第百三十話 復活 或いは評判の良いレストランにて
イングリッド=ファイアストンには理解できない。
ソフィアが真っ直ぐに杖を向けて、その全身を緩やかに発光させているのは、あれはクレセント時代の警戒の仕草ではなかったか?
「——やはりあなたが私の〝
対して銀髪の青年は、だが見ていた限りでは、なんら彼女を怒らせるような素振りはなかったはずだ。いったい何がそこまでソフィアの
「ふたりとも、やめるんだ」
ふたり、とは?
イングリッドが
彼がはっきりとした声で言った。
「この子を欠格には、したくない。俺は何をすればいいか、教えてくれソフィア」
「何もわかってない。欠格に遺族の希望なんて通らない。するか、しないかだけ。夕方ちゃんと説明したはず。あそこであなたは〝すべて覚えた〟って言った。だったら私の魔力に限界があるのも覚えて——ちょっと。あなたは黙ってて。横から口を挟まないで! 理由?」
なにか、おかしい。
イングリッドが虎を見る。
腕組みする虎はなんというか少し、観戦者のようだ。
なんで他人事のような顔で見ている? 岩の男も呆気に取られているじゃないか。逆にあの赤毛はなにをあんなにきょろきょろと泡を食っているのだ?
「この子は子供。だから——どうして言わなきゃわかんないの? 子供の復活はただ一点。〝復活の可能性が高い時〟だけに限られる。いい? 大人なら、よほど集団にとって失われては困る人間だったら、多少の欠格でも無理して復活させることはある」
ひたすら一方的に。
「けど子供がそれに当てはまることは、ほとんど——だから。人道とか知らない。これはわたしの意見じゃない。一般論を教えてるだけ——そんな時間はないって言ってる! 記憶が消えるの!」
ひとことも喋ってないアキラにソフィアが
「お、おいソフィア。そんな復活の場で
「この子に
「ソフィア、ちょっと待てお前。」
「聞き耳なんて立ててないッ! 馬鹿にしないでッ!」
「おいッ! ソフィア! ——虎ッ! 虎の艦長! どうなってるんだ一体ッ!」
ついにソフィアを慌てて止めたイングリッドに。離れて腕を組んでいた虎が可笑しそうに顔を伏せた。
「いや、すまん」
「笑い事ではないぞ。なんなんだこれはッ」
アキラは左のこめかみを軽く掻きながら。
(盗み聞きとか言い過ぎだって)
=盗み聞きとは言ってない。我々の話に聞き耳を立てるなと言ったのだ。なんという生意気な娘だ=
(なんでそんな短気なの、昔ミネアさんともやり合ったよねお前)
=キジトラのほうがいくらかマシだ。短気がどうとかは向こうに言えアキラ=
組んだ腕を下ろして、少し歩み寄った虎が答えた。
「なにを言い合ってんだろうなあ。俺にもわからねえ」
「なんだと?」
「俺にもわからねえんだ。でも、だいたい想像はつく。——クレセントの嬢ちゃん。復活の序列は、大きく分けて二つある。ひとつは、復活の可能性が高い死者だ。もうひとつは、多少可能性が落ちても、集団のために生き返ってもらうべき死者だ」
「そう言ってる」
「ただな。今日、街で死んだ獣たちの中じゃあ、成人の男連中の死体は酷い有様だ。みんな身体の奥まで熱で焼けちまってな。まともに復活できそうなのはここに並んでるような、小さな子らがほとんどだ」
「だったら追加はいらないから外して。怪我人に充てるべき」
掴まれた両肩をまだ
「アラン=フォートランド」
「え?」
「その子の名前だ。加えて、キーン=ガントレット、マーカス=タウンゼント、ルーシー=モレル。この子ら四人は元々〝蛇の乗組員〟だ。今乗ってる七人の子らとは同胞なんだ」
「……やっぱり私情なんじゃない」
「待てソフィア。虎の艦長、そんなに蛇に子供が乗っていたのか? なぜだ?」
「ヴァラグエル=ガニオン前皇帝からの避難民だぜ」
「——前大戦の?」
「そうだ。旧アルター国ロイ=アンバーフィールド辺境大隊長に保護された避難民の子供らだ。この子らには身寄りがなかった。だから結構長い間、蛇の中にいた。私情が入ってるってのは間違いじゃねえが、アランとマーカスはな」
横たわるアランに目をやる虎は、静かな瞳だ。
「主に動力班の仕事を手伝っていた。炉の整備も詳しい。多少の魔導は知ってるし使える。体術もな。緊急時の初動も連携も教え込んでいた。このアランは特に機敏な子だったはずだ。——その隣に寝ている女の子を庇って撃たれたらしいんだ。結局二人とも死んじまったが」
虎の話を聞くソフィアからは、すっかり怒りの表情は消えている。
「復活の価値は低いか、嬢ちゃん」
しかし。私情を挟むなと言いながらも、今度は少し辛そうにソフィアが首を振ったのだ。
「だめ。この子の欠格を
少女を見るレオンの懇願した顔が曇っていく。虎も少し困った顔で顎を撫でる。
「そんなにか。俺もアキラと同じだ。理由を知りたい。きれいな死に顔だと思うが、なにが引っかかってるんだ」
「死因がわからない」
「なに?」
ふう。と自らを落ち着かせるように、ソフィアが一息吐いて。
「彼以外に並んでいる、この女の子と、あっちの男の子と女性。今の言い方だと、この三人は一般人の死者だと思うけど。彼らの死因は単純」
杖を向こうに振って。
「あっちの二人は窒息死。そしてこの子。後頭部から出血してる。気絶してからの失血死だと思う。それだけ。大きな火傷もないきれいな死体。死因がわかってるから復活の魔力もたぶん三人合わせて通常の三分の二くらいで済む。けど」
また、杖がアランに向いた。
=たいした分析能だな=
「茶化さないで」「うん?」
「なんでもない。——彼は複雑。背中に強い衝撃を受けたのはわかるけど、なにが直接の死因なのか、魔力の流し方がすごく難しくて……上手く復活できるかどうか……」
=では自信がないのか?=
「はあッ?」「ちょ、おいソフィア?」
アキラも困ったように首を撫でた。
(けしかけるなってば)
=なにもけしかけてなどいない。だが、そういうことなら我々も、手を貸せるかもしれない=
その言葉にソフィアが反応する。
「あなたたちが?」「あなたたち?」
イングリッドの顔から未だに困惑が消えない。どうにも会話がおかしい。
レオンの傍から歩き出すアキラに、虎が声をかけた。
「腹は決まってるんだろうとは思うが、構わねえのか?」
「はい。この二人は信頼できます」
相手が魔導師と知ったら、その信頼がひっくり返ることもままあるんだぜ、とまでは虎も水を差さない。見守ることにする。
並べられた四つの死体をぐるりと回って、アキラは彼女たちの側で歩みを止め、アランの亡骸に向かって屈む。少し足を寄せて立て膝になり、少年をそっと抱き上げた。帝国の二人は何も言わない、が。
声も出さずに目を丸くしたのだ。
死体を緩く抱えた銀髪の青年が、その全身からふわあっと青色の輝く紋様を浮き上がらせたからだ。イングリッドの顔がこわばる。
こいつだ。
アーダンの砂漠で第一中隊長と蛇がやり合った際に、その画像に写っていた青い竜紋の魔導師だ。
左腕でアランの肩全体を抱え込み少し起こしたアキラが、その右手をすうっとかざすのだ。横一直線の光線が死体の腹部から胸、首、そして頭上へと上がって、下がって。放射状の細い糸のような光と。真円を描く光と。
=確かに見た目より複雑だな=
その声に反応したのか。
レオンが、たっ。と駆けて三人の元へと向かう。
ソフィアはアキラの横にしゃがみ込んで。光を見つめて。純粋な驚きで瞳が揺れている。こんな魔導。こんな魔導は見たことがない。
「——聞かせて。」
=背中から強い光弾で撃たれている。爆圧を受けたのだな。子供に酷いことをするものだ。だが障壁が張ってあったのだろう、表面に熱傷は起きていない。内出血が死斑と混ざっている、後頭部から肩甲骨にかけて広がっているが、これは死因とは関係がない=
素直に少女は頷く。そして。
=問題は頭、首、胸の三つに同時に起きている致命的な負傷の痕跡だ。すべて呼吸停止の要因と考えられるので、おまえは混乱しているのだ=
もう。完全にソフィアの目が見開かれて。
レオンも屈んだ二人の上から覗いてくる。
アキラが声に聞く。
「脳挫傷、起こってる?」
=いや。脳挫傷は起こっていない。頭蓋内圧の亢進による脳幹圧迫の痕跡がある。呼吸の機序が失われているが、だがこれだと少し死亡が早すぎる。復活には対処しなければいけないが、おそらく直接の死因ではない。上部消化管の出血で気管が塞がっている。が、これはむしろ死亡直後のものだ。首は——
「それだと……首から? 違うか。逆だ」
=そうだアキラ。神経と電位差の復活、呼吸の再生は
「——えっと」
横を見てアキラが説明しようとして、しかし。
「わかった。ありがとう」
「え?」
杖を抱えるように隣でしゃがんだソフィアはもはや怒っている風でもなく、礼を言ってじいっとアキラの瞳を見る。ややあって小声で。
「あなたたち、どこからきたの」
「大陸の外から、とだけ」
それでもソフィアはアキラから視線を外さない。上から覗き込むレオンの編んだ赤毛が垂れる。改めてこの子たち二人を見れば、本当に整った
「あのね」「うん?」
「クレセントはいろんなことを知ってる。旧い過去のことも。でも、あなたのそれは魔導じゃない。きっとそれは〝技術〟。私たちとは別の体系にある技術、だと思う」
「だとしたら、俺をどうします?」
「どうもしない。頼みごとは、するかもしれない」
「頼みごと?」
「もう行って。離れて。これ以上目立たないで。普通にしていて。始めるから。この子を復活させるときに、必要なら私に指示が欲しい」
=かまわない。だが我々は復活の魔法を見るのは初めてだ。なにも要領を得ていない。まず隣の少女から、やってみせてもらいたい=
「わかった」
彼女の返事に頷いて立ち上がるアキラを。目で追って一緒に離れようとするレオンの垂れた赤いおさげに手が伸びた。
「あぎゃっ。いた。」
しゃがんだままのソフィアが掴んだのだ。
「ソフィア痛いっ」
「あなたは待って」
思わずレオンがソフィアの方へと体を曲げる。
「な、なにすんだって」
少女の声はさらに小さい。
「彼はだれ? 彼は階梯を上がり終えてるんじゃないの? なんであんな人を連れてきたの?」
「お、俺、よくわかんなくて、そういうの」
同じく小声で慌てるレオンの頭をじろっとソフィアが見上げる。
「なんであなたはそんななの」
「知らないっ。痛いって。はなせってば」
「もういい。あとで話がある」
「わかったっ。わかったっ」
髪をやっと離す。ううっと一言うめいて、レオンがその場を去った。ソフィアも立ち上がり、イングリッドへ「少し下がって」と杖を振る。
部屋のすべてのものが中央から距離を取る。並べられた四つの遺体を今一度ソフィアが見たあと、ログの方へと目をやった。
「レオンの
「ログモート=ヴァイアンと申します、ソフィア殿」
ログが、その岩のような頭で会釈した。杖を持たぬ手でソフィアが端の少女を指さす。それはアランが身を挺して庇った幼い子だ。
「名の調べはついてるの」
「はい。この子はララ=カラベル、父母は此度の戦禍にて亡くなられております。身寄りはありません」
「わかった——
アキラがぎょっとする。
少女以外の遺体三つが敷物ごと柔らかく輝いて
そして少女も、同じく敷物と一緒にソフィアの前へと動いて。地面より少し浮いた状態で彼女の前に横たわっている。
「降ろして」
地に降りた。頭はソフィアの右手側、足が左手側で横たわる。ソフィアが屈み、杖を脇に置き、膝下の法衣の裾を撫でるように巻き込んで、正座——それはむしろ袴の座りにあるような膝を外に割った正座位で背を伸ばし、すう、と息を吸って。
「——Interrogo caelum quaerens(私は 天に問う)
Tempus fluens hactenus,(此処に至る時の流れ)
Tempus fluens ab hac mutans,(此処よりの時の流れ)
Repetitio peto, num sit melius.(いまいちど乞うが良いか)」
その言葉に。
部屋の周囲で真っ直ぐに立ち上っていた香の煙が一斉に、さあっとゆらめいて部屋全体がぼんやりと明るく光るのだ。
=これは……驚いたな=
(なに?)
=古ラテン語だ。
ソフィアの声は確かに柔らかい少女のそれであったが、まるで僧の如く音韻に淀みなく部屋に響く。そこからの呪は大陸の公用語である。
「かえれ かえれ そのもとへかえれ
ひかりのもとと なりしもの
いまや まもりも とかれ
さからえぬララ=カラベルは
そのひとみ ひかりも とかれんとす
ゆえなきかな くちはひらかれ
かなしきかな いきもきこえぬ
かえれ ありしままのころに
まもりしままのように やせゆくむくろに」
ソフィアが両手を遺体にかざして。
「まようなかれ そえものの
つくられるように かえりたまえ」
すると。今度は少女の遺体のみが敷物から離れて、強く白い光に包まれて浮いた。座位で手をかざすソフィアの腰のあたりだろうか、それくらいまで浮いて宙に留まる。
「
ソフィアは目を閉じ、少女にかざしていた両手をひるがえして逆手に握る。ゆっくりと腹を反らし、胸を反らし、ぴんと張った法衣に身体の線を浮かし、ぐうっと。
水から何かを引き上げるように、逆手のこぶしを引き上げていく。光はいよいよ強い。
腕を組んだ虎は、その儀式を遠巻きに見ながら。
——ねえ。イース。今のあなたには、わからないかもしれないけど。——
遠い昔の、彼女の言葉を。
——例えばわたしとあなたが、とっても評判のいいレストランに行くとしましょうか? 山の高台でも、海辺でもいいわ——
そんな言葉を。
なぜか思い出して。目を伏せてわずかに首を振る。
そこにいる全員はおそらくこういった儀式は経験があるのだろう、ただ黙って、輝く中央の座を見守るのみで。ただアキラが一人、ぼおっと。無垢な光を見つめていた頭に声が語りかけてきた。
=美しい魔導だ。〝添え物の作られるように〟か=
(……添え物って?)
=地球ならばパンとワインだ。二つ合わせて生命を意味するものだ=
(そうなの?)
=パンは、——この世界ではピールと呼ばれているが、生きとし生けるものの肉体を意味する。まず小麦を挽く。それは『地の元素』の恵みだ。挽いた粉は『水の元素』と合わせられて柔らかくされる。そして『風の元素』である気を生み出すために発酵させられる。最後に『火の元素』である熱を加えられて完成するのだ。ワインは血を意味する。これら二つの添え物で、ひとつの命を表しているのだ=
光に目を細めながら、アキラが頷く。
=同じように復活も行われるのだろう。まず
(ワインは?)
=血とはつながりだ。昔のように遺伝子という概念がなかった頃は、その血が魂の
そして。ひときわ強く輝いた少女の体から、唐突にその光がうちに溶けるように失われる。髪が上へと揺らぎ、仰向けの、寝姿のままにすうっと音も立てずに敷物の上に降りたのだ。
誰も、声を立てない。
静まり返る部屋に、だがそれがなぜそこまで響き渡るのか、確かに、寝息が聞こえる。呼吸の音が聞こえる。
敵兵にアランごと撃たれた哀れなララ=カラベルの小さな胸が、しっかりと息を継いでいるのが、離れた皆からも感じて取れるのだ。
その子は復活した。
ふうっと目を下ろしてソフィアも大きく息を吐き、しかし。すぐ伏し目のまま、アキラに視線を送る。厳しい、とても厳しい強い視線だ。
なにか言いたげなのか。
それとも、なにも言うなという視線なのか。
アキラも見返しながら、左のこめかみに指をやって。
(終わったみたいだよ)
=——そうだな……アキラ。=
(うん?)
=あれでいいのか?=
(え?)
アキラの眉間が微かに軋んだ。ソフィアの視線は外れない。
(なにがだよ?)
=この世界に来た当初の疑問が、今、解けた。なぜ我々は26億ジュールもの魔力が必要だったのか、なぜこの世界の復活はそれほどのジュールを必要としないのか=
(いや、なんで今そんな話……)
=わたしはプログラムだから本当のところはわからない。だが人間は、本当はあれでいいのか? かまわないのか? 今までわたしは、あれではよくないからお前を——=
(なにが? なに言ってるんだよいきなり)
=地球では、あれを復活とは云わない=
(はあっ?)
驚くアキラが首を回した。頭の声に集中する。その仕草に、虎が気付いた。横目だけでアキラを見る。遠くからはまだソフィアがアキラの方を睨んだままだ。
(わかるように言えよ。生き返ったんだろあの子ッ)
=生き返ってはいる。いるが、あの少女は魂の節を引き継いでいない。おそらく記憶も性格もなにもかもまったく同じ〝別の人間〟だ=
(えっ——クローン? ゾンビ? なに?)
=スワンプマンだ。知っているか?=
(スワ、え? 知らない! なんだよそれ!)
「続けていいの?」
「えッ!」
ソフィアの声が響く。部屋を見渡すアキラは、そこにいるすべての者の視線を集めていることに気づいた。
イングリッドとログは訝しげな顔で。虎はやや伏し目がちに。そしてレオンは不安げに。中央で立て膝になったソフィアは鋭い瞳を向けたままだ。
「どうしたの? 続けて、いいの?」
「いや、あの……」
=どうするのだアキラ。あの少年もスワンプマンに替えるのか?=
「だからッ……それ、わかんないって!……」
「続ける。いい?」
「いやッ、えっと」
睨むソフィアの顔が微かに苦悩で歪み、ちらと一瞬だけイングリッドに視線をやる。女史はいつもの癖で左目を引き右の顔でじっと、狼狽えるアキラを見つめたままで。
「時間がない。始める」
「あのッ」「アキラ。」
虎が声を発した。
「かまわない嬢ちゃん。始めてくれ」
「わかった」
呆然と虎を見返すアキラに、さらに言うのだ。
「アキラ。これが復活だ。この世界では皆、こうやってるんだ。——またあとで話を聞く。嬢ちゃんの言う通りだ、時間がないんだ」
毅然と語る虎に、ついにアキラは目を下ろして。ソフィアが「ふたり目を」を一言声をかけるとともに、またふわりと少女の敷布と、そしてアランの敷布が輝いて浮いた。右へ下がり左から運ばれて入れ替わる子供らを前に。
「何か、助言がある?」
=——いや。先ほどの死因を聞いているなら、おそらく
頷くソフィアが改めて、アランの亡骸の前に座り直す。場の宣言は終わっていたので、呪の詠唱は公用語からである。姿勢を正し、そしてまた朗々と。
「かえれ かえれ そのもとへかえれ
ひかりのもとと なりしもの——」
横たわる少年の体がぼんやりと光り輝くのを、皆が見ていた。アキラも、もはやなにも言わずに見つめるのみだ。
◆
「なんだ。まだ起きてたのか?」
神社の宿坊は二階建てで、上階にはいくつかの個室がある。低い窓のそばより外の夜を見ていたロイは紺の作務衣を着込み、座椅子に背中を預けていた。風を通すのに開いた襖より向こうの廊下に静かな足音がして、振り向けばミネアが立っていたので、少し笑って声をかけたのだ。
「腕が切られたって、ノーマから聞いた」
「ああ、しくじった」
「見せて。入っていい?」
何も言わずロイが頷く。畳を歩くミネアがその脇で屈むので、やや座椅子から体をずらして窓に預けていた左肩を浮かし、袖からあげて。包帯の巻かれたその腕は、手首から先がない。じっと見るミネアは触れようとせずに。
「痛むの?」
「麻痺がかけてある。先生の指示でグレイがかけてくれた」
「その、帝国の魔法医師の子は?」
飛竜が眉をひそめる。
「それもノーマに聞いたのか?」「うん」
ロイが窓の外を見る。まあ仕方のないことだ。獣同士で隠し事など、どうせ出来はしない。
「——まだ復活の最中だろう、怪我人の処置は明日だ。もっとも、私の左手は治らんらしい。アキラのように義手でも作ってもらわんとな」
そしてまた振り返る。ミネアの瞳はロイを見返していた。
「どうした?」
「まだ隠してること、あるよね?」
「……あるな」
「嘘もついてる」
「そうだ」
「なんで?」
「おまえは、イースから聞くべきだからだ。ミネア」
いつになく穏やかな目でロイが答えた。
「だが今夜はもう遅い。少し休め。私も寝る」
その返答にやや視線を下ろしたミネアが素直に頷く。立ち上がり、振り向くこともなく。
「おやすみロイ」「ああ。おやすみ」
ミネアは廊下へと歩いていった。
寝るとは言ってもまだ煌々と部屋の灯りをつけたまま、ぎいっと座椅子にもたれたロイが、アキラに斬られた左の傷口をじっと見つめて。
あの時。
爆発の煙が残る白く濁った幻界で。網に巻かれたこの左腕の上空に。相当な距離を取っていたはずのアキラは忽然と現れた。なんの前兆もなしに。ロイは思うのだ。
あれは〝
霊化の身体のみが持ち得るはずの技を、アキラはやってみせた。この現実世界へ自在に幻界を呼び出し、蛇すら喚び出し、そして首都では蟲も外してみせたらしいのだ。
「——幻界特化の戦闘能力」
ロイが夜に呟く。
そんな能力が、果たして存在するのかすら、傷ついた飛竜にはわからない。
◆
倉庫の外には森を開いた広場があって、数台のロックバイクと
運んだ四つの遺体はすでに儀式を終え、中で静かに横たわっている。レオンとログは少年アランの側につき、岩男の膝にもたれてレオンはすうすうと眠っていた。
イングリッドとソフィアもまた、倉庫で休息を取っているのだろう。南の小川で待機しているはずの帝国兵ふたりには、今夜はもう帰らない旨を腕輪で話していたからだ。
バイクの脇には倒木の腰掛けがあり、焚き火があった。ぱちぱちと燃える火より昇る煙の上、夜空は開けていた。
腰掛けた虎が焚き火から、その正面に立つアキラへ視線を移す。彼はこめかみに指を軽く当てたまま、ときおり頷いたり首を振ったりしているので、なにごとかを頭の声とひたすら話しているようにも見えるのだ。
炎の向こうに浮かぶアキラの立ち姿を見ながら、虎がまた思う。
——〝しるし〟が見つかると思うの。——
太い手で掴んだ木枝は細く見える。ぱちぱちと焚かれる木を軽く混ぜて。
——そのしるしが見つかるまで、私に会いには来ない方がいいと思う。イース——
おもむろに。虎が立ち上がった。アキラがちょっと驚く。歩いた虎は搬送車の助手席のドアを開け、なにやらダッシュボードをごそごそと探った後に、またこちらへと戻ってきた。手に包みを抱えている。
「俺も、いいかげん腹が減った」
艦長が笑うので。
「え。それまで作ってくれたんですかログさん?」
「いや、こっちはモニカだ。さすがにな」
軽く焼いた黒ピールに挟んだ魚身と細切りの野菜に濃いめのドレッシングがかけてあったので、ほとんど何も食べてない腹にじっくりと沁みる。
「はは、おいしい」
思わず笑いが出るほど、美味い。本当に今日は疲れた。
だが。まだ残っているのだ。
話さねばならない。
切り出したのは虎の方からであった。並んで座ったアキラに向かって言う。互いの顔に焚き火の灯りが影を作る。
「頭の中で、話は済んだのかアキラ」
「ええ、まあ。でも、なんて言うんでしょうか」
困ったような顔でアキラが頬をかきながら。
「ちょっと……すごく、説明がしづらくて。てか俺もまだ本当に、意味がわかってるのかどうなのか」
「アランの復活に、躊躇していたな」
「はい。それなんですが、その」
言い淀むアキラに。
「じゃあ、俺が話す」「え?」
「俺が話そう。まあ、ちょっとした物語、ですらないか。いいかアキラ」
虎が少しおおげさに両手を広げて。腕で所作をする。
「俺と。お前がだ。どこか評判のいいレストランに行ったとしようか」
「レストラン——ですか?」
「そうだ。こんな山あいでもいい。海辺でもいい。評判のいいレストランだ。頼むんだ。こう、メニューを開いてな」
「男二人で?」
「んん? ううん、まあそうだ」
虎の眉が困る。ああ。そうだ。あいつが話すからさまになってたんだ、この話は。少し可笑しくなった。苦笑する。
「いいじゃねえか男二人でも。美味い店なんだよ」
「いやいいですけど。ええ。それで?」
「でも評判がいいから客もそこそこ入っていて、裏の厨房は大忙しだ。ウエイターやシェフも新米がいてな。客に出す水こぼしたり注文の順番間違えたりで親方から怒鳴られたりな」
「大変ですね」
「大変さ。でもそんなのは客にはおくびにも出さねえ。なんせ」
「評判がいいから?」
「そうだ。評判がいいんだ。そこはしっかりしてるんだ。そしてな」
おおげさなジェスチャーで。
「こう、お待たせしましたってな。前菜が出て、メインディッシュが出る。俺は、そうだな。プラムシェルのステーキだ。脂の乗ったやつだ。——腹が減ったな」
「いや今食べたばっかりでしょ艦長」
「これっぽっちじゃ足りねえよ、俺は帰ってからまた食うぞ。——お前は、そうだな。なんでもいいや」
「ひどいなぁ」
アキラが笑う。虎も笑って。
「炭酸に
「ああ。そういえばしばらく飲んでないなあ」
「だよな。ここに着いたっきりだ」
「艦長丸かじりだからなあ、いっつも」
「めんどくせえじゃねえか。でもな、そこはあれだ。レストランだから」
「レストランだから。かじらないんですね」
「そうだ。ちゃあんとグラスに入れてな。乾杯するんだ」
「男二人で?」
がりがりと虎が頬を掻いて。
「ああ。やっぱあん時とは違うよなあ。どうもさまにならねえ」
「え?」
「いいんだよ。男二人で乾杯だ。こうやって。ほら」
手を差し出す。小さくグラスを持つように。つい笑うアキラも真似をして。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯だ。それで食うんだ。美味いんだ、そりゃあもちろんだ、なんせ」
「評判がいいから?」
「そうだ」
話が終わる。
「いい時間を過ごすんだよ。二人でな」
「男二人で」「男二人でだ」
「あはは」
焚き火は燃えている。
「なあアキラ」「はい?」
「この物語の中で、永遠に失われてしまったものは、なんだ?」
「——え?」
夜の小さな火が、虎の横顔を照らしている。
「おまえの言いたいことって、そういうことなんじゃねえのか? アキラ」
その笑顔に、かすかに。寂しげな影が落ちているのだ。
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