第百三十三話 父と娘

 艦長にとって意外ではなかった、ミネアは昔からそういう娘だ。その告白になんら表情を変えることなく夕暮れの貨物機動が影を差す空き地に佇んで、次の言葉を待っているのだ。


 むしろ慌てていたのはリリィだったかもしれない。そしてサンディも。二人とも、コンテナに腰掛けた虎と向かって立つミネアを交互に見て。


「あ、あの」


 なにか言いかけた兎の声を遮るほどでもなく。


「今ここにいる者で、俺がこれから話す中身を知っているのは、ケリー、ノーマ。そしてダニー。あと——」

「私は詳しくは知りませんな。ただ、幾らかは分かっておるつもりです」


 飛竜が手のない左腕を軽く上げた。ログが続く。

「私もロイと同じだ艦長」


「あたしはリリィやサンディと一緒だね。ほとんどわからない。あんたはどっちなんだいアキラ」

「俺ですか?」

 モニカが頷いて、アキラは少し考える。

「……おそらく、ロイさん、ログさんぐらいかもしれません」


 その答えに虎が、ミネアに視線を戻す。


「エイモス先生は知る必要はない。彼は戦う人間ではないからだ。子供たちも知らなくていいと思う」


 初めてミネアが声を発した。

「あの子たちは、おいていく?」

 だが。虎は首を振った。


「おいていかない。七人とも連れていく。連れていかなきゃ守れないからだ。手の届く場所においてかなきゃ、守れねえ。本当はな、街の子ら四人も連れていきたい。この街の獣たちもみんな、連れていきたい」


 ミネアが少し笑って。

「何万人もいるよ」


「そうだな。無理だ。だから……なあミネア。俺の言うことはきれいごとなんだ。出来もしないことを言っている。それは承知だ。それでも俺は、俺の戦いの本質は何かを〝守ること〟だと思っている。それは、どうあっても変わらない。無理だと承知でも、俺は俺に、嘘がつけない。——ずっと昔の、お前の親父も俺と同じだった。だが、ひとつの事件をきっかけに、あいつは変わっちまった。ここにいるみんなに」


 虎が静かに告げた。


「それを聞かせていいか。ミネア」


 彼女は夕暮れに頷く。表情は変わらない。


「うん。みんな家族だから」

「そうか、わかった」





 虎は、話し始めた。


 エメラネウスで蛇を見つけて間もなく、ヴァン=セルトラの群れと共闘したこと。獣狩りの組織と戦争をしたこと。ヴァンの最初の家族が敵に惨殺されたこと。殲滅戦となって最後に敵を討ち滅ぼしたこと。

 そこで殺戮をやめなかったヴァンと、今度は虎が対立し、彼らの群れをウォーダーから放逐したこと。


「——嫁さんと子供の斬り落とされた耳が送られてきたとき、あいつは混乱し、狼狽して、戦う力を失いかけた。彼らの要求を飲もうとした。結局それが裏目に出て、多くの仲間を犠牲にした。獣狩りの連中が約束なんか守るわけねえ。人質を生かしておくわけがねえからな。そこからだ。あいつが狂っちまったのは。考えて、考えて、壊れちまった。俺とは真逆に針が触れちまってな」


 アキラは、そうやって話す虎の表情を、どこかで見たような気がして。


「あいつは街を襲うようになった。戦う力のない、民間人を襲うようになった。仲間にもそれを強いるようになった。それはな、確かに恨みつらみもあったかもしらねえが、それだけじゃなかったんだ。家族を死なせて、仲間を死なせたのが、自分のこころの弱さのせいだって、あいつは思っちまってな」


 顔を上げた虎が、皆に言う。


「俺は、相手がどんな強大な敵だろうが、心が折れることはねえと思っている。勝てなけりゃ逃げればいいと思っている。俺のやりたいことは〝守り切る〟ことだからだ。でもあいつは違った。どうあっても、何をやっても勝たなきゃダメだと思うようになった。どんな相手にでも、負けたら終わりだと。勝たなきゃいけねえと。だからあいつは民間人を襲った」


「あ、あの。そこ、よくわからないです」


「リリィ。俺には、どうあっても絶対に勝てない相手がいるんだ」

「え?」


「えっ?」


 思い出した。アキラの記憶が。

 虎とふたり。首都に向かう蛇の中で、あの夜。


——なあアキラ。喧嘩や殺し合いができるかどうかが知りたいんじゃねえんだ。お前は自分より〝弱いやつ〟に手が下せるのか?——


 あの時の表情に似ているのだ。


「……ヴァン=セルトラは、赤ん坊が殺せるの?」


 ミネアの問いに、虎が言う。


「街でたくさん殺した。だから俺と決別した。決別する間際にあいつは『今の俺はお前より強くなった』と言った。今のあいつには、もう人質は効かねえ。たとえそれが自分の家族だろうと子供だろうと、容易く見殺しにできる。あいつは、そうなりたかったんだ。それを兵隊たちにも強いるようになった」


 苦しそうに、だが言葉が強くなって。


「老人を殺せるようになれと。子供を殺せるようになれと。家族を、仲間を見捨てられるようになれと。だからあいつらの兵隊は、アランみたいな子供を背中から撃つようなことが平気でできる。戦いの場で、最後に残る弱さの根っこが〝情〟から来るもので、それはすべての判断を迷わせる。できることをできなくさせる。群れを窮地に立たせる。それこそ切り捨てるべきだと。まずは、と」


 虎が言葉を切る。誰も何も言わない。

 ミネアも、声を出さない。

 しばしの沈黙が続いて、そして。


「——あいつの新しい嫁、イエナから秘密の連絡が入ったんだ。ヴァン=セルトラは、生まれた自分の娘ミネアを三歳の誕生日を迎えた時に、、と」


 サンディが、鳩尾を押さえてうずくまる。

 苦いものが込み上げてきて。草の上に「げえっ」と胃液を吐いた。


「妻でもなんでもなかった、自分は、その子を産ませるために選ばれただけの女だったと、潰れるような声で連絡が来たんだ」


 リリィとダニーが駆け寄って。

 げえげえと吐くサンディの背をリリィがさすってやる。


 震える顔を上げたサンディは、涙をいっぱいに溜めた目で。

 灰犬を睨みつけて。


「し、知ってたの? みんな。知ってんたんですか?」


 ダニーは小さく何度も頷く。

 サンディがまた「うぶ」っとうつむいて草に吐く。


「俺はおまえを奪いにエメラネウスへ飛んだ。今日より寒い、雲の多い日だった。ウォーダーでヴァンの群れに突っ込んでいった」


 虎は語るのをやめない。


「俺と、ザノアとクレアが外に出た。ケリー、ノーマ、ダニーはまだ戦うには若くてな。だからその時はテオも加勢してくれたんだ。テオは、その日にヴァンから受けた傷が元で戦士を引退して、剣を手放して辺境伯の座に収まった。そのことは俺もテオも、メグには言ってない」


 サンディの口からはもう何も出ない。

 ただ荒く呼吸を繰り返すのみだ。

 横でしゃがむリリィもまた泣きそうな顔でミネアを見上げる。


 もはや残照も薄らぐミネアの表情はうかがいづらく、ただ。

 立つ姿はそのままで。


「俺はヴァンにとどめを刺すつもりだった。だがあいつも、群れも前より強くてな。強いと言うより、戦い方がむちゃくちゃだった。仲間が死ぬことを気にしねえ群れが、ああまで狂ったように向かってくるとは思ってなかった。結局、街ひとつを火の海にして俺たちは、やっとのことでおまえを奪い取ったんだ」


 野に立つミネアのシルエットが、声を出す。


「——そのイエナさん、は?」

「裏切り者として殺された」


「ミ、ミネア」とたまらずリリィが呟くのだ。


「その時も、たくさん死んだの?」

「死んだな。俺たちも殺した」

「あたしを助けるために?」


「そうだ」

「殺すために産んだあたしを、助けようとして?」


「ミネアッ、ミネアッ!」

 リリィの声が。


「そうだ」


 もう真っ暗なミネアの顔が、牙を見せて大きく笑ったのだ。


「ばかみたいだね」


「そうだ。いつだって殺し合いは馬鹿みたいな——ミネアッ!」


 細い雉虎のその身体がゆらあっと。

 虎が駆け出す。


 藍の空から伸びた糸でも切れたかのようにミネアの全身が荒れた草っ原に音を立てて崩れて臥したのだ。

 虎が抱き上げる彼女は完全に意識を失っていた。

 アキラも駆け寄る。


 まだ地に手をついたままはっはっと荒く息をするサンディは瞳からばらばらと涙を流して。


「俺が抱える」「はい」

「艦ッ……長! ばかあッ! 艦長のバカッ! バカあッ!」


 陽の消えた夕闇に細かい涙を散らしながら大声で叫ぶリリィの怒声だけが、並ぶ貨物機動のコンテナに響いていた。





「ミネアが倒れたって、本当?」

「うん、先生は心労じゃないかって」


 宿坊は食堂だけが木の床にずらっと長机が置いてあり、今は蛇の子、街の子みんなで早めの夕食を囲んでいた。ただ食材が不足しているので今夜の献立も簡易な雑炊で、対面で並ぶ彼らも思いおもいに蓮華を口に運ぶ。


 生き返ったアランは食欲が旺盛だがなかなか食べられない。しきりにふうふうと息で冷ましながら口に入れないので。隣のトーマスが言う。


「アラン猫舌ひどくなった?」

「猫だからしょうがないじゃないか。ふうっふうっ」


 ずずっと対面のリッキーが蓮華を啜りながら。

「えー。ミネアってそんな繊細かなあ?」


 リザが呆れる。青猫黒猫を見て。

「もうほんっと、あんたたちって……」

「いや俺今の関係ないだろリザっ」


 慌てるキーンに「ふふ」とテーブル越しにパメラとルーシーが笑って。ただルーシーは隣のアランがかふっかふっと頑張って温かい飯に食らいつくのを、頬杖をついて見る目が優しい。


「よく食べるよね」

「食べてないと朝が腹が減る。もぐもぐ。僕は昼も夜も忙しい」

「夜も、って?」「内緒だ」


「最近寝汗すごいんだよアランって」

 アランの向こうからトーマスが嬉しそうに。

「僕が拭いてあげてるんだ」


「そんなキラキラして言わなくていいトーマス。君は最近僕に構いすぎだ。いやナプキンはいらない。口ぐらい自分で……テーブルに置けっ。それよりリッキー」

「俺? なんだよ?」


「僕たちは事実確認デブリーフィングをすべきだ」

「へ? でぶりー……なに?」


 聞き慣れない言葉に全員がアランを注視した。少し身を乗り出したアランが空の蓮華を宙に丸く振る。


「正直思い出したくないことばかりだけど、思い出さなきゃいけない。あの戦闘はなんだったのか、何があったのか、些細なことでも僕たちは情報を共有して、必要なら大人、なるべくウォーダーのみんなに——なんで目を潤ませてるんだトーマスっ」


「ええ……だってアラン立派で」

「いちいちめんどくさいな。君も涙目でメガネを拭くなエリオット辛気臭いっ。なんだっていいんだ、本当に小さなことだって」


「うーん。そうは言っても俺らウォーダーの中だったし。何かあったっけ?」

 見渡すリッキーに、蛇の面々が顔を見合わせて、互いに首を振って。だが。ルーシーが気付いた。

「どうしたのキーン」


「……あのさ。俺、見たんだけど」

 黒猫が真面目な顔をして、話す。


 

 こういう話にはエリオットとリンジーが反応しやすい。二人が言うのだ。

「脱げるの? 壁が? 消えたり割れるんじゃなくて?」

「うん。脱げたんだそいつの壁」

緩力フーロンみたいな感じ?」


「うん。あれって四種混合? かなあ」


 長机で顔を突き合わせた子供らがひそひそ話すのだ。


「それめっちゃ大事な情報じゃん。報告しなきゃダメだよキーン」 

「え? いや。……え? 俺しか見てないの? 敵の兵隊って、みんなそんなじゃなかった? 俺が見た、あいつだけ?」

「あいつって、どんなやつさ?」


「えっと。見たことない獣でさ。鼻が長くって」

「鼻?」「そう。鼻」


 ずいっとリンジーとトーマスが顔を突き出すので。


「いや違う。そうじゃない。犬じゃない。そういう鼻が長いじゃなくって。ぶらぶらしてて。なんて言えばいいんだろう。ほんとにさ、ぶらぶら」

「あーい」「へっ?」


 テーブルにしゅっと紙が流れてきた。シェリーの方からだ。


「そう。これ。こんなやつ。これに鉄の仮面つけててさ。後ろの丸いカラダは……これカラダかな?」

「……へったくそな絵だなあ、誰描いたのコレ」


「それは本人の名誉のために」

「アキラちゃんだよー」

「ちょ。」「わっはー」

 フランが慌てるにも構わずシェリーがバラした。


「アキラさん……そうなんだ」

「いやでもこんな感じ。うんっ。鼻がぶらぶらしててさ。耳が大きくてさ。これ耳だって、たぶん」


「え……っと」

 これって。しかし。微妙に。なんというか。顔に見えない。


 ルーシーの頬が少し赤い。ちらとテーブルのリザを見たら目が合う。リザもちょっとほっぺたが赤い。なにも言わずに指先で鼻を掻くだけで。

 軽くパメラが「ん、んっ」と咳払いしたので、三人とも目が合う。ジト目のパメラもちょっと赤い。少し口を尖らせたルーシーが細かく頷く。


「じゃあ、ちんちん仮面だねー」


 シェリーのひとことに場が沈黙して。


「ぶっ。ぶっはははは」「あはははははっ!」

「あはは。そうだ。ちんちん仮面だっ」

「どっかで見たことあると思ったんだ!」


 一気に男子が爆笑した。

 女子三人が真っ赤になってシェリーを見て。

「もう! シェリーッ!」

「うーん?」


「よしッ! 俺が会ったら言ってやる『さてはおまえがちんちん仮面かあッ!』」

「あっははははは」

「いや絶ッ対無理だって! 怖いんだってリッキー!」

「『ぬうっなぜわかったあ!』」

「『見たまんまじゃないか!』」

「あっはははははは!」

「エリオットッ! おまえらホント知らねえからなッ!」


 もうっと顔を火照らせたルーシーが、しかし男子たちの爆笑の中でひとりだけアランが真面目な顔で、紙の絵をじっと見つめているのに気付いた。


 ぱんぱん。と手を叩く音が食堂に響く。

「ほーら。あなたたち食べたら騒いでないでお風呂に入りなさーい」


 入り口から声を飛ばすのは旅館の狐女将メイルだ。彼女もまた宿坊に応援に来ているのだ。まだ笑う男子たちも「はーい」「はいっ」と席を立つ。


 ふとフランが気付いた。

「そういえばレオンってこの頃一緒にご飯、食べないよね?」

 エリオットとリンジーが笑って返す。


「あのクレセントの子につかまってるんだよね」

「ええっ。そんな仲いいの?」

「いや? どうだろ。よくぽかぽか叩かれてるし」

「杖で?」「杖で」


 まだ紙を掴んだままのアランは、シェリーに声をかけた。


「シェリー」「はーい」

「これ。僕は借りてていいかな」

「うーん? いいよお。あげるよお」


 キーンが怪訝な顔だ。

「なにすんのおまえ、その紙」

「いや。いろいろ」

 答えるアランに今度はリッキーが言うのだ。


「そんで、どうすんだよ?」

「うん?」

「そのほら、さっき言った〝でぶりー〟なんとかってやつ」

「ああ、デブリーフィング」

「そう。やるんだろみんなで」


「——It should be fine.これくらいで大丈夫かな

「へっ?」「あ」


 アランが紙で口元を隠した。青黒ふたりがきょとんとして。


「なんて言ったの?」

「いや。これくらいで。あの。キーン報告するんだ。ちゃんと」

「え。わ、わかってるって」


 戸惑う二人をそのままに、アランが鼻先に紙をあてる。考える。そうだ。アキラさんに聞こう。アキラさんならきっと知っているかもしれない。


 この紙のことも。言葉のことも。

 僕が眠った時に見る、あの〝まぼろし〟のことも。





 かりかりと手に持つ板挟みの上に鉛筆を走らせながらも、カーナは部屋の雰囲気に戸惑っていた。


 奥のベッドに起きているサンディと横に座るリリィはいっつも元気な二人のはずなのに、今はうつむいたまま何も言わず、そして窓際の椅子に腰掛け外の夜を見る狐のノーマさんも物憂げなのだ。

 その隣に立つ狼のケリーさんも腕組みしたまま目を閉じて考え事をしているようで、総じて部屋のウォーダーの四人は一言も互いに喋らない。なにがあったのだろう? と。


 ついちらちら、目が行ってしまう。


「生地はブロックで10バイル(約10.8キログラム)が5ケース……カーナ。書いてるかい?」

「あ。はい。はい」


 グレイに言われてはっとして。また鉛筆を走らせる。別の紙の束をめくりながらモニカが笑った。


「まだ本調子じゃないんじゃないか?」

「いえっ大丈夫です。大丈夫。5ケースですよね」


 奥の四人に構わず部屋の入り口で話す神主とモニカに付き従って、荷物の内訳を紙に書いていく。雰囲気に飲まれてはいたが手は止めてはいない。


「それならいいけど。——これで、ちょっとは足しになるかいグレイ」

「ほんとに全部、降ろしちゃっていいのかい? せっかく街のみんなから餞別にもらったんだろ?」


 モニカが首を振った。


「親方もずいぶん言ってたけどね。艦長が譲らなかった。あたりまえだよね、もともと街の物資だ。こっちに乗っけてたから焼けなかったのがさいわいさ。配っても大したことないとは思うけど」

「いやあ、半日やそこらは援助になるよ。その半日が大事だ。一食でもてば第一便が来る」


 鎖骨の包帯を撫でながらグレイが続ける。


「シェトランドからの船便は出てるらしいから、対岸で積み替えて山越えは夜明けだ。明日の夕方にはなんとか到着だねえ。食いもんばっかしだけどね」

「足んないだろ、それじゃあまだ全然」


貨物機動トランパー飛ばす段取りがついてさ」

「え? 誰が運転するのさ。ブロかい?」

「ボッシュさ」「傷は?」


 神主が笑って。


「あの嬢ちゃんが一発で治しちゃったよ。魔力の節約とかで跡がしばらく残るらしいけどね。しっかりしてるよあの子は」

「……あんたもやってもらえばいいのに。やっぱり戒律の縛りかい、治癒を受けないのは」

「まあねえ。神職はいろいろ難儀だね」


 手に持つ紙から目を離したモニカも笑い返す。

「ばちあたりなこと言って」


「はっは。積み下ろしに三十人ほど連れて明日にでも飛ぶらしいね。シェトランドからイルカトミアまで——」

「えっ!」「うおっ」


 鉛筆の芯が折れた。カーナが目を見開いてグレイを見る。

 その瞳が揺れている。


「あ、あの。イルカトミアに飛ぶんですか?」

「そうだよカーナ」


 少し困った顔で神主が答えた。迂闊だった。この子の前で、その街の名前を出すとは。伏せた顔でぐっと考え込んだ火炎豹の娘は、だが決心したように顔を上げて。


「人を、探してもらえませんか」

「イルカトミアで、かね?」

「はい。ダン=イルムートンと言います。


 ぴくりと。部屋の空気がわずかに変わる。モニカもグレイもそれに気づくがカーナは堰を切ったように。


「わたしが、わたしが獣になってから離ればなれになって。あまりよく覚えてないんだけど、わたしひょっとしたら帝国の兵隊さんに怪我をさせたかもしれなくて。それで。お父さん捕まってしまったんじゃないかって」

「カーナ。わかった、カーナ」

「会えなくてもいいんです。まだ会えなくても、無事なのかどうかだけでも。小さな魔石のおろしをやってるから見つけにくいとは思うんですけど、でも」

「わかった。大丈夫だよカーナ」


 神主が娘の肩を抱いて。開き戸へと向かう。


「向こうで話をしよう。住んでた場所とか、詳しく教えてくれるかい?」

「はい。はい。あの、場所は中洲から上流の——」


 軽くモニカに目配せをした神主が娘を連れて廊下へと出ていった。

 ふううっと大きな息を吐いて、モニカが部屋を見渡す。案の定、サンディとリリィはこちらに目をやって、また視線を伏せるので。とことことベッドまで近づいたモニカがサンディの足元にばふっと座って、やがて言う。


「ま、ああいうのが普通の親子だよね」


 口元を結んでいたサンディが、呟いた。

「——ミネアさん。かわいそうです」


 見るモニカの目は優しげなまま、ちょっとベッドの上をずって行って近づいて。うつむくサンディに右手を伸ばして。

「いたっ」

 ぱちん。と。おでこを弾いた。リリィがちょっと目を丸くした。


「ミネアのどこがかわいそうなんだい。言ってみなサンディ」

「モ、モニカさん」


 窓際の二人もベッドを見る。サンディの上で四つん這いになったモニカが、おでこを両手で押さえる犬の娘を見る目は、だが怒ってはいない。

 むしろおでこを押さえたサンディが怒り顔のままだんだんと目尻に涙を溜めながら。


「だって。どうして? モニカさんだって。ノーマさんだって。わかるでしょう? 女の人が子供を産むってどんなことか。命懸けで、それでも大切で。だから、産んで、育てて。わかるでしょう? わかんないんですか? それを、それを、あり得ないです。殺すために産ませるなんて、あり得ない。違いますか?」


「そうだね。むごい話だ」

「だったら!」「サンディ」


 ぐっとモニカが顔を寄せた。そして言い切る。


「ミネアが可哀想なのは三歳までだ。いいか」


 強い瞳に。サンディの目から少し涙があふれた。


「——あたしもね。ミネアほどじゃなかったけど昔なんて大概たいがいひどいもんさ。でもね。あたしはあたしを可哀想だなんて思っちゃいない。その後があるからだ。その次があったからだ」


 開けた窓からは夜の風が吹き込んで、ただ聞いているのかわからない狐の金髪がさらりと舞っている。


「自分で生きて、旅をして。獣になって、今がある。そしてこないだ、その昔話をアキラとノーマが聞いた。でもふたりとも、変わらずあたしに接してくれた。ぶっすりと膨れっ面の裏で、あたしは……嬉しかったんだ。あんたはどうなんだい、リリィ。あの土砂降りの雨の日から、今まで、あんたはふしあわせだったかい? パメラだってそうだ。まだ左目の眼帯だって外れやしない。それでも、あたしはっ。あの子をふしあわせに育ててるつもりなんて、これっぽっちもないんだ!」


 モニカも泣いている。ついと流れるひとすじがベッドに落ちる。


「三歳が、三歳の子がね、こんな戦闘艦で暮らしてきたんだ。ずっと。みんな、どれだけ懸命にやってきたと思うんだい。一緒に暮らしてきたんだ。積み上げてきたんだよ。その先に今のミネアがあるのに、なんだって産まれの不幸だけ切り取ってあんたは泣くんだサンディ。ダメだろ? あたしらがそんなんじゃダメだろうが! 違うか?」


 夜を見るノーマの唇が震えている。

 潤んだ目をそのままに。


「可哀想なんてのはね。はたから見てるもんが言う台詞だ。あたしらは違う。仲間なんだ。家族なんだ。一緒に生きてるんだ。誓って言えるよ。ミネアは、あの子はふしあわせなんかじゃない!」


「うわ、あ、あ、ああああああああああっ」

 

 美しい金の産毛をくしゃくしゃにして。

 そんな大きく声をあげて泣くノーマを。


 初めて見たのだ。リリィも、サンディも。


「ああああ。ああ。あたしたち。あたしたち。がんばってきたよ。がんばってきたよ。でも。いえなかった。あああ」


 腕組みしたままのケリーが目を伏せる。

 ノーマはわあわあと泣き止まない。


「いえなかった。ごめんなさい。ごめんなさい。だまっててごめんなさいミネア。ごめんなさい。ああああああ。わあああああああああっ」


 頷くサンディが涙をこぼす。リリィがその頭を、そっと胸に抱えてやる。

 泣く狐の声が、夜に吸い込まれていく。





「気分はどうだ」


 個室のベッドで寝かされたミネアが瞼を開くと、虎がついていた。少し天井を見たまま何も言わず、虎の顔に視線をやって、またミネアは天井に目をやる。


「何か温かいものでも、持ってくるか?」


 ミネアが首を振る。

 しばしの沈黙が続いて。


「少し眠るか?」


 虎が腰を上げようとしたが、ベッドの端についた左手を。ぎゅっと。まるで小さな子供のように。そうだ、昔っから。上げかけた腰を、虎がまた椅子に下ろす。


「なにか、話して」

「話すったって、なにをだ」

「そのヴァンって、どんなひと」


 少し虎が困る。


「つらくないのか?」

「いい、話して」


「——どんなって、特別俺らと変わらねえ。粗野なところはあるが、普通の獣だ。なんにも違わねえ」

「産まれた自分の子を殺そうとする獣が?」


「そうだ。だから、初めは信じられなかった。今は……もっと信じられないことをやってるらしい。獣を売ってるそうだ」

「獣狩りに? 獣が獣を?」


「そうだ」

「ひどいね」


 天井を見たままのミネアが、だが虎の手を離さない。少し握り返す虎が、しかし迷っていた。言わずに、言えずに。


「何を言いたいの?」

「……わかるか」

「わかるよ。艦長の匂いは、すぐわかる」

「隠し事が下手か」「うん」


「ミネア……ヴァンは親兄弟での殺し合いを、まだ続けさせているらしい」


 ぎゅうううっと。ミネアの指が食い込んでくる。


「兵の士気を上げるために、肉親殺しをさせている。生き残ったものたちが兵隊となって、また街を襲っているんだ。ここみたいに。だから……そうか。だから、きっとウルファンドを襲ったのは、兵の補充だ」


「あたしみたいな子が、増えてる?」

「そうだ。親に、兄弟に、殺されている子が、今でもいる」


 ミネアの首がこちらを向く。虎が見返したその瞳に、いつもの強い光が戻っている。雉虎の、強気の、射抜くような。


「そんなの許せない。そんなの止めなきゃいけない」

「そうだ」

「あたしたちにしか、できない。艦長にしか」


 虎が頷く。と。

 ぶわっとシーツがひるがえって。

 起きたミネアがイースに抱きついてきた。


「あたしも行く」

「あたりまえだ。おまえがウォーダーを飛ばすんだ」


 ぎゅっと虎の肩に顔を埋めるミネアの背を、片腕で引き寄せる虎が言う。





 境内のひらけた展望の庭は、祭りの時は子供たちがここから花火を見たそうだ。確かに街は一望で、今は夜も更けてぽちぽちと眼下に小さな灯りが映る。船渠の展望台から見渡す絶景よりはおとなしく、だが崖を流れる滝と相まってこちらはこちらで美しい。


 アキラは一人だ。

 石のベンチに座って、その夜景を見つめている。


「ミネアさん、元気になればいいんだけど」


=まあ、あのキジトラがこんなことくらいで、弱ったりはしないだろう=


「またそんな。——それで、話ってなにさ」


 アキラがこめかみに軽く指を当てる。


=この前、森で話したことの続きだ。私は、おまえに謝らないといけないことが、いくつかあるのだ=


「そうなの? いくつかって、そんなあるの?」


=正確にはふたつだな。ひとつは——アキラ。私はおまえにすべてを話していない。話しても理解できないだろうと思っていたからだ。だが今日のキジトラを見て、それでは危険だと感じたのだ。おまえは自分の置かれた立場と能力を、正確に把握しておくべきだ=


「え? 俺に、なにか能力があるの」


=幻界での戦いの時、おまえは虎の過去と、あの姉弟の過去を見たはずだ。覚えているか?=


 ああ、と。アキラが思い出す。


「うん。あの剣士。あれがたぶんザノアって人だよね。クレアさんと結婚した剣士の」

=そうだ。もうひとつは?=

「あれだろ? こないだ社務所で話したじゃんか。敵の本拠地の記憶だろ?」


=やはりそういう認識なのだな=

「なにが?」


=あのふたつを、おまえ、何だと思っているのだアキラ=


「いや」とアキラが頭をかいて。

「なにって、だから艦長と敵の、過去の記憶だって」


=私は記憶とは言っていないぞ=

「え?」



 夜の中で。

 しばし考えたアキラの背中に、かすかに冷や汗が滲んで。


「いや……待って。待ってちょっと待って」


=おまえは、彼らの過去に入り込んだのだアキラ=


「いや! それだとあれじゃん。タイムパラドックスとかさ。起きるじゃんか!」


=起きない=

「へ?」


=アキラ。タイムパラドックスは起きない。世界はそういう造りには、なっていない。タイムマシンを知ってるか?=





 食堂でもぐもぐと蓮華を口に運ぶレオンは、やっとソフィアから解放されたばかりで。ログと二人でずいぶんと遅い夕食を取っていたのだ。

 が。その時。


「どうされました?」


 ログが声をかける。食べるのをやめたレオンが立ち上がったからだ。


「もういらない」

「どこへ行かれます?」

「ちょっと。もうログは寝てて」


 それだけ言うなり珍しく、杖も持たずにレオンが食堂を駆け出して行った。




 あてがわれた二人部屋のベッドに座っていたソフィアがおもむろに立ち上がったので、机で書き物をしていたイングリッドが振り返る。


「なにか感じたのか?」

「ちょっと出てくる」


 部屋の引き戸へすたすたと歩むソフィアに女史が言う。


「こんな夜中にか? なにか問題か?」

「あなたは寝てて。でも」


 元クレセントの少女が振り向いて言う。


「階梯が上がる。今夜をさかいに、世界は変わるかもしれない」

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