第百二十二話 荒神
境内の広場に砂煙が上がる。
この場所は何なのか? 兵士らが見渡す。ウルファンド特有の木造家屋ではあるが明らかに形状が違うのだ。
数人の兵がほどなく、わずかに奥まった場所にある宿坊の縁側が開いているのを見つけて。
そして視認した。なにもない平屋の開け放たれた部屋の真ん中に、二人いる。
顎で互いに合図する。距離を詰める。
カーナはキィエの体を匿うように四つん這いになって、近づいてくる外の敵を見ていた。垂れた金髪が震えている。頬が毛羽立つ。額の産毛が脂汗でじっとりと濡れていく。
もはや間に合わなかった。体も動かなかった。隠れることも何もできず、彼らがやってくるのを見るばかりである。
それでも。
銃を構えた兵隊が詰めてくるのを間近にしているのに。
なぜだろうか。イルカトミアの街をうろついていた帝国兵に比べて、今まさに近づいてくる彼らに〝禍々しさ〟を感じないのは。
恐れ? 警戒?
気持ちが? こころが、わかる?
震えていた彼女の瞳が丸くなって。
獣になったカーナが初めて、はっきりと。自分に向けられた強烈な〝こころの匂い〟を嗅いだのだ。向こうは銃を構えている。外の中庭で包囲を狭めてじりじりと迫ってくる。だがわかるのだ。その銃を撃つ気配がない。殺意や、蹂躙する気配を感じない。
「あ、あの——」「喋るな」
「え?」カーナが訊き返す。
「おまえ……この街のものじゃないのか?」
え? え? と彼女が混乱する。
縁側の外に立つ兵士の一人が、構えた銃をまだ下ろさずに続けた。灰色の毛に覆われた黒目の兵士だ。わずかに口が開いて呼吸を整えながら言う。
「街が燃えているのに敵意を感じない。戦う意思がないなら後ろに退がれ。その下に隠している女が、術者なのか?」
カーナが理解した。向こうもこちらのこころが、匂いが解るのだ。
横からこれも緊張した気配の、犬顔の兵が喋る仲間の顔をちらりと伺うので。その灰色の兵士がわずかに首だけ向けて。視線はカーナから外さずに。
「外来者は対象じゃない。命令違反にはならない」
「本気かよ。自分の首、賭けるのか?」
「……うんざりなんだよ」
灰色の兵士が目を伏せ、吐き捨てるように呟いた瞬間。
また別の強い匂いをカーナが感じる。
憎悪? これは憎悪だ。
こちらに向けられていない。ここにいない誰かに向けられた憎悪。
これと同じ匂いを、カーナは知っている。
——アンタ今さら何言ってんのカーナ?——
思い起こせば、魂がすり潰されそうになる記憶が。
老婆を庇ったままの四つん這いの腕が、震えてきた。
——やめたいってナニ? 今やめて罪が消えるとか思ってんの? 嫌なら殴られようが何されようが最初っから盗まなきゃいいじゃん、ねえ? もう遅いって——
新しい涙を目に滲ませながらカーナが思うのだ、この人たちは、ひょっとして。あの時の私と同じように、無理やり?
震える唇から、だが。
うまく声が出せない。言葉が紡げない。
「あ、あの」「早く
「あの」
「どけと言ってるんだッ! 心を覗くなッ! どけッ!」
叫んだ灰色の兵がついに勢いよく縁側から上がり込んだ。慌ててぎゅっとキィエの身体を庇って覆い被さるカーナの金髪に銃身を押し付けた、その感触に。
一層、兵士の表情が歪んだのだ。
「——壁も、まともに張れないのか? おまえ」
「あ、あ、私はっ」
「なんでこんな場所でうろついてるッ! どけ! 戦えもしないくせに邪魔するなッ!」
「嫌ですッ 嫌ですッ」
「こっの……おいッ手伝え! 引き剥がせ!」
また二人。どかどかと乗り込んできた兵士たちが容赦なくカーナの両腕と肩を掴んで老婆から離そうと引き上げるが、ぎゅうっと丸まり頑として動かない少女の抵抗にもたついてしまう。
それを外で見ている数人の中から痩せて頬毛の垂れた一人がさらに乗り込んできて、カーナの周りでばたついている三人に軽く声を投げる。
「おまえらちょっと避けろ」
振り返る兵士たちに構わず、その上がり込んだ兵が。
軍靴でカーナの顔を強く蹴ったのだ。
ごんッ! と。
一瞬。痛みより先に意識が飛びかける。
「おいッ!」
左の視覚が白く飛ぶ。衝撃で見えない。耳鳴りの中に声だけを捉えた。
何をされたか分からないカーナの腕が緩んだ隙に、両側の兵がその身体を思い切り起こして引き剥がす。
灰色の兵は蹴った相手の胸板を押しやった。
「おいッ! やめろ貴様!」
「うるせえさっさと退かせこいつを!」
両肩を掴まれ部屋の端へと引きずられるカーナの左頬にやっと熱を伴う痛みが走ってくる。まだ揺れている目の向こうがようやく見える。
「まだ子供だろうがッ!」
「獣の顔にこんな蹴りが効くかよ。たらたらやってンじゃねえ。俺らまで巻き込むつもりか? ひん剥かれねえだけでも有り難く思えッ! 行くぞ! 婆ァを連れてけッ!」
やめて。やめて。と。だが声が出ない。
また別の兵がキィエの両腕を引き上げた瞬間、ごほっと老婆の息が詰まって音を立てる。その咳を聞いてついに少女が叫んだ。
「やめて……やめてッてば!」
絞り出した声に反応したのは、しかし兵たちの魔導銃だ。数人が一斉にじゃあッ! と右腕で銃身を振り下ろし壁際のカーナに照準を合わせる。灰色の獣が大きく腕を振った。
「よせよせッ! 撃つな! いいから連れて行け! 早くそいつを荷台に乗せろッ!」
「や、やめてくださいッ!」
「おまえも退がれッいい加減わからないのかッ!」
怒鳴りつけながら灰色の兵はカーナの側で腰を低くし早口で言う。
「逃げろ。何度も言わない。言えない。関係ないならこの街から出ろ。どこか森にでも逃げ込んで小さくなってろ」
「お、お婆ちゃんを連れて行かないで」
「ダメだ。命令だ」
「だって! こんなことやりたくないんじゃないんですかッ!」
それを言うべきではなかったのだろうか。
兵たちの動きが止まったからだ。
数瞬。黒目を開いて固まった灰色の顔に。その匂いの変化に。
はっとして凝視するカーナの顔に涙に混ざって汗が湧く。強い怒りの感情を嗅いだからだ。
睨み返す兵はきっちりと答えた。
「——お前に何がわかる」
頬毛の垂れた兵が上げた額に左手を当て、はっと軽く笑って。
「おぉイ! 建物に火をつけろッ」
驚いたのはカーナとその前の兵も同じだった。立膝を解いて振り返った。
「おい! なに考えてるッ!」
「聞いたろうが。
「おまえいいかげんにッ」
大股で縁側に向かう。が。外の垂れ髭が。
右腕の銃身を引きざまにがしゃッ! と鳴らして。
轟音と共に撃ち出された高速の魔弾が。
灰色の兵に命中して破裂し部屋の奥壁にその身体を吹き飛ばし猛烈な衝撃で板壁が割れ飛ぶのを、すぐ横でカーナは見た。
顔の前に構えた両手の間から。彼が撃たれたのを見た。
背中からめり込んだ灰色の兵が、ごぼっと血を噴き出す。
反動で前に弾けて。身体が倒れ伏す。畳に血が舞う。
それを目で追っていた。
驚きのあまり声も出ない周囲の兵に構わず、銃身から白煙をあげたままの垂れ髭が言う。
「こっちの台詞だぜいい加減にしろ。よぉし燃やせッ!」
振り返りざまに吠えた。
兵たちが一斉に動き出す。広場の搬送車の荷台から
カーナの呼吸が浅い。胸が引き攣る。
撃たれた灰色の兵はすぐ横で、まだ口元が微かに震えている。
もはや老婆は部屋から下ろされ、二人の兵に両腕を抱えられ連れ去られていく。
死んでいく彼の眼光が薄らぐ。もう一度、口から畳に血が吹き出した。時が遅くなったように赤黒く広がる血溜まりに視線を縛られた彼女の頭へと。
唐突に。それは映り込んできたのだ。
——この兵士は、彼自身の母親を殺したのだ——
みたま つむきたる かくはのやむからむ かなしひ ことのはのつたわいて うすかたまりの ねに そのみみよせたまいて ききたまい
カーナの瞳孔がぎゅうっと収縮する。
——戦禍の元に産まれ父を殺された母子は、溶いた草の根の粥を分け合って飢えを
境内の魔導砲に陣が浮かび上がった。装填が完了したのだ。
「榴弾準備完了ッ!」
「屋根狙えッ屋根だッ」
灰色の毛の下で瞳の力が薄れていくのを、ただカーナは見ていた。
再び頭にこだまする奇怪な声の内側に映るのは。
——「わたしが死ねば、その子は助けてくれますか」——
——「いやだあああお母さんお母さん」——
かなしひのねに みみよせて ききたまい
——「母親が殺せるなら、誰でも殺せるようになるさあ。なァ坊主」——
カーナの胸元から喉にかけて強烈な熱が込み上げてくる。
——泣き叫ぶ幼い彼が握った魔導銃の引き金を。横から引かせた奴がいる——
顔の前で構えた両手を包む毛が逆立っていく。
頬を濡らして溢れるカーナの涙は。
——「一回盗んじゃえば同じよお、カーナ」——
「射線右15……ぎゃッ!」
兵が思わず砲身から手を離す。手のひらに煙を吹いている。把手の鉄が焼けているのだ。砲口で旋回していた魔導陣が勢いよく拡散して消えた。は? と目を剥く荷台の兵士たちの外套からじゅおッ。と。
「あ!
軍服の内側から白煙が湧き上がったのだ。ぎゃああっと叫んで転がる。倒れる。境内の兵たちも仰天して
「ぎゃ熱いッ!」
どさあっと。砂煙をあげてキィエの身体が地面に倒れ伏したのは。それまで老婆の両腕を掴んで引き摺っていた兵士二人が同時に離したその手首を押さえて呻いたからだ。
二人とも手から煙を発しているのだ。口を開いた垂れ髭が我に返って宿坊の畳を振り返った時には。
少女が、立ち上がっていた。
こちらを、見ていた。
わずかに怒らせた肩の上でゆらゆらと揺れた金髪が風もないのに逆立って。伏せがちの顔で上目に覗く瞳が燃えるように紅い。
頬から泡立つ血涙が逆さに立ち昇って蒸気となって霞む彼女の全身に、包むように現れたのは細き蛇のように絡まる真っ赤な光の紋だ。
「……許せない」
右手首の梨型の痣が激しく明滅している。
◆
絡め取れない。
「シャアアアアアアッ!」
そしてどうあっても躱される。黒布に消えて現れるザーラの
軌跡に放った薄氷の膜は、グレイの身体が袴と白衣ごと独楽のように旋回して肘手首と裏拳を鞭のようにしならせて割り砕くのだ。薄く見えても早々は砕けないはずの魔導の氷結を、この狼はものともしない。
「うわあああっ! どうして? どうして? アナタどんな気術の使い方なのソレはッ?」
「けっこう堪えちゃあいるけどね」
まだ身体に炎を
「うぎぎ……減らず口を」
「言うさ。おまえさんが本気じゃないからだ」
「なんですってェ!」
「出し切っちゃいないだろ? あたしを
神主が左手の手刀を緩めた指先でくいくいと呼ぶのだ。読まれている。ぎりいっとザーラの牙が鳴る。
姉の表情に焦るクデンは今もって、地に伏せたまま身体が起こせない。右の半身、特に腰から足にかけての感覚が戻ってこない。
「ち、挑発に乗るなザーラッ」
「わかってるわよッ! あんたこそナニしてるのよクデン起きて援護しなさいよッ!」
狼から視線を外さず吠え返す姉猫の声に、クデンが上半身だけでも起こそうと土に腕を張る、が。
「ぐあッ」
激痛が走った。
身体を流れる気が、
一体全体、ただひっくり返されただけの自分の身体は、何をされてしまったのか?
歪む顔で見渡せば同じく投げられ倒された味方の獣たちも、地に呻いているだけで一向に立ち上がろうとしないのだ。
「くっそッ……ザーラッ! あいつだって手は打てないんだ逃げ回るしかないんだ。疲れるのを待つんだ。いつまでもあんな動き、できるもんかッ!」
「逃げ回ってばかりなもんかね」
「ああッ?」
返事をしたのは神主だ。
やや両手の構えを細くして手刀を胸元に並べ両肩を入れて。
「霊化の獣なんて放っとけやしないさ」
ちゃり。と。風に吹かれた
右の手刀を平にして時計回りにゆらり狼が描く円に。
この神主は何か仕掛けようとしている。雌猫の気配が変わって。
「させるかッ!」
ずああっと巻き解けた身体を包む外套ごと雌猫の姿が細長い銛となって宙に溶けた。消えた。狼が空を撫でる。身体を避ける。ばりぃッ! と。
またしても一直線に空間を走る氷の膜を
「はっはァ! やっぱり逃げるしかないんじゃないのォ!」
氷の先で巻き上がる黒布から白い顔を覗かせたザーラがそれだけ吠えて。
「追い殺してやるわァ!」
再度その上半身が布から出てこちらに向かって。
しかし。
「うぎッ?」
グレイの血を吹いた右手の手刀が横一閃に印を切ったのだ。飛ぶ鮮血が霧のようだ。
それは突然、なにごとが起こったのか。
宙でこちらに向いたまま浮いたザーラの姿が固まる。止まる。うぎぎぎと空中でその姿を軋ませる雌猫はまだ下半身は布状に巻き込まれたままだ。
倒れたままのクデンが呆然として。
「〝
狼の呟きに。
「なんなのッなんなのこれはッ!」
「幻界に身を置くものが
「なんですってぇ」
浮いたザーラが自らの伸ばした身体に視線をやればいつの間にだろうかじっとりと。そこかしこの炎に混ざって霜が降りたように白毛を濡らした狼の血が空中に張り付いている。
その身体を捕らえているのだ。重い。浮きこそすれ、ただ重い。ぴたりと空に縛られて飛ばない。進まない。
「魔導は五術さ。理と霊さえ躱せば気術操術は効かないと高を括っていたんじゃあ、ないのかい? こちらの世にもね」
神主が袴の左腰に両手を添えて、まるで鞘から抜くが如くに。
「この世ならざるものを滅するわざがある」
あんぐりと閉まらない雌猫の口からぼろろと火が見える。
神主のなにもない左手からずらあっと伸びる、白く輝くそれは。
縦よりは見えぬほどに薄い刃だ。
「〝法術〟と言うんだ、お嬢ちゃん」
法剣〝
白衣黒袴の狼が宙に弧を描いて見事に抜き上げた細身の刃が緩く舞って。グレイは腰の左手を解き手鞘に添えて右肩より八相に構える。
まずい。まずい。まずい。立てぬクデンはびっしょりと、その因が痛みかなにかわからぬまま冷たい汗が服の裏から全身に湧き上がるのを感じた。
この街はなんだ? この灰色狼は、なんだ?
なぜ一介の街の
魔導師だぞ? 魔導師二人だぞ?
片方は霊化だぞ? なぜこうも容易くあしらえる?
そんな術者をクデンは知らない。
自分たちはあまりにとんでもない思い違いをしていたのでは、なかったか? 捕まえるなど。連れ帰るなど。むしろこの狼相手では一目散に——
その思考がザーラの声で中断する。
「あ! あ! アンタがなんで? なんでッ!」
「どうしたね」
「なんで黒騎士と同じ剣を出せるのさあッ!」
なんだと?
と目を訝しげに凝らしたグレイは、僅かに反応が遅れてしまったのだ。
対峙する雌猫と狼に向かって突っ込んできたのは西から伸びた三本の光跡だ。
「……ッ!」
間一髪で避けたグレイが大きく飛び下がった。
空中で爆発が起こる。着地した狼にまた光弾が襲う。
さらに飛んだ。
地面が吹き飛んで大きく抉れた。片膝に起きて右手で光剣を地に慣らし彼方に鼻先を素早く向ける狼の目に映ったのは。
この場より数十リームでも離れているだろうか、ゴンドラ駅の方角に無造作に立っている者がいる。向けた右腕の前腕から白煙を上げた奇怪な姿だ。
巨大な耳。顔から伸びた鼻。二本の牙。
街の獣たちが誰一人とて理解し得なかったその
「〝
グレイの目が続けて捉えたのは怪物の脇に投げ出された、遠目には死骸か生きてるのかも分からない黒い塊だ。だが狼の鼻が微かに下向く。まだ彼は生きている。瀕死だ。
牙が鳴る。弾くように神主が駆けた。
構えた光剣を脇に風の如くに一気に距離を詰めていく。怪物が次は両腕手首を突き出して。どどどどどどおッ! と六連発で撃ち出された光弾を、しかし。
「ふッ!」
なんと狼は袴を翻して飛び石のように
象は
そこへザーラの声が飛んだのだ。
「避けなさいモーガン法術の剣よッ! 受けるなッ!」
わずかに長い鼻が揺らぐ。両前腕の射出機が。がしゃあッ! と籠手から開いて一気に猛烈な旋回を始めた。
疾るグレイの目が細くなる。
しかし躊躇わない。狼は踏み込む。刃を振るう。が。
躱された。
下段から半月に振り上げた切先をすれすれに、その巨体はぐんと踏込みを引いた。狼の目が見開かれるほどの体裁きで反った怪物の高く掲げる左腕が。
グレイの右頬の毛がざあっと逆立って。
その足が土を蹴る。
飛び退く。振り下ろされた象の左腕を、こちらも
びりいっと微かに気の痺れが走った。着地を低くして立て直すグレイが白衣の右袖を見た。
布がぼろぼろに裂けている。
工房の
「なんだいこれは……」
呆れる神主の鼻先に汗が伝う。ちらと見えるボッシュの身体のあちこちが黒毛が引き裂かれて焼け爛れたように変色している。おそらく削ぎ切られたのだ。
巨体の怪物は隆起した上半身から左右に大きく腕を構える。ぎゃああああああと甲高い機械音が凶悪だ。まともに喰らえば一気に肉ごと持っていかれるであろう旋刃を睨む狼も、首を伏せがちに眼前より左に寝かせた刃が薄すぎて見えないほどだ。
対峙する互いの武器。そのどちらもが触れば必殺になり得る。
距離を取る二体は向かい合ったまま、摺り足で気を伺う。
だが不利なのは初撃を躱されたグレイの方かもしれない。理由がある。この象の怪物はそれに気づいているのだろうか? 神主がわずかに牙を剥いた彼方から。
「モーガンッ! モーガンンッ! 外してこれをッ! なんとかして!」
またしても雌猫が吠えるのだ。
鉄仮面の視線を狼に据えたまま、象の右手がゆらりと動いて。グレイの鼻先がさらに沈む。手首の旋回がぎゅおうッ! と止まって三つの刃が開いたまま。
「モー……ちょっとッ!」
ザーラが叫んだ。
火球とともに撃ち出されたのだ。三つの光弾だ。
ひ! と猫が目を剥く。
宙に捕らえられたザーラに光弾が命中して爆発した。
「ぎゃああああああッ!」
吹っ飛ぶ雌猫がごろっごろと転がって。伏せて。倒れて。
「痛い痛い痛いッ! ああくそおッ痛いじゃないのモーガンッ!」
そうなのか。この象は魔導に詳しいらしい。グレイが苦く笑う。
封印を主とする法術の急所は〝他者の介入〟だ。それが
今の無理やりも無理やりだがザーラを釘付けにした〝籠目〟の法は爆発で引き剥がされてしまった。霊化のものが相手ゆえに有効なわざだ。
また象の右手首が旋回を始める。じり、と。だが踏み込んでこない。
間違いない。気づいている。
「まいったね」
狼は、もはや早々笑えない。
この怪物は〝顕現系〟の弱点も知っているのだ。
理・霊・法に見られる顕現の術は、顕現ゆえに時限性である。グレイの〝
◆
「ぐ……」
地面に
「ぎゃああああ熱いッ!」
「撃てッ! 応戦しろ!」
ばたばたと喚く兵たちが宿坊に立つ竜紋の少女に向かって。右腕に仕込まれた魔導銃を向けようとして、だが。
じゅうううううっと。「ぎゃああッ!」
仲間を撃ったその銃身を咄嗟に構え直した垂れ髭の兵も同じだ。外套の裾から白煙を上げて「うおッ」と手を離してしまうのだ。
銃身が熱いのではない。引き金が熱いのではない。何かに触れようとするとその手が燃えるように熱を持つ。兵の一人は機転を利かし自分の手を近くの布でぐるぐるに巻いて
ぼおおっ! と。
「うわ! うわ! うわあッ!」
巻いた布が中から、手のひら側から火がついて燃え出した。
カーナが緩やかに右手をあげる。
髭の兵士が、未だ煙をあげる自らの手首を掴んで
「て、て、撤収ッ!」「ああッ!?」
他の兵が叫んだのだ。思わず広場へ振り返って。
「逃げんのかてめえら!」
「言わんこっちゃねえッ! こいつも魔導の
少女が縁側から降りてきた。
また振り返って。振り返って。何度も広場と少女とを振り返る垂れ髭の向こうでついにばらばらと兵士たちが荷台へと飛び乗り始めた。
「殺し損だ! ちきしょうがッ!」
もはや砂利をこちらへと歩いてくるカーナへは目もくれずに垂れ髭もだあっと
地に仰向けのまま薄くキィエが目を開けた。息が続かない。ようよう首だけ微かに起こす。詰まる喉の鳴るひゅうひゅうとした音はもっと奥、胸の中より湧いてくるようだ。
吸気もおかしい。胸が震える。だがそこにざくざくと歩いてくるカーナの姿は一眼で異質とわかる。紅い紋はまるで縛りの鎖に似て——
老婆の口元が微かに動く。だめだ。だめだカーナ。
みくさ すておいて ほむらのかんなく ゆくやのみかわに つえうつふなのか ほおにたまいて
「——ッ!
キィエが叫んだのだ。
轟く。痺れるほどに空鳴りがする。
吠えた老婆がぜえぜえと一層息が荒い。
「……この子に、どこの河を、渡らせようってんだ、ふざけるんじゃ、ないよ。」
撃たれたようにカーナが止まる。少女の胸が弾む。かはっと呼気が出た瞬間に眼の赤味が消えた。だがまだ彼女を包む紋がぐるぐる赤く赤くとぐろを巻いて離さない。
兵士たちを乗せた
ぎりっとカーナが牙を剥いた。まるで右手に銛かなにかを持つように後ろに振りかぶって。
「逃がさないッ!」
「やめるんだカーナ!」
機体が離れていく。燃える街に飛んでいく。どうせ。どうせ。どうせ。ここで見逃しても、あいつらは。
違う場所で。違う誰かを。ささやかに暮らす、違う誰かの人生を。
「こ、殺さなきゃ」
カーナの瞳から涙がこぼれ落ちた。仰向けで胸に手をやったままのキィエは、その息を荒らしながら言葉を止めない。
「それは、あんたのすることじゃない、カーナ、どうしちまったんだい、ねえ、こっちにおいで、くるんだカーナ」
必死に問いかける老婆に振り向く少女の顔はびっしょりと涙に濡れて。だって、だってと呟きながら老婆の元へと歩み傍らで、音が鳴るほど膝を崩して地に尻を付く。
「だって……おばあちゃん、あいつら、ひどい」
「それでもだ、カーナ、言ったじゃないか、くるしみも、かなしみも、ぜんぶあんただ。あんたなんだ。怒りにまかせて引き渡しちゃ、いけないよカーナ。塗りつぶしちゃいけない」
息絶えだえに語るキィエが伸ばす右手の指が、カーナの頬毛を撫でる。
「神はときには、あらがみだ、憑かれちゃあ、いけな——ごほうッ!」
「おばあちゃんッ!」
まるで割れた陶器に風が当たるかのような、不吉なひゅうひゅうとした音が老婆の喉から鳴り続ける。もはやキィエは言葉が紡げない。そのか細い右手を少女は必死に両手で握って。
「誰か。誰か。——助けて。ウォーダー。艦長さん。モニカさん。助けてッ!」
仰いだカーナが、無理とは分かってながらも初めて空へと。天へと。真っ直ぐに〝その願い〟を口走ったのだ。
——
「え? きゃああッ!」
神社の森より崖上の高みから。突風が吹いたのだ。キィエに覆い被さるカーナの右手首で。明滅していた〝痣〟がすううっと消えた。
◆
その緊張を破ったのは風だ。
「——うおッ!」
崖から吹き下ろす一陣の風は凄まじく、辺りをごおっと砂煙で撒き隠して。
気配だ。狼が跳ねた。どどどおっと光弾が爆発する。土砂が舞い上がる。やはり接近戦では来ないつもりか。そこに重ねて。鼻先が動く。血の匂いだ。
グレイが避けた。白衣の袖が翻って。そこに。
「キシャアアアアアッ!」
雌猫が飛び込んできたのだ。腰を下ろし足を摺る。大股で逆袈裟に斬り上げた。
「うわおあああやはり避けるのかこの狼があッ!」
矢のように飛んできた白猫が間一髪で、弧を描いて宙に逃げる。その後ろからばしいっと氷の膜が再び空中を遮って。
ぎりっと力を込めた光剣の鞘で叩き割った。烟る砂で視界が悪い。その埃を振り払って現れた巨体は、もう目の前だ。
「くッ!……」
象が低く構えて突進してきた。
近い。懐に近い、払いきれない。突き出された拳を咄嗟に飛び避ける。引きざまに「ふッ!」と払った剣先を、しかしまたしても反り返した象が躱した。
浮く猫と、巨体の象が左右より攻めてくる。神主はなにも言わず逆手で剣を脇に構える。
だがそこにまたしても。
「ギャアアアアア!」
「くおッこれはッ……!」
凄まじい風が吹きすさぶ。象のモーガンですらぎしりと踏み込んで止まるほどの風だ。白衣袴のグレイも立つに辛く、浮くザーラは流される。
遠巻きに戦いを見守る自警団の獣たちも、異常な風に天を見て崖を見る。ウルファンドの大滝をはじめとした数々の滝が猛風に煽られて舞い上がっていく。燃える街の煙が横倒しで流されていくのだ。
おかしい。
いったいこれは、なんなのだ。
急速に雲が集まって陽が陰り出した空の西から吹き下ろす風はいよいよ強く、街に浮く搬送車も東へと吹き流されて。
ありえぬ気象に僅かに気を持っていかれたグレイの耳にどおんッ! とまた一発の発射音が聞こえた。すかさず飛び退いて。しかし。
それは光弾では、なかったのだ。
「——
立ち上る砂煙を突き破ってグレイの頭上に大きく広がったのは
猫がいるからだ。雌猫が風に煽られながら、見ている。伺っている。
ざあああっと神主の全身に光る網が被さる。だがグレイは構えを解かなかった。ザーラの目がぎらっぎらに輝いて。
「あらあ? 生捕り? できたの生捕り? モーガンすごいじゃあない」
ふ、と狼が苦笑する。はたしてこの猫に、もはやその気があるのか。
「でも殺すわッ!」
やはりか。
怒りにかまけて突っ込んでくる猫を網ごと切り放つ算段であった。血の匂いがまた走る。構えて。
だがその時あまりに唐突であったのだ。
どどどどどどどどどどっどおッ! と。
「ウギャアアアアアアアッ!?」
無数の細かい砲弾の雨が真横から、雌猫の浮いた身体を貫いたからだ。宙をぼろぎれのように穴が空いたザーラの身体が吹き飛んで。
仰天した狼が網の中から目を向ける。
どこから? 大石の広場だ。
駆動音と共に貨物の屋根から浮かび上がって突進してきたのは。
後部のウイングドアを片方だけ開いた機体だ。
そのドアから小さな個体が飛び出しざまに閉まる。高速で飛ぶそれは真っ直ぐ。まっすぐ。仮面象の巨体に向かって。
グレイが剣を振った。ざああっと光の網が空に飛ぶと同時に。
全身に美しい緑の紋を漲らせた機体がまともに象に突っ込んだ。轟音がして網の端ごとモーガンが数リーム彼方へと吹っ飛ばされたのだ。
呆れて機体を見上げるグレイに声が聞こえてくる。
「轢いたッ今轢いたぞフューザッ!」
「クリスタニアでも轢きました」
「それはッ蟲だろうが!」
今度は助手席のウイングが開いた。飛び降りてきたのは強面の兵士一人。だが吹き飛ばしたはずの遠くで、片膝の巨象が立ち上がるのが見えた。
髭面が両腕を振る。光とともに魔導の盾と剣が現れた。
「なんですかな、こいつらは?」
離れて飛び降りた少年は、長裾の法衣を着ている。ばっばっと膝の砂を払って強風に顔を背けがちに。
「なんで
敵を睨みながら。
導師フォレストンが言うのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます