第百二十八話 裁定

 いったい幻界とは、どういった世界なのか。


 立ち上がる虎の周囲から、凄まじい高熱で焼けた河原より濛々もうもうと吹き上がる煙と蒸気が薄膜のようにひらめいて渦を巻く。

 それでもイース=ゴルドバンには傷一つない。溶け流れる火砕の礫がばたばたと垂れるその内に見えた体毛ひとつ、着込んだ服でさえ燃えていない。


 効いていない。

「な、なんで……?」

 空より見下ろすクデンの牙が、がたがたと震える。


「どうだかな。てめえの火星が湿気しけってんじゃねえのか」


 下ろした右の拳からばたりっ。と落ちる焼けしずくを最後に、虎は上目でクデンを睨んだまま。


「そんな炎じゃ俺は焼けねえ」

「黙れッ貴様ッ! 生身のくせにッ! この身体を見ろ! 俺の身体を見ろ! こうやって空も飛べる霊化の——ッ!?」


 虎には、なにか確信があったわけではなかった。ただいつものように拳を握り、いつものように敵を撃ち抜くが如くに肘を後ろに思い切り引き絞った、その時であった。

 地上と、空と。離れて対峙していたはずの二人が。確かに浮いていたはずの若猫が。大気が粘土のようにぐにゃりと曲がる感覚を受けた次の瞬間。


 白猫クデンと虎は互いの目前にいたのだ。

「え?」

 思わず猫が呆けた声を出して。それはすべてのものが見ていた。爆圧で地に伏せた彼らの目にも一瞬で。まるで両者をへだつ空間が〝閉じて消えた〟かのような。


 見据える虎は何も言わず。

 腰を入れて拳をクデンの腹に打ち込んだ。


 巻きついていた蒸気が弾ける。

 四散する。アキラの壁が揺れる。


 そして空振が。そんなことがあるのだろうか。痛烈な一撃で折れ曲がるクデンの背を突き抜けて幻界を揺らす。到達した圧は狼と狐を氷で抑える空中のザーラをも吹き飛ばした。

 

 衝撃でザーラの前半身が押し潰される。「ぐぎゃ」と背が丸まって飛ばされた雌猫の下で、ケリーとノーマの背が軽くなる。咄嗟に二人顔を見合わせて。

「こ! のッ!」

 腕で踏ん張り同時に背を起こせば猛烈な破裂音とともに氷の山が砕け散ったのだ。


 打った虎と打たれたクデンの周りで、まだその衝撃の余波が残っているのだろうか、炎と白煙が速やかにかき消されていく。


 虎の打撃を受けて前のめりに折れ曲がるクデンは腹を押さえながら。痛い。痛い。と。痛みがあるのか? なぜ? 霊化する前より痛いんじゃないのか。痛みが消せない。逃がせない。

 ぎ、ぎいいと奇妙な唸り声を上げ、地に膝をついた。その時初めてクデンは自らが呼吸をしていないのを知った。息が継げない。胸も腹もなにもかも感覚が均一で、踏ん張りが効かない。ただずうっと同じ激痛が強弱もなく打たれたそこに留まっているだけなのだ。

 

 あれほどの熱波で溶解していた虎の周囲が、それも消えていく。冷えていく。火星イグニスの元素が急速に、大気へと帰っていく。

 膝を折った敵から目を離し、殴った拳を顔の側でイースがゆっくりと開いて凝視した。今の一撃はなんだ? この威力はなんだ?


 この場所は、この世界は、なんなんだ?


=世界の主導権がこちらに戻った。壁を解くぞアキラ=


 頭の声に、しかしアキラが反応しない。はっ、はっと荒い息を吐きながら、その厚い障壁の向こうで起こった一撃を見る顔の端にまだ、涙の跡が残ったままだ。


=囚われるな。お前が見たのは他人の過去だ。お前のものじゃない。囚われるなアキラ。壁を解くぞ。集中しろ=


「——わ、わかった」


 アキラが、まだ肩を荒く上下させながら両腕をゆっくりと壁に沿って上げていく。その挙動にフォレストンとグレイの二人は思わず構えて片腕で顔を覆って壁を見上げる。これを解くのだろうか、この巨大な壁を、と。だが。


 それもまた初めて目にする現象だったのだ。

 導師の少年も神主も、壁の変化に声が出ない。がらがらとひび割れ崩れていくはずの壁に六角形の美しい文様が上部から走って、半透明の障壁がはるか頂上から規則正しく、空中に霧散していく。


 こんな壁の解除を、フォレストンはかつて見たことがない。わずかに口を開けて凝視するのみで。


 ゆらりと立ち上がる象も、ロイも、バクスターも。虎と白猫の対峙から視線を離さないまま。ただ猛烈な爆発と熱波を耐え凌いだ怪物の右腕の籠手が、がしゃり。と音を立てて閉まったのに飛竜が一瞬目をやって。


 クデンが、それでも立とうとする。立ち上がる。ぶるぶると膝を震わせながら。腹を押さえた両手を離して、身構えて、睨みつけて。


 だが虎が言うのだ。


「——おまえ、崩れてるぞ」


 はっ。と、言われてかすかに下を見るクデンの腹部からざら、ざら、ざらと黒い粉が溢れて風に舞って散っていく。構えた右手だけを戻して懸命に腹部を抑えても指の間から粉が散って止まない。

 痛みと、苦しみが、怒りで消せない。押さえきれない。闘おうとする意思を押し除け圧倒する。


「ち、ち、ちきしょおおおおおッ!」


 力任せに蹴り上げたクデンの右脚を虎が旋回して躱す。外套が翻る。そのまま勢いで「ふッ!」と虎もまた横殴りに蹴りを入れた。疾い。クデンが右腹を肘で庇うのをまともに蹴り抜く。重い衝撃が走る。

「がッ!……この!」

 クデンの拳が虎の顎を狙う、が当たらない。ほんのわずかに引いた虎が左腕で拳をなしてがわに弾く。開いた白猫の胸に。


 畳んだ腕が弾けるように。腰をためて肩を入れて肘ごと全部撃ち込んだ。どおんッ! と凄まじい音が周囲に響いて。

「ごえ……っ」

 まるで体当たりでもくらったかのような一瞬の打撃にクデンの背中から空気が波打って広がる。


 白猫が胸を押さえて数歩よろめく。さがる。虎は押し抜いた右腕を肘ごと引いて。だが訝しげに少し顎を引きクデンを上目で睨むのだ。

 また打ちかかる、躱される。去なして、受けて、弾かれ、打たれる。何度も何度も。虎との体格差で吹き飛ばされても後ずさっても、何度もクデンが打ちかかる。


 完全な殴り合いで、そして一方的だ。虎にはまったく効いてない。すでにふたたび河原に立てた狼と狐の二人は、その遠くの殴り合いを見て、振り返れば。

 ばらばらと黒粉を散らせながら宙に浮くザーラは「はあ、はあ、はあ」と苦しそうに肩を動かしている。こちらも息はしていない、霊化の身体なのだ。それでもそこここに青白い炎をのぞかせながら「はあ、はあ」と肩を揺らして。


「ク、クデン」

 時折、そう名を呟くのみで。


 戦う二者を見る怪物モーガンは、完全に構えを解いてしまった。何を思うのか、ただその鉄仮面はひたすら虎へと打ちかかるクデンの姿をじっと追うばかりで。

 だから飛竜もバクスターも、うかがううばかりだ。虎と若猫との殴り合いを見て、それを目で追う象に視線を返すが、闘気も毒気も感じない。


 やがて。

 もう何度目かの殴りかかりを躱されたクデンの鎖骨のあたりを虎ががっしりと掴んだ瞬間。


「いいっかげんに——しやがれッ!」


 ごばんッ! と猛烈な頭突きを喰らわす。

 クデンの鼻と眉間が潰れたかのようだ。


 思わず後ずさって鼻を両手で押さえたクデンがふらついて。ついにまたしてもひざまづいてしまった。


 痛い。痛い。痛い。生きてる時より痛い。痛みが消えない。逃げない。なんだよこれ? 胸も、腹も、全部痛い。身体がある時の方が、まだ痛みを散らせた。怒りで消し飛ばせた。今は、なんなんだこれは? これじゃあ霊化しない方がはるかに——


「霊化の戦い方じゃねえぞ」

 虎が言い放ったのだ。思いを突かれてクデンが鼻を押さえたまま、虎を見上げる。


「てめえが言ったんだろうが『この身体を見ろ』ってな。ろくに使えてねえじゃねえか。霊化の魔導師ってのはくらわねえし当たらねえんだ。煙みたいに手応えがねえ。今のてめえみたいに近場で足止めて殴りあったりなんか、しねえんだ」


 遠くのザーラもまた、座り込んだクデンの背中を見据えて。震えているのだ。もうケリーとノーマの存在も忘れたかのように弟猫の背を凝視して震えている。


 それだけ離れていても、虎の声が響く。


「魔導もそうだ。身体捨てて霊化までして使ってんのが火星イグニスか? 理術も霊術も使えねえのか? こっちの元素を励起で使うんだったら、そりゃいくらでも上はいるぜ」


 睨みつけて言う虎の声に、顔を両手で押さえたままのクデンの瞳が細かく震えて。


「——おまえ、そんながむしゃらな戦い方するってんなら、身体あったほうがいてたんじゃねえのか」


 その一言に、ばらあっと。

 ひときわ大きくクデンの後ろから、背中から黒粉が散って。

 ずっと黙って見ていた鳥居の向こうの鴉の目が、動いた。


 彼方でザーラが小さく声を放つ。

「だ、だめ。だめクデン」


 しかし。

 クデンは聞いてしまった。目の前の虎に、尋ねてしまった。


「お、おまえ、なんなんだ。なんなんだよ。誰なんだよ、おまえ」

「俺は、蛇の艦長だ」


 白猫の目が大きく見開く。その全身の震えは一層酷くなり、鼻を押さえ込んでいた両手が解けてわずかに下がる。

 彼方のザーラも虎の声をはっきりと聞いた。その時初めてゆっくりと、宙に浮く自分の左右の地に立つ金色の狐と銀の狼を、交互に見て、そして。


「……だめッ! クデンッ!」


 一気に飛び出したのだ。宙を飛ぶ。狐と狼には目もくれず一直線に、弟猫の元に飛んでいく。


「クデン! クデンッ! 〝勝てない〟と思ったらダメッ! 諦めたら、諦めたらダメなのッ!」


 跪いた白猫は、肩ごと両腕がどさあっと力が抜けたように。虎の艦長を見る瞳から力を失って。膝の上に両手を落とす。放心した口から、やっと。


「イース=ゴルドバン……」


 そのつぶやき。

 何かを決めてしまったのか。

 

 突然に。鳥居の向こうで鴉が。

 巨大な翼を広げて凄まじい声をあげたのだ。

 場のすべてを痺れさせるほどに声が響く。叫びに全身を貫かれ誰ひとり動くこともできない。


 その幻界の河原に向かって。

 やはり鳥居の向こうで。

 

 黒く照るくちばしが上下に真っ二つに開いた。中は闇であった。同時にぼおおおおッ! と噴き出す真っ黒な霧か煙か虫の大群のような闇の粉が鳥居を潜って、嵐を起こして一気に河原へ流れ込む。


「うおッ!」「なッ!」


 獣たちが顔を覆う。世界が塗りつぶされる。黒煙は止まずその中心に、くずおれた白猫がそのままで、だが。クデンの身体からもざあああああっと勢いを増して湧き上がる真っ黒の煙が、周囲の嵐と同化していく。


「クデンッ! クデンッ! うわああああああッ!」


 ザーラが到達した。彼女の全身も黒い霧が吹き出し流れる。

 崩れていくのだ。

 崩れた身体でザーラが跪くクデンの背を後ろから抱きしめて。


 猛烈な嵐のような黒霧の舞に片腕で額を覆う飛竜は、象の化け物がその暴風の中で身じろぎもせず立ち尽くしたまま、姉弟の猫を見据えているのに気づいたのだ。



——・——



「……あ、あ、あれ?」

 まだ涙の乾かないリッキーが、計器盤の異常を見つける。右舷第一、第二主砲に通じる稼動域流線スチームラインに流れる魔力マナがおかしい。


 慌てて言う。


「ミ、ミネア。ミネアッ!」

『どうしたの?』

「そっちでなにかしてる!? 右舷1番と2番に励起反応フォージング!」


 リッキーの叫びが艦内のスピーカーに流れた瞬間。赤黒い空に羽根を広げて浮いていたウォーダーの右舷主砲群が弧を描くように重い駆動音を鳴らしながら、真っ直ぐ半透明のドームへ、ごおんッ。と。その狙いを定めたのだ。


 艦内が騒然とする。ミネアも操縦席から立ち上がってモニタに叫んだ。

「ウォーダー! 何するつもり? どこを狙ってるのッ!」

 管制室にダニーの声が届く。

『いかん。ミネア。ウォーダーに発砲を許すな』

「でも! どうやって」

 

『わからん。だが今ここで撃たせたらいけない。街の真上だ』

『位置が悪すぎるぞミネア。まだ避難がどうなってるかも不明だ。焼け出された住民に二次被害が及ぶ。この場所で戦闘を始めるのはまずい』


 ログの声も混ざる。モニタ前面に右から突き出された主砲群を見て、レオンとリリィも腰を上げたまま、不安げにミネアの方を向く。二人と目が合うミネアが、また計器盤に向かって。


「——ウォーダー。ウォーダー。聞いて。ここではダメ。何を狙ってるのウォーダー!」



——・——



 嵐のような黒き流れは一瞬、わずかに止んで。そして唐突に。

 ごおおッ! と。

「ぐあッ!」


 虎が唸って足を踏ん張る。河原の礫が弾ける。黒霧が、逆流して鴉の嘴へと戻っていくのだ。猛烈な勢いで鳥居を潜り、闇へと吸い込まれていく。果てがないほどいつまでも。おかしい。これほど続くのはおかしい。そう思うほど猛風が止まない。


 黒き世界が引きずり込まれていく、その中で。

「ク、クデン。クデン」

 姉のザーラが。座り込んで呆然とするクデンを背中から抱きしめて。虎は見た。アキラも見た。二人の身体から剥げそうになる黒い粉が揺らいで、揺らいで、時折確かにその姿に二重写しに。


 骨が、見えるのだ。二人の骨が見える。見えて消える。また見える。重なる。その身体からいくらでも散って吸われて逃げていく霊化の霧が、また戻って霞んでを繰り返しながら。


「クデン。ごめんなさい。ごめんなさいクデン。あなたは悪くない。あなたは何も、何も悪くないクデン。そうよね」


 必死に語りかけるザーラに、しかし弟は反応しない。やがてついに姉ザーラがぎりいッと目前の虎をはっきり睨み据えて。


「おまえ、おまえがッ——!」


 言い放ったのだ。

 嵐に軋む虎の目が、その言葉に見開かれる。叫んだザーラの顎が崩れて骨が見える。


「あたしたちはッ! こうしなければいけなかったッ! こんな、こんな、こんな馬鹿みたいなッ、馬鹿みたいな生き方をして! 殺して! 殺されてッ! 似合いもしないわ! するわけないじゃないッ! こんな生き方ができないなんてッ最初ッから解ってたのよッ!」


 ばらっばらに顔が剥がれて崩れていくザーラの声がこだまして。


! ! 育てているの? 自由にしたの? 自由に空を旅してるの? ふざっけるなそれで私たちもあの子らもどんな目に遭ってきたのか知ってるのかッ蛇の艦長ッ!」


 もはや崩れて頭蓋の骨まではだけたザーラが涙を散らして、そしてしがみ付いたままのクデンの頬を撫でれば、そこからもざらあっと粉が舞い散って。


「さあ、クデン。優しいクデン。立って。立つのよ。最期までやりきるの。やりきらないと、私たちは本当になくなってしまうの。それだけは、それだけはダメ。クデン。立ってクデン」


 言われたクデンは、やがてゆっくりと立ち上がる。猛烈な風の中を逆らうようにザーラを背に抱えながら立って、首を向けたのは怪物モーガンの方へだ。

 姉弟の猫から崩れて散る黒粉は一向に止まず、象へと顔を向けるクデンの両の頬からもばらばらと流れて剥げて消えていく。


「——モーガン」


 その声も、この暴風の中ではっきりと響いた。


「ここに、蛇がいた。俺たちはけた。報告しろ、モーガン」


 鉄仮面の内側は窺い知ることもできず。言葉を受けた象は頷きもせず。ただ、散りそうになる二人を見据えたままで。もはや骨の見えるクデンの口元が動いた。


 ごめん おれたち やっぱりだめだった

 ごめんな モーガン


 どおんッ! と凄まじい音が響いて。

 姉妹の身体が剥がれ散って、二体の白骨となったのだ。


 そして初めて黒の霧が晴れていく、吸い込まれていく。消えて、消えて逆流するように鳥居を抜け、すべて戻って勢いよく鴉の嘴が閉じたのだ。

 牙を噛む虎も。呆然とするアキラも。そこで立つすべてものたちの前で。地に残った白猫たちの亡骸ががらあっと崩れしなにまるで真っ白な砂の如くに。


 普段の風へと消えていった。

 そこにはもう、なにもない。



 ややあってゆっくりと首を傾げ、上目の形相で鳥居を睨むイースの視線の先。

 

 こちらへ来る気がないのか、それとも来るに叶わないのか、佇む赤の門から覗き込むように巨大な鴉は頭をはすに降ろし、焼け爛れた顔で河原を見据える。

 かかかっかかかっと音がする。細かく震えた嘴が鳴っているのだ。それもまた、わらっているのか威嚇なのかもわからない。


 虎の全身が怒気で微かに膨らんだようで。

「——てめえ、裁定人でもやってるつもりか?」


 言葉に反応した鴉の赤い眼球が動いた。虎を見る。そしてアキラを見る。最後に見たのは空だ。

 鳥居から覗き込む鴉がぎろおっとその目だけ動かし、ここにいるものでもなく幻界の河原でもなくその向こう、なにもないはずの白濁した北の空、ただ一点を見据えている。

  

——・——


「ウォーダー。おねがい。言うことを聞いて……」


 まだぴくりとも動かない操縦桿を握る両手に額を乗せて、祈るようにミネアが呟く。計器盤のパネルから、右舷主砲群の励起反応は消えていない。

 蛇は右の翼で狙いをつけて。じっと動かない。


——・——


 おもむろに鴉は黒い翼を広げた。巨大な風切り羽が空を覆う。

 ごおっ と河原の石を舞い上げて突風が吹く。

 場の者たちが驚いて腰を沈めた。虎もそうだ。獣たちに構える暇も与えず鴉は鳥居の向こうで地を蹴った。


 一気に飛び立つ。こちらには来ない。

 ひとたび羽ばたいた空を覆う巨体は、彼らの場所より南へと退がって、イースが「くッ」と呻いて額の腕から見上げた時には。


 もはや白濁の空に遠ざかった鴉の羽は霞んで見えて、空で閉じていく。嘴を下げ、首を引き、足も仕舞われて、まるで闇の門が閉じるように風切り羽ごと閉じて畳まれる。

 はっきりと音が聞こえた。ごおん、と。本当に門が閉じるような音がして、彼の身体は鳥でありながら菱形の種子にも黒曜の結晶にも似た塊となって、距離感が薄らぐように遠くなって遠くなって、小さくなっていく。


 ただ一瞬だけ。イースは確かに見えたのだ。

 

 完全に種子の形状となりぎざぎざの隙間を閉じていく鴉のその奥で、赤い瞳はこちらを睨んでいたはずなのだ。虎には、声すら聞こえたような気がした。


『いつまでも こんな場所に居るな』


 そう言わんばかりの瞳であった。あるいは、そう言ったのか?

 

 白く霞む幻界にずうっと南方へと連なるウルファンドの崖、その上にも存在していたはずのいくつもの、同じく菱形の結晶のような黒の種子たちも、薄らぐのでなく、動くのでなく、まるでこの世界がレンズ越しに膨らんだかのように距離感がおかしくなって。

 遠くなるのだ。小さくなる。空へ遠くへと一列に並んでいたそれらは見るに難しくなって去っていく。


——・——


 ごぅん。と。

「ミ、ミネアッ!」

 リッキーが叫んだ。


 管制室でも皆が気づいた。蛇が構えを解いたのだ。右舷の主砲群は鈍い駆動音を空に響かせながら、ゆっくりと弧を描くように広がって、元ある場所へと戻っていく。

 はあっ、と息を吐いたミネアが操縦席に身体を預けた。桿をわずかに動かせば抵抗も消えている。リリィとレオンも座席にへたり込んだ。


『励起が収まっていく。ミネア大丈夫か?』

「うん。大丈夫そう。炉は?」

『炉も異常はない。着水した方が良さそうだな。船渠ドックに連絡してくれ』


 ダニーの声に「わかった」とだけミネアが答えて、ゆっくりと蛇を旋回させる。問題なく動く、違和感はない。だが。

 

 リオネポリスでの戦闘直後に行った竜脈移動ドライブは、かつてない体験だった。あれは通常の蛇より二倍、三倍、それ以上の猛烈な速度であった。ケリーとノーマはクリスタニアの湖で一度だけ、その飛行状態を目撃したらしい。

 何にしても機体の点検は必要だし、滝の船渠も気になる。ミネアが腕輪を口元にやった。


断崖船渠グランドックに移動。姿勢制御スラスタ30。着水準備」


——・——

 

 すべてが終わって。幻界の中にあと敵はただ一人。

 だが象の怪物は緩く鼻をなびかせたまま、誰相手にも構えようともせず、そして。おもむろに兵士と飛竜に背を向けて、歩き出そうとしたのだ。


「どこへ行く」


 声を投げたのはロイだ。上目で象の後ろ姿を睨んでいる。モーガンの歩みが止まった。が、振り向くことはしない。


「まるで、二人はここでくたばるのが幸せであったかのような振る舞いだな」


 静かな声だが、降ろしたロイの拳は固く握り締められていた。飛竜は一歩詰めようとする。


「貴様らの軍は兵隊に何をいている? このまま帰すわけには——」


 ふと気づく。それは虎も、他の面々も気づいた。

 未だうっすらと白く濁るこの幻界の河原に、透明であったためなのか見えづらく数もわからないいくつかの、風船のような、大きな泡のような、輝きもない透けた球が。


 導師フォレストンの全身にぶわあッ! と冷や汗が浮いた。

「退がれッ法術の爆雷だあッ!」

 少年の声が響いた瞬間。


 河原の全面に散った透明の光球が一斉に爆発したのだ。爆炎を伴わないそれは地球の爆弾に似て猛烈な圧と衝撃を伴って砂礫を吹き飛ばし、轟音とともに視界は失われた。


 フォレストンとアキラは神主に守られた。牙の鳴りも一瞬に反応したグレイは素早く振り向きざまに三人をまとめて包む壁を発した。

 虎は爆風を受けた。だがその頑強な魔力に覆われた身体は衝撃波と礫をまともに打ち返すに十分だった。むしろ咄嗟にノーマを庇ったケリーは背中からもろに爆圧を喰らい、吹き飛ばされたと同時に意識を失ってしまった。


 宙に浮く無限機動ヴァルカンは爆圧を受けなかった。寸前に光球の位置よりスライドしたのだ。だが外までは間に合わなかった。衝撃で吹き飛んだバクスターが纏っていた壁が砕け散って、その光を消した。「が、はっ」と開いた口から血が飛び散る。


 ロイは。あろうことか全身を包む壁と鱗で爆風をまともに弾き返し、速攻で。

「貴様ッ!——」

 白煙を突き抜けて怪物へと突進したのだ、が。


 彼方かなたから。

けるんだロイさんッ!」


 叫びは飛竜の脳に凄まじく響いて、咄嗟にざあっと礫を飛ばし本能的に身体を仰け反らせたロイに向かって、振り向きざまにモーガンが右腕の籠手を。発砲の爆発によって撃ち出されたのは。


 網だ。光の網である。それが網状砲線バインドフレアであることをロイが認識する刹那があった。生捕り? 此の期に及んで、俺を? 飛竜が混乱する。


=なんだ。この魔力はなんだ?=

「え、ええっ!」

=数千万のジュールが、象の周囲で蠢いているぞアキラ!=

「なんだって!」


 モーガンが腕を引いた。空の網が引き絞られる。飛竜の強靭な鱗はあだになったのだ。左腕が逃げきれなかった。鱗が完全に網に巻き込まれた。

「ぐッ……このッ!」

 耐える、踏み堪える。だがロイは見た。


 引き絞った両の腕を胸元に折りたたみ背を丸くした怪物の全身が激しく発光していたのだ。


=あれは、まさか。——アキラ〝爆縮〟だ! 網を切り飛ばせッ!=

 

 ロイの足元で。河原の礫がいくつも宙に浮いたのだ。浮いて震えている。


=あれは〝転移〟だ! 奴は〝転移〟しようとしている! 網を切れトカゲが持っていかれるぞッ!=


 声の叫びにアキラが強烈な視線を向けて。その瞬間。

 起こったのは。側にいる神主の身体も覆う壁も河原の空間をも飛び越えて。ぐにゃりと世界が歪んだような気がして。前のめりになるアキラはすでに飛竜ロイの巻き込まれた左腕のすぐ上の空中に居た。


「うわああああッ!」


 どおんッ! と。振り下ろしたアキラの右腕防御服プロトームから発した細身の光剣が一閃、魔導の網を飛竜の左手首ごと纏めて切り落としたのだ。

 血飛沫が糸を引く、粘土のように伸びる。ロイの手首と光の網が吸い込まれる。モーガンの全身から周囲の空間が球を描いて一瞬輝き、無数の放電とともに。


 怪物は消えて。河原の土砂が抉り取られて、そして。


 その球に同じ量の土が吹き上がったのだ。土は、雪が混ざっていた。割れたように弾ける土砂は崩れ落ち、そこに巻き込まれなかったいくらかの真っ白な雪が、あとから地に落ちてくる。



 怪物モーガンは、その巨体を消した。


=遠隔地の交換……爆縮で、そんなことまで出来るのか=


「わ、わああ、わあああああああッ! ロイさん! ロイさんッ!」


 完全に気が動転してしまったアキラは。地に落ちて四つん這いのまま、これもまた切断の衝撃で後方へ投げ出されたロイへと。

 飛竜は斬られた手首を押さえていた。ぎいいいっと牙を食い縛り声すらあげない。激しく息を継ぎながらばたばたと血の垂れる左腕を握りしめている。


「ロイさん! ロイさんッ! 俺ッ!」

「わかっ……てる、わかってる、アキラ」

「すみませんッ! すみませんすみませんロイさんッ!」

「わかってるッ落ち着けッアキラ!」


 かろうじて上半身を起こしていたロイの側まで這ってひたすら謝るアキラに、飛竜が言うのだ。

 

「おまえは、私を助けたんだ。落ち着け。傷に響く」

「は。はい。はい。」


 無限機動ヴァルカンが着地する。同時にウイングドアが開いて運転席のフューザが飛び出した。少年も神主の横から走り出す。

「バクスターさんッ!」「バクスターッ!」


 虎は立ち尽くしたまま、西を見た。ノーマの膝でケリーが気を失っているのが見える。狐は必死に、狼を揺り起こそうとして。

「ケリー。しっかりして。ケリー」


 兵士の側に駆け寄る二人も見える。その先に四つん這いのまま荒く息を注ぐアキラの横で、ばたあっと仰向けになって空を向くロイの姿も見えて。さらに向こう。


 イースの瞳が丸くなる。

「——ボッシュ?」


 咄嗟の声を飛竜に放ったのは、遠くで倒れていた黒熊ボッシュであった。彼もまた無限機動ヴァルカンの壁の庇護を受け、瀕死のままあの猛撃の熱波の中にいたのだ。

 遠くでアキラとロイのやり取りを、肩で息をしながら見守っていたボッシュが、再びその場にくずおれて動かなくなった。気を失ってしまったのだろうか。


 すべての場所で、皆、傷を負っていた。

 一瞬であった。

 大きく、大きく息を吐く。拳の軋みはそのままに。白濁した空に虎が呟いた。


「なんてぇ化け物を飼ってやがるんだ、ヴァン」



◆◇◆



 その場所が、どこなのかはわからない。


 もうあまり空まで距離が残されていないかのように、高原の地平を走る山稜は頂が低く、雪に覆われていた。溶けぬ雪だ。ずっとどこまでも敷き詰められた丈の低い草のそこかしこに点々と、黄色と紫の花が咲いている。

 空はよく晴れて青々と澄み渡っていながら、雲もまた低い。真っ白な綿毛のような雲の裏はずしりと暗く灰色で、幾らかが頂にかかってそこだけ切り取られたかのように冷たい曇天のもとにあった。


 高原は草の他には荒地があって、多くの墓標が立っていた。規則正しくなく無作為に、膨らんだ土に無造作に、風であろうか傾いた木の墓標がずっと続いている。


 はしゃがんで木を拾っていた。手頃な木を運び、山となった材木の場へと投げる。がらんがらんと音がするに構わず、その外套をなびかせて。頭部から垂れた黒いたてがみが揺れる。照るほどに艶のある体毛に覆われて露出した筋肉質の首を、そこでやや傾げて。


 気づいたのだ。

 遠くから、右胸に何かを抱えた象の獣人が歩いてきたからだ。馬が言う。


「手ぶらか。珍しいなモーガン」


 歩いてきた象は何も言わない。かまわず続けるのだ。


「歩いてきたってことはゲートを使ったのか? ひとりか? メイネマの姉弟は、どうした?——っと。」


 ぶうん。と。象がなにも言わずに馬へと投げてよこしたのだ。相当に大きい。が、それを片手で易々と掴んだ馬が顔を露骨にしかめる。硬い鱗に覆われた左腕だ。手首の元からきれいにばっさりと、切り落とされている。こちらを見ることもなく馬の横を通り過ぎる象に、軽く鼻を鳴らして。


「網から逃げたのか、結構な使い手だな」


 特段嫌味というわけでもない馬の声にも背を向けたまま、歩いて、ただ歩いて、そして先ほどの材木の山より。二本。一本を右の脇に挟みもう一本は掴んだまま、ふたたびモーガンが歩み去っていく。


 後ろ姿を目で追うだけの馬は、もはや声をかける風にでもなく。


「死んじまったのかよ、あいつら」


 その場で呟いたのだ。

 雲が陽を隠したので、高原に冷たい風がごお、と吹いた。


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