第百二十五話 かたわらに立つもの
——元来。〝
紫の天空から垂れ下がる血の塊のような蝋のような巨大な火球を振り仰いだカーナの意識は、もはや朦朧として丸い瞳だけが
だが、突然。
ぎりいっと。険しくなった。
消えていた表情から湧き出したのは
——名に火炎豹と刻み込まれてはいるが、結局それは〝
だから火炎豹は、まず世界に生まれない。
カーナ・イルムートンが火炎豹として生きながらえた理由は、いくつかあるのかもしれない。
ひとつは蛇の面々、特に元素調整を得意とする医師エイモスの指示によって、初期の急性症状を乗り切ったことも大きい。
ただ或いはもうひとつ。
稀にヒトと
火星の
込められたものは生への意思と怒りの情感なのだ。
少女カーナは昔より怒りを
家は人付き合いが少なく、幼少に母親を失った理由もはっきりとは聞かされていない。寡黙な父親の性格ゆえと子供心に飲み込んではいたが、成長するにつれそれは単なる誤解だったのかもしれないと、徐々に彼女は気づいたのだ。
父親はカーナに、職業を
級友の誰それは親が工場で、あるいは採掘所で、またあるいは市場で働いていることを話に出すたびに、言葉を避けて不機嫌に黙る父親と、家の裏にある決して入ることのできない倉庫。
父娘ふたりきりの生活に、やがて仕事の話は禁忌となり、優しくはあったが言葉の足りない父親と暮らす彼女はだんだんと感情を、特に激しい感情を
そんなカーナが決定的に喋らない子になってしまったのは、父親に小さな小さな〝秘密〟を持ってしまったからである。
近づいてはいけない倉庫の裏に奥まった森で、独りで遊ぶ彼女はそれを拾ってしまった。石であった。小さな巾着に隠し持てるほどの小石だ。だが、ぼんやりと光っていたのだ。
単なる使用済みの魔力も乏しい
父親に内緒で、カーナはそれを宝物にしてしまった。
成長して初等、中等、高等と学舎を変える間もろくに友人も作らず、ただ家との往復に明け暮れる彼女がずっと支えにしていたのは、その小石である。
光は変わらなかった。じんわりとした曝露はあったのだろうが元々が道に青く流れる魔力の満たされたイルカトミアの街に住む身ならば、微かに溢れるその光は何の害ももたらさなかったのだろうか、高等に上がる頃まで彼女には特段の異常も見られなかったのだ。
だが。そこが人の住む街である以上、鼻の効く悪党はいるものだ。
ある日、彼女を学舎で引き留めた付き合いもない同級の女たちは、およそカーナの生活に交わりそうもないやさぐれであった。街の悪い男共との噂もあった。怯えるカーナに相手が聞いてきたことは、ふたつ。
父親の仕事を知っているか? ということと、
家に入ったことのない倉庫があるか? ということだ。
何のことはない、魔石の卸を生業とする者が、子供に仕事の中身を秘密にするのは人の世界では良くある話だったのだ。その女たちを振り切ることもできないカーナは、二つの質問に答えてしまった。当たりを引いたと口の端をあげる相手が次に言ったのは、カーナが言葉を失うほど不躾で理不尽な命令であった。
その倉庫の中身を持ってこい。
忍び込んで
即座に断り、そして即座に殴られたのだ。
他者からの暴力は初めてで、なぜ自分が殴られたのか、なぜ罵声と嘲笑を浴びせられたのかもわからない。
ただ殴るだけでない女たちはげらげらと笑いながらカーナの服まで剥ごうとしたのだ。限度を超えた暴行に彼女が必死で抵抗したのは、理不尽さと恐怖だけではない理由があった。
首に下げていた巾着だ。カーナは肌身離さず隠し持っていた小袋の石を、見つけられて奪われてしまったのだ。
あんた、頭がおかしいんじゃないの?
奪い取った巾着から漏れる微かな灯に目を丸くして。嘲るよりもむしろ唖然としたようにそう言う彼女らの態度が、無知なカーナにはわからない。
人間の学舎では魔力と魔導は教養程度に学んでも、一般人には意図して近づけない聖域で、まして普通人の生活における魔力とは、
結局、女らに質に
受け渡しはやがて学舎から街のいかがわしい路地裏の小部屋に場所が移り、相手は女たちに加えて、明らかに裏の世界を生業とする数人の男共も目立つようになった。できもののある下唇の端を汚れた爪で掻きながら、暗がりから舐める目でカーナの身体を視るその者らに会うたびに、無垢な、いや。
もはや無垢ではない、なくなってしまった。
罪深い少女は。
どうして。どのような罪でも犯せば罪になるのだろう?
かみさま。殴られて殴られて。脅されて。
それで盗みをはたらけば、私も
幼い頃に閉じ込めた情感の向こうから、突然に発作のように溢れ出る涙とともに。
現れる、心臓と手先の震えは。
つらいとか、かなしいとかではなく。
心のどこから来るのだろう、それが彼女にはわからない。赤い、
カーナが天に激しく吠える。
「ガアアアアアアッ!」
まさに垂れてきた、猛烈な火球に向けて。
——あの時もそうだったのだ。
石が足りないと父親にバレた。質の良い石は倉庫の中で仕分けられていたのに。それを盗めと、それに手をつけろと言ったから。バレるに決まってる。或いは彼女は無意識に、悪事が発覚するのを期待してそれを行なったのかもしれない。
親に気づかれました。もう無理です。もうできません。やめさせてください。と。それを。世間擦れもしていない彼女はいったいどんな顔と声色で相手に言ったのだろうか? もはやわかる術もない、が。
緩く口元の歯を見せて聞いていた男がおもむろに立ち上がって、カーナのそばまで歩いてきて、いきなり。
へらりと笑って。少女の頬に拳を入れた。
男の指には鉄製の
漆喰の壁に頭を叩きつけられ崩折れたカーナの馬鹿みたいに開いた口からぬるっと涎に混ざった赤い血と、折れた歯が垂れてきた。全身が激しく震えて立てない彼女の髪を思い切り引き上げ、顔を寄せた男が微かに顎を曲げて言う。
だったら身体で稼げや、と。
男の目はむしろ、ようやっとこの時がきたことを嬉しがってもいるようで。続けて言うのだ。こんな餓鬼みてえな
それでいいだろ? 返事しろカーナ。
頬を叩く。声が出ない。
いや返事しろって。返事しろや。なんで返事しねえんだ?
男がまた鉄拳で鼻を、顔を殴った。遠巻きの女たちがげらげら嗤う。それじゃあ返事できねえじゃんさあ。腹を抱えてこころから愉しそうだ。
構わず男が何度もカーナを殴る。返事しろッてめえ舐めてんのか? 返事だ。返事しろや。ああ? 客を取りますって言え。自分で言えって。しっかり稼ぎますって言えや。気持ちよく言え。
みるみる腫れて痣だらけになるカーナを指差して嗤っている。ぶっさいく。ひっでえ。客がつかねえよそれじゃあさあ。
遂には息も絶えだえのカーナを髪ごと掴んで引き上げた。涎と涙と血が垂れている彼女を満足げに、今度は部屋の奥に目を投げる男の視線に、図体のでかい別の悪漢が机の上にじゃっと投げ捨てたのは。
カーナの巾着だ。
おら見ろカーナ。見ておけ。卒業だ。もう子供じゃねえんだ。これは儀式だぜカーナありがたく思えよ。
無理に引き上げられた顔の口から血を垂らして。カーナが見せられる机の男が振りかぶったのは
やめて、やめて。やめて。と。声が出ない。
無常に槌は振り下ろされて。ばきりっと確かに耳に届いた瞬間。それは起こったのだ。
「うああ、ガアアアアッ!」
その叫びは誰か?
それはカーナの声だったのか?
声の性質が彼女の行く末を決めた。悲痛ではなかったからだ。慟哭ではなかったからだ。もっと熱く、もっと凄まじく、もっと険しい。魂の底から激しい。
かたわらにいたそれは彼女の
槌を振り下ろし砕け散った音のする巾着を中心に膨れ上がった火球が一瞬で男の右腕を覆い、金槌の柄がささくれるように割れ弾けて。腕の筋肉が沸騰した泥のように泡立って。
悪漢の脇から首、右顎を含む半身がまとめて汚く噴き飛んだ。
髪を掴んだ男は見えない圧に弾かれて机の側まで投げ出されたその前半身が、衣服ごとぼろ切れのように皮膚が引き裂かれて顔面の鼻骨と歯の刺さった顎骨が見えるほどに一瞬で蒸散を起こし眼球は熱波で白く濁って変性した。
近くで嗤っていた女たちの有り様は一層酷いものであった。体内の何が沸騰したのか顔からなにからあちこちに泡ぶくの水膨れが湧き出して、気が違いそうな激痛に叫ぶこともできなかったのは口と鼻の中も浮腫で埋まってしまったからだ。
そこから先のことをカーナは覚えていない。
正確には、彼らになにをされたのかも、覚えていない。
気がついた時、彼女はふらふらと汚れた服で街の路地裏を歩いているだけで、ただとてつもない疲労感と、全身を覆う異様な熱と悪寒に、やがて道の隅っこに座り込んでしまって。
そこで初めて、口に違和感を感じたのだ。顎を撫でればぱらぱらと粉のようなかさぶたが剥げ落ち、爪についたそれを目で見て初めて乾いた血の欠片であることを知った。
痛みは、ない。なにか、おかしい。
そっと。口の中に指を入れた。
歯は折れていなかった。尖っていた。
糸切り歯のさらに奥に、もうひとつ。異様に尖った歯がある。それに気づいた瞬間。猛烈な吐き気に彼女が地面へ吐き出した。胃液で喉が熱い。内臓が熱い。ふらつきながら立ち上がり、そして歩いて。ただ歩いて。家へ。父の元へ。——
止まった。
今この時もおそらく、カーナは意識を起こしていないのだろう。頭上の異常になんの表情も変わらないからだ。吠えらえた火球は空でごおごおと
神社の境内へ降りてこない。
その焼けただれた赤い光を全身に受けながら上を向いた彼女の口からぐるぐると聞こえる唸り声も、やはり彼女ではないのだろう。次に放った言葉もまた、彼女の知らぬはずのものであった。
「……
彼女ではないなにものかが、窓の向こうの言葉で呟く。
その声は。
カーナだけではない、おそらくはこの世界に生きるすべてのものの、たましいのかたわらに立つものたちの声だ。
何万、何千万の連綿たる紡ぎの果てを繰り返し、繰り返し、繰り返して、ひとびとの螺旋に編み込まれてきたものたちの声だ。
牙を持ち、爪を持ち、そして心を持つものたち。
それが今一度、空に叫ぶ。
「
放たれた言葉は魔法のようだ。地を焼かんと膨らむ巨大な火球がそのたった一言を投げつけられて。炎の中心が捻れて渦巻き、ぎゅるりと。四方八方に細かい火の粉を散らしながら旋回した刹那。
ばぁん! と。
空で割れ弾けて消えてしまったからだ。
かけらも落ちない。降ってこない。まさに掻き消えて。
いなくなってしまった。
両腕を力なくぶらつかせたまま、その奇跡をまるで当たり前のように睨んでいるカーナの薄く開いた口から、かすかに牙が覗いている。
ゆっくりと。意識のない赤い瞳の首だけが、横に
遠い空に走る美しい竜脈は天空の橋だ。紫の暗雲に押しつぶされたそれだけが抗うように輝いているのだ。
だが、やはり、まだ燃えている。
赤い火焔の雫は止むことなく次々に街へと垂れ下がって、焼けた鉄の上に油が落ちるように落ちては燃えてを繰り返している。立ち登る火勢も、黒煙も、悲鳴も止まない。
あってはならぬことだ。
カーナが展望の空へ向き直り、まっすぐに街を見る。歩き出す。境内を、広場を。キィエは未だ仰向けでひゅうひゅうと喉を鳴らしたまま、だが微かに目の周りの毛が動いたようだ。その脇を抜けて、街を見下ろすすぐそこまで彼女が歩いた。
祭りの夜に、ここで花火を見たのだ、子供たちと。
あの子らは昔の馴染みらしくて仲良くて、なんだか
燃える景色に流れる焼けた煙を見る、朦朧としたカーナの下の瞼にゆらっ、と。薄く淡く、熱のこもった水滴が。
今朝だって。
ほんの少し前だって。
木に登ったのだ。みんなして。
溜まる涙があっけなく頬へと伝い落ちていく。右からひとつ落ちれば次がまた、今度は左の瞼から溢れそうになって。
抜ける青空から、遠くの山を見たんだ。カーナの唇が薄く開いて、ちちちと震える牙が鳴っている。奥から微かに唸る。
「……グ、ル、ルウウウウウ」
ぼろっと左頬を伝った涙が。その途中で止まる。カーナを包む空気が揺れた。まるで重力が途切れたかのように、透明の涙が産毛から離れて、数滴の粒に分かれて宙に浮いた。
燃えている。どうして?
かみさま。
朝にゆらめくこの街も、私を支えたあの小石のように。
「ガア、ガアア」
宝石のようであったのに。
「ガアアアアアッッ!」
彼方の竜脈に。
火炎豹が吠えた一瞬に。
遥か上の雲を揺らした真円状の空圧が、猛烈な速度でウルファンドの空を走る。
雲よりまだ垂れ下がって伸びたままの火球も、腐った実のように千切れ落ちた火球も。一切をまとめてその空振が飲み込んで。
地で逃げ遅れて
諦めていた者たちが恐るおそる空を見る。その災いは消えて無くなって——いや。
「……あ、あれは?」
周辺より立ち登る煙の上、雲の元に。弾けたはずの火球があるべき場所に、赤い細かな群れが浮いている。まるでそれまで巨大な卵であったものが孵化して飛び散ったように。
屈む母親の胸に囲われた獣の子が、指差して言った。
「おさかな。おかあさん」
◆
「ぐッ!……この!」
吹く風の中、硬質な音を立ててバクスターの盾が旋刃を弾く。火花が散る。
怪物の刃をまともに受けるのはやめた。叩き返して流す。正面から受け続けては魔力の盾ががりがりと削られてひび割れてしまう。鉄槌のように振り下ろしてくる象の拳を二撃、三撃と弾き返す。
彼の
要塞アーダン所長、シュテの導師マインストンは法術の達人である。その真髄は
結果、上位兵の二人は魔導の服に守られて幻蟲相手でも互角に戦えるだけの筋力を増強されている。怪物モーガンの凄まじい強打に耐えられるのも、その服の加護があってこそなのだ。
しかし今は左足を軸にしていて大きく動けない。
痛めた
踏み場を変えずに今の体勢で切り交わすのが精一杯なのだが、それでも。打ち合いの間に敵の旋刃が回転をやめて、がしゃあっと。
「このッ!」
開いた。また狼と導師を狙っている。伸ばされた右腕にすかさずバクスターが大剣を打ち込んだ。モーガンが避けて狙いを解いた。この怪物は図体の割に本当に素早い。
「刃が通らぬと思って随分な余裕だな怪物ッ!」
盾から突き出た剣をがしゃっ! と振り下ろしてバクスターが吠えた。その通りなのだ。いかなる仕組みかこのバケモノの身体は魔法の剣で斬れない。ならば今のように戦杖よろしく殴りつけるだけだ。
しかし躱したモーガンが開いた旋刃の射出口をこちらに向けて。バクスターが目を見開く。その背中の向こうから空中に横滑りして機体が現れた。
『くらえッ!』
包まれた爆煙に目を凝らすバクスターの腕輪から、フューザの呆れ声が響く。
『あいつなんなんですか一体ッ』
バクスターが口元だけ上げて。
「ほんとに何なんだろうな。メグ様は?」
『まだ気を失ってます、すみません』
「さっきの墜落か?」
『はい』
「
『了解です!』
背中の後ろで浮遊するヴァルカンに軽く視線だけ向けて、また向き直る。おそらく、今の射撃もあいつには効いていない。
やはりだ。火焔の中で象がゆらりと立ち上がったのが見えた。燃える中にいて平然と、二、三度拳を握って。踏み出してくる。
「……お前の身体は〝四種混合〟か?」
バクスターの問いに、象の鉄仮面が微かに動いたようだ。
「声は出なくても、そのでかい耳は飾りじゃあないだろう。あれをどうする気だ? ほっとくのか?」
重ねて問いかける。そうだ、こいつは雄猫——おそらくはこの化け物の上官にあたるはずの若い兵長の叫びに反応した。確かに駆け寄ろうとした。蟲に憑かれて正気を失った獣ではない、言葉を解する兵士のはずなのだ。
黒い巨大な棘のように木のように立ち上がってぐねぐねと両腕らしきものを捻らせながら妖しく蠢くあれが放つ火球を、狼の神主と導師とは受け弾くので精一杯だ。この怪物の相手は自分がやらねばならない。
引きつけなければならない。賭けを打つ。
「——
象はかすかに仮面を傾け、覗くようにバクスターを見る。やはりこいつは言葉には反応する。続けて言った。
「お前たち獣を皆殺しにする魔導だ。無差別にだ。それを造って大陸に振り撒いているやつがいる。俺たちはそれを調べている。この街の連中も同じだ」
モーガンが逆手に握った右腕をゆっくりと挙げる。まだ旋刃は回っていない。
「獣同士が争っている場合なのか? お前らの親玉は、何を考えている? なぜ獣が獣の街を襲う? 俺に口が聞けぬなら、戻って親玉に聞いてみろ。この非道に意味があるのか、と聞いてみろ」
ぎゃあああああああっと刃が回転を始めた。象が腕を引く。バクスターが構え直す。
「無駄か。潔いことだ。だが忘れるなッ!」
踏み込んで丸太の様に打ち下ろすモーガンの右腕をバクスターの盾ががしいッ! と火花を散らして受け流した。風に外套が
その闘う二者に、身構えたままのグレイが視線をやった。あの兵士は人でありながら怪物相手に一歩も引いていない。相当に練度が高く、恐ろしく高性能な防御服を纏っているのかと想像はつくのだが。
体格差がありすぎる。そう思った。熱波でしなったグレイの鼻先の毛に、また違う汗が湧く。いつまでもは彼も保たない。
また正面に向き直った。グレイが奇怪なたましいの木を睨む。それはこちらも同じだ。いつまでも保たない。しかも、先ほどから。
「……変、じゃないかあ?」
「そうだな、変だ」
フォレストンも同じく身構えながら先に聞いた。隣の少年も気付いていたのか、とグレイが返事をする。
うねる敵は。最初は煙か霧が薄く膨らむように広がって向こうの景色が透けるほどであったはずだ。それが時を追うごとに濃くなって、濃くなって、今はもはや
あの大きさのまま、世界に顕現するのだろうか。それでは、まるで霊化ではなく——。
suus 'non est verum.
あやかしの かなた みたまい
「くそッ。またなんなんだあこいつは?」
フォレストンがぶるっと首を振る。熱で汗が飛んだ。狼が気づいた。
「お前さん、
「え?」「なにか聞こえるのか?」
だが両者にぐうっと気が入った。また奴が右腕らしき枝を大きく上げて、その高き空中にごおおおと猛烈な炎を生み出し始めたからだ。構え直す。導師が叫ぶ。
「さっきからうるさいのがいるぞお! 知ってるのかあ?」
「声に憑かれるんじゃないよ! 後回しだ!」
二人が。フォレストンが両手をばしいっ! と眼前で叩いてぐっと指を組んだ。全身に魔力の波動が膨らむ。狼の神主は両の逆手をゆらりと広げる。焦げ汚れた白袖が風に揺らぐ。
ところが。敵の顔らしき顔を揺らいでいた四つ目の瞳が一斉に、北を見たのだ。黒いかたまりがゆらあっと横を向く。裂けた二つの口が呟いて。
「たれそ? たれか?」
——・——
空の下。
ことごとく割れて散った火の玉から生まれたちいさな炎のかけらたちが。泳ぐように群れてざあああっと空を走り出したのだ。泳いで、それらは段々と集まって群れを大きくしていく。
街を見下ろすカーナが、全身から陽炎のように揺れる気を浮かべて。空に向かって両腕を広げた。地に仰向けの老婆キィエが、その時。微かに声をあげたのだ。
「だめだ、カ、カーナ。あんたには、まだ早い」
まるで指揮するようにその両腕を円に回して描くカーナに、声は届いている風ではない。それでも。
「こころを、渡しちゃあだめだ。戻れなくなる、カーナ」
キィエがぜえぜえと荒い息で呟き続ける。
牙を剥き出しの少女の顔は、怒っているようで、笑っているようで。赤い瞳が輝いて。叫んだのだ。思いきり、両腕を振り下ろしたのだ、空へ。
「
——・——
一斉に猛烈に空を駆け出したそれらは魔力の気弾のようであった。斜めに撃ち下ろす燃える雨か雹のようであった。
「ギャアアアアアアッ!」
巨大な黒きかたまりに無数の穴を穿って叩き下された炎の群れが突き抜けて反対側の地面を吹き飛ばす。大地より火が上がる。爆風が土砂を噴き上げた。
吠えるたましいを見る地のもの達が腕で爆煙を遮った。それは導師も狼も、戦っていた兵士と象も同じだ。この突然の攻撃はどこから来たのか?
宙で作られていた火球をそのままに、たましいの木が揺らぐ。その時初めてグレイは見た。根の幹が割れて二つに体躯を支えている。こいつには足がある。巨大な怪物へと変わっているのだ。
しかしそれよりも。目が寄っていく。ひとつが、もうひとつに。また別のひとつが、別のひとつに。口も寄っていく。四つの目が二つに。二つの口が一つに。
重なろうとしている。完成しようとしている。そしてついに。
「——う、う、うあああああああッ! たれか? だれだ? 誰だ僕の
まともに声を発したそれは巨大な体からごおっと黒い両腕を空に広げて。穴だらけの体躯から、その奥になにやらがさがさと動くもの達が見える。グレイの全身の毛が立ち上がる。あれはまさかと、最悪の想像をする。
突き抜けて飛び散って、落ちて燃えたかけらの地から。そこからもまた、がさ、がさがさと。草を掻き分ける音がして。ひとつ、ふたつ、いくつもの。
なぜだ。どこから? どうしてこの街に? こんなことが。
漆黒の無数の鎌がどしゃあッ! と地に刺さって落ちる。
「蟲だッ! バクスターッ!」
フォレストンの吠えた叫びに呼応して。
「俺に構うなフューザッ! 掃討戦だ切り替えろッ!」
『了解ですッ!』
腕輪からフューザの返答が飛ぶ。バクスターが両腕の盾を振り上げて下ろす。一段と太い大剣がじゃあッ! と突き出した。
たましいのかけらから蟲が湧いた。そのたましいがまた叫ぶ。
「あああああ皆殺しだこの街は焼き尽くしてやるッ!」
ぞろぞろ、ずろずろと、地から湧いて這い出るもはや明らかな蟲は蠍のようでかららららと尾を振り鳴らすものもあれば甲羅の体を持ち上げて両手の鎌を掲げるものもある。
グレイが牙を噛んだ。湧いたあれらと自分らの、その間に。燃えた草っぱらに横たわっているのはボスを始めとした仲間の亡骸だ。
「あたしは突っ込む」「ああっ?」
「蟲に
そうだ。たとえ炎に巻かれようとも彼らの骸を
ばああっと口から黒い霧を吐いた巨大なたましいが胸を張ったと同時に。また宙に火球が浮かび上がったのだ。フォレストンが目を見張る。
ひとつ、ではない。広げた腕に沿って、右に左に。みっつ、よっつ。七つか八つほどの巨大な炎の球が湧き上がったのだ。
Uti ignis et aqua Scire debes.
むらなきや とくわかつなり
導師の頭に声が響く。ぐっと顔が軋む。
「吹き飛ばすッ かけらもなく吹き飛ばすぞお!」
「あっはあ素敵よ! 素敵よクデンッ!」
たましいが叫んでごおごおといくつもの炎が、それはひとつでもようやくのこと導師と狼が受け弾いていた巨大な火球が複数、宙に生成されていく。あれを街に撃つ気か? 撃ち込む気なのか?
Ut mala non fiant Nolite malum.
ききたまい みかしきのみえ ききたまい
いくつもの声が混ざる。フォレストンが集中できない。手のひらでこめかみを必死に叩く。腹を決めたグレイが全身にぶおんッ! と壁を張った。
もはや蟲たちはこちらに獲物を決めたようで一斉に向き直り目のない顔で凝視している。地に鎌を刺し土屑を飛ばし、走り出さんとして。
時は、その時であったのだ。
その蟲の集団に。
黒い巨大なたましいに。
「どぎゃあああああああッ!」
空から線を描いて数十の真っ白な光弾が降り注いだのだ。
叫んだクデンの黒体にまた新しい穴が開く。飛び散ったかけらは蟲の鎌にも見える。地に降り注いだ光が次々に爆発を起こして、湧いた異形のものたちを木っ端微塵に跡形もなく吹き飛ばしていく。爆煙もまた真っ白で空からの光に照らされて、まるで浄化の火のようで。
呆然と見ていた。何が起こったか、まだフォレストンもわからない。
——・——
Nolite quaeso fratres mei.
Nolite malum.
やはり混ざるいくつかの声を、しかし聞き流しているカーナは再び大きく両腕を空に開いて叫ぼうとして。だがその火炎豹の大きな獣の耳に、また新しい別の声が響いてきたのだ。
『——着弾。これどんな改造したの? 弾数すごいんだけど』
『あとでいい。同期そのまま。俺とロイ、ケリー、ノーマで降りる。アキラも来てくれ』
『了解です。ロックバイクで行きます』
カーナの瞳に光が。
『減速開始。竜脈下に潜行して右舷旋回』
『了解。地域の
知性の光が。その瞳に戻ったと同時に、なぜか。
ぶわあっと目から涙が溢れて頬に、当たり前に流れる。
はっ、はっ、と。生きた呼吸をする。
懐かしい声に。
すごく、懐かしい声に。
竜脈の流れる東の山の果てに。それは聞こえて。
地に仰向けの老婆もまた、震える声で呟くのだ。
「なんだい……なんで、あんたら、これたんだい。や、やれるのかい? どうなんだい?」
途切れとぎれに、だが必死に、どこへ老婆は語りかけているのか。
「ろ、楼を、張るんだ、れ、霊化の輩は、楼で、閉じ込めなきゃ、いけない。い、いいかい? あっちと、こっちを、そろえるんだ。まぼろしを、重ねるんだ。で、できるのかい?」
仰向けで。空に。
潰れた肺でキィエが大きく叫ぶ。
「あんたら二人に言ってるんだよ聞こえてんのかいッ!」
=確かに聞いた。世界深度ゼロ。
竜脈の光を突き破って。
空に蛇が現れた。
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