第百二十三話 脈下の乱闘

「た、立ち上がった?」

「嘘でしょ、なんだあれ……」


 強風に煽られながらホバリングする小型無限機動クロムヴァルカンの中より。運転するフューザとその後方座席から身を乗り出すマーガレットは、フロントガラス越しに見える敵の挙動に呆然としていた。


 小型とはいえヴァルカンも八人乗りの無限機動なのだ。その質量で追突し吹き飛ばした衝撃をものともせずに、象の怪物が起き上がる。一、二度軽く首を鳴らして。ゆっくりと広げる両腕の籠手が再び、高速で旋回を始めた。


 ヴァルカンから降りたバクスターは外套に隠れた両腕の先より、ぶうんっと。魔導の盾と長広の光剣を伸ばした。左右二刀になる。

 素早く周囲に視線を飛ばす。そばに立つ狼の神主。遠くに浮く猫型の敵。敵味方倒れている兵士が数人。そして眼前の——


「あれは、なんという形態ですかな?」

「……〝象獣エレファント〟だ。知らないかね」


 グレイの答えに微かに首を振り、バクスターが身構えた。見たことのない耳と鼻と、牙。おそらく見掛け倒しではないはずだ。

 遠くの街は燃えている。ごおごおと吹く風に煽られた黒煙が乱れ舞って流される下に時折赤く見えるのは、未だ炎が消えていない証なのだ。


 やはり、ウルファンドは襲われていた。


 またしてもだ。これで三度、ヴァルカンは敵の存在を予知した。蛇を追うのをやめて引き返したのは正解ではあった、が、はたして。対峙するこの襲撃者は如何程いかほどの力なのか? バクスターの拳に力が入る。

 

 対して。

 雲の湧き上がった空をただ見上げていたフォレストンはやがてざくざくと無造作に原っぱを歩き、地に斃れた数人の獣たちの傍でしゃがみこんで手を伸ばす。

 首元に当てる。脈はない、こと切れている。死体を前に年端も行かない少年がかすかに眉を顰め渋っただけの顔をするのは、まるで老齢の師が乗り移ったかのようだ。


 この死んだ獣は、見知っている。何度か街で目にしたボスと呼ばれていた水牛の獣人だ。左のツノが折れ飛んで、包帯に巻かれた左腕が手首の先からが無い。


 さらさらとした髪が強い風で巻き上がり、まだ幼なげな額があらわになる。

「ひどいこと、するなあ」

 それだけ言って立ち上がる。敵を見た。


 西の崖から東の山稜へ、上空を覆ってまっすぐ伸びる雲の下。

 遠くに浮く軍服の白猫ははああと牙を見せながら伺うように首を傾げて警戒している。ヴァルカンで撃ち抜かれた穴が徐々に塞がっている。鼻眼鏡のむこうでフォレストンの目が細くなる。あれはきっと霊化のやからだ。


 その周りにも倒れた兵が幾人も——狼の神主が生き残ったのか、これらを一人でやったのかはわからない。

 やや西寄りに立つあれは象だ。おそらくバクスターは知らない。カーンの領域、大陸東方で見かけない獣であるからだ。


 ごおおおと吹く風の中で敵味方。誰も動かない。

 ヴァルカンは浮いたまま地で睨み合う彼らを、これもまた伺うように風を受け流している。


 ただ。

 もう一度、フォレストンが言ったのだ。

「ひどいこと、するなあ」

 垂れた右手の拳を握ったのだ。

 

 それが合図だった。

「ヒャアアアアアアッ!」


 奇声を発したザーラの身体がまた一瞬でばららあっと宙にほどけて黒布に舞って縦に細く消えた瞬間。その獣しか嗅げない匂いは一直線に。

 グレイが大声で叫ぶ。


「避けるんだあッ!」


 振り仰いだ狼の声に構わず。血の呪縛を解かれた雌猫の姿が次に発したのは、導師フォレストンのはるか後方で。


 びしいっ! と。

 ヴァルカンの中でフューザとメグが。狼の横でバクスターが。カーンの面々が呆然とする。


 高さ数リームの透明の壁が少年の左顔面から法衣の胸を抜けて裾の足元までざっくりと真っ二つに。ガラスのように縦に貫いて出現したのである。

 差し伸べた手を伸ばしたままのグレイが牙を噛む。遅かったのだ。


 氷の壁の先で再びどろおっと巻き上がった黒布から顔を出したザーラが振り向きざまに吠える。


「あッはははは! なんだッただの子供——」

 だが目の当たりにした。猫目が丸く見開かれたのだ。


 導師の服をなびかせて。

 少年の身体が半透明の氷膜も無きが如くにぐるりいっとひるがえったからだ。左腕で祓うように。

 彼を貫いたその氷が周囲だけ氷であることをやめて。複雑な水の薄布ベールになる。宙に曲線を描く。飛沫も浮いている。


 切れていない。斬られていない。

 フォレストンが言う。


水星ハイドラでは俺は、斬れないなあ」


「お、おまえ、どこの、まさか」

「察しがいいなあ。魔導会だあ。ずいぶん楽しそうだなあお前」


 霊のくせに口を激しく歪ませ下顎から首筋に引き攣った縦皺を寄せたザーラの数カ所には未だぼろぼろと小さな炎が消えずにくすぶったままだ。

 そしてこれも言うのは少年だ。


「じいちゃんに教わったんだよなあ」

「ぐ……ぎ、ぎ、ぎ」

「殺すときにわらう奴には容赦するなってなあ」


「生意気抜かすンじゃないわよッ! 斬れないなら叩き潰してやるわッ!」


 空中で大きく上げたザーラの手のひらが激しく輝く。フォレストンが身構えた。巻くように水飛沫が舞う。その時。

 浮いたヴァルカンの機体がぎゅんと自動で旋回して突き出した両羽のガトリングが回転した。乗るフューザとメグが「わああッ!」と仰天して。さらに。


 突っ込んできたのは象なのだ。

「ぬうッ!」

 バクスターとグレイが振り向いて構える。

「キイャアアアッ!」

 ザーラも少年に向かって両手を振り下ろした。


 猛烈な雹の渦が自分に降り注ぐのと同時にフォレストンは左手の三指を「ふッ」と逆手に構えて眼前に切り上げた瞬間。大地から分厚い透明の壁が土砂を吹き飛ばして立ち上がった。

 雹がぶつかる。凄まじい音で突き刺さる。

 高速で回った凶悪な手首の刃を丸太のような右手で振り上げ襲ってきたモーガンに腰を据えて盾で構えるバクスターの左後方から。


 ヴァルカンが撃った。怪物に魔弾が降り注ぐ。

 

 どどどどどおッ! と硬質な連撃に見舞われた象が鼻をなびかせ後ろに反り上がった、その腹に向かって。

「ふんッ!」

 振り抜いたのはバクスターの光剣だ。が、しかし。

「——なにッ」

 怪物の右脇腹に決まったはずの横殴りの剣撃ががいんッ! と弾かれたのだ。その一瞬をグレイも見逃さなかった。


 また勢いよくヴァルカンが回る。あらぬ方向を向く。中の二人が叫ぶ。

「うわああッ!」「きゃあああ!」

 フォレストンは微かに腰を落として壁の裏で右腕を肘からぐうっと弓を引くように引き絞って。 


「ツあッ!」


 石礫いしつぶてほどの雹が投剣のごとく突き刺さった壁の反対側から一閃。殴るように突き上げた右手の手刀から吹き出した剣のような魔力線は壁を逆から激しく破って。

 直撃となって宙を飛ぶ。その先で。


 猫が解けた。ばらりっと。少年の奥歯が鳴る。

「——顕現自在フラッグマインッ……」

 ザーラの身体が外套ごとフォレストンの魔光をなすように渦になって空中へ消えて。


 だがまた撃ち放ったのだ。ガトリングの連撃だ。


 何もない空は倒れ伏したクデンら敵兵の斜め上空で。そこに。

 ぶわあっと黒布が湧いて型を成すザーラの全身をまたしても。

「ギイヤアアアッ?!」

 次々に貫く。顔に穴が開く。体を突き破る。空中で雌猫が旋回する。

  

 驚愕に崩れた顔はしかしきっちりと自らを撃った魔導機を睨んだまま。

「ぶあああッ! うざいッ!」

 吹き飛びながらザーラが左手を広げて思い切り押し出す。


「え?」

 フューザとメグの目が。瞳孔が。

 浮いたヴァルカンのフロントガラスから見える空に岩石のような、機体の数倍はあろうかとする巨大な質量の氷塊が唐突に出現して。


「りゃああああッ!」


 叫んだのはフォレストンだ。法衣ごと身体を捻って今度は左を拳に握ってその場で空を切るが如くに殴り払った瞬間。

 その氷塊の左横が見えぬ砲で撃たれたかのように大きく窪んでひび割れて。ヴァルカンの目の前で半分ほどが砕けて空に散る。やがて亀裂は全体に達し数ブロックの鋭角な氷の塊となって爆散したのだ。


 そのまま。

 右足をざあっと引いた導師が身体を回してザーラに向いた。


 呆れるほどに風が強い、びゅうびゅうと。

 剣を右手に据えて下ろしたグレイはやや袴の足を滑らせて。


 はっ。と。息を吐く。

「助かる」

 本音だ。狼が初めて微かに隣の強面に視線をやった。

「援護します。まずは、こいつを」

 バクスターが言う。


 鉄仮面の敵は、目の前の巨象は。やはり堪えた風に見えない。撃たれても轢かれても平然と張り詰めた胸筋を広げるその表情もまた、窺い知れない。


 そして宙で改めて形を成していくザーラは美しい白毛の顔を歪ませて新たに湧いた敵の陣を睨み据えて下顎の牙で唇を噛む。


 シュテの魔導師。


 まさかそんな援軍がウルファンドにいるなんて。

 だがそれよりも。徐々に塞がっていく頬の穴からまだ微かに湧く火と煙をそのままに、睨みを繋ぐのはこまっしゃくれた少年から、その後ろに浮く魔導機だ。


 あれはなんなの?

 理解ができない。二度撃たれた。


 読まれている。自分の動きを読んであれは撃っている。中の操縦士がそういう能力持ちなのか、あるいは——。

「予知? 魔導機如きが? そんなのって、ある?」

 忌々しそうにザーラが呟く。


 旋風がいよいよ少年の髪を踊らせる。竜脈が走るのは近い。

 フォレストンは分かっている。そうそうこちらも負けてはいない。おそらく灰色狼の神主も実力者なのだろう、それでもだ。


「……まいったなあ」

 こちらもまた呟くのだ。

 霊化した魔導師をどう倒すか? フォレストンにはその見当がついていない。





 それはまるで天空に吸い上げられた目には視えぬ奔流のようであった。

 喉が渇く。身体が持ち上がらない。


 地に仰向けとなった老婆の傍らで、膝をついたカーナは全身を覆う火炎豹独特の赤味を帯びた土色の体毛に変化が起きていた。頬や胸元や両腕から、それらがずいぶんと薄らいで。

 半分ほど。半端に。人の姿に戻っているのだ。イルカトミアで蛇の面々が助け出した時の少女の顔へとおぼろに戻っている。

 そして、はあはあと息がおぼつかない。目がかすむ。立ち上がれない。


 下向きに項垂れる彼女の視線に映るキィエはいまだに割れた陶器のようなびゅうびゅうと掠れた音を喉から鳴らし、毛むくじゃらの顔は生気が感じられない。


「お、おばあちゃん」


 声をかけたカーナの頭上で、ふと。吹き荒ぶ風の彼方から街を包んだ暗い雲の西、ウルファンドの崖の向こうから。彼女もまた見上げたのだ。

 空が明るくなって、何かが聞こえる。唐突に彼女が思い出す。


 まだ幼い頃に何度か、父親と見たことがある。遠い昔のことだ。故郷イルカトミアの高台で、怯える幼い彼女をだっこして父親が言ったのだ。


——「見えるか? 見ていろよカーナ」——


「あ……ああ」


——「あれが竜脈だ、カーナ」——


 VOTUM IMPlETUMその願いは成就せり

 

 父親の胸に抱かれて埋めた顔にかかる細い金髪を撫でるように差し込む、微かな光へ彼女の瞳が反応して吸い寄せられるように、高台から遠くに広がる街の空を、その時も見た。


 今もそうだ。その時にも聞こえた。今もそうなのだ、覚えている。なにか巨大な、とてつもなく巨大な獣が西の彼方から唸る、そんな咆哮に似た響きを耳に捕らえながら。


 天にかかる厚い雲の上を一直線に。光の橋がかかったのだ。

 そうだ。髪が揺れる。そうだ。カーナが思い出す。

 あの時も風が吹いた。はっきりと覚えている。


 つう、と涙が流れる。理由はない。

 燃えるウルファンドの街に、竜脈が現れたのだ。



 それはこの世界に生を受けた魂の原初へと刻み込まれた本能のようなものなのだろうか、まだ立ち並ぶ家々が燃え崩れて煙をあげる街の道を逃げる獣たちすら、そうであるのだ。

 一瞬、彼らが空を見上げる。獣たちの尖った口が僅かに開いて空の響きに耳が動いて天を向く。走る広大な光の流れと雲間から差し降ろす幾本もの光芒に釘付けとなって竜脈を見る。

 過去にウルファンドの空を竜脈が走ったことはない。だから呆然として。煙に巻かれて燻って汚れた獣の子供が天を指した。


「おとおちゃん。あれなに?」


 獣たちのいくらかは見知っている空の光だ、旅先で、違う場所で、違う国で。だがここでは、ウルファンド断崖の街では、かつて見たことがない。


 黒煙と分厚い雲を透けて煌々と天が輝いている。



 

◆◇◆




「——何を見ている?」


 執務机の椅子に身体を預けたイングリッド=ファイアストン女史が窓際の少女に声をかけた。


 クリスタニア帝国辺境の仮設本部は、蟲の化け物に折り倒された本部管制塔の北側に簡易で設けられた三階建てのプレハブ様とした施設で、その三階中央にある執務室の東窓からは広大な発着場と、その先に広がるクリスタニア湖と遠景の山稜が一望である。

 瓦礫を片付ける重機の音がせわしなく響く窓からは微かに湿気を帯びた湖の風が吹き込んで、外を見る少女ソフィアのボブに丸めた銀髪をさらさらと揺らすのみで。


 雲は少し増えた。それだけなのに。

 ソフィアが答えない。


 この元クレセントの少女はそもそもが無口ではあるが、なんとなく。すとんと寸胴の緩い法衣で包まれた彼女の背中に、イングリッドは張り詰めた気配を感じたのだ。


 だからもう一度言う。

「どうしたソフィア——おい。」


 微かにイングリッドが腰を浮かした。おもむろに振り向いたソフィアが扉の方につかつかと、宝玉の嵌った杖を胸に抱えたまま歩き出したからだ。


「どこに行くんだ?」

「グランドック」「は?」


 ソフィアが振り向く。

断崖船渠グランドックに行く。ウルファンドの街に」

「待て。わかるように言えソフィア」

「わかるように言えない」「なんだと?」


「〝声律トーラ〟の銘が破られた。二番を発動させた者がいる」


 ソフィアの言葉にイングリッドが右目を丸くした。

「そんなことが?」


 少女が頷く。と、女史の動きは速い。左手首の腕輪をちきっと指先で操作して口元にやる。開いた窓の湖を見る。雲は多いがいい天気だ。


「開放通信。誰かいるか? 私とソフィアが出立する、目的地はウルファンド断崖船渠グランドック小型無限機動ベスパーの運転と数人の護衛を頼みたい。魔導槽ダクトセルを補充して仮設本部前に回してくれ」


『はいはいっ。いますよあたしでいいですかイングリッド様っ。』

「ギャレットか。相方もいるのか?」

『はい十一番います。何ですかそれ』

『あっはは相方だってえ』


 元気な凸凹でこぼこだ。イングリッドが苦笑した。

「かまわん。任せる」

『了解でっす』『了解しました』


 椅子にかけた上着を取って羽織りながらイングリッドが言う。

「すぐ出るんだろ?」「うんっ」


 話の早い女史に少し嬉しげにソフィアが大きく頷いた。大股で歩き先に扉を開けた女史の後をとことことついていく。先導して廊下を歩くイングリッドが、しかし彼女の言葉を反芻していた。


 魔法の銘を破る。


 そういうことのできる魔導師や魔導の話は幾らか聞いたことはある。だがソフィアの所持するそれは特別だ。彼女のそれは〝ノエルの使徒不明呪文ジャンク=スペル〟なのだ。

 銘の操作で最も身近なのは黒騎士グートマンが所持するノエル十三番〝死門クロージャ〟で、だがそれも同じノエルの呪文の管理者権限を破ったケースなど聞いたことがない。歩きながらイングリッドが後ろに声をかけた。


「ソフィア」「うん?」

使徒不明呪文ジャンク=スペルの銘を突破できるような魔導師が、今の世の中にいると思うか」

 同じく歩みを止めずに首を横に振る少女が答える。


「ありえない、と思う。だから、わからない。人間にも、獣にも、クレセントにだって——あ。」

 ふとソフィアの足が止まった。イングリッドが振り返る。

「なんだ」

「ノエルの呪文は、ノエルになら破られるかも」


 その答えにイングリッドが眉を顰める。

「……使徒不明呪文ジャンク=スペルの銘を打ち破る、別の使徒不明呪文ジャンク=スペルがある、という意味か?」


 銀髪の少女が頷いたのだ。



 

◆◇◆




 空を飛び交いながら吠える白猫は、しかし。

「キシャアアアアッ!」

 その魔導があまりにも大雑把だ。


 思い切り振り下ろすザーラの両腕から放たれるのは猛烈な冷気と氷結で、周囲の草地をばりばりに凍らせながら真っ白な結晶に混ざった剣のような雹撃を吹きつけてくるのだが。

 攻撃範囲に容赦がない。フォレストン、神主グレイ、そして兵士バクスターはともかく、味方であるはずの象の背中にも躊躇いのない氷の切先が降り注ぐのだ。


「うおッ」

 ががががっ! とぶち当たる雹の雨をバクスターが両腕の盾で受ける。袴で構えた神主は光剣を持つ右手で咄嗟に円を描いただけだ。グレイを狙ったすべての雹がびたりと空中で止まる。飛んできた雹が力なくばらばらと落ちていく。


 その操術に驚くバクスターとは裏腹に、それでもグレイは焦っていた。


 法術の剣〝叢雲ムラクモ〟の顕現は三十分が限界、それを過ぎると〝鳴きの二分〟が始まってしまう。剣が幻界に戻ろうとして、最後の二分は斬れるか斬れぬか不明となる。

 そもそも叢雲を顕現させたのは霊化の猫を斬るためであった、が。今やその妖怪はもっぱら導師の少年が対峙しており、自らの切先は目の前にいる遅れてやってきた怪物——象に向けられていた。


 そのモーガンは背中にがりがりと当たるザーラの雹をなんなく体表で跳ね返しながら、またしても。今度は振り上げた左拳で思い切り。


 鉄塊のような重い一撃がバクスターを襲った。

「ぐッ!」


 激突にバクスターが、構えた盾ごと腰を折る。拳は拳だけでは済まない。旋回する刃が凄まじい火花を散らす。ぎっと歯を噛んで堪えるバクスターの前で魔導の盾が削られて、だがまだ割れない。

「ふッ!」

 横から神主が象の巨体を斬り上げた。モーガンが躱す。跳び下がる。巨体の引き身が恐ろしく素早い。


「大丈夫かね」

 かろうじて頷くバクスターだが、その腕が未だに軋んでいる。ぐうっと構え直した横からグレイが呟くように。

「あの旋刃で割れないとは、たいした盾だ。これも少年が?」

「いえ、別の師です。法術の達人で——ですが、剣は効きませんでした。奴の皮膚はなんなのか……」

 

 巨象から視線を外さず、構える両者が言葉を交わす。神主が続けた。


「あれは、あたしの剣が幻界の呼び出しものだと理解しているようだ、こいつだけは避ける。あれを覆う壁は奇ッ怪だ、この剣以外に反応がない。あんたの剣撃も、打ちつける雹も」

「そのようですな。では剣は顕現系ですか」


 わずかに狼の目が緩んだ。

「詳しいね。そうだよ」


「猫退治のための剣ですか」

「その通りさ。だがもう消える」

 ちらと、バクスターも隣の狼に視線をやる。

「消える前に、一太刀でも?」

「一太刀でも。一太刀でいいはずなんだ」

 狼の言葉にバクスターが数度小さく頷いたのだ。



 気がはいらない。攻めあぐねている。

「くっそ……このッ!」


 思い切り体を捻ってどんッ! と飛ばす魔弾を、飛び回るザーラがなんなく躱した。フォレストンが敵を睨む。こんな気弾では当たるはずもない。当たったとしても大した効き目もないはずなのだ。

 霊化の敵を倒すなら幻界のわざが必要だ、が。導師フォレストンが祖父から引き継いだ魔導は共鳴系と励起系が基本で、顕現系は学びの途中なのだ。


 決めの一手が思いつかない。しかしそれはザーラも同じであった。戦闘は膠着状態で、そして互いに命の取り合いをしているにも拘らず、気がそぞろになる。

「忌々しい。ああ糞ッ眩しいッ!」

 原因は空にあった。ザーラが上空を睨みつけた。


 全員を覆うように。

 天に竜脈が流れているのだ。


 なぜこのタイミングで?


 地で騒ぐ者どもを気にも留めずに空を遮る光の道のもと、雲間から差し降ろす光芒が東に向かって何本も貫かれて。そして、ひとしきりおかしい。

 それが気に掛かって、ザーラもフォレストンも敵を詰め切れていない。


 異常に気づいたのは、宙に浮くヴァルカンの後部に座ったメグも一緒であった。


「フューザ、フューザッ!」

「なんでしょう」

「変じゃないかっ」

「変です。風が弱すぎる。なんだろう、この竜脈」


 運転席のフューザもフロントガラスから天を仰ぐ。もともとアーダンの東方砂漠を拠点にしたマーガレットたちカーン勢は、故郷で幾度も竜脈には遭遇している。そんな過去に見たどれよりも、この竜脈は異質であった。


 風が吹かなすぎて、光の河が走るのが早すぎる。もっと凄まじい嵐のもとで、すべての眼下を追いやるが如くに下界を圧倒するのが竜脈の発現、のはずなのだ。

 それを仮に自然の河川に例えるのならば、今この竜脈は、まるで人工の水路のような——


「ああッもう鬱陶しいッ! 潰れちまえッ!」


 怒鳴り声に我に帰ったフォレストンが目にしたのは。


 空中で大きく外套を翻しながら高く両腕を上げたザーラの、その頭上にまたもや湧き出した巨大な氷塊だ。

「そおらッ!」

 振り下ろす。落ちてくる。真っ直ぐこちらに向かって。小さな体で腰を据えフォレストンが右拳を引き構えて。


 どおっ! と地の霜を蹴って向かってきたのは象も同じだ。バクスターが再び盾を構える、が。

「くッ——!?」

 象はしかし手を振り上げていない。肩だ。肩を入れている。しまった。体当たりだ。間に合わない。


 フォレストンが魔力を噴き出した拳の一撃で向かってくる巨大な氷塊をものの見事に粉砕したのと、兵士バクスターがまるで魔導機ほどの巨体の突撃をその盾で受けたのはほぼ同時であった。


 空中に爆散した氷が竜脈の光を乱反射させる、破片の後ろから現れたのは。

「ヒャアアアアアッ!」

 そこにいたのだ、氷は囮だ。飛びかかるザーラの爪が少年の首を捕らえようとして。


 魔導の盾がついに割れた。粉々に飛び散った魔力の向こうより再び。倒れて飛ばされるバクスターの頭上を緑色の基底盤が輝いて飛び抜けて。

 小型無限機動ヴァルカンの機体がモーガンに激突して押し飛ばす。だがボンネットに乗り上げた象の上半身より右腕が大きく立ち上がって、手首の旋刃が猛烈に回転した。

 

 フォレストンの首筋に猫の両手がまさに掛からんとした、その瞬間であった。少年が見た。瞳が丸くなる。

 目の前に迫った白猫と割れ砕けて宙に散った氷のさらに後ろで、白衣黒袴の狼が肩掛けに構えた光の剣ごと高く飛んでいたからだ。振り向かずに気配でザーラが思わず声を出す。

「——え?」


 象の振り下ろした右腕が鋼のようで。凄まじい衝撃音に続いて鳴る甲高い切削音と激しく散る火花とともに、なんと無限機動が傾いたのだ。

「ううわッ!」「きゃあッ!」

 ヴァルカンの片羽が地面に接触する。凍って泥となった土砂が激しく飛ぶ。


「こぉのッ!」

 空中で振り向いた白猫の身体がばらああっと布の如くに解けて。だが構わずグレイが袈裟懸けに斬り下ろした。

 切先はほどけるザーラの身体を斜めにすり抜ける。手応えを感じない。狼が牙を噛む。間に合ったのか、合わなかったのか? 猫の姿が消えた。宙に氷が舞う。


 斜めに墜落したヴァルカンのフロントから跳び下がったモーガンの右腕で、旋刃が止まりがしゃあっ! と開いたまま向けられたのは神主の背中だ。

 凍った地面に倒れ込んでいたフォレストンの目が驚愕の色に染まるのを見たグレイの体毛がちりっと逆立って。

「くッ!」

 象の右腕で発射の爆炎が上がる。グレイが剣ごと身体を捻って。だがその瞬間。


 すうっ、と。

「しまっ……」


 法術の剣は、消えてしまったのだ。

 腰を落としたフォレストンの眼前で、狼が撃たれた。

 三発の爆発が、まともにグレイを吹き飛ばす。


 横顔の、開いた狼の口から血が吐き散るのをフォレストンが見た。


 激しい墜落の衝撃がメグとフューザを襲う。頭を座席に打ち付けたメグが「うあっ」と呻いて後部へと倒れ込む。フューザが叫ぶ。

「メグ様ッ!」


 地に飛ばされたバクスターが果敢に立ち上がろうとして。

「——ぐッ」

 右の脛に激痛が走った。まずい。骨をやったかと一瞬で判断して、それでも。盾の割れた両腕を振る。出ない。また振る。ぶんっ、と。

 三度目でやっと、鈍い発現音とともに新たな盾が生成されたのだ。息をつく、が。ひとしきり見渡せば。


 斜めにフロントから土砂へと突っ込んでいたヴァルカンがなかなか姿勢を起こさない。フロントガラスの中で必死にフューザが操縦桿ハンドルを操作しているのが見える。

 メグ様は? ここからは見えない。導師は? 地に倒れ込み、だが上半身は起きている。無事だ。あの狼は? 視線が飛ぶ。その先に。


 仰向けで片腕をついて起きあがろうとしてまた倒れた狼の、その衣が焼け焦げている。


 なんということか、一瞬で。

 今この場でまともに立ち上がり体勢を維持しているのは、あの怪物だけなのだ。

 巨大な耳と鼻がゆらゆら揺れている。変わらず。

 腕の旋刃が凶悪な回転を続けている。変わらず。

 空より雲間より竜脈の光を受けながら。


 無言で身構えているのだ。胸を大きく広げて。


「……なんて奴だ」

 脛の痛みに脂汗を浮かべた髭面が歪むように笑った。


 再び宙より黒布が湧き上がってザーラが姿を現したのは、その彼らよりずいぶんと距離を取った弟猫の傍らで。

「は、は、ははっ、ははははっ、驚かせるんじゃ、ないわッ」

 布が巻き取られて解けて型を成して、その姿が顕現して。


「ザ、ザーラっ、おまえそれッ」

「は?」

 

 クデンの声に振り向く。未だ倒れた弟猫が目を剥いている。口を半開きで牙を微かに見せたザーラがその姿を見て、その視線を追いかけて。自らの胸を見る。


 斜めに直線のばっくりとした切れ込みが雌猫の霊化の身体に刻まれて。そこからぼろぼろと変わらず噴き出す消えない炎と煙に混ざって。

 燃えかすのような、焼けた灰のような黒い点がざらざらと風に吹かれて身体から溢れ出していく。猫の目が見開かれる、そして。


「う、う、おおお」


 意識が揺れる。思わず両手で胸の傷を抱え込んだ、しかし流出は止まらない。指の間からぼろぼろと煙とともに、その身体の一部が崩れて塵となって逃げていく。ザーラが呻いた。

「ああああっ、ああああ」


 斬られた。斬られている。


「こ、こ、この。くそったれがあ」

「ザーラ。逃げるんだザーラっ」


 その言葉に。姉が弟を睨みつけた。構わずクデンが叫ぶ。


「逃げるんだ! て、撤退だザーラッ。法術で斬られたんじゃないのか。無理だ。無理だザーラっ、お前の身体が崩れるぞ、なくなってしまうぞ!」


 天からの光芒は、姉と弟に降り注いで。

 無造作に言葉を投げる弟に、ザーラの表情が少しずつ。

 その瞳に何を映しているのか。


「もう十分じゃないか、戻って応援を呼べばいい。僕らじゃなくったっていいんだ、これだけやったんだ、いいじゃないか。もう一度来ればいいじゃないか、体勢を立て直してもう一度」


「また?」「は?」

「また〝もう一度〟? また逃げてやり直すのクデン?」


 空中に浮いて目を向けたザーラの表情は、もはや無機質だ。クデンが困惑して。


「ざ、ザーラ? なにを?」


「あなたはなにをしてるの? なぜ起きないの? なぜ戦わないの?」

「か、身体が動かないんだ。動かないって言ってるじゃないか、僕もなにがなんだか——」


!」

「ざ、ザーラ!」


 雌猫の叫びに。

 それは地に尻をついたフォレストンも、倒れたグレイ、痛みを堪えるバクスター、そして目の前の象でさえ。姉弟に視線をやる。


 ずり、と。姉の気迫に押されたクデンが動かぬ身体を引きずって後ずさる。

「ま、待て。待ってザーラ。おまえ」

「そんな肉の器にいつまでも縛られているから。だって。あなたは」

「な、な、何を」


って! って! !」

「何言い出すんだザーラッ!」

! !」

「ザーラッ!」


 姉の表情が和らいで。


「また逃げるの? まだその器が恋しいの? あたしのようには、なる気はないの? 自分だけそのままなの? ねえ、クデン」


 もはやクデンは姉から遠ざかるように腰をずらして、かなわぬ手のひらをかろうじて上げて。

「ま、待って。ザーラ。姉さん。なにする気だ。ナニする気だよッ!」


「見て。竜脈よクデン。きれいな空。きれいだわクデン。ここなのよ。この場所こそ、ふさわしいわ。そのために来たの。きっと今日の私たちは、そのためにここに来たのよクデン」


 遠くで聞くフォレストンの全身に鳥肌が立つ。

 まさか、あの雌猫は? まさか——


 ついにクデンが悲痛な声をあげる。


「や、やめて。やめてくれザーラ、姉さんッ! モーガンッ! モーガンッ! 助けて! 助けてくれッ! 姉さんをとめろッ! とめてくれッ!」


 ずりずりと体を引きずってついにクデンがザーラから逃げ始めたのだ。

 フォレストンが叫んだ。

「やめろッお前なにする気だあッ!」


 モーガンは踵を返す。その巨体がバクスターの前から翻って一気に姉弟に向かって走り出した。しかし。


「ここがアナタの〝紡ぎの果て〟ッ!」


 それは一撃で。

 走るモーガンの差し出した右腕が止まる。


 ザーラの突き出した右腕から一直線に伸びた氷塊の棘は。体を引きずる弟猫クデンの後頭部の頚椎を一気に突き破って正面の口から飛び出した。

 串刺しにした姉と、串刺しにされた弟に。天から光の筋が降りて。


 フォレストンが、それはバクスターも。

 言葉を失う。


「——そして〝旅の始まり〟。ねえクデン」


 降り注ぐ竜脈の光に包まれて、ザーラが爽やかに笑ったのだ。



 

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