第百三十一話 クレアの隠遁

 ぱちぱちと焚き火の弾ける音の中。

 アキラがしばし考える。両者に沈黙が続く。虎は邪魔をしない。


「——えっとですね」「うん」


「厨房でウェイター? 見習いコック? がじゃないですか? 永遠に失われたものって」


 虎は目を丸くして。

「おまえ、よくわかるなあ。俺はわからなかったぞ」


「やっぱり艦長じゃなくて誰かが言った話なんですね。……じつは田舎にそんなことわざがあるんです。〝覆水盆に返らず〟って」


「なんだ。ずるいなあ」

「ずるくはないですよ」


 話す虎の顔は穏やかだ。


「ただ、それだと半分だ」

「え?」


「ウェイターが水をこぼして注ぎ直した時、ふたつの事が起こる。ひとつは、一杯目のコップの水が二杯目のコップの水と入れ替わる、ということだ」

「そうですね」


「もうひとつ。その時に〝一杯目のコップの水が〟が、永遠に失われてしまう。ここ、わかるか?」


「世界線が変わるってことです?」


 簡単にアキラが言うので。また虎が素直に驚く。


「そんなすんなり、わかるのか? 普通なのか?」

「いや、あの……映画とか」

「映画?」「まあいろいろ」


「それでな、問題なのは一杯目の世界と二杯目の世界に、この話の中じゃあまったく違いが起こらねえってことだ。二つの世界は間違いなく別ものだ。でもどっちにしたって、水は俺らのテーブルに運ばれて、料理も運ばれて。俺らは乾杯して飯を食うんだ。楽しいひとときを過ごすのさ。そこにはなんっの陰りもねえ、違いもねえ」


「そうですね。きっと水がこぼれなくても、そうなっていたでしょうね。——今のアランのことを、言ってるんですよね?」


 虎が頷いた。


「夜が明けたらアランは目を覚ますだろう。そして自分が生き返ったことを知るだろう。レオンも、街の子らも、蛇の子らも、そりゃあ喜ぶさ。きっと泣いて喜ぶ。そして一緒になって、街へ手伝いに出かけていくはずだ。あいつらは元気だからな」


 夜の森はしんとして静かだ。虎が続ける。


「冗談も言うだろう、笑いもする、時には喧嘩するかもしれねえ。そうやって彼らと一緒にアランは生きていくんだ。もう一度な。だが——このアランは、祭りの時にみんなと遊んだアランじゃない」


「じゃあ、わかってたんですか?」


「そうだ。俺はわかってた。これが正真正銘の復活じゃあないってことは、な。わかってたというか、今日のお前の様子を見て、頭の中で漠然としてたのがきっちりわかるようになった、ってのが近いな」


 そして虎は、焚き火の灯りに目をやって。


「アランは死んだ。今、倉庫に眠ってる子は〝二杯目のコップの水〟だ。——そしてな、アキラ。このことが俺の〝背中のくさび〟のひとつなんだ」


「くさび、ですか?」と。首を傾げるアキラの方へ、虎がまた向いた。


「この話、そもそも誰が俺に話したか、わかるかアキラ?」

「いえ。まったく見当つきませんよ。でも、人間の復活に関わる話ですよね」


 少しアキラが考えて。


——身体が吹っ飛んでも、焼かれても、もっと言やあ、肉体が灰になってなくなっちまっても、復活できるんだ。——


「……あ」


——ノエルの三番を持った、びっくりするほどきれえな女の人だ。——


「……クレア、さん?」

「そうだ。クレア=ウィグルークだ」


 


 もうすっかり夜も更けて。


 もしここが地球ならば、すでに日付は変わっているのだろう、ただこの世界はあくまで朝第零時——地球時間の午前六時を以て日付の変更が行われるので、実質夜が明けるまでは今日は今日のままだ。


 あまりにもいろんな事がありすぎた今日の締めくくりに、虎とふたり。ぱちぱちと燃える焚き火の煙が空へまっすぐに登るほど風のない、穏やかな夜だ。


 イースは両手を夜空に掲げる。


「——クレセントってのはな、こうやって空から降りてくるんだ。ちっちゃい子供でな。空に竜脈が走ってる時に、そこから光の球に包まれた子供が、すうっと音もなく、世の中じゃあ〝さかさまの木〟って呼ばれててな」

「さかさまの木」


「そうだ。竜脈から地上に向かって木が伸びるように伸びて、降りてくる。俺とザノアが見つけた。走っていってな。その竜脈の真下まで着いて見上げたら、子供にしちゃあ光がでかくてな。降りてきて、だんだんと降りてきて、ふたりで抱えて受け止めたその人は、成人の」


「すっごいきれいな女の人、って」

「ん? 誰に聞いた」

「はは、あの。タイジさんに」


「なんだよお喋りだな親方は。——まあきれいだな。ほんとにな。それだけじゃなくてクレアは本当に物知りだった。俺らはいろんな知識や魔導を教えてもらったんだ。ザノアの魔導剣に磨きがかかったのも、俺の火術が進化したのもクレアのおかげだ。俺はあんま治癒魔法は好きじゃなかったが、ずいぶん旅を助けてもらった」


 虎が焚き火の炎を見つめながら。


「クレセントはものを語らねえと知ってた俺らは、もうその時点で、クレアはクレセントじゃなくなにか〝別のもの〟じゃねえかとは、思っていたんだ。ときおり彼女は……大陸の行く末を心配していた。自分みたいなのが竜脈から降りてくるのは、災いのしるしだそうだ。それはずっと言ってたんだ。そして、ある時、彼女は部屋から出てこなくなった」


「え。どうしてです?」


「荒れて、痩せこけてな。ひでえもんだった。引きこもっちまってな——どのくらいだったかなあ。ずいぶん久しぶりに出てきたクレアが言ったのは『私は、私を封印したい』て言葉だった。〝芒星ヤーテカ〟が完全に解けたんだ」


「ノエルの使途不明呪文ジャンクスペル。確かそれも復活の呪文……」


「そうだ。三番だ。クレアはそれをずっと所有していた。解いてみて初めてわかったのさ、旅で彼女が使っていた治癒魔法とは全然中身が違う、それこそが〝世界を書き換えずに一杯目の水を復活させる奇跡の呪文〟だってな。いや、逆か」


 そのけむくじゃらの手で顎を撫で、少し考えて。


「死んだ過去を死ななかった過去に〝書き換える〟のか? 俺はその辺は、わからねえ。ただクレアは『この呪文を世に出してはいけない』と、な」


「なぜです?」


=当然だ。過去の復活者は、どうなるのだアキラ=


「ああっ。そうか」


「わかるだろ? 人々になんて言うんだ? それまでクレアが戦場で復活させたんだって一人や二人じゃねえ。両手を広げて『これが本当の復活でござい、これまで生き返った皆様は残念ながら偽物でございます』って言うのか? 世界で治癒魔法が使われて、もうたくさんの人間が生き返ってんだぞ」


 少し話し疲れたのか、うーんと考え込むアキラをよそに虎は姿勢を崩し、足を曲げて倒木を枕にする。


「黙ってりゃわかんねえって、言ったんだが……かたくなでな、クレアのやつは。それにな」

「はい」


「実際、俺にはわからねえんだ。今夜生き返ったアランは、本当に〝偽物〟と言えるか? 性格も考え方も記憶も、何ひとつ変わらねえ、正真正銘のアランなんだぜ。身体も頭も何も入れ替わっちゃいないんだ。ただ魂だけが違う」


 少し眠そうな目を虎が向けた。


「……その話を聞く前から、俺は人の生き返りには違和感があってな。テオもそうだ。テオドール=カーン伯爵は、俺がザノアと組む前に組んでた戦士だった。いくさで大きな怪我を負って引退した時も、頑なに治癒の魔法は使わなかった。メグの母親が死んだ時もだ。……もっともその頃は、伯爵は〝芒星〟以外の復活は本来のものじゃねえとは、知ってたがな」


「メグ……あのマーガレットさん」


 虎が細かく頷く。


「この大陸じゃあ子供を産むと、母親が極端に身体を悪くする事がよくある。理由はわからねえが、そんな場所でも治癒の魔法があちこちで使われている。戦場だってそうだ。日常だってそうだ。もう広く世界で使われている治癒魔法に、今さらあれこれ言えねえ、ってのがクレアの判断だったんだろうな。だが……そこに黒騎士が来た」


「黒騎士? 帝国のグートマン?」


「あいつがクレアをさらいに来た。結局、クレアがザノアと結婚して人間に降りたことを知って、なぜだか知らねえが帰っちまったがな。その戦いで俺は瀕死になって、ザノアは行方不明だ。……クレアは今でもセトの修道院で隠遁してる。それからしばらくしてのことだ。あの化け物が、大陸中の治癒魔法に鍵をかけちまったんだ。ノエルの十三番、死門クロージャの呪文でな」


「はい、そう聞きました。え? それじゃあ、えっと、あれ?」


「そうだ。あの嬢ちゃんの使った治癒魔法……お前が言う〝本物じゃない復活の魔法〟を、なぜだか黒騎士の野郎は、世界から取り上げちまったんだ」


 閉じかけた目を再び夜空に向ける虎は、何を思うのだろうか。


「それが俺にずっと突き刺さってる〝くさび〟だアキラ。……俺は黒騎士と再戦を果たす前に、あいつに聞かなきゃいけねえんだ。なんだっててめえは大陸の治癒魔法に鍵をかけたんだ、てめえは一体、何を知ってるんだ、ってな……。」


 ふわあっと。虎の体が光った。壁を張っている。


「——ここで寝るんですか? あとで何か食べるって……」

「もう、めんどくせえや」


 虎が目を閉じて。

 ちょっと考えてから、アキラが言う。


「艦長」「うん?」

「クレアさんって、ザノアさんと結婚したんですよね」


 もう言葉には出さずに、虎は頷くだけだ。


「艦長は、その。クレアさんのこと……」


 閉じた目のまま少し笑った虎は、軽く胸の上で指を振る。

 あとは焚き木の弾ける音だけが小さい。

 虎から、寝息が聞こえてきた。




=野暮なことは聞くな=

「そうだね……でも、よくわかんないなあ」


=なにがだ=

「その、スワンプマンってやつ」


 アキラも体を崩して木に寄りかかる。頭に腕を組んで見上げれば、降り注ぐような星だ。いい天気の夜だ。


=そうだな——たとえばアキラ。おまえの指を一本、切り落とすとするじゃないか=


 無神経な声の物言いにアキラが顔をしかめる。ロイの左手を思い出したのだ。

「物騒なこと言うなよ。うん。それで?」


=落ちた指を適切な培養液で細胞を生かしておくとする。その指は生きている。では、お前はどっちだ? 残った体か? 指の方か?=


「そりゃあ、残った体の方が俺自身だよね」


=では、お前の脳だけ残して、すべて取り払ったらどうだ? もちろん取り外したすべての体は適切に保存して、生かしておくとする=


「それは……それでも、脳の方が俺だろ?」


=では、脳も取り去って、魂だけになったとしたら?=


「それでも、魂が俺だよ」


=その取り去った脳を、他のすべての体と繋げ直したら? 言ってみればそれが〝スワンプマン〟の定義に一番近い。スワンプマンは別に肉体を作り上げるのが本当だがな=


「え? えっと。……俺の脳まで、そっち?」


=そうだ。そして脳は正常に動いている。他の臓器もそうだ。筋肉も。骨もそうだ。ということはそこに〝一体の生きてる人間〟がいるということだ。脳に損傷もないので記憶も感情もすべて同じままだ=


「いや、でも魂がないと人間って」


=死なない。単に人間という生命体が生命活動を続けるのに、魂の有無は関係ない。人間というものは本来がそうだ。心臓もそうだ。肺も、胃も腸もすべてそうだ。取り出して適切に管理すれば彼らは生きてるじゃないか。そうでなければ臓器の移植など不可能ではないか?=


「それは……まあ」


=人間というのは個別の細胞、生命体の群れだ。その群れを保つように、それぞれの役割で生きているだけだ。身体に収まっている胃や腸がお前の命令を聞くか? 心臓に止まれと言っても止まったりはしない。手足ですらそうだ。動かしているのは神経系、筋肉や骨格であって、それらが故障すれば動かせないのではないか? 彼らは必要な仕事をこなしているだけの、独自の生き物なのだぞ=


「いや。ちょっと待って」


=切り離された彼らが個別の生命体であるなら、切り離される前も個別の生命体だ。そうでなければ辻褄が合わん。違うかアキラ=


 アキラが起き上がる。両の手を宙に振って。


「じゃあ。俺って、この身体のどこだよ?」


=おまえ、今、自分で言ったじゃないか。その身体のどこにもお前はいない。お前は魂なんだろ?=


「いや。言ったけど。あれ? うーん」


=アキラ。人間の魂と身体の関係は、蛇を見ればわかる。必要な時にのみ、こちらにやってくるのが蛇だ。そして常にこちらの身体に降りているのが人間の状態だ=


 唸るアキラがばりばりと頭を掻く。


=——おまえ、やっぱりわかっていなかったな=

「なにがさ」


=初めて竜脈に乗った夜だ。生命の魂は事象元アストラ側の存在だと、私はおまえに説明したぞ?=


「俺よくわかんないって言ったよ?」

「ごぅああああ」

「わあっ」


 ひゅううう、と。イースの胸がしぼむ。


=いびきだアキラ=

「なんって虎みたいな……虎か」


 気が抜けたアキラがまた寝そべって。頭の声が言う。


=いつか、もっとわかりやすく説明してやる。だが今日はもう寝ろ=

「そうする。疲れた」


 星が綺麗だ。



◆◇◆



 焼けた街の東より、遠くの山影をシルエットにして朝日が森に差し込む。早朝の頃合いから虎の仕事は、ひたすら相手をなだめる事で始まった。


「あんで起ごしでッぐららがったんだよッ!」

「いや。よく寝てたしな。いたっ」


 燃え終わった焚き火のそばでしゃがむ虎をぽかぽか殴ってくるリッキーは、涙と鼻水で顔の産毛がくっしゃくしゃの台無しだ。


「おんあアランががえうあんで昨日びゃびどぉお言ってぐえああっびゃああいかあッ!」

「わかった。悪かった。悪かった。なあリッキー」

「びゃああああああああっ」


 もうなんで怒ってるのか本人もよくわかっていないであろうリッキーは虎の胸板を拳で叩きながら大泣きで、それを抱きしめて背中をさすってやる。


「ほら。もう行け。みんな行ったぞ。中に行って会ってこい。な」


 かたわらで二人を見るアキラも涙で目が滲む。

 横にはログがいた。岩男がわざわざ倉庫と神社をこっそりと往復してくれた搬送車に乗せられた子供たちを含む復活者の家族は、今まさに建物の中で面会を果たしているのだ。


 わんわんと泣き声が響くのは庫内も同じで、それこそ最初は起こされて仰天していただけのアランがやがて大声で泣き出したところに街の三人が飛びついて。

「アランッ!」

「アランッ! わああああッ!」

 あとはたがいちがいに抱き合って同じように皆、顔をくしゃくしゃにして泣いてばかりだ。そこにレオンも混ざっている。


 アランの一角だけが計十人も子供らがいるので最も騒がしい。さすがに少年が復活したと聞いて誰かを置いてくるわけにもいかず、ただ対しては数人の縁者に同じように泣かれた女性と男の子から離れて。


「おかあちゃん、おかあちゃん」


 そう言ってただひたすらしゃくりあげるララ=カラベルを抱っこして、あやしていたのはイングリッド女史である。

 そんながらでもないのはわかっているはずなのに敷物の上で起きた幼女がわんわんと独りぼっちで泣いているのを放っとけなかった自分に自分が一番驚きながら、ただ胸に抱えた子をあやすイングリッドを、横で見るソフィアが神妙な表情なので、少しイングリッドが笑った。


「なんだ、おかしいか」

「ううん」


 実際ソフィアは笑うでも茶化すようでもなく。

 イングリッドの肩に顔を埋めて泣く幼女を、ただ見つめるのみであったのだ。




 ひとしきり家族縁者の面々が落ち着いたところで、虎が倉庫の真ん中に皆を集めた。これより一団は街へと戻らなければならず、その前に言い含めないといけない。

 

「まずは、断りなく治療して申し訳なかった。夜のうちに進めないと無事に息を吹き返すのが間に合わなくなるところだったんだ」


 虎がなかなか曖昧な言い回しをするので、ちょっとソフィアの瞳が丸くなる。


「おかげでこの四人は間に合った。今から他の負傷者の治療へと向かう。ただ、死んだ者の復活はもう難しいだろう。皆も遺族の気持ちは理解できると思うから、彼らの前で、あまりここでの件は話題にしないでほしい」


「あい」「わがりました」


 それぞれに鼻声で返事をする獣たちを、ただイングリッドは、もう泣き疲れて眠ってしまった幼女の背中をてんてんと叩きながら見守っている。


「ただ、わかってると思うが、喜ぶなって意味じゃない」

 虎が言う。


「諦めてたものが助かったんだ、喜んで構わない。みんな生き死にの境を踏んだ。辛かったはずだ。喜んで、ねぎらってやってくれ」


 それだけ言うとあちこちで、またちょっと鼻をすする声が聞こえて、すぐ。子供らがふたたびわあわあと泣き出して互いが互いを抱きしめる。昔、戦禍の元で何度となく見た光景だ。改めてイースが思う。たしかにこんな光景に水を差すような真似は。


「まあ、やっぱできねえよな」

「はい?」

「昨夜の話だアキラ。おまえには、どう映る?」


 言われたアキラも見渡すばかりで。

 虎が続けた。左の腕輪を口元にやって。


「実際、生き返るってのは誰の願いで、誰のためなんだろうな。——ノーマ、聞こえるか? 中型の搬送車キャリア一台回してくれ、人数が乗り切らねえ」




 神社の簡易診療所に到着してからもすぐ、さっさと歩いて怪我人の大部屋を見て回るソフィアの後ろをぱたぱたと看護師のチャコがついていく。姿に似合わぬ杖を抱えた、見た目が人間の女の子が唐突に入ってきたのでぎょっとする獣たちも多い。


 それどころではない重傷の獣はそのほとんどが全身の火傷だ。生薬の液に浸されているのか全体が緑色をした大きな当て布が貼られた身体の下は毛皮も焼けてケロイド状に腫れ上がり、もはやうめくこともせずただ痛みと発熱に耐えているのか牙の見える口を薄く開いてはあはあと息を継いでいるだけなのだ。


 部屋全体をばっと一瞥する無愛想な少女が後ろのチャコに「あれとあれと、あのひと。あそこも」と一部屋につき三、四人を指差し「次」とだけ言って部屋を出ていく。なので慌ててチャコも後を追う。


 社務所の前でイングリッドは、胸に抱えた眠るララを起こさぬように、そっと。狐のノーマへと受け渡す。洗濯物をいっぱいに抱えた通りすがりのリリィが女性二人の様子を目を大きくして見ている。


 ううんと少しぐずってしがみ付く幼女はまだ目を覚まさない。優しく揺らしながらノーマが言う。


「もうちょっと抱いててもいいのよ」

「やめておく。情が移る。あとは頼む。——そんな意外そうな顔をするな。お前こそ私らの迎えの時とは大違いじゃないか」

「そお? うふふ。お姉ちゃんはやさしいわよねえ、ねえ?」


 眠るララにささやく。そしてちょっと振り向いて流し目で。


「見てないでいいから働く」

「あいあいっ」


 てってっとリリィが境内を早足で駆けていった。入れ替わりに宿坊側から歩いてきたのは虎だ。ソフィアもチャコもいる。


「あんた。炎術家。ちょっときてくれ」

「——イングリッドでいい。虎の艦長」


「わかった。イングリッド。一緒にいた兵隊二人を呼んでくれ。ただあんたらの無限機動は街のもんに刺激が強い。ゴンドラの街駅から南に停めて、そこから駅の魔導器ライトモービルを借りてくれ、向こうには連絡してある」

「あいつらを呼ぶのか? なぜ?」


 代わりにソフィアが答える。


「こっちは全部見た。重傷八、中程度二十七。軽傷は診ない。自然治癒に任せる。今日の私の魔力マナなら半分もかからない。このタヌキさんに」


 チャコが肩を張る。手に持ったカルテを胸に抱く。この少女はあんな一瞥で、自分に伝えるまでもなく完全に宿坊の状態を記憶しているのだ。


「焼けた街の真ん中にも別の診療所があると聞いた。そっちを見にいく。十一ひといち十三ひとさんは護衛に欲しい」


「そういうことか。了解だが、乗り換えがあるから少し時間がかかるぞ」


「わかった。それ見せて」

「は。はいっ」

 チャコが慌ててカルテを渡す。ばっばっとソフィアがめくって。


「一階のこの人とこの人。もう危ないから先に処置する。別室に移動して。家族は入れちゃダメ。処置が終わってもしばらく部屋から出さないで」

「はい。でもなぜ……」


 覗き込むチャコを見上げた。


「大部屋で治癒魔法なんか使えない。殺到する。治療の序列が保てないでしょ?」

「あ、ああ。そうです。そうです。わかりました」

「傷が治れば普通に歩ける。他の負傷者に見つからずにこの神殿を退去できるルートを先に確保して。それができる部屋を選んで」

「はいっ。はいっ」

「本人を保護して退去させてから、家族とは診療所の外で会わせて」

「わかりましたっ」


 踵を返しざまに「二人が着いたら教えて」とだけイングリッドに投げかけたソフィアが宿坊に戻る。ぱたぱたとチャコも後をついていく。


 虎が笑う。

「たいした嬢ちゃんだ」


「見た目通りに取らない方がいいぞ艦長」

「ふっふ。あんたより、下手したら俺より歳食ってるのか?」

「ソフィアの正確な生年は不明だ。歳をとるのは今からだ。案外あれでしっかり者だから、そのままの年齢かも——」


「チャコさん見なかったか艦長」

「うん?」


 虎が振り返る。社務所から現れたのはエイモスだ。

 しかし。


「あの看護婦さんなら今しがた……先生?」


 医師が。イングリッドを凝視する。

 立ち尽くしたまま言う。


「イングリッド副主幹?」


 境内に少し風が吹いた。石畳に塵が舞う。


 呼ばれた女史も即座に気づく。

 この男。左目の傷。

 帝都ルガニアからの退去者。


 いつもと違ってイングリッドがエイモスに向かって黒曜の石が嵌まった左目を向けて。ちッ。と。微かに石が赤く光った。


「……エイモス=グラハ……いや?」


 おかしい。左目から流れ込んでくる、この男の情報がおかしい。複数の名称が視える。


「……エオム? エオム=カールジャット?」


 その名前を口にした時。


 虎が。かすかに身構える。

 エイモス医師から発する匂いが、わずかに変わったからだ。

 医師が薄く歯を見せて笑った。


「——その石に、死んだ人間の名簿も入ってるのか?」


 ノーマもぎゅっとララを抱え直す。エイモス医師の傷で閉じた左目の端が細かく震えているのがわかる。


 ただならぬ気配に虎が右手を伸ばして。

「おい、先生」

「なにもしないよ艦長」


 ざわり、と。冷たい。

 虎の右手首を静かに掴んだエイモスの手が、異様に冷たいのだ。これは、こいつは誰だ? 虎が警戒するのに構わず、緩く笑ったままの医師が言う。


「あんたがいるってことは、クリスタニアから来た魔法医師というのは元クレセントのソフィア=フラナガンのことか?」


「……ソフィアに用があるのか?」

「別に。だったら小型無限機動ベスパーも来てるんじゃないかと思ってな」

「来ていたらどうする」


「座席の下に応急箱エイドがあるだろ」

「なに?」

「あるんだ。あるのも知らないかもな。治癒系魔法が使えるクレセントには宝の持ち腐れだ。それを、に」


 虎の手首を離した指で、エイモスがエイモス自身を指差す。

「渡してくれ。役に立つものが入ってる」


「気に入らんな。なぜ私らがそんな真似をしなければいかん」

「固いこと言うなイングリッド。同郷のよしみだろうが」

「同郷? 貴様。ムストーニアの出か?」


「そう言ってる。あの箱の中に入ってる鋭刃針スカーペルが欲しい。ムストーニア=クラブハウス製のはずだ」


 ちくり、と。イングリッドがかすかに顔をしかめた。右のこめかみに刺すような痛みが走ったからだ。その表情を見たエイモスが。


「ほお?」

「なんだ、何を言った」


「イングリッド。あんたひょっとして、?」


 ずきりと。思わずイングリッドがこめかみに手をやる。

 医師の表情が崩れて笑った。

「なんだあんたも同類かイングリッド?」


「うわああああああああんッ!」

 全員が驚く。


 ノーマに抱かれて眠っていたララ=カラベルが唐突に大声でひと泣きしたからだ。慌ててノーマが「どうしたの? よしよし」と揺すって背中を叩いてやる。

 奇妙なことに、幼女の泣く声はその一瞬のみで。ううううっと小さく唸ってノーマの胸に顔を埋める。

 再び虎とイングリッドが向き直った、その医師は。


 エイモス医師は。


 彼もまた驚いたような顔で、二人を見返している。

 虎が気付く。匂いが元に戻っている。イングリッドも気付く。左目から彼女に流れ込んでくる情報が、ひとりの名前で安定していた。


 エイモスが虎と、女史と、狐と。自らを凝視しているそれぞれの相手を見て。そして言う。


「どうした? 艦長」


「覚えてないのか先生」

「わたしが? 何をだ艦長。中で神主さんが呼んでいる。ロイさんとアキラくんも一緒だ」

「俺を?」「そうだ」


 イングリッドはまだ、こめかみに手を添えたままだ。汗が浮かんでいる。生身の右目がわずかに軋んだ。





 心配そうにカーナが言うのだ。

「ほんとうに、診てもらわなくていいの? おばあちゃん」


 窓際に高さを上げた畳のベッドで、上半身を少し起こしたキィエは頷きながら外に目をやる。二階の端、個室に収まった老婆の見る風景は展望台から抜けてウルファンドの街が遠くまで広がっている。

 

「霊術屋の縛りさ。起こったことは、変えちゃあいけないんだ。時の紡ぎがれちまうからねえ」

 

 神社に帝国の魔法医師が来ることが密かに知らされた時、キィエはきっぱりと治癒を断った。最後までモニカが「そんなこと言わずに診てもらいなって婆さん」と食い下がったが、頑なにキィエは固辞した。


 見渡す街は焼け落ちている。理不尽な災いだ。そこで傷ついた獣たちは確かにやり直すべきで、救いを受けるべきだ。だが。


 胸を撫でる。息が、がさがさとする。少し強く吸い込む。


「ごほっ」


 ぜっ、ぜっ、と。「ごほおッ」と大きくえずくキィエに慌てて寄ったカーナが背中をさすってやる。ひとしきり咳をした老婆が何度も頷いて、彼女の手を避けさせる。


「大丈夫? 苦しいのおばあちゃん」

「もう大丈夫だ、大丈夫。いいんだ」


 そう言いながら自分で胸をさする。老婆にはだいたいの見当はついていた。あの霊化の猫に凍らされた胸の肺が、いくらか死んでいるのだ。

 おそらくもう、戦いの場で当たり前に呪を唱えるのは、かなわないだろう、と。詠唱の間を取れない術師など。だが、いつかは来る道だ。


 遅い獣化で〝疾風の園ゲイルガーデン〟を引退し、獣に安全なフィルモートンに隠遁していたキィエも歳をとった。魔導が使えなくなれば、どこかで誰かに殺されるか、人知れず野垂れ死にかと思っていた。だが現実は。


 広い空を見渡す畳の部屋の一角で、こうして自分の身を案じる子に付き添われて伏せっている。街が戦禍で焼けているのは、それもまた巡り合わせか。


「——なんだ。上々じゃないか」

「え?」


「いや、なんでもないよカーナ。……ひと通り治癒が終わって片がついてからでいい。落ち着いたらここに来るように、モニカに言ってくれないか。今はまだ忙しいだろうからねえ」


 カーナに優しく言う霊術師キィエは。

 ひとつの決心をしていたのだ。

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