第百三十四話 時の織物
アキラがうなじを掻きながら呟く。釘を刺すのだ。
「言っとくけど」
=うん?=
「俺、物理とか苦手だからね」
=かまわない。タイムマシンはわかるな。ああいう技術があったとして、おまえは未来とか過去とか自由に行けたりすると思うか?=
「今の話の流れだと、行けないんだよね? きっと」
=その通りだ。人は未来にも過去にも行けない。タイムマシンは作れない。未来と過去で、理由はそれぞれ別のものだ。——未来に行けない理由は簡単だ。今この世界が、事象の先端だからだ=
「ああ。やっぱそうなんだ。夢がないなあ。未来人とかいないんだ」
=いないな。もし現実に現れるとしたら、まさに異世界、並行世界からの訪問者になるだろう。彼らは私たちと事象に繋がりがないから、タイムパラドックスは起こせない。ここまでは、わかるな?=
「あれ? いや、でもさ」
アキラが気づく。話が、おかしい。
「お前さっきさ、俺が艦長の過去に入り込んだって言わなかったっけ?」
=言ったな=
「いや。だったら行けるんじゃん、過去には」
=いや、行けない=
「ええ?」
=おまえが入り込んだのは虎の過去だ。だが人間が過去に行くには、すべての過去に干渉しなくてはいけない。それは不可能なことなのだ=
「艦長の過去と? すべての過去?」
=そうだ、つまり——=
「ちょっと待って。考える」
アキラが止める。石のベンチに座り込んだまま、じっと考える。
展望の中庭より見降ろすウルファンドの街はしんとして、災いの後でぱらぱらと、月昼期の祭りよりずいぶんと、そのともしびは減っているのが悲しい。ごおごおと落ちる遠くの
再び言うのだ。
「……ひょっとして、生命の数だけ、過去がある?」
=そうだ=
「同じ場所にいた生命が、その時の過去を共有している?」
=そう、いや少し違う=
「じゃあ、重ね合わせている?」
=アニメーションのセル画のように重なっている。すべての生命が同じ出来事を個別に所有して、魂に保管しているのだ。なんだ。理解できるじゃないか=
「えっと。ひょっとしてこれのことが」
=
「ああ……やっとなんか、わかってきた。スワンプマンのこと」
=人間には脳に記憶があり、魂に過去がある。だから事実上、記憶がふたつあるように見えるのだ。脳の記憶は断片的だ。おまえは論理脳で過去の出来事を記憶して、感覚脳でも覚えていることがあるだろう?=
「論理脳って、名前とか住所とか。文字とか数字?」
=その通りだ=
「感覚脳は、風景とか、そういうこと?」
=そうだ。すべておまえの脳が選択的に覚えている記憶だ。だが魂は違う。過去そのものを持っていて、時に一瞬で、人間をその場所に引き戻す。きっかけは視覚だったり匂いだったり、何らかの刺激がトリガーになって、遠い昔に連れ戻されるのだ=
「ああ。なんかあるね、そういうの。学生の頃とかに気持ちが戻ったり」
=スワンプマンにはそれがない。だから記憶以上の過去を辿ることができない。お前の魂はそれをまるまる持っているのだ。生まれた時からすべての人生を、世界ごと収納している。全宇宙すべてをだ=
「は? いや、俺の中に? 全宇宙が? それはさすがにさ」
=おまえの宇宙など
「ええ……」
=おまえの人生にとって、太陽は空をぐるぐる回ってる直径数センチほどの、光と熱のかたまりだ。それ以上の意味は持たない。だから魂に収めるのは難しくない。海外だって地図以上のことは経験がないだろう? むしろ身近な過去の方が解像度が高い分、過去が重たいのだ。それでなアキラ=
「うん?」
=おまえに謝るもうひとつのことが、あるのだ=
境内は静かだが、宿坊の方からは時折獣たちの談笑の声が、かすかに聞こえてくる。もうそれだけこの街も、戦いの傷も癒えてきたのだろう。悪いことではない。
沈黙してしまった声の言わんとしていることに思いを馳せるアキラの、首筋にわずかに。冷たいものが流れる。
「ひょっとして。……俺の過去を消した?」
=正確に言うと、ふるいにかけた。すべては持ってこれなかったからだ=
アキラが。口元を拭く。
「いや。えっと……命を救ってもらったんだから、それはしょうがないと思うよ……」
=そう言ってもらうと助かる=
「それで。たとえばどんな……」
=飯だ=
「はえ?」
=日常の昼飯や夕飯だ。おまえが何を食べたかの過去はいくつか消し飛んで——=
「あ。ああ。いや。それいらない」
アキラが手を振る。
=そうか?=
「いらないよなんだよそれ。なんだよ。びっくりするじゃんかよ。どうせ駅のコンビニ弁当だって」
=そんなにすらすら確定できるのも悲しいな。もっと野菜を食べるべきだ=
「ほっといて。そこはほっといて。つらいから。で、なに? 食べなかったことになるわけ? 過去が消えると」
=いや不確定になる。食べたことは間違いないその弁当がからあげだったのか何だったのか量子的な重ね合わせの——=
「いやほんっとどれでもいいから。問題ないから。あ。ガード下のカレーも消しちゃったの?」
=いや、カレー屋は消してない。覚えていると言うことは消えてない証拠だ。過去は記憶に優先するのだ=
「それならいいや。他には?」
=髭剃りの場所は消した=
「いらない。それきっと風呂場だし。覚えてなくても風呂場だし。あったりなかったりするの? よくあるからそういうの。てかそんなのばっかし?」
=基本的には、現在のおまえに大きく影響が及んでいない波動を持つ過去を選択して消した。アーダン要塞の最初の夜だ、覚えているか?
「ああ、
アキラが座りながら体を揺すって舟を漕ぐ。夜風が涼しい。
=似たようなものだな。ただ過去そのものが消えているから、感覚も消えている。色とか、匂いとか、音も質感もだ=
「質感……バイクの感覚は残ってるよ」
=それは消してない。女性の質感だな=
揺れる体が止まった。こめかみに指を当てて。
「え?」
=別れた相手だから消しても構わないだろ?=
さらに体が屈む。こめかみの指に力が入る。
「え? え? 知らない」
=だから消したと言ってるじゃないか=
「俺、彼女がいたの?」
=いた。おまえが仕事にかまけているから振られたのだ=
「うぐっ。いや、あの、それって」
だが。ぼんやりと。
「その子って、なんか大きな病院とかに勤めてなかった?」
あの時だ。首都リオネポリスの療養院に到着した時。不思議な感覚を覚えた。あれは確かに、女性の記憶のような。
=私が消していない他の過去に、その女性が絡んでいる可能性がある。そういう場合に記憶の方も揺らぐのだ。レイヤーのようにおまえとその女性との関わりが、あったりなかったりする。あとは向こうの記憶と魂のありかた次第だな=
「向こうも消えてる可能性がある?」
=完全には消えないんじゃないか?=
「どうして?」
=二度ほど
「いやそれ消しちゃダメなやつじゃん!」
「アキラッ!」「ぎゃあ!」
心臓が飛び上がるほどびっくりしてアキラが振り向けばレオンがいた。赤毛の少年もまた大声に驚いて胸を押さえている。
「アキラびっくりするじゃないか!」
「あ。ああ。レオンどしたのこんな夜中に」
驚いたレオンはしかしすぐに機嫌が良くなって。ひょいと石のベンチをまたがってアキラの横に座る。足をぱたつかせて。
「へっへー。なんか面白い話をしてたから聞きに来た」
「え。いやそんな子供が聞くような話じゃ」
慌てるアキラにレオンが不思議そうな顔をする。
「うん? だって
引き攣る少年の顔に。逆にアキラが眉を寄せて。
その背中から。
「ほんとにね」
今度こそどおっと冷や汗が出るほど背筋が伸びる。
アキラがゆっくりと振り向けば。
「——なんで世界が変わるかどうかの瀬戸際に別れた女の話とかしているの」
揺れる法衣に杖を握ったソフィアの澄んだ緑の瞳が、だが半目に閉じてアキラを見据えているのだ。
「あ、あ、こんばんはソフィアちゃん」
「しかも未練がましい」
「いやっそんなことないんだって!」
=出たな地獄耳め。おまえたちクレセントは頭の周波数を変えたらどうだ=
レオンとは違ってとことこと長いベンチをソフィアが回り込みながら。
「そんな器用なことはできない。御愁傷様。そして私は元クレセント。今は人間の女子」
アキラの横に立って。
「だから足りない部分は、どうしてもレオンの助けがいる。詰めて」
「へ?」「そっちに詰めて」
アキラの横にはすっごく空きがあるにも関わらず、ソフィアが言うなりベンチに腰かけてきた。
ぎゅっと体がぶつかるのでアキラが「おおっ?」とずれれば反対側のレオンが「むぎゅ」と押される。
広いはずのベンチに、両側から二人の子供にぺったりと張り付かれたようにアキラが挟まれる。思わず声をかけるが。
「あ、あのね」
「なあに?」
「ソフィア狭い。もっとあっち行けっ」
「あなたが詰めてレオン」「はあっ?」
身体越しに言い合う二人に目を向ける。
「二人って、知り合いなの?」
「え。うん、まあ、そおかなあ」
「クレセントはお互いのことは知ってる。声で話したこともある。でもこうやって会うのは、この街が初めて。ねえレオン。はじめまして」
「もうたくさん殴ったくせに……」
ひょん、と気もなくソフィアがレオンに頭を下げて、そしてアキラの顔をじっと見上げて言う。
「そんなのどうでもいい。話を聞きにきたの。続けて」
「あ、えと、君も?」
「そう。頭の中のヒトに言ってるの」
=ヒトではないんだがな=
アキラを見つめるソフィアの瞳が、少し大人びて。
「それもどうでもいい。話、続けて。大事なことだから。そうでしょレオン」
視線が強い。ふくれていたレオンが急におとなしい顔で「う、うん、そうだ」とだけ言うので。ちょっと髪を掻いたアキラが、普通に声を出して続けた。
「じゃ、じゃあその彼女って……いたっ。」
かんっ。と小気味良い音がアキラの後頭部で鳴る。
思わず頭を抱えて。
「な、殴った? 杖で?」
「な。な。すぐ殴るんだぞこいつっ」
「そこはもういいから飛ばして。あともう少しでしょ頭の中のアナタ」
=まあ、そうだな。——アキラ。今夜私がこれを話そうと思った理由、覚えているな? おまえを危険に晒しそうに思ったからだ=
「う、うん。それで?」
=あのキジトラでも強い過去にぶつかった時に気を失うとは正直驚いた。おまえもそうだ。敵の白猫の過去に触れた時、おまえは完全に心を持って行かれてただろう?=
「まあ……そうだね、そりゃあ、あんなもの見せられたら。それにあまりにもリアルだったし……ああ。だから過去なのか。記憶じゃなくて。本当にその場にいるみたいだった、俺」
=そうだ。あの時我々は戦闘中だったのだぞ。だからおまえは知っておかなければいけないと思ったのだ。今後も酷い過去を見る可能性がある。元々が一般人のおまえには耐え切れないほど凄惨な過去を体験するかも知れない。だがあれは過去なのだ。終わったことなのだ。決して心を囚われてはいけない。囚われるなと、私は言った。覚えているな=
アキラが頷く。細かく何度も。
=そしてもうひとつ。こちらの方が重要だ。おまえ。声をあげるな=
「へ?」
=幸運だったのだぞ。なぜかわからないが、あの獅子の怪物はおまえの叫びには反応しなかった。だが聞こえていたはずだ。崖の上のあいつがもし振り向いていたら——=
「え……襲われた?」
=襲われたな。そこにおまえはいるのだから=
さすがにアキラも事の重大さに。声のトーンが重くなって。
「わかった。うん。了解」
=では、これで終わりだ。私は言うことは言った=
夜の闇が深まる中で。宿坊の窓はぼちぼちと談笑も止んで灯りが消えている。みな寝床につく時間なのだ。
やや沈黙があって。話すのはソフィアだ。
「幻界は。何でできていると思う?」
アキラが答えた。
「時間と……魂かな」
「そう。時で紡がれた世界。そしてすべての魂は糸。さまざまな過去の色に染まった長いながい糸。その糸が織られて世界がある。この世界は魂でできた織物なの。でもほどけばやっぱり、糸は全部別々の糸。それをあなたたちは〝個別世界〟と呼んでいるのね」
=そういうことになるな=
「ひとつ、私からも教えてあげる。この前の復活を手伝ってくれた、お返し」
少女がアキラを見つめる瞳は、この暗い境内の展望場にあってうっすらと緑に光っているようで。
「あなたの声が言ったように、世界には〝未来〟は、まだないの。現在が事象の先端。でも世界には、未来を〝予知〟できるものがいる。私たちクレセントもそう。なぜだかわかる? なぜありもしない未来が見えるのか」
アキラが「いや」とだけ言って首を振った。
「過去に行くには〝すべての過去〟に触れないと無理。同じように、未来を知るにはすべての生命の〝個別世界〟を知っていなければ無理なの。そして、それをひとかたまりで映すことができるのが、幻界。だから幻界を見たり、幻界に行けたりすることができる者は、時の織物の模様が見える。地上を空から見るように、知らないはずの、関係ないはずの、すべての個別世界が今、何を織っているのかが見える。そして今から何が織られようとしているのかも、気づくことができる。ただ……」
「ただ?」
「時の織物は、読み解くのが難しい。見たままのことが起こるとは限らない」
ああ、とアキラが思い出す。
あれはアイルターク国境で。
——幻界は、鏡だ。艦長。
ノーマ。ロイ。幻界でトリの飛んできた方角、覚えてるか?
ちょっと待って、覚えてるけど。そんなことって、ある?——
ソフィアの声が続く。
「同じような意味を持つことが、幻界には映る。それは〝しるし〟。時の糸を通じて、こちらの世界にも降りてくる。誰にでも降りてくる。未来は何が起こるかはわからない。だって未来はまだないのだから。でも何が起ころうとしているのかはわかる。時の流れが、それを教えてくれる。あなたにも〝しるし〟は、あったはず」
「俺に?」
「そう。あなたの時の流れで、大きな〝しるし〟を受けた日が、なかった?」
それは。まさにあの日だ。アランを復活させたあの夜。
あの日は、本当になんて一日だったのだろうか。
「あるよ。ついこのあいだ。この街が襲われた日。首都で俺、敵を殺した。生まれて初めてだった。人も救った。幻界で蟲を斃した。あれが死者の成れの果てであることも、あの日に知った。そして君たちに出会った、ここで。復活の意味も知った」
言いながらアキラが、だんだんと可笑しくなって。
「なんて日だろうね」
「そうね」
少女も笑う。この子は、笑う時は本当に大人びて見える。
「——それだけのことを一日で〝しるし〟に受けた人なんて、私は知らないかも。その一日が、これからあなたに〝起こるであろう未来〟がすべて
ソフィアがレオンに視線をやって。
「鳴る? 鳴らない?」
アキラは「え?」と子供ら二人を見比べて。言われたレオンはいつものアキラに似て、こめかみに指を当てながら。
「——鳴らない。なにも警報は聞こえない」
「間違いないのね?」
「うん」
「じゃあ、どうするのレオン。あなたが決めて」
二人の言ってることがわからない。が。見た目にもわかるのは、そう言われたレオンの緊張がぴりぴりと空気を痺れさせるほどで。確かに。震えているのだ。震えたまま言葉も発しない。ソフィアが続ける。
「この人だと思ったんでしょ? だから一緒に旅を続けてきたんでしょ? あなたが獣たちの乗る蛇に、この人を誘ったんじゃないの? 違うの?」
ただ頷くだけのレオンが、しかし。
「お、俺、その……」
「私はどちらでもいい。あなたが見送るなら、それでも。ここは紡ぎの果て。この滝の街が紡ぎの果て。旅の終わり。そして始まり」
「俺。こわい。怖いよソフィア」
「だったらやめる? あなたが決めて。この数日。ずっと話してきた。あなたは最後まで、この人がそうだと言った。そうに違いないと。間違いなの?」
「間違いじゃない」
「じゃあ、言って」
両側の子供たちを交互に見るアキラは状況がわからない。
「あの。レオン?」
だがそれを遮るように言ったのは少女の方だ。
「あなたは階梯に達した」
「階梯?」
「あなたは聞かなければいけない。——レオン。言って」
ソフィアからの強い視線をそのままに青年の顔を見上げ返すレオンの、いつもと違ってほんのかすかに潤んだ瞳は哀願の様相で、だから。
「なにか言いたいことがあるの? レオン」
そう尋ねたのだ。
言われたレオンは視線を伏せて、しかし改めて。
ぐっと見つめる二度目は強い瞳で。
「あのなアキラ。誰にも言っちゃ、だめだぞ」
頷くアキラに、さらに。
「ログにも言っちゃだめだぞ」
それには少し反応する。
「ログさんにも? 内緒?」
「うん。絶対内緒なんだ」
「わかった。なにを言いたいの?」
星降る夜にレオンの声が響く。
「この世界を救ってくれないか、アキラ」
◆
満天の星の下、いつもの崖の草っ原でシェイが膝をついて崩折れたのだ。
「嘘でしょ……レオンあなた」
僧竜イスラが異変に気づく。声をかけると同時に駆け寄った。
「どうしたシェイ」
「依頼が為されたの」
少女を起こそうとする竜の手が止まる。
「本当か? 誰が?」
「レオン」
「相手は?」
「わからない。本当なの? 本当なのレオン本当にその人なの?」
震える少女を、改めて竜が引き起こして。
「夜が明けたら寺院に登ろう。源流に行く。老師に報告せねばならん」
イスラの言葉に、シェイは長い髪を揺らして頷くばかりだ。
◆
「どうした院長?」
隊長が声をかける。孤児院の院長室で話を聞いていたアルトムンドが、まるで心を消したように窓の外を見たまま、しばし固まってしまったからだ。
だが、やがて振り返り、いつものように落ち着いた声で返す。
「いえ。なんでもありません。——じゃあ気持ちは決まっているんだねガリック」
隊長の横に立つ庭番が、銀髪を揺らして頷いた。
ソファーでは青年ヤンが少し涙目で、そしてハンナは完全に嗚咽していた。
南インダストリア工業地帯での戦闘より戻ってきたガリックは、少し雰囲気が変わっていた。つっかえるような言葉がなくなり、ある程度文脈も話せるようになった彼が言ったのは、この正体不明の隊長とともに、しばらく孤児院を留守にしたいという申し出だったのだ。
「やだ、ガリック。せっかく、せっかく話せるようになったのに……」
「ご、ごめんハンナ。お、俺は、行かなければ。どうあっても行かなければいけない」
まだたどたどしく、だが申し訳なさそうにハンナに言う庭番へ、アルトが振り向いて。
「許可は出しましたが少し気が変わりました」
そう言うアルトを隊長が訝しげに見る。
踵を返した彼が棚へ手をやり、ふわりと開き戸を光らせて。ぎいと開けてみせたからだ。中には大小さまざまな、使い方もわからないような珍しい魔導器が並んでいる。
「必要なものを必要なだけ。持っていきなさいガリック」
髪に隠れた目を丸くする庭番と、そして答えたのは隊長だ。
「いいのか?」
「はい。お二人の旅には、きっとその価値があります。子供たちが泣くから今夜のうちに会わずに出立を。あとは僕が収めておきます」
アルトムンドの笑顔は寂しげで。ただ決意があった。
◆
遠い滝の水音の中、少年の頼みは。
はっきりと聞こえた。それはあまりに突拍子もなく、しかし。レオンの言葉に目を見開いたアキラは、自らも不思議なほど落ち着いた声のままで。
「この世界を? どうして?」
「わからない」
「この世界になにが起こるの?」
「わからないんだ」
レオンの赤毛が横に揺れる。アキラは重ねて訊く。
「——どうやって、救えばいいの?」
「ごめん。それも、わからない」
さらにふるふると少年が赤毛を振った。
「おれ、おれは、なんにも知らなくて。それでも〝導かないと〟いけなくって」
見かねたのかどうなのか、反対側からソフィアが助ける。
「私たちクレセントには使命がある。秘密を話せる階梯に達した人間に、世界の救出を依頼しないといけない。でも、その内容は私たちも、なにひとつ知らないの」
「……なんだかずいぶんな無茶振りだね」
「それは死んだノエルに言って」
「ノエル? あの大魔導師の?
「そう。ノエルがクレセントたちに課した使命。それを遂行しなければいけない。いけないけど……私の知る限り、この数百年で依頼されたのは、おそらくあなたが初めての人間」
=数百年? それは、おかしくないか?=
「おかしいと思う。ノエルからの使命が降りて数百年、ひょっとしたら千年以上もの間、この世には、なにも起こっていないの。なにひとつ世界を揺るがすような危機もなく、ずっと、このまま。だから私たちには、その理由がわからない。使命の意味がわからない。ただ……」
「ただ?」
「手がかりなら……ちょっと、レオン。」
「あ、あえ?」
「私がここにいて本当に良かった。でもダメ。ちゃんとあなたが言いなさい。あなたが頼んだんだから」
少女にたしなめられてレオンが一層うろたえたように。
「あ、あの、アキラ。かんてら、探そうっ」
「かんてら?」「もうっ」
軽くとんっ。と杖で地面を突いたソフィアが少し怒った風で、やはり続けるのだ。
「——ノエルの呪文、九番。それが〝
「呪文ではない?」
「そう」
「呪文でなかったら、それってなんなの?」
「アキラっ。全部、書いてあるんだ。かんてらに、書いてある。」
ソフィアを追うようにレオンもただ懸命になって答えるのだ。対して少女はあくまで静かに、もう少年を怒ることもなく言葉を続けた。
「燈火はともしび。道を照らすしるし。ずっと、そう言われてきた。私はそこに——」
緑の瞳がアキラを見つめる。
「ノエルの遺言が書かれていると、思ってるの」
滝の音が聞こえる。星降る夜の境内で。
なにも知らない異世界の青年は。
なにも知らないふたりのクレセントに。
世界を救えと頼まれた。——誰にも内緒で。
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