構わず、猫の若者はゆっくりと相手の槍を拾おうとする。かがむ横目で周囲を窺う。なにも言わない兵隊たちに目を飛ばして。


「——殺せよ、キア」


 かがむ猫が止まる。正面の相手を見る。犬の若者がへっへっと荒い息で、小声で話す。


「なんで、おまえが俺の相手なんだよ。勝てるわけ、ねえじゃねえか。ばっかやろう」


 震えながら呟く犬は笑っていた。玉の汗が鼻先に湧いて。


「お前に殺されるなら、俺は、かまわねえよ」


 猫が槍を拾う。拾おうとして。身をかがめて。犬を見て。

 言った。猫も少し笑っていた。


「……くっだらねえな」

「え?」

「生きろギューテ。またな」


 砂が舞った。


 へたり込んだ犬は一瞬目の前の相手が砂塵に消えたかと思ったのだ。猫は屈む姿勢から一気に西へと駆け出して円陣の端、それは闘場となっている窪地の双璧に木櫓きやぐらの立つ下り道へ向かったからだ。疾い。距離にして十数リームを数秒で抜ける猫の両手に握った短槍は。


 投げつけられて。

「うおッ!」


 兵が乱れる。円陣となってけし掛けるための装備であった長い槍が素早く飛ぶそれに機能しない。入口の二人が飛んできた短槍を柄で弾いて構え直す時にはもう猫の青年は、あろうことか。


「のろまだ」


 た、たっ、と。数歩の足捌きで。まるで風が立木を抜けるように長い髪だけ後を引いて。よろめく兵たちの身体を見事に避けてすり抜け突破したのだ。そこでやっと窪地に声が響いた。


「だッ、脱走だッ! 逃げたぞッ!」


 櫓から兵士が見下ろす、それも遅い。すでに猫は櫓の下を抜けている。あっという間に闘場を逃げ出し下り坂へ。だが。


「……ぐッ!……が」


 息が。唐突に。走りが遅くなり、数歩。

 猫が胸を押さえる。熱い。それを見る。


 体毛に覆われた胸に浮いていたのは赤い紋様だ。ちょうど心臓の上あたりに明滅を繰り返しながら、奇怪な陣がぼおっと。だが知らない。覚えがない。いつの間にこんなものが?


 振り向けば兵が追ってくる。焦るあまりに一歩、だがやはり。

「ぐああああッ!」

 締め付けるような激痛が、彼の両膝を地につけた。


 意識が薄らぐ。目の前が暗くなって。口元にわずかに泡を吹いてぐるりと目を剥き、そのまま砂地に倒れ伏したのだ。遠くより「キアッ! キアアッ!」と犬の声が聞こえる。

 槍の穂先で丸く囲まれ地にうつ伏せの青年が、かすかに痙攣していた。素早く数人の兵たちが後ろ手に縛り上げる様を。


 崖の上から犀が見ていた。

 腕組みは解いてない。感慨もなく呟く。


「なんだって逃げられるなんて、思ってんだろうな」





 大きく広がる洞穴は、その横壁の所々に見える石組と巨大な柱が規則正しく自然の横穴を支えるかのように続いている。ちょっとした広間ほどもある穴はずっと奥まで続き、ごおごおと音を響かせる数機の搬送車に乗せられた獣の兵隊が行き来していた。


 エメラネウス獣王軍の本拠地は、巨大で入り組んだ迷路のような地下遺跡であった。洞内の通りには薄鎧の軽装に身を包む兵士もいれば、うなだれて歩くぼろを着た獣たちもいる。

 小汚い格好はほとんどが力のなさそうな女子供、そして老人であった。道の壁には焼けた電灯のようなぼんやりとした明かりが、天井にずうっと続いていた。


 その迷宮のどこかの一室は、他よりやや広めで古びた机と数脚の椅子があって。一応は書斎のような態はしているが、それでも壁はやはり荒く彫り込んだだけの岩肌が寒々しく露出している。

 頼りない灯りの下で机の上に置かれた数枚の紙を、座る獅子がぱらぱらと興味もなさげにめくる傍から、犀が言うのだ。部屋には馬と象も立っている。


「試合は十二人。勝ちが四、負けが四、相打ちが二。ですかな」


「数が合わねえな」

「不戦勝が一人なので」

「不戦勝? 相手がいかれちまったか?」


「いえ、脱走です」


 紙をめくる指が止まる。全員が犀を見る。


契印シールはどうした」

「もちろん発しました。櫓を抜けた途端、白目剥いてひっくり返っちまいましたね」

「死んだのか?」


「息はあります。さすがに運は強いですな。そいつです」


 腕を組んだままの犀が顎で指す紙を、獅子が見る。


「男か、まだ若えな。種族は……山岳猫リンクス。珍しいんじゃねえのか。このままディーのじじいに預けたらどうだ」

「しめしがつかない、ヴァン。脱走も試合放棄と同じくゲーティア行きの決まりだ。——それに身体能力が高くても魔導の数値が悪い」


 声を出した漆黒の馬も机の横から紙を見下ろしている。獅子が顔の傷跡を掻く。


「魔力の高なんざ、ディーがなんとか引き出すんじゃねえのか? せっかく久しぶりに〝本当のくじ〟を引くだけの野郎だ。脱走なんざ、てめえ以来じゃねえか」

「一緒にするなヴァン。俺が引いたくじは脱走じゃない。反乱だ」


 馬が不機嫌に言う横で、かすかに象の仮面が頷いている。獅子が呆れたように笑った。


「負けたんならどっちだって同じだろ」

「違う。まあいい。ゲーティアの検体所ラボで調べるだけ調べさせればいいじゃないか。何も出てこないなら、そのまま返して貰えばいい」


山岳猫リンクスより使えるのが出てくる可能性があるか?」


 その言葉に反応したのか。象がぬうっと机によって、右手の人差し指を紙の横に出す。全員が反応して覗き込んだ。

 象の太い指が机の表面をさらさらとなぞるように動けば、その軌跡に沿って。魔力の白い線が奇妙な楔形の文字を刻むのだ。獅子が目を凝らして。


「……旋風豹パンサー?」


 獅子が仮面を見る。

「こいつの中に、旋風豹パンサーが眠ってるってのか? モーガン」


 象が、また頷いた。




 一通りの報告が終わったのち、犀と馬は部屋から去っていった。結局、キアという名の山岳猫は馬の提案通り、一旦は北ファガンの都市ゲーティアにある秘密検体所にて検査することで話は落ち着いた。


 今日の試合で搬出車トレーラー一台ほどは獣が溜まったはずである。遅くには南行きの便を出すことになるだろう。馬のブルーディは護衛のために同乗するはずだ。


 部屋でヴァン=セルトラが呟く。

「手駒が足らねえな」


 壁際にはモーガンだけが何も言わずに立っている。ぎしりと椅子に背を預ける獅子が、ちらとその巨体を見て。


「メイネマの姉弟は残念だったな」


 象は何も言わない。また獅子が考え込む。部屋で一人考える時、よくこの部屋にはモーガンだけが残る。強烈な肉体と魔導を持ちながら言葉を失いまったく詠唱のできないこの怪物が、もし呪文を発することができたなら、どれほどの戦力になっていたのだろうか。


「うまくいかねえもんだ」


 薄暗い部屋なので頼りない灯りでも眩しい。獅子が目を細める。


 筆談でモーガンが伝えた内容はにわかに信じがたいものだった。移動距離にして数日はかかるはずの首都リオネポリス、ウルファンド間を、しかし無限機動ウォーダーはいかなる手段を使ったのか援軍として駆けつけたらしいのだ。

 

 しかも。連中は幻界の術まで扱うらしい。

 仲間には幾人かの魔導師もいる。


 虎も着々と力をつけているのだ。


「——あんな馬鹿みてえに殺し合う根性なしの中じゃあ、メイネマには期待してたんだ俺は。まさか死んだ姉貴が霊化するなんてのは思ってなかったんだ」


 独り言のように獅子が呟く。象が言葉を発しないのが気が楽で、いつも部屋に残しているのだ。


「弟の方も、死んじまったか」


 獅子が思う。


 元々、目の前に置いてあるくじを言われるままに素直に引いて殺し合う連中など、最初からヴァンは関心がない。そんな連中は最初っから人生のくじを引くことを放棄しているようなものだ。


 だがあの二人は違った。双子だった。双子で殺し合い、弟が姉を刺した。姉は霊化し、弟も爆発的に火星イグニスが伸びたとディーから報告があったのだ。


 だから間違いない。憎悪だ。この狂った世界で生き残るには、怒りと憎悪が最高の糧になるはずなのだ。あいつが姉を殺した時の悲痛な叫びが、ヴァンの耳にも残っている。


——こっちを向けセルトラアアアッ!——


「少しは気合の入った奴だったがなあ」


 済んだことは、済んだことだ。書き換えることなどできない。今の獣王軍が書き換えることができるのは。


「もっと駒が要る。あの若造に何か眠ってりゃいいなモーガン」


 象は黙って聞いているのみだ。

 ヴァン=セルトラが視線をやって。


「いい加減、書き換えは俺らでできるようにしねえとな。いけ好かねえファガンの連中との取り引きもうんざりだ。なんとかゲーティアの検体所ラボから〝天秤アール〟を奪えねえか?」


 答えない象は。だが。わずかに首を傾げて。

 そして部屋を出て行ったのだ。


 背を見る獅子が、少し笑った。



◆◇◆

 

 

 山脈エメラネウスから大陸を越えて遠く西の果て、西海洋ダクステ海峡のまだ向こうに浮かぶ巨大な島国がムストーニア国である。


 今は深夜で空に大きな月が叢雲むらくもを染めている。島の東から海峡を望む軍港ゲーリンガルトに停泊する二機の無限機動ベスビオは、その広い曲面ののっぺりとした甲板から立ち上がる船橋ブリッジと通信塔だけが灯台のように四方に光を飛ばしていた。


 港は陸部がアルターの工業港に似て、しかも一層に洗練されていた。尖塔のごとく立ち並んで陸地を埋める金属質の建造物は、いくつかが施設でいくつかは排気棟なのだろうか、頂上から細い蒸気が夜の空にたなびいている。外部に露出して張り巡らされたパイプも細い。

 湾岸には濃い青色の魔力が満たされている。十分に精錬された人体に安全な魔力が贅沢に陸地の港湾、全エリアを埋め尽くしていた。


 機体の横っ腹にいくつも開いた搬入口より、この時間もコンテナを積んだ搬送車キャリアが行き来している。深夜の作業を照らす照明灯機スポッターが放つ光が魔力の青を反射して、陸地の方がむしろ青く輝いている。


 対して海の輝きは白い。月が反射しているからだ。ベスビオの甲板から望む海は海峡と言えども相当な距離なので、対岸が見えない。


 その甲板の一箇所に小さな灯りが浮いていた。


 灯りは文字通りふわふわと浮いていた。大柄なシルエットの差し出す右手のひらの上で、声を発していた。幻界通信クロムコールである。声は若い女の声であった。


『クオタスは焼け野原だね、あいつら何やってんのか全然わかんない。獣も人も関係なしに街を襲ってはさらってるみたいだしさ。何に使うのか知らないけど』


「——まあ、狂獣軍の動向には関心はあるが、我々の目的ではない。まだネブラザも抜けてないのか? どの方角から向かってるんだ?」


 答える男は黒騎士であった。だがグートマンではない。その顔を覆う黒曜の石は鼻のあたりまでで、口元と顎の髭は露出している。


「山脈越えこそ、お前の本領発揮だろうが」


 光から呆れたような声が聞こえる。

『いやだよ。この姿、セルトラの兵隊に見られたらどうすんの』


「隠れて走るのはお前の自由だが遅いのは困る。エメラネウスを迂回するならシュテまではまだまだ遠いぞ」

『今だって走りながらだよ。お腹すいた。ほんっと勘弁してって。また連絡する』


 それだけ言って声が切れた。

 少し手に浮いた光を見たまま、やがて黒騎士がばっ。と掌を握ってかき消す。と。後ろから声が聞こえた。


「あんなわけのわからない小娘に頼るより、普通にあんたが無限機動ハンマーあたりで乗りつけた方が早かったんじゃないのか」


 振り向けばそこにも黒騎士がいた。こちらは細身だ。フードから溢れるさらさらとした銀の長髪に、同じく口元だけが見える黒曜の石は風防にも見える。


 髭の黒騎士が口の端を上げて。


「聖域と戦争でもするつもりか?」

「人ひとり探し出すのに戦争でもないだろう」


「フーコー。あまり聖域シュテを刺激するな。あれはあれで仕事をやってもらわないと困る。ファガンの気狂きぐるい共が竜脈に何をしだすかわからん。それに、あの国へそう簡単に潜入できると思わないほうがいい。俺も、お前もだ。カーベリラに任せておくんだな」


 細身の方がかすかに肩を竦める。


「物知りだな」

「当たり前だ、この頭の中に何人、入っていたと思ってるんだ——あれは、なぜこの時間に?」


 訝しげに陸を見る髭の黒騎士に、もう一人も振り向く。陸から浮遊して飛んできたのは小型輸送艇ビークルだ。ヘッドライトで闇を照らしながら、ベスビオの搬入口ではなく明らかにこちら、甲板に向かってくる。二人は歩き出した。


 夜の闇を破るような基底盤の緑光が真っ暗で滑らかなベスビオの甲板へ鮮やかに広がり、ホバリングする機体が九十度旋回して船体まで高度を下げて。

 ごうん。と頑強な左舷扉が両開きで開いていく。


 その奥に立つのは、まさしく黒騎士だ。

 暗黒の外套、暗黒の鎧、そして闇のような顔面。なにひとつ映り込まない黒曜の宝石が牙を持つ兜に包まれて。


 グートマンが降り立つ。

 二人の黒騎士が、かすかに会釈をした。


 その声は、どこより響いてくるのかわからない。


「明日の 出立は夕暮れか」


 髭の黒騎士が答える。


「はい。本島北部より最終の千五百名ほどが到着します。此度の徴集は八千五百五十八名となりました。ベスビオ二機、ハンマー一機に分乗、それとムストーニア南部委員会より貨物機動トランパー四機を調達しております。クラブハウス社の助力あってのことです、ありがとうございます」


「魔石との交換だ 礼には及ばない」

「はい。逆に先日のファガンとの交戦の折に侵入したエストマは不調と連絡が入っております。良くて百や二百止まりかと——この時間に、なにかございましたか? 卿」


 ふと。髭の騎士が質問する。報告を聞いているのかいないのか、グートマンは二人ではなく遠方、やや南西寄りの港湾はるかに立つ尖塔群へ顔を向けていたからだ。その横顔のまま質問が続く。


「オームは どこを飛んでいるか」

「二十隊ですか? おそらく特命の十九隊と共に、エメラネウスの西方を訓練飛行中かと思われますが」 


 答える顎髭も細身の黒騎士も、やや訝しげにする。オームとは辺境第二十隊の実験機で、その詳細は部下の黒騎士二人も知らされていない。だが。


 意外な命令が下りたのだ。


「オームにて 蛇を探せ」


 その言葉に、銀髪の黒騎士がかすかに気配を変えた。

 グートマンの声が続く。


「この私が 幻界からの侵襲を受けるとは

 忌まわしきことだ

 災いがくる

 呪われた蛇が 連れてくるのだ

 探さねばならない」


「卿が? 幻界より侵襲を? 直接ですか?」


「違う 他の過去より汚染を受けた

 あの時だ フーコー」


「私が……いつのことです?」


契命イグノラムにて お前を

 器より引き剥がした時だ」


 海よりかすかに風が吹く。

 暗き細身の身体より、銀髪が舞う。


「私は、……なにも知りません」


「お前ではない お前は何も変わらない

 あの場に居たのは あとひとり」


「——イース。イースの過去から卿に?」


 黒騎士グートマンが二人の部下に宣言する。


「聞け まだらの銀の猫を追え

 それは そういう姿をしていた


 それは 魂の紡ぎを持たない

 幻界よりあらわれ そこにいた


 裏切り者が呼んだのだ

 裏切り者ノエルの呪いが成就する

 まだらの銀の猫こそ 楽園を穢し

 無垢なる魂を 磔にする者だ」


 夜に響く。二人はじっと聞いている。


「クレアの降臨こそ

 私への抑止と見ていたのだ

 だが それすら罠であった

 千年の昔より あの忌まわしき悪の導師は

 血にまみれた 獣の手を伸ばしていたのだ

 

 この世の魂を 護らねばならない


 カーベリラを急がせよ

 シュテの務めを終えたのちは

 同じく蛇へと向かわせよ」


 髭の黒騎士が、一言だけ返した。


「生死は問わないと仰いますか、卿」


「どちらでもよい

 生きていれば 私の前に連れてこい」


 グートマンの外套が翻る。ふたたび機体へ戻るその背に、二人の黒騎士がこうべを垂れたのだ。



 ベスビオの甲板に降りていた小型輸送艇ビークルが、またゆっくりと浮上して。向きを変え陸へと戻っていく様を、遥か遠くから。

 夜の闇にほっそりと立ついくつもの鉄線塔の上、およそ人も登らぬであろう避雷針ほどの尖端に小さく組まれた足場より。


 首の後ろで亜麻色の長い髪を括った、少年が見ていた。

 着ている法衣は魔導師のそれで、しかし動きやすさを考えてのことか、腰紐で腹回りを縛ってある。


 飛び去る輸送艇を見る彼の視線が、また海に浮かぶ無限機動へと移る。そこに居たはずの二人の黒騎士も、もういない。


 かすかに夜の海風が吹いて、その少年の姿も闇へと消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る