第百二十七話 雪の匂い

 雷撃で沈黙した骨の山を突き破って。

 一直線に二つの影が幻界の燃える火焔を飛び越えてきたのだ。


「うおッ!」「艦長ッ!」


 疾い。ひとつは抜けた。叫ぶケリー、ノーマは身体が反応しなかった。鳥居の向こうに忽然と現れた馬鹿でかい鳥に意識を奪われていたからだ。中空をホバリングする二機の間を抜けて、その向こうに浮くロックバイクへと。


 虎が目を剥く。ぎゅるりと球のように丸まった影から振り上がる掌と爪が見えた、その一撃を、しかし。


「くおッ……のッ!」


 避ける。右手でハンドルを引き下ろし左は素早く放して反って避けた寸前の宙を、打ち降ろすように縦に抜けた爪撃そうげきの、だが軌跡に沿って現れたのは。


 縦一直線に並んだ果実大、ぼぼぼうッ! と。赤の球が、七つ。まずい。反った左腕を虎が戻して顔から半身はんみを覆う。


 瞬間。爆発が起こった。

 連鎖して七つ、上から下へと。


 鳥居とその向こうから睨む巨鳥の眼前で、黒塊と虎のバイクの真ん中で空を斬るように起きた爆発に、だがイースが耐えたのか。

 巻き込まれて「ぐおッ!」と吠えた虎は乗っているバイクごと空中でとどまる。落ちも引きもしない、そのまま爆圧の中で止まる。


 対して黒球は打ち降ろす爪がそのままに、ばっくりと裂けるように爆風でめくれたのはまさに漆黒の外套だ。内より現れたのは。


 軍服の白猫クデン=メイネマである。

「ふッざけるな貴様らあッ!」

 霊化の指令官が吠える。


 できあがっていた、姿はまさに生きていた時そのままだ。奇妙なことに宙で起こった爆発音よりも彼の咆哮がより凄まじく頭に響く。この界の仕組みなのだろうか、イースが顔をしかめて返した。


「なんだてめえは——ッ!」


 空中で睨み返す虎の目に映ったのは。

 身体を丸めて振り下ろした右腕をまた素早く引き戻した白猫の、右上半身に燃え盛る火星イグニスの励起だ。もう一撃がくる。


 きた。

「うっらあああああッ!」


 次は横一線に振り抜いた。未だ爆発しつつある正面、宙に留まる豪炎の塊を斬り破る火焔の流れが——しかし。あり得ない。それもまた。

 どちらも牙が軋む。睨み合う両者の端境はざかいで、鴉の前で。


 クデンが右腕から放った暴炎の流れが、そして先程の爆発でさえも。まるで宙に粘りつくにかわのようになにもない空を塗って留まる。燃えているのに、炎の先々まで時が捻れて止まったかのようだ。


 地のものも見た。刹那の一撃が、爆発が。炎が。目を丸くするアキラはまるで映画の特殊効果を見ているが如くで。


 時間が、おかしい。

 見る鴉はひたすら黒く仁王立ちする鳥居は赤い。


 これはなんだ? 奴の仕業か? 虎は鴉に目をやる余裕さえあった。それほど炎が遅い。止まっている、蟲を焼いた時とまるで違う。目を戻す。空中に止まったままの爆炎の向こうで腕を振り抜いたクデンもまた「あ……あ?」と明らかに驚きの目を剥いて浮いたまま口を半開きにしている。

 

 後方で起きた衝突と爆発を、その限りなく遅い爆炎を、振り向いて視線を投げていたケリーとノーマに、もう一つの塊が迫った、それも猛烈な勢いで。


 気づいたのは狼だ。

「ノーマッ!」


 吠える。狐も顔を振り戻す、その向こうから飛んできたのだ。ぎゅるうっと縦に回転する丸く黒い塊が眼前に勢いをつけて。ざあっとノーマの全身が毛羽立つ。


 しかし、これも。

 ずがあんッ! と。とんでもない音を立てて。

 その途端。


「うあッッ!」「ぎゃんッ!」


 声がふたつ。叫んだのはノーマと、その塊が解けて開いて。

 

 宙で見ていたケリーが目を見開いた。

 ここでもまた。時が止まったかのように。

 

 モノローラの上でまともにぶつかってこられた狐は顔面、額の前に張られた透明の壁に大きなひびを入れて身を竦めている。

 対面にぶわあっと広がったのはこれも同じく外套で、中から現れた軍服より膨らんだ毛の白い雌猫が叫んで両手で押さえ込んでいるのも、まさしくノーマと同じ額であった。


 真正面から額がぶつかったのだ。それはわかる。わからないのは浮かぶ雌猫の周りに奇っ怪な波のような蝶の羽のような不規則な曲線を描いて固まっている、それは。


 氷だ。透明の薄い氷。

 ケリーがもう一度叫ぼうとして。


「ノーマ……ッ!?」


 だがやはり遅い。正面衝突した二人の動きは狼がきっちりと目で追えるほどに遅い。雌猫の周囲にくしゃくしゃと広がっていく氷幕の成長も散る水をスローモーに捉えるが如くなのだ。


 なによりも驚愕して狐を見ているのは額を押さえるザーラだ、あり得ないといった顔で。

 通らない。通るはずだった。霊化の自分はこの女狐めぎつねを容易く擦り抜けて、氷の幕でざっくりと縦に斬り伏せられる——はずだったのに。


顕現自在フラッグマイン〟が効かない。それこそ霊化の特権なのに。額を押さえた手の奥から目を剥いて。

「……な、なんで」


「痛ッたいじゃないッなにするのよッ!」

「ぎゃあ!」「うおッ」


 耳を塞いだのは対面のザーラだけでなく離れて見ていたケリーもなのだ。金髪を振り乱したノーマの怒声が凄まじく耳のすぐそばで吠えられたかのように響く。おかしい。時間も、距離感も、なにもかもが。


 ノーマの怒声に反応したのは、遠くの怪物モーガンであった。燃えたつ炎に浮く狐のモノローラへと咄嗟に巨体ごと振り返り、ぐんッ! と伸ばした右腕の旋刃が音を立てて開いた籠手に、魔砲の射出口が三つ。だが。


「貴様の相手はッ! 私だ!」


 跳んだ。ロイだ。外套がひらめく。象が気付いて翻って、そしてバクスターは見た。見てここでもまた。兵士が呆気に取られた。


「——ぐッ?」


 かすかに唸る飛竜の身体が宙に、飛びかかった体勢のまま。ここでも起こるのだ、時間が止まったように動かない。

 ひらめく外套も振りかぶった飛竜の拳もそのままに、まるで空中に固められたかのように動かない。ぎりりっと身体の鱗が軋んで音を放つ。怪物を睨み下ろしたまま宙のロイが声を放つ。


「こ、これはッ?」


 振り向いたモーガンもまた、その勢いの途中からがくん! と見えない力で全身を縛られて。長い鼻の流れが顔についてこない。戻す右腕がついてこない。


 対峙する三者、すべて。

 互いに身体が僅かずつしか動かないのだ。


 燃える炎も、散る氷も、足元で弾けるつぶても。その三組の周りだけ、時間の流れが止まったかのようで。


 離れた場所に固まるグレイ、フォレストン、アキラ。狐と雌猫の横で飛ぶモノローラのケリー。そして象と飛竜の脇で構えるバクスター、後ろで飛ぶ無限機動ヴァルカン。彼らは時の影響を受けていない。


 はあ? という顔をしてあんぐりと口を開けて見る少年の横で、アキラの頭に声が響く。


=時間の奪い合いだアキラ=

「は?」

=おそらく主導権の奪い合いが起きている=


 隣で神主グレイが目を剥いて、隣のアキラ猫を見下ろす。

 声が聞こえる? この声は、誰だ?


「な、なんだよそれ!」

=意思ある者同士の衝突だからだ、蟲の時とは違う=

「わかるように言えよッ!」

=あとで話す。構えろ。壁を張れアキラ。火星イグニスの流れがおかしい=


 敵同士が互いに時を奪い合う。

 幻界で、ありえないことが起きている。だが、さらに。


 まさに襲い掛かろうとして宙に固まる飛竜と、それを迎え撃とうとする怪物モーガンの、二人の姿を遠目に見てしまったのだ。


 虎が見てしまったのだ。右目の視線にかすかに映してしまったのだ。


 幻界では。この場でそれは、やってはならないことであった。

 驚愕の目を見開かせて。

 揺らぐ時の中で首を向かせる虎の脳裏に。それは。


 映った。同時に、アキラの目にも映った。

「——え?」


 一瞬で。視界の景色が書き換えられた。

 それは、どこなのか?



 どろどろに赤く焼け爛れた瓦礫から放たれる熱波がそのまま炎となって地を焦がすほどの灼熱の戦火のもとで。宙に固まって浮いていたのは飛竜ロイであったはずのそこに、まったく同じ姿勢で身動きが取れなくなっているのは、巨大な魔導の両手剣を大上段に振りかぶりぼさぼさの銀髪を振り乱した、人間の剣士であった。


 アキラが見知らぬ剣士の表情まで、なぜか離れたこの距離からもはっきりとわかる。ぎりぎりと食い縛る歯の軋みすら聞こえるほどで。猛烈な攻撃の意思と、見えぬ圧で縛られた苦悶の感情と。


 対峙しているのは象の怪物ではなかった。

 敵もまた、書き換えられていたのだ。


=あれは——=


 白く煤けた煙の向こうに立つその影は影ではなく漆黒の法衣に包まれた、中もまた黒く鈍く照り返す頑強な鎧を全身に着込んだ騎士であった。浮かぶ大剣の男に向かってわずかに差し出された右手がいかなる力を発しているのか、空中の剣士は固められたまま何もできない。

 騎士の鎧のあちこちには魔導の紋様であるのだろうか、幾何学的な電子回路のような光の筋が甲冑の繋ぎに合わせて織り込まれ、ローブに覆われた兜からは短く太い牙にも似た頬当てが伸びて——そして。


 視界の向こうに。アキラが見る。

 騎士と剣士のはるか向こうに、焼ける大地に。誰かが倒れている。伏せて必死に立ち上がろうとして、立てずにいる。


 虎だ。イースが彼方に、倒れている?

「——艦長?」

 呆然とするアキラがかすかに声を放つ。

 漆黒の騎士がゆっくりと、こちらを向いた。その顔をアキラは見た。


 顔がない。ないのではない、覆われている。真っ黒な、穴のような、平たい巨大な黒曜の宝石を顔面があるべき場所にはめ込んだかのような、そんな異形な。


 はるか遠くに見えるイースがぐん! と顔を上げた。

 そして、その声は。

「やめろザノアッ! 手を出すなッ!」

 遠くから聞こえたのか。後ろから聞こえたのか。だが確かに——



「やめろッザノアアッ! 手を出すなッ!」

 宙に浮くバイクに乗った虎もまた吠えていたのだ。手を差し伸べていたのだ。固まったロイと怪物モーガンに向かって叫んだ声が終わる間も無く。


「ぐあらあああああああああッ!」

 クデンが動いてしまったのだ。


 炎が虎に襲いかかる。燃える拳が艦長の左頬をまともに撃ち抜いて、虎の巨体をバイクから引き剥がした。


 すべての時が走る。それを境に。


 衣のように氷の幕を着込んだ雌猫ザーラが「きひゃあああッ!」と叫ぶと同時に打ち下ろす右手のひらに向かって、しかし。ノーマが疾い。ふっ! と一息だけ吐いた狐はモノローラのシートに立ち乗りのまま金髪をなびかせ身を躱す。長い髪のいくつかが確かに凍った。だが空振からぶって前倒しのザーラの顔面に。


 まともにカウンターで掌底を打ち込んだのだ。

 その掌底が、めり込んだ顔面で爆発を起こす。

 ゼロ距離で爆圧を受けたザーラが宙で翻って吹き飛ばされた。


 虎から引き剥がされたロックバイクが地面に墜落して横滑りに礫を飛ばし、火焔に焼かれた虎もまた地に叩きつけられて。白猫クデンがその上空で「があああッ!」と両の拳を頭上に振り上げ体を反った。


 クデンの全身が輝く。


=まずい。壁を張れアキラッ!=


「ぬうううあああッ!」

 大きく振りかぶって棍棒のように、ロイがその鱗に覆われた右腕を叩き下ろす。モーガンの籠手は射出状態で完全に開いていた。旋刃も三つに開いて回転していない。動きの戻った巨体の怪物は異様に俊敏であった。振り戻した右手の籠手で飛竜を狙って。だが。


 ロイはそれ以上に疾いのだ。自分に照準が向けられたと悟る瞬時に振り下ろす右手の肘を折って戻して畳み込むように。


 クデンの全身が輝いている。両腕を振り上げたまま。


! 壁を張れッ!=


 頭の声が

 鴉の目が動いた。赤い瞳がアキラを見た。


 三者の攻防を突き抜けて、それは起きた。


 宙に浮く無限機動ヴァルカンが突然。異様に甲高かんだかい起動音を唸らせる。硬質な膜が機体を包んで、そして。地に立つバクスターの全身に。同時に肘打ちで象の右腕を押し下ろしたロイの浮いた体も。どおんッ! と。透明な膜が発現したのだ。


 ザーラを吹き飛ばしたノーマと。その横に離れたケリーも。二人の乗るモノローラが急激に両極カウルがして。

「うおっ!」「えッ?」

 硬質な発動音とともに、乗る二人の壁のさらに外から二重に防御壁が発現する。


「なくなってしまええッ!」


 叫ぶクデンの打ち下ろした両腕からどおっ! と噴き出た白光が、地に落ちて身を起こす虎の頭上へと。イースが見上げて。


=張るんだアキラッ!=

「うわあああああッ!」

 アキラと神主と少年と。その前に地面の礫を吹き飛ばして分厚い壁が立ち上がった。

 

 虎の艦長に撃ち降ろされた白の砲線がその身を包んで、瞬間。

 幻界の河原に猛烈な爆発が起こったのだ。





「あ、ほらほら竜脈だ。竜脈が走ってますよイングリッド様ッ」

「あっぶないだろうがこっちに来るな十三ひとさんッ」


 運転席の十一隊長に被さるように大柄なギャレットが身を乗り出して指差す窓の先に。西から東へなのだろうか、遠くに連なる森の上空を一直線に、光の道が横切っているのだ。


 帝国の四人を乗せた小型無限機動ベスパーは平たい丘陵を道なりにずっと飛んでいた。そろそろウルファンド大断層も近いはずの大地を進むその機体の、後部に座るイングリッドと少女ソフィアも、十三隊長に言われるまでもなく光をじっと見つめたままで。


 女史が答える。


「わかってる。——すまんが、風防を開けてもらえるか?」

「え? はい。了解です」


 運転する十一隊長がちょっと退けよとギャレットの胸を左腕で押し返しながら、パネルのスイッチを入れた。ごうんと音がしてフロントの風防だけを残して座席を覆っていたガラス面が後方へと折り畳まれていく。

 一気に吹き込む風が全員の髪を巻き上げる。ギャレットが「ひゃあっはあ。」と賑やかな奇声を上げるに構わず、イングリッドが少し身を乗り出した。


 竜脈を見つめる。その肩越しに少女も首を乗せてくる。立ち上がって風を受けるギャレットがそんな後部座席の二人を不思議そうに見た。確かにこの地方では珍しいのかもしれないが、そこまで凝視するものでもないはずなのだが。


 肩のソフィアに、女史が目線だけ向けて。

「——わかるか? ソフィア」


 少女が頷く。小声で言う。


「感じる。おかしい。火星イグニスが流れてる」

「やはり火星の変調か」

「うん。火星だけ東に、ウルファンドに流れてる。誰かが火星を激しく消費してる」

「……戦闘か?」

「戦闘だとしたら酷いことになってる」


 それだけ言ったソフィアがイングリッドの肩から離れたので、女史が座席に座り直して十三番に人差し指を振る。


「座るんだギャレット。——もう大丈夫だ、閉めてくれ。そして急いでくれ」

「えっ。はいっ。はいっ」

「了解です。ほら座れって」


 



 蛇は完全に停止してしまった。ここより街の南、破壊されたゴンドラ駅の向こうに現れた半円の透明なドームを見る形で頭部が向いたまま。


「ウォーダーどうしたのッ」

 言葉にも反応しない、操縦桿も動かない。だが計器盤には何も異常は現れていない。堪りかねたミネアが腕輪に言う。


「ダニー。動力系?」

『いや。こちら異常なし。炉も安定している。ウォーダーが自分の意思で停止しているようにしか見えない』

「なんで?」

『俺にわかるわけ——いや、待てミネア』


 その返答が聞こえる前に、管制室のレオンとリリィががた、と身を乗り出して前面モニタを見つめていた。映り込む異変にミネアも視線を奪われたまま。


「……なにあれ?」


 街の南側を覆うドームに向かって竜脈からふたつ、みっつほどの小さな竜巻状の光の渦が、現れたり消えたりを繰り返しながら揺らめいて降りている。モニタを見つめるレオンの顔が険しくなって。ダニーの声が続けた。


『元素星の様子がおかしい。竜脈から火星イグニスだけが移動している』

「火星? 竜脈から単体元素だけ?」

『量が異常だ。魔導錨アンカー接続時の数倍は流入している』


 その報告にリリィが目を見開く。

「中どうなってんですかね? みんな飛び込んだんでしょ、あれに?」

『わからん。だが艦長にしろ誰にしろ、元素量に比べてフィールドが狭すぎる。まさか爆発などしないとは思うのだが』


 ミネアが、呟くのだ。


「——誰にしろ、って、艦長以外に誰がいるの? そんな火星の使い手がいるの?」





 アキラは喉が引き攣って声が出ない。立て膝で両手を広げ瞬時に張った高度数リームほどの巨大で頑強な壁が、ぎりぎりと音を立てる向こうで。


=アキラ。熱流が回り込む。もっと壁で囲い込んで——=


 またどぉんッ! と爆発が起こった。

「ぐうッ!」

 三人の壁の向こうで土砂が弾け飛ぶ。白煙が舞う。声がアキラの身体に何をしているのか、轟音は相当に減衰されて聞こえる、が。


「消えっちまえ消えっちまえ吹っ飛んじまえよッ!」


 やたらに響く若い雄猫の声が一向に止まずに次々と。高空に浮かぶクデンが右手に左に両腕にと振り下ろすたびに巨大な火球が生まれては地上へと。イースのいた場所へと。撃ち下ろして止まないのだ。


 ケリーとノーマは地上に墜落していた。最初の大爆発で制御を失ったモノローラが二機とも後方に、カウルを地上に埋めた形で倒れている。

「ぐっ……この」

 艦長ただ一人に向かって打ち下ろされる爆撃の熱波が、身体に纏った壁を伝わって焼けるように鼻を突く。息が詰まるほどの熱が顔の体毛をじりじりと焦がすようだ。それなのに。

「なんっ……だこれはッ!」

 

 地に伏した身体が起きない。顔が、胸が、腕が上がらない。背中が異様に重くて硬い。かろうじてぶんッと首だけ振れば、ノーマも地面から起き上がれずに、しかも。

 その背中から全体にかけて甲羅のように透明に輝くぶ厚い壁のような——ケリーが目を見開いた。


 氷だ。氷が背中から全身を覆ってノーマを地に押し付けている。では自分も? だがこの凄まじい熱波の中で? 氷が?


「あは。あはは。素敵よ素敵クデンッ。邪魔はさせないから。あたしが邪魔はさせないからッ」


 背中の上で声がする。相手が見えない。必死に首を向けようとケリーが試みるが。

「じっとしてなさいよッ!」

「ぐあッ!」

 一段と身体が重くなって。右手が押し潰されそうで。完全に、圧倒的に水星ハイドラの主導権を奪われた。ぎりりとケリーの牙が鳴る。


 風が炎と煙を巻いて流れる中に雌猫ザーラは浮いていた。両手のひらそれぞれをケリー、ノーマの二人に向けてぶるぶると振るわせる彼女の顔は鼻から下が爆圧で焦げた先からばらばら黒粉を散らしながら。

「は。は。はあ。ははは。」

 笑う頬に崩れが生じて口元が割れて牙をのぞかせている。それでもやめない。身体の所々からいまだに燃えて覗く青白い〝不知火〟の炎もそのままに。


 ざららあっと。身体の傍から黒煙が散る。


「ひ、ひひ。あ、あ、あなたたちのおかげよお。蟲に食われて一緒になるところだったわあ。混ざらなくてよかった。ほんとうによかった。あああ。ありがとおねえ」

「なんだと……?」


 凍らされているのに、顔の前からは強烈な熱が息を詰まらせる。汗で霞むケリーの目の向こう、爆発は止まない。これでもか、これでもかと遠くのクデンが大地に向かって火球を投げ下ろし続けている。


「あれなの。あれがクデンなの。クデンはああなるべきだったのよ。あたしは知ってたから。知ってたのよクデン。あなたは弱虫なんかじゃないの。気に病むことなんか——ないに決まってるじゃない!」

「ぐあッ!」「くうッ!」


 またごりいッと背中が重くなる。狼と狐が思わず唸った。吠えるザーラの叫びだけが、見えぬ上空から聞こえてくるのだ。


「気に病むことなんか! ないに決まってる! ! ! あたしたちは! あたしたちはッ! ! そうでしょクデンッ! そうよね! やっと! やっとここまでこれたのよクデン! あっははははははははッ!」


 狂ったような叫びだけが爆発の轟音より遥かに頭へと響く。だがこいつの言っていることがわからない。ケリーが顔を歪める。



「はははははははッ! これだッ! この力だッ!」


 もう完全に敵を滅することすら忘れているのではないかと見紛うほど次々と火球を打ち下ろすクデンの直下では、もはや幻界の河原も原型を留めず落ちては噴き上げる爆発と炎に混ざるのは。

 アキラが見た。フォレストンも神主も、壁の内側で身を焼くような熱波をまともに受けながら流れ落ちるだらだらの汗の向こう側に。


 飛び散っているのは焼けた砂礫だ。河原の石が熱で溶けている。宙に赤く跡を引くように飛沫が散らばる様は溶岩の濁流にも似て。


「か、艦長——」

 乾く喉から絞るようにやっと出た声に、だが答えるのは。


「見ろッ! 見ろおッ! この力を見ろおッ! これが俺の力だ、本当の力だ! これがあれば、これがあればよかったのにッ! これさえあれば、俺たちは生きていられたのにッ! うわああああああッ!」


 空でクデンが吠えるのだ。

 大地を粉々に、赤く赤く吹き飛ばして。


「強い奴が残るッ! 強い奴が残るッ! 強い奴を残すッ! この世界は強い奴を残すんだああああああッ!」


 ぶあ、っと。

 遮られたはずの壁の遠くより。アキラはなぜか見えたのだ。天で狂う白猫クデンの両目から溢れる涙が。


 声が、聞こえる。

 強い奴を残すッ! 強い奴を残すッ!


 これほどまでの猛烈な熱波の中で。アキラは〝冷えた匂い〟を嗅いだ。

 


 そこかしこに残雪の残る荒野はどれほどの標高なのか、澄み渡る夜に満点の星が近く落ちてくるようだ。どこまでも続いて時折低木の生えるその高原には無数の墓標が立っていた。

 古いもの、新しいもの、すべてが簡素な切れ端でいくつかには結ばれた布だろうか子供の服だろうか風にはためいて。

 若き白猫がふたり。互いにひざまづいて肩に手を当て涙ぐんで。そして聞こえる。


 強い奴を残すッ! 強い奴を残すッ!


「強い奴を残すッ! 肉親だろうと関係はないッ! くじを引け! 平等にその紐を引けッ!」


 低くでかい円形の卓に乗せられた血で汚れた木樽に群がる獣たちが、震える手で樽から垂れた紐を引いていく。男も、女も、老いも若きも。中にはまだ子供すらいて。

 景色は変わっていた。周囲を岩肌の露出する荒寥こうりょうとした崖に包まれた荒地の真ん中に向かって。武装した獣たちに囲まれた集団が次々に紐を引いていく。


 アキラの目に映ったのは、その崖の中腹ほどに陣取る数人の獣たちだ。


 象がいる。あの象の化け物がいる。そして詰襟の軍服を着た黒い馬の獣人が腕組みをしている。魔導師のような杖を手にした年老いた獣人は山羊に見える。そしてまさに今、眼下の集団に吠えているのは、硬い鼻を尖らせた、あれは犀だろうか?


 旗がひらめいている。ぼろぼろの旗がいくつも。


「弱いものを守り強いものが死ぬのではないッ! そうではないッ! この世界は強い奴を残すのだ! そうあるべきなのだ! それが獣だ! 獣はそうあるべきなのだッ! それが竜脈の声だッ! 我らが王セルトラへ竜脈から降ろされた〝窓の向こうの声〟なのだッ!」


 それらの獣の中心に。石の玉座に。

 獅子の獣人が座っている。肩肘をつき、退屈そうに群衆を見下ろしていた、何も言わずに。


「さあくじを引けッ! 相手を決めろ! 見定めろッ! 戦っても良い! 棄権しても良い! 自らを弱き者として認めるなら、強き者の糧となれッ! その身を人間に売り飛ばして食料に変えよ! 強者を育てよッ! さあ、自らで決めるのだッ! くじを引けッ!」


 群衆に紛れた白猫クデンが、自分の持った綱を思い切り引いた。樽の端からばらあっと落ちてくる。声は響く。


「人生はくじだッ! 獣は一生くじを引き続けるのだッ! さあ、引けッ! 引いて己の生き方を決めろッ!」


 地に着く寸前にびん、と張ったその細い綱の先を掴んでいたのは、双子の姉ザーラであったのだ。


 アキラの唇が震える。

 夜の残雪の墓場で。姉と弟の、声が聞こえる。


 だめだ。できないよ。姉さんと殺し合いなんてできない。売られたらいいじゃないか。生きてたらきっとなんとかなるって——

 無理。獣狩りはねクデン、笑いながらあたしらをばらばらにするのよ。牙もちぎられて爪もはがれて、生きたまま皮を剥がれるのよ。ひとつだけ、山羊の爺いが言ってた。死ねば霊化の逃げ道もあるって。あたしならあなたに刺されてもいい。お互いに。同時に。ねえクデン。それしかないの。それしか——


 だが。クデンは目をつぶってしまったのだ。


 気づけば自ら突き出した魔力の剣は姉の腹を突き破っていた。自分は知らずに身を躱し、知らずに姉の切先を避けてしまっていたのだ。


 誰か! 誰か! と。血を吹く姉を抱きながら泣き叫ぶクデンに応える兵士はどこにもおらず、ただ周囲でものも言わずに不幸な姉弟を囲むのみで。


 縋るように顔を上げた崖の中腹に。

 クデンは見た。

 獅子の、退屈そうな視線を。

 興味なさげに立ち上がった王は、席を外し消えてゆく。次の殺し合いまで時間があるからだ。


 なんで? 待ってくれ。待ってくれよ。なんで誰も助けてくれないんだ? ねえさん死にかかってるじゃないか? 待てよ。待ってよどこにいくんだよ?


 どこにいくんだよ!



「こっちを向けセルトラアアアッ!」


 フォレストンと神主は呆然と、叫ぶアキラに目を向ける。わなわなと歯を、牙を震わせて猫のアキラが泣いていたからだ。


 声はまたしても、幻界にこだまするが如くに響いた。強く反応したのは宙に浮いていた白猫クデンその者であった。ひたすら振り下ろしていた両の腕が止まる。壁の向こうにいる銀のまだらの猫に向かって、見開かれた目を震わせて。


 おまえが、なんで? と。

 そんな顔をして。だから、攻撃が止まって。

 だから、同じく聞こえたのだ。


「——あのくそったれの馬鹿野郎の名前を呼ぶのは、誰だ?」


 爆撃直下のもはや原型を残さない幻界の河原がぐずぐずに熱波に溶けてさながら溶岩の溜まりとなったその場所で。

 宙のクデンが両手をあげたまま震える。がくがくと。ありえないからだ。凄まじい高熱と蒸気の立ち込める溶けた地上から、流れる赤い土砂が人型となって立ち上がってきたからだ。


「そ……そんな、そんな、なんで、この火力で、おまえ、おまえは、いったい」


 白猫の絶望する声に応えたのかそうでないのか。立ち上がるそれからざああと零れ落ちる液状のだまりは粘液となった血のようだ。ずるうと頭から、顔からも垂れて。


「おれでなけりゃあ、よかったのにな」


 虎の魔導師が牙を剥く。

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