第百二十四話 混ざる

 ザーラが思い切り引き抜くと同時に、長太い氷の棘は消えた。


 血は吹き出さない。噴き上がらない。

 這いつくばったまま背骨を反らせたクデンの後頭部の穴から、貫かれた口から。ぱりぱりと霜のような氷煙ひょうえんが流れ出て。


 まだ強い風に振り子のように揺れた上半身が。

 どさりと。うつ伏せに地面へと。


 周囲で倒れていた兵たちは、震える喉から声も出ない。

 空中で前屈みになったザーラが胸元で指を交差に組む。殺した弟の亡骸を見る。終わった命を見下みおろして。


「——う、うふ。うふふ。」

 目がぎらぎらと開かれていくのだ。


「うふふ。ふふ。うふふふッ! ふふふッ! うふふふふふッ!」

 煽るように笑いかける。その死骸に。かすかに首を曲げながら。

 伏し落ちたクデンの身体は、ぴくりともしない。


 駆けつけるのをやめてしまった象は強風の中に立ち尽くし、姉弟より離れて、ただ成り行きを見守って。変わらず何も言わないのだ。


 そこよりさらに離れて。


 かろうじて身構えるバクスターの右脛はいよいよ疼きが激しい。

 吹き出す脂汗をそのままに気付いたのは、狼の神主が身体を震わせながらも、ようやくのこと立ち上がり、牙を食いしばって構え直した姿だ。


 フォレストンもまた、ぐっと地を押して立ち上がる。これで三人。

 墜落した機体ヴァルカンの駆動音が、まだ戻らない。


 焦げた白衣のグレイは、よろつきながらフォレストンに視線をやる。

 少年はわずかに歯を軋ませて遠くの敵を睨んだままだ。

 その強い瞳の光に怖れを感じないのだ。

 今まさに目前で起きた肉親殺しをここより睨む彼の臭いはただ、茫とした怒りに混ざった微かな哀れみで。


 間違いない。神主が確信する。

 この子は、誰かの経験を引き継いでいる。老成した意識を。石のやり取りなどという小賢しい術ではなく、もっと塊の根源に——


 フォレストンが呟いた。

「霊化が……ふたりになるのか?」

 狼は敵への構えを解かずに、小さく首を振る。

「どうかね」


「……ならないのか?」

本性ほんじょうもなしに魂魄こんぱくが固まるかね。そんなことができたらいくは霊化のやからだらけになる。それがひとつめ」


 フォレストンのまだ幼い、遠くを睨む眉間に皺が寄る。

 祖父より引き継いだ魔導はあくまで〝わざと意識〟であって〝知識〟ではない。

 知識は書より積み上げたものだ。祖父の名を汚さぬために、彼自身が血を吐く思いで学び入れたものであった。それは未だ〝魔導師の死と霊化〟の極意にしっかりと届いては、いないのだ。


 だから想像で答える。


「——覚悟のない死は霊化しない、って?」

「そう、そして……」


 グレイもまた目を細くして警戒する。

 風は止まない。遠くの姉弟には、まだ動きがない。


「あれはおそらく双子だ、魂が近すぎる。それがふたつめ。よくないことが起こる。もっと下がったほうがいい」

「わかんないなあ」

「あたしも、相手を殺して霊化させるなんてのを見るのは初めてさ」


 象が、こちらに振り返った。

 三人に緊張が走る。フォレストン以外は傷負いだ。

 本来の目的を思い出したかのように、怪物モーガンは平然と風の中を歩き向かってくる。


 半身はんみを入れたグレイが、そっと口元を拭えば赤い。手の甲の毛がじっとり血で滲む。少し目を丸くして、少し笑った。思ったより痛手が大きいのだ。気付かぬ自らに呆れる。

 だが気を取り直して。左右の拳を尖った鼻先にそっと合わせた。呼気を整える。


 血とすすで見る影もない神主の白衣より、ゆらあっと膜のように揺らぐのは、これは竜紋なのか? と。フォレストンが驚く。こんなうっすらと調整チューニングされた紋を、過去に見たことがないからだ。


 そんな狼の所作に頓着もなく、敵の象もまた僅かに身を沈ませる。突っ込んでくるつもりだ。

 まだヴァルカンは起動しない。操縦席の計器盤と後ろで倒れたメグを交互に振り返りながら「くっそッ」とフューザが焦っている。操縦桿が硬い。


 その時。聞こえたのだ。

 どおんッ! と。全員が見た。


 音は伏したクデンの死骸より聞こえた。また鳴る。

 どおんッ! と。死んだはずの背が跳ねている。

 

 見開かれた目のザーラが徐々に笑みを浮かべて。

 対して周囲の兵たちは恐怖に顎を鳴らす。

 神主の顔がみるみる曇っていく。灰色の毛がざわついていく。


 宙に浮かぶ雌猫が見守る、倒れた弟の背中より黒い霞の人型が、それは虫が蛹よりかえるようにゆらりと噴き上がり、達磨に丸まった影がだんだんと背を張って大きく両腕を広げた様が、墓標に似て。

 思わず姉が叫ぶのだ。


「ふ、ふ、うっふふふふッ! あはははははッ! やれたじゃない! やれたじゃないクデンッ! すてきよッなんて素敵なッぎッ?」


 振り向いた、霊化した弟の顔は。


 造形がおかしい。端正だったはずの白猫の顔は口元の右端が滑った一筆書きのように頬が大きく裂けて奥の牙まで剥き出しで。鼻の筋も右に流れている。

 目が、右目がない。ないのではない。左に二つ、寄っている。一つひとつが別々に違う方向を見ている。


 顔がねじれている。ねじれた顔が言った。


「こえれ しゃがまかな らなか」

「え?」


 どおんッ! と。三度目。

 

 倍に膨れ上がったのだ。クデンの黒い魂がぶわりと西の崖が透けるほどに薄らいで縦に伸びたのを一瞬ザーラは目で追うことができなかった。

 見上げる。左に寄った弟の目はやはりぐりぐりと、あらぬ方をそれぞれ向いていた。輪郭がぼやけてふすふすと周りに黒い粉を吹いている。


「こぉ、こぉ、しゃがら、から、からだ、ねえさ」

 声が。音が言葉になっていく。

「ね、ねえさ。ねえさん。からだ」

 ひ、ひっ、ひいと動けぬ獣の兵たちが全身を震わせて。


「クデン——ぎゃあああッ!」

「からだッ!」


 フォレストンらが絶句した。

 宙に浮くザーラの全身が布のように解けて伸びた。黒い霧となった弟に吸い寄せられていくのだ。


 グレイが左手を上げた。

「——さがれッ」

 だがフォレストンは唖然として。


 また狼が叫ぶ。

「さがるんだッ少年!」


 ごおんッ! と高い駆動音が聞こえた。運転席のフューザが思い切り操縦桿を引く。ぬかるんだ土を吹き飛ばしてヴァルカンが宙に浮いた。


 また空振が響く。どおんッ! と。四度目。悲鳴を上げながら吸い込まれていったザーラを取り込んだクデンの魂が、また一回り巨大化する。


 その全身が徐々に、できあがってくる。黒い。だが時折白い。天から降る竜脈の光に照らされた部分だけが白のような銀色のような鈍い光を放ちつつ、ざわざわとはっきり毛羽立って。

 しかし所々に繊維に似た筋が見える。蠢いている。形が定まらない。


 盾を構えたバクスターも、敵の象よりも遠くのそれに意識を取られる。こちらへと身構えたモーガンが再び止まって、鉄仮面を翻して有様を見上げていたからだ。

 だから思う。想定外のことが起こっているのだ。我らにとっても、奴らにとっても。バクスターの口元が呟いた。


「——飲み込まれた……?」


 ふと。色が。影が。

 

 急に起こったのだ。陽光を雲が隠したのか、だが今ここに降りる光は竜脈のそれであるにもかかわらず自らの腕が暗くなり妙に陰影とのコントラストが深くなる。傍の大地も、敵の怪物も、神主も導師もそうだ。

 つい先日に起きた月昼期の蝕にも似た光に、離れたモーガンもまた気づいたのか見渡すように首を振る。

 そして象は空を見た。追ってバクスターも見上げて。


「……なッ?」


 怪異はそこにも起こっていた。

 フォレストンもグレイも気づいた。


 まっすぐに横切る竜脈の橋のさらに上、天をいつの間にやらどろどろと、赤紫色の奇妙な雲が覆っている。

 街全体をだ。遠く数キロリーム先まで、山裾に届いているのだろうか分厚いそれはかねてより見る雲でなく、まるで膿か血溜まりを溜め込んだぬるりと丸く伸びた乳房のような突起が、無数に下がった雲だ。垂れ下がるそれらが赤い、赤い、ぼおっとした光を帯びている。


 伸びて、降りてくる。しずくのように飴のように、真下に。

 だが狼も少年も、地上から見上げる彼らからはうかがえない。頭上を走る竜脈のさらに上で、なにか赤い塊が徐々に大きくなって。


 グレイの体毛が膨らむ。

「まずい——!」


 それまでの静かな練気が突然に転じて、ごおッ! と。

 神主の全身から強烈な魔力の気が発散する。次の瞬間。


 それは落ちてきた。

 巨大な、火球だ。


 まるで光の橋を、溶かし破くように。穴を穿った直径数リームを越える膨大な炎の塊が、滴下されて糸を引いて彼らの頭上に落ちてきた。


「があああああァッ!」


 狼が吠えて突き上げた右手のひらより、吹き上がって空中で真円の波状に広がった透明な壁へ、燃え盛る溶岩に似た炎が落下して。

 追突する。

 直撃を阻まれた炎が猛烈に弾けて、散って、流れる。周囲へと。フォレストンは思わず利き腕で頭を隠した。


 グレイの張った巨大な壁はドーム状にそこらのもの、少年とバクスターと無限機動ヴァルカン、敵のモーガンまで覆っていた。

 伝い流れ落ちる炎はまるで液体のようだ。ざあああああと壁を真っ赤に染めて周囲の草むらへと流れ落ち、そして地上で発火した。

 壁の外が燃え上がる。高熱の油に引火するが如くに外周を囲んだ炎が黒煙を放つ。その彼方から。


 狼の神主は咄嗟に振り返った。聞こえたのは叫びだ。


「う! う! うわああああッ!」


 彼らの後方、街の中央大通りに身を伏せて伺っていた自警の仲間たちの、その頭上にも。ここから見ればまさに巨大な紅に染まった油のしたたりが天より伸びて。


「壁は任すッ! 張れッ!」


 言うやいなや神主が襟の正面で両指りょうしの印を組んだ。ごおおっ! と旋回した巨大な半球の壁が風に掻き消えた。

 熱波が襲う。フォレストンが「ぐッ!」と短く叫んで自らの身体を輝かせる。

 盾と剣を持ったままバクスターは己の両肩を「ぬうッ!」と交差した腕の拳で叩いた。外套に幾何学の紋が素早く走って、まるで魔導師のようにその全身が一層に厚い障壁で包まれる。


 神主は袴の足を大きく引く。腕を引く。

「つあッ!」

 押し出した右の掌底より向こうの空が波打って。どおんッ! と見えない衝撃が伸びた地上の土砂を舞い上げる。

 

 遠くで地に屈んだ獣たちの頭にまさに落ちてきたその糸を引く火球が、猛烈な爆発音を上げて伏せた扇のように弾けて散った。


退けッ! 逃げろ——ッ!」


 腕を伸ばしたまま彼らに叫んだはずの狼の吠えは、だが途中で途切れてしまったのだ。眼球が揺れる。牙が震えた。

 見てしまったのだ。


 未だ黒煙でくすぶったウルファンドの街、広がるその遠景を北の空まで覆う肉厚の雲から次々に。垂れ下がる火球のしずくが落ちて、落ちて、また落ちていくのを、神主はその目に捉えてしまった。

 天より蝋が溶けるが如くだ、あちこちに。糸を引いて落ちた家々の向こうで火が上がる。


 狼の耳は良い。街の彼方より微かな悲鳴が聞こえる。

 形相が変わっていく、牙が鳴る。


 横でフォレストンも目をやる。再び街が燃えている。裾袂すそたもとの微かになびく神主の怒気が、肌を震わすほどあらわになる。


 その背に甲高い声が。

「うッびゃあああッ!!」

 雌猫の声だ。ぎりいっと牙を噛んだ狼が振り返ってまた吠えて。


「貴ッ様ら外法げほうやからが——ッ!」


 だが。またしてもグレイの叫びが止まった。

 五度目。黒き魂が一回り大きく膨れ上がっていた。


 異界に染まった天より滲む紫の光を浴びた魂は人型というよりもはやじくれた木のようで、その顔だった弟猫の頭から右頬を抜けて引き伸びた首筋にかけて。

 潜っていたものが息を注ぐようにごぶあッ! とはれが膨らんで別の顔になった。ザーラだ。だがその顔もまた黒き粘性の煙に張り付いて。


「ああ! ああ! クデンッ!」

「か、からだ、かならやがらまじゃがらぁ」

「クデンッ! あたしを見てッ! こっちよクデンッ! あああ熱いッ!」


 まだ伸びる。膨らむ。木のようだ。でかい、でかい、弩太どぶとい腕だったものが、節くれた枝のようだ。みしみしとばきばきと軋む音すら聞こえる。懸命に弟の方を振り向く姉の顔から左目がずれていく。外へ流れて弟の右目のあった場所へと、跡を引いて目が動いていく。


「ああああッ! 目が行く目が行く見えないッ!」

「ねええ、ねえさああ」


 ゆっくりと伸びる魂の木が両の枝を大きく張って。

 もはや十数リームほどにも立ち上がった黒いかたまりの麓では、ただ為す術もなく地に伏しただけの敵兵たちが、あるものはがくがくと涙と涎を垂らしながらひたすら震え、またあるものは「助けて助けて」と呟いて鼻を地に埋めるばかりだ。

 ぎりりと神主の牙が鳴る。彼らをそうさせたのは自分だった。グレイの気術は敵兵の体内に流れる魔力の気を乱して身体を麻痺させる技だ。今、あの者たちが逃げ出せないのは。


 おのれのせいないだ。

「……くッ」

 だが、その悔いは届かなかった。


 燃え始めたからだ。

「ぎ、ひ、ひぎやッあ!」

 伏せる兵たちの背と顔が、身体が一斉に。


 未だ火の立つそこかしこの草向こうに始まった酷たらしい火葬に、狼の神主は呆然と言葉を失う。

 身動きできぬまま倒れた獣の兵たちが前触れもなく全身を火に包みばたばたとかなわぬはずの四肢を無理くりにばたつかせるのは死に際のあらがいなのか。


 燃えて。燃えて。立てもせず。

「ぎゃあああああッ!」

「ひぃひぃひぃッ!」


 断末魔の叫びをあげる獣たちを苗床にして延びる炎が触手のように、これもまたクデンの魂へと逆さの根を張っていく。引き裂くようなクデンの口がばああああっと開いて赤黒い煙を吐いて。


「ああああ、かたち、からだしゃがらなあ」

「クデン! クデンッ!」

 変わらず横のザーラが叫び続けている。その顔がいよいよ崩れていく。


 これはもはや敵ですらない。

 やつらは災禍さいかだ。


 険しく目尻を軋ませたグレイが右に大きく腕を引いて身体を捻って、その瞬間。狼の半身を囲うように三日月型に、魔力の平たい刃が宙に顕現する。

「しあッ!」

 掛け声とともに振り抜いた右腕より。弧を描いた鋭い魔光が向かい風を突き破って一直線に飛び出した。


 放たれた刃が飛んで。ばざあっ! と。

 幹のような黒煙のような胴体を切り裂く。が。クデンは。

「……あ、ぐぁ?」

 もはやザーラの目も合わせて四つの瞳がぎょろりとこちらを向いただけで。曲がってしなった黒色の右手だったものは追い風に押されるように勢いよく。


 振り下ろされたのだ。そして。

 少年と狼が驚愕する。

 先程の天より落ちてきた紅いしずくより巨大な火球が、こちらに飛んできたからだ。


 反応したのはフォレストンだ。両手を構えた。

「りゃあッ!」と一閃の声が通ると同時に彼らと敵らの真ん中に。どがんと弾けた大火球の炎が城壁の如く立ち上がった。散っていく。また地が燃える。そしてグレイは見た。

 弾けた炎がボスらの骸へと落ちて火がついた。その周囲が激しく燃え上がる。火に覆われる。

 

 ぎりりと顔を一層険しくするグレイに、フォレストンが言う。


「街が、まずいぞお。狼」

「どうあってもあれを倒さねば……どうするか」


 少年のひたいにじっとりと前髪を張り付かせる汗も、狼の鼻すじに流れるそれも、焦りか熱波がゆえか、今はもうわからない。

 

 対して。吹き飛んで散った火球の炎を右腕でわずかに躱しただけの、怪物モーガンは。

 ひとしきりの有り様を見たのちに、やはり、バクスターの側を振り向くのだ。ごおごおと立ち上がる原の残り火を背に、象の逆手に握った拳の手首で。再び旋刃が回り出す。


 右足をかすかに引きずったバクスターが呆れて、かすかに笑った。

「あれを、ほっとくのか?」


 怪物は、何も言わない。

 バクスターの口元から、笑いが消える。


「お前……まさか、言葉が話せないのか?」


 怪物は、何も言わない。


「——お前らの軍は、なんなんだ? お前らは一体、なにをされている?」


 モーガンは、その鉄仮面から声を発しない。





「馬ッ鹿野郎ッ揺らすなッ! きっちり操縦しろッ!」

「急げッ! 落ちる落ちてくるぞッ!」

 搬出車キャリアの荷台で兵士たちが叫ぶ。空を仰いで恐怖に声をあげる。


 唐突に湧き上がった奇怪な雲より次々に垂れ落ちる炎の雫を必死に躱して旋回する、その機体は中型機でモノローラのような機動性はない。

 まるで魔導の爆撃の下を逃げ回るように右へ左へと飛ぶ機体の荷台で揺られながら、狂ったように左手首の腕輪をがちがちと弄る兵士が泣きそうな顔で声を発していた。


「——本隊ッ! 応答せよ本隊ッ! ダメだちきしょう反応がねえッ、うおお!」

 傾く。全員が荷台の縁に捕まる。

「寄せるな分かれろ! ひっくり返るぞ……っ!」

 そのすぐ傍を、空を。


 ずどおっと液化した火の塊が真下へと落ちていった。思わず追って下界へ目をやる。

 地上に達した火焔が木造の屋根を突き破って数瞬後に、内側から家を粉々に吹き飛ばして爆発し火だるまになった住民が投げ出されるのを、その目に見てしまった。

 がちがちと牙が震える。木と肉を焼く猛烈な黒煙で鼻が馬鹿になりそうだ、目から泪が止まらない。


「ダメだ……」「うるせえ!」

「ダメだって」「うるっせえ!」

「みんな死んじまうんだ! クソったれだぁなんだって獣の街なんか襲わなきゃいけなかったんだよお!」

「うるせえ黙れって言ってんだろがッ!」


 言い争う獣たちの、その頭上から赤い光が。一斉に見上げる。

 もうそこまで、火球は垂れてきていた。

 嗚呼。駄目だ本当だ。そう思ったのが彼らの最期で。



 遠くの空で爆発音が聞こえた。ぜえぜえと北に走るキーンが空を見る。小さく映るあれは敵の空挺だろうか、真っ黒な煙を吹いて街へと墜落していく。

 煤に巻かれた黒猫はもはや涙もあらかた乾いてしまった。かすかに震える口をぎりっと噛み締めて、また走る。


 すれ違うのは受難の人々だ。大声をあげて逃げ惑う獣たち、道端ですすり泣く母親と子供ら、そして焼けた死体。時折川向こうから聞こえる轟音は火の燃え盛る音に混じった爆発だろうか。

 濛々と煙る空の上から絶え間なく垂れてくるのは血の色をした蝋のような火球で、街中へとそれが吸い込まれるたびに火柱が上がるのも、あちこちに見える。


 北へ行くほどかすかに登る坂を、もう原型もないほど燃えた家屋を横目に見て。キーンが必死に向かうのは道沿いの診療所だ。ルーシーがいるはずだ。住人たちが集まっているならアランもマーカスもきっと——ただ懸命に駆けて。見えた。あそこだ。だが。


「消してッ! 早く! みんな避難してッ!」

 彼女は道で叫んでいたのだ。姿を認めたキーンも叫ぶ。


「ルーシーッ!」

「——キーン! キーンッ無事だったの!」


 振り向いたルーシーもまた、長い栗毛の髪は熱波でばさばさに荒れて、服のあちこちが黒ずんで汚れている。駆けつけるキーンと迎える彼女の周りを、幾人かの病衣を着た患者が家族に付き添われ、あるいは背負われて逃げ出していた。


 見上げれば崖沿いの五階建て診療所は、その北側が燃え落ちて未だ煙を燻らせて。三階辺りの窓から、残る患者を誘導して廊下を走るチャコの姿が見えた。

 

 キーンがルーシーの肩を掴んで。

「大丈夫か、怪我してないのかよ!」


「うん。うん。あたしは平気。でも火に巻かれた人もいて……燃えちゃって」


 頷いて、答えて、見つめて。気丈に振る舞っていたルーシーが。その目からぼろっと。


「キーン。キーン」


 涙を流してキーンにしがみつく。泣くに任せてキーンが彼女の背中を軽く叩いてやる。かろうじてルーシーがくぐもった声を出した。


「アランと……マーカスは?」

「いや。俺、会ってない。まだこっちにも?」

 キーンの肩で彼女が首を振る。


 励まそうと言葉を探すキーンが途方に暮れる。空を見れば相変わらず毒々しく爛れた突起が伸びて千切れて、街へと落ちていくのだ。


 これはなんだ? どこに逃げたらいい? どこか安全な場所なんて、あるのだろうか? なにひとつ分からず、なにも答えられない。今だって見渡せば通りは白や黒の焼けた煙に包まれてどこに行くにも視界も悪く——


 がりりりい がりりりい と。


「え?」「え?」


 最初にキーンが声を出し、それにルーシーが反応した。


 がりりりい と。まただ。道の向こうから。煙のせいでよく見えない、鼻も効きが悪い。だが何かが向かってくるのがわかる。音は地面を引きずるような音だ。まるで長い木材を引いているような。そんな音だ。

 やがて視界の向こうに現れたのは。驚くキーンが呼びかけた。


「マ、マーカスッ? マーカス!」

 

 駆けつける彼らより一回り体格の良いレトリバーのマーカスは何をしていたのか顔から服からぼろっぼろに煤で汚れて、その肩に抱えていたのは荒く長い縄だ。

 縄で引いていたのは背中の担架——焼けた二本の材木に切り裂いた厚布を数回巻きつけて所々を縛り込んでこしらえた間に合わせで、さらにその上に縛られて乗る、薄い布で巻かれた固まりは。


 もう、わかる。引きずってきたのだ。

 マーカスの涙の跡が乾いている。目がぎらついている。

 ゆっくりと肩から縄を降ろせば、担架がずしり。と地についた。


 もはや、キーンもルーシーも。それがなんなのかわかっている。この近さで匂いが届かないはずがない。血の気が引いたルーシーが砕けるように体を横に曲げ膝からどさあっと座り込む。


「あ……ああ……そんな」


 マーカスが無言で布を解く。内側から見慣れたアランの柔らかな、だが今はしなだれた長毛が見えて、閉じた目が見えて、かすかに開いて牙と舌の覗く口が見えて。そして。


「……ひっ。」


 キーンの顔が毛羽立つ。死んだアランの胸元を覆うように、もう一つの死体が包まれていたからだ。年端も行かない幼女だ。

 がたがたと震えながら、それでもキーンが友人の呼吸を確かめるようにその口元へやろうとして伸ばした右の、その手首を。


 そっと、しかし、ぐっと強く。マーカスが握った。

 キーンの視線が泳いだまま彼の方へ移れば、伏せた鼻のマーカスが瞳だけ上向いて声を出す。


「——キーン。アランは、この子をかばって撃たれた」


 黒猫はただ頷く。マーカスが、いつものおどついた彼ではない。目に新しい涙をまた浮かばせながら、しかし瞳の光は強いまま言うのだ。


「何号に見える」

「……え?」



 その言葉に、キーンとルーシーの目が見開かれて。二つの死体は。がちがちと恐怖で歯を鳴らしながらも彼らが覗くそれらの死体は。まだ綺麗だ。

 この四人もまた、辺境大隊に連れられて山岳を放浪し、一時は蛇で旅をした乗組員なのだ。


 その知識だけは有している。

「だから……連れてきたんだ。僕はまだ諦めてない、キーン」


 涙を滲ませたマーカスが、言い切る。





 脅威は、三つあった。

「くッ!……そ」

 身構えるグレイの口から焦りの呟きが漏れる。


 一つ目は空だ。今でもやはり赤紫でどろどろの雲から変わらず垂れて糸を引き、街へと落ちる炎の雫が遠目にも一段と頻度を増している。

 魔導による爆撃の段ではない、ぼたぼたと容赦ないそれは家々の屋根へ消えるたびに遠い爆発の音と火の柱と、やがて焦げ立つ煙を吹く風に湧き上がらせて。もう何本、この広い空を流れていくだろうか。

 

 焼けていくのだ。神主が護るべきウルファンドの街が。

「うおおおおおおッ!」

 袖を舞わせて大きく伸ばした狼の右肩から手の先にかけて発現して宙に並ぶ四つの光球を、一気に腕を振り抜いて、飛ばす。飛んでいく。しかし。


 どどどおッ! と。

「ぎ、ぎ、ぎ、ぎあっ?」

 呻く巨大な塊に命中して開いた穴を見下ろすように、また。顔の部分に張り付いた虫の如く散らばる四つのまなこが下を向く。


 振り抜いた右腕に隠れた狼の鼻先がぎゅうっと軋む。これが二つ目。こいつの倒し方がわからない。攻撃は明らかに効いていない。

 狼の神主グレイの元素はほぼ中庸だが微かに風星エアリアに寄っている。その身の素早さを性質たちとする彼の属性であった。そこから打ち出す光弾は黒く広がる奇怪なたましいを確実に穿つが、だんだんと空いた穴は閉じていく。


 隣で同じく構えるフォレストンも熱波の中でだらだらに汗を流しながら、しかし少年の感覚は周囲に広がる元素星エレメントを必死に追っていた。

「なんで、こんな真似が——できるんだあ?」

 禍々しい黒体に視線をやりながら、同じく呟く。


 いないのだ。元素が足りない。

 彼らの周りに広がる中空から、竜脈の元から。火星イグニスが見当たらない。もっと厄介なのは水星ハイドラもほとんどいないのだ。

 

 理由はアタリがついている。あの天から落ちる雫に違いない。

 フォレストンがじりっと街に目をやる。

 水のようにしたたり、火のように燃え上がる。あれだ。あれは禁忌だ。互いに拒むはずの火星と水星を垂れ込める雲に縛り付けているのだ。


 残る風星と大地星タイタニアの攻撃が、まるで効いている風ではない。ただ彼も導師であるならば次の攻め方はわかっている。法術を使えば或いは——事実雌猫のザーラにはグレイの剣が効いた。同じように法術の剣なりを構えて——だが。


 踏み込むのか、あれの懐に。

 でかすぎる。一撃で斬れるとは思えない。その思いはグレイも同じで。さらに。


 むおおおおあっ。と。

「!——またッ。くそッ」

 二人が迎撃に身構える。黒きたましいの大木が枝の腕を振り下ろす。次の瞬間またひと回りに。


 飛んできた、これが三つ目。

「うおおおおおおッ!」

「がああああッ!」

 神主と少年が迎え撃つ。両の手のひらを大きく開いて。


 まるで直射砲の先端とも思える猛烈な火球が、二人の前面で凄まじい爆発を起こした。「ぐうッ!」と。炎が吹き上がる。身が押される。張った壁が一気に吹き飛ばされて全身が軋んで後ろに追いやられる、ずりずりと足が滑る。

 やつの撃ち出す火球が撃つほどに威力を増している。でかく、でかくなっていく。攻めあぐねる理由はこれだ、もはやグレイとフォレストンが同時に弾くのが精一杯で、一人の壁では受けきれない。


 これほどの火焔と熱波のなかで、それでも火星がいない。ごおおっと宙を焼く火の向こうにそびえ立つ、今となっては高く見上げるほどのたましいのかたまりが微かにその全体を揺らしながら、まだ膨らんでいく。


 あれを止めなければ。何か手を打たなければ。このままではいずれこちらが力尽きて焼き殺されてしまう。同じように思い、同じように焦る二人の。


 互いの耳に、それぞれに。それは唐突に。

 まずは神主の、狼の耳が動いた。


「……?」


 やはなきの みの かるはむなしく とくわかつなり


 同じく。いや。異なってと云うべきか。シュテの導師フォレストンの耳にも、それはかすかに。


「え?」


 Suus 'non est verum Nolite malum.

 Uti ignis et aqua Scire debes.


 それはどちらも、互いの耳に聞こえた。主たる声がやや大きく、従たる声は小さく。混ざるふたつの声を耳にした二人が一斉に見上げたのは竜脈だ。


 空から降るように聞こえたのだ。





 竜脈の発現とともに老婆の横にへたり込んだカーナの、その右手首からは完全に紋が消えていた。ぐらぐらと視界が揺れる。全身からなにかが持ち去られていくようだ。

 遠くに見える街の空に一直線に走る竜脈を——あれは何が呼び出したのだろうか、自らが呼び出したのだろうか、それもまた朦朧と思いながら——点々と突き破って落ちてくるくれないの雫は街へ落ちるごとに火を放ち煙をあげていくのがわかる。

 

 ひのみこ わけて かたりたまい


 また声が聞こえる。

 街が燃えている。

 思い出のウルファンドを焼き包む炎に、かちかちと牙が鳴る。


 Ut mala non fiant Nolite malum.


 違う言葉が聞こえた。


 Ne fiat suus 'a clade.

 Ne contingat illud malum.

 Ut mala non fiant Nolite malum.


 Suus 'non est verum.

 Nolite malum.

 Nolite malum.

 Nolite malum.


 それは、どこの国の言葉なのだろうか? どこの世界の言葉なのだろうか? 赤い光に空を見る。

 禍々しい雲からどろりと垂れ下がる煮えたぎった火焔の雫が、ついに境内で動けぬその二人の上にも凶悪な熱を放ちながら、降りてきたのだ。火球が降りて、降りて、降りて頭上の空に垂れ下がってくる。


 Nolite quaeso fratres mei.

 Nolite malum.


 意味は、わからない。だが感情が伝わる。だれかが、どこか彼方で、悲しんでいるのだ。

 火と水の子らが災厄のもとに囚われて、だれかが悲しんでいる。

 ゆっくりと振り仰いだ、ほとんど意識のないカーナの瞳が真紅に染まる。これが、この火の球が、街を理不尽に燃やしているのだ。


 そうだ、理不尽に。愛ある人たちを。私に優しかった、この街を。


——そのかなしみは、おまえだけのものだ。だから、乗り越えるのも、おまえしかおらんのだ。——

 

 〝火炎豹〟の瞳が激しく輝いた。

 

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