第百二十話 微かな声

 拘束器のような鉄仮面から巨大な耳と鼻と太い牙を伸ばした、上半身裸のその獣人は、船渠ドックの面々がかつて見たこともない種族の怪物であった。


 胸筋から全身にかけて灰色の、細かい目の入った皮膚は乾いた砂漠のようだ。左右に盛り上がる両腕の肘より下から手首までを囲むように、激しく甲高い音を立てて鋼色に光るなにかが凄まじい速さで旋回している。


 地球人なら、理解する。

 地球で、その造形は〝エレファント〟と呼ばれる生物だと。


 だが。洞窟の奥で三基の魔導砲ビーキャノンを構え、その砲座に身を隠して魔導銃ブラスターで狙いをつける彼らは、その異形に固唾を飲んで。


 数瞬の沈黙を果敢に打ち破ったのはネズミの親方タイジだ。

「見てねえで撃てッ!」


 獣たちが我に返る。大砲が轟音を立てる。三発。石畳に軌跡が反射する。

 敵はまともに喰らった。ゴンドラ駅前に転げた二機のキャリアが爆発に見舞われる。魔導銃も一斉に、ただ一体の的に過剰かと思われるほどの銃火を、その爆炎に浴びせかけた。


 その中で黒熊のボッシュだけは銃撃に参加せず、腰のベルトに固定された細長いボックスに手をやる。ぱちりとフックを外して右手で取り出したのは掌から倍に伸びるほどの金属製の柄だ。


 洞窟内に白煙が籠る。

「やめやめッ! 撃ち方、やめろッ!」

 またタイジが叫んだ。


 獣らが銃身を上にかざしてがしゃりと揺らし再充填する。息を呑む彼らは、しかし。それは親方も大猫のブロも、あり得ない結果をなぜか予想していた。


 この化け物は、普通じゃあない。

 予想は的中してしまった。

「……なんなんだこの野郎は」


 濛々とけぶる白煙の中から、のしり、と。

 一歩踏み出した巨体に一滴の血も流れていない。傷ひとつない。広げて拳を握った両腕に装備されているのは籠手のような黒色の鋼板だ。それがまたがしゃりッ! と三つに割れて腕に浮く。凄まじい速さで再び回転を始める。ぎゃあああんと甲高い音を放つ。


 凶悪な響きにひ、と声を枯らす洞窟の獣たちに、緩く右手をあげたのはボッシュだ。黒い手に銀の筒が光っている。


「俺が行ってみます」


「斬り合うってのか? あれに通るのかボッシュ?」

「魔導砲が効かないなら防御が三万は越えてるでしょう。力押しで斬るか貫くしか、ありません」


 親方にそれだけ答えてぶんッ! と振った右手の先から光線が伸びる。魔光剣だ。同時にボッシュの全身が、ぼおっと輝く透明な厚みのある膜で覆われる。

 顔全体を包むマスクにも似た黒毛から突き出た彼の鼻先に皺が寄った。

 

「俺も最大値で行きます」

「あの手首で回ってんのは旋刃せんばの類だ。気ぃつけろ」


 親方の返しに頷く黒熊のボッシュが、体力的に張れる壁は五、六万が限界で、彼も魔導砲の一撃やそこらは十分に耐えられる守りの硬さは保持している。

 今はそれを最大まで張った。未知の刃にどこまで対峙できるか分からないが、そうそう楽に砕けはしない硬度なのだ。


 腰を低く構えて。両手持ちの光剣を右肩に——


「う、う、うわッ」


 砲座の獣たちが悲鳴を上げて後退あとじさる。

 敵が。

 真っ直ぐボッシュに向かって歩いてきたからだ。距離にして数十リーム離れた石畳の向こうから、何の構えもない巨体が無造作に。


 熊の両手がじわり汗ばんだ。

 右肩の剣を寝かす。牙がかすかに音を立てる。

 来る。一度開いた左手の指を握り直して。

 腕の毛が逆立つ。


 怪物が右手を振り上げた。

 あまりに無防備な腹。大木の幹のような。


「ぬううううあッ!」


 踏み込んだ左足から腰を入れて。横殴りに両腕で振り払ったボッシュの光剣が、激突の衝撃で激しい光を放った。

 大猫が。親方が。それを見ていた。


 手応えが、あまりにも。

 こいつの皮膚は、なんだ?


 止まっている。


 猛烈に切り払ったはずの剣が、敵の腹で止まっている。反動は熊のでかい体躯をよろめかせた。かろうじて岩盤に足を踏ん張るボッシュが剣先を見る。

 一瞬の視認であった。敵の皮膚からわずか親指ひとつほどだろうか、そこで剣が止まっている。

 触れていないのだ。弾かれたのでもない。ただ、そこから先に切先が進まない。びくとも動かない。


 一瞬で、あったのだ。親方が叫んだ。

「ボッシュ避けろッ!」


 旋盤が。

 腰を落とした象の逆手が鉄塊の如く。


 咄嗟に守った熊の両腕がひしゃげそうに押し潰される一撃で、息が止まる。視界が飛ぶ。重量級の魔導機に真横から轢かれたかのようだ。


「がッ!……」


 障壁の屑を飛び散らせてボッシュの巨躯が石畳を数リーム浮いて飛んだ。両腕の表面がひび割れる。背をつけた。砂煙が洞窟に上がる。


 大猫ブロは左肩を魔導砲キャノンの砲身にがぁんッ! とぶつけて射線を変えて。右手のひらを発射盤に叩きつけた。


「立って! ボッシュ!」


 発射音と共に撃ち出された魔光の砲弾が近距離で怪物に命中する。火球が噴き上がった。風圧に首を逸らすボッシュがわずかに身体を起こして立ち上がろうと手をついて。


「ぐあッ」


 思わず腕を引く。体重をかけた右腕に激痛が走ったのだ。


 未だ倒れたまま、震えて叶わぬ両腕を顔の前に差し出せば、ひび割れた透明な障壁の奥で自分の黒毛と皮膚が手首から肘にかけてどろりと火傷のように剥がれて赤黒い血で塗れている。


 一撃で。撫でるように払われた、あの一撃で。


 六万ジュールが脆くも崩れたボッシュが、それでも奥歯を食いしばる。熊の瞳は死んでいない。素早く目で追う。飛ばされて投げ出された魔光剣は石畳の向かって左の先、数リームに。


 ブロの声が再び飛んだ。

「立ってッ! 逃げてボッシュ!」


 白煙から鉄の仮面がぬうっと覗く。肩が出て、胸が出る。やはり傷ひとつない。爆発を受けた薄い扇のような耳すらそのままで、長い鼻と象牙を揺らして煙を掻き分ける。

 盛り上がる胸筋から伸びた腕が広がって、逆手に拳を握って。手首の盤は旋回したままだ。自らの身体からも離しているのだ。あれが奴の構えなのだ。


 敵の位置取りと落ちた柄を見て。この怪物は防御もなにも考えていない。奴は右利きだ。ボッシュの足先に力が入る。また敵が振りかぶった。


 真上に右腕を。やはりだ。

 倒れたボッシュが足を踏み込む。


 痛む腕を巻き込んで素早く横に身体が転がる。這うような姿勢のまま再び地面を蹴って飛び退いた先に落ちている魔光剣を手に掴んだ。

 柄を逆手に持ち替える。右腕に沿って光の切先が逆刃に伸びる。柄の根に左手のひらをがっしりと当てた。


「ぬうあッ!」


 後ろ背へと捻るように体重をかけて。狙ったのは敵の右足、膝裏の関節に張る急所の腱へ真っ直ぐに。低い姿勢から全力で押し込んだのだ。


 だがやはり。

「く……くッ!」


 刺さら、ない。

 その猛烈な突き通しの力がどこに消えたかと思うほど。

 敵の右膝の裏で、光剣の切先が止まった。

 

 砲座の上から親方タイジが叫ぶのと、鉄仮面が振り返るのはほぼ同時で。


「避けろおッ!」


 怪物が踏み込んだ足の下で石畳が割れた。逆袈裟に振り払った丸太の腕が。

 ボッシュの胸に激突して軽々と吹き飛ばしたのだ。


 血が舞う。骨が軋む。息が詰まった。ばらっばらに弾けた障壁の屑に旋刃で削がれた黒毛と皮膚が混ざっている。

 浮いた熊の身体が投げ出された先は滝の水を湛えた船渠ドックだ。


「ボッシュ!」


 水飛沫をあげてボッシュが落ちた。獣たち全員ががしゃあっ! と銃身を構える。ブロは砲座の脇から水だまりへと駆け出そうとして。

 だが、象は。落ちた熊の行方を見ているだけだ。そのまま止まったかのようで、こちらを向かない、向かないまま。左手首の旋刃が止まったのだ。


 タイジが、そのごつい刃を見た瞬間。何も言わない敵が左腕だけをこちらに向けてずいと伸ばしたのだ。止まった三つの鋼刃の下それぞれに、暗い穴が見えた。


 射出口。

 親方の毛が逆立つ。こいつは。飛び道具まで。


「引っ込めブロッ! みんな伏せろッ!」


 どどどうッ! と三連の発射炎から噴き出した光の着弾が魔導の砲座と洞窟の壁に無造作に突き刺さってぱりッとわずかに電光を放ったのに親方が気付くのは遅すぎた。


〝拡散弾〟だったのだ。


 光が爆発した。数体の獣が吹き飛ばされる。無数の跳弾が硬い岩盤と砲座のバリケートを反射して、あちこちで悲鳴と共に仲間が突き倒された。


「がッ!……」

「ブロッ!」

 大猫の背と脇腹に、二発。身体に張った壁が割れた。タイジが視線を投げる。敵の二撃目を予感して——だが。


 崩れたこちらの陣に、しかし怪物は見向きもしない。


 回転をやめて、がしゃりと仕舞われた両腕の旋刃をそのままに、敵はボッシュが落ちた船渠ドックへと歩き出したのだ。傷ついた熊を追って、それもまた無造作に。


 両足から躊躇もなく水飛沫をあげて飛び込んだ。

 ボッシュを追いかけて水中へと姿を消した。

 こちらに来ない。砲座から飛び降りたタイジが叫ぶ。


「——通信しろッ! 助け呼べ、ありゃあ俺らの手に負えねえ!」

「つ、通信、ウォーダーですか?」


「馬ッ鹿野郎ッ! 蛇の連中ァ首都リオネポリスだろがッ! 何千キロ離れてると思ってんだ! どこでもいいから〝緊急〟飛ばせ!」


 砲から飛び降りた親方が小柄な体で駆け寄る。大猫は、全身を震わせながら仰向けに倒れて左脇を押さえている。


「診るぞブロ」


 頷くのを待たずに爪を立てて、服を引き破ったタイジの鼻先が色を失った。

 露わになった猫の脇腹の白い産毛が焼け焦げて、真っ赤に腫れあがった皮膚にはまるで蜘蛛糸のような痣が広がって血が滲み出して流れている。


「なんだこりゃあッ、電熱か?」

「お、お、親方、ボッシュが……ぎいッ!」


 激しい痛みにブロが身体を捻る。屈む親方の額に汗が滲む。


「喋るんじゃねえブロ」

「く、幻界通信クロムコールなら、下の駅から」


「ダメだ。あいつらは遠すぎんだブロ。——どこかネブラザ辺りの抵抗軍レジスタンスにでも届きゃあいいんだが……」


 大猫の火傷に今は触らず、洞窟の天井を親方が仰いだ。そう言いながら、しかし確かに。親方が思う。

 あれは、とんでもねえ。その辺りの武装じゃあ、どうしようもねえ化け物だ、と。


 二体が飛び込んだ船渠ドックの水たまりに目を下ろす。


 なんだってあれは、俺ら工房をほっといてボッシュを追ったんだ?

 いつになく焦燥した親方の細い鼻筋を、脂汗が撫でて落ちる。



 水に沈みながら。左の鎖骨から斜めに付いたでかい傷の上、自らの心臓の真上を思い切りボッシュが拳で叩いた。ごぼおっと口から多量の泡が噴き出る。

 空気が足りない。上に、水面に浮かばなければ。だがそこに。


 熊が目を見開いた。

 怪物が同じく水中に飛び込んできたからだ。


 ゆらゆらと巨大な耳と鼻が揺れている。真っ直ぐに沈み込んだ象の巨体がおもむろに水を掻き分けて、こちらに向かってくるのだ。速い。なんという筋力。


 水中で振り向く。緩力フーロンで固めた水の向こうは崖の大滝で——


 怪物の右腕の旋刃がまたしても、がしゃりと開いて渦を成して旋回を始めた。まずい。もう、身体に張った壁は限界だ。あと一撃でも受ければ。

 意を決したボッシュが滝へと向かう。ごおごおと流れる水へと。象の鉄仮面もそれを追って。


 ともに二体は緩力フーロンの流れを突き破ったのだ。





 完全に気を失ってしまった老婆を背負って、カーナは縁側から宿坊に上がり込み、畳に似た床敷の間にそっと寝かせる。

 横になったキィエの様子が、やはり思わしくない。毛むくじゃらの顔から僅かに見える口元が震えて舌が覗いている。


 服の上からでも胸元を撫でると、異様に冷たい。冷え切っているのだ。首元に触れればそこも氷のようで。カーナが懸命に手を当て、また撫でる。こする。だが。


 彼女は彼女で、混乱していた。老婆を助けたい一心で隠れるのをやめた。広場に駆け込んで構えた、その両手から噴き出した炎。


 とんでもないかさの火球。


 あれは一体? 撫でるのを止め、裏返して見る。なんの変哲もない——とは言っても今はその甲側がきっちりと柔らかい毛で覆われている獣の手だ。だが一箇所だけ異変が起きている。


 右手首の脈に現れた洋梨型の痣が、ぼんやりと光ったり消えたりを繰り返しているのだ。

 これのせいなのか?

 この痣が、爆発的な火球を撃ち出したのか?


 老婆が呻いた。また慌てて全身を撫でて温めてやる。今のカーナにはそれくらいしかできない。胸元と、左腕と、そして——



 そっと さわれ



 ぎょっとして。カーナが背を起こし部屋を見渡す。

 なにもない、なにもいない。


「な、なに?」


 誰も答えない。部屋は静まり返ったままなのだ。

 ひたすら街で打ち鳴らされる警鐘の音だけが、小さく響いてくる。街は未だにあちこちが火に包まれ煙をあげているのだろうか。


 しばし伺って、老婆へ向き直ってその右腕を触ろうとして、気づいた。


 二の腕からばっさりと綺麗に服の袖が切れて剥き出しなのだ。しかも体毛すら切れ飛んで腕そのものを囲うように周回した傷がある。


 これは——斬られているのでは?



 かいな そっと さわれ



 ぞっとする。完全にカーナが固まった。

 これでもかというぐらい、火炎豹の全身が毛羽立つ。少女の牙がかちかちと鳴り始めた。


「だ、だ、誰ですか?」


 突然。今度は。



 むらなきや むらなく にのてや そっと さわり おきうかし つみうかし いちのて おきうかし つみうかし しゃくはの ひらきよう にせて かたり ひのもの よつとし そらのもの うらのみつとし——



「ま、待ってッ! なに、なんなのっ!」


 髪から突き出た大きな耳を両手で伏せて。流れ込む声は微かに。だがまったく意味がわからない。


 わからないはずなのに。

 身体が動くのだ。

 耳を押さえた手がなにか強い力でがっしりと掴まれて。


「ひ、ひっ」


 カーナが泣きそうな声でしゃくりあげながら。意識のないキィエの右腕、その切れ目の上に左手をそっとかざし、利き手の右手のひらを重ねて添える。


むら無きや、斑無く、ひくっ、に、二の手や、そっと触り、ひっ、き浮かし、積み浮かし——」


 嗚咽に混ざって、唇が震えながら動くのだ。たどたどしく口から発する言葉の意味も何もわからない。

 わずかに触れるか触れないほどにかざした両手は向きが直角で格子か広げた羽根のようだ。


「し、鵲羽しゃくはの、開き様、……似せて、か、語り」


 止まらぬ声に。次の瞬間。

 ふわああっとカーナの添えて重ねた左右の手のひら、それぞれに。二重に積み重なるように。ひとまわりほど広い円周の見たこともない複雑な紋様で飾られた光の陣が浮き上がって緩やかに回転を始めた。


 頭が追いつかない。だが感覚が解る。これは魔導の陣だ。基本級コモンの元素操術陣だ。下の左手が風星三番陰相、右手に火星四番陽相。ぐるぐると。


 キィエの腕の傷が、ふわりと輝いて線が消えていくのだ。


 震える手をかざしたまま、カーナの目に涙がたまる。恐怖ではない。恐怖とはまるで違う押し潰されそうな怖さで、全身の毛は立ち上がったままだ。


「だ、だれなの? だれですか?」


 答えてくれない。

 きっとこれは、そういうことはしない。なぜかこころが解る。問いに応じてはくれない、ただ一方的に降ろすもの。


相見あいまみえるはずのないもの〟と〝相見あいまみえている〟のだ。


「あ、あ、あの火の玉も、あなたですか?」

 それでも虚しくカーナが問う。ついに涙が溢れた。



 まやの ほとりより むくつけき やからはらい おろしみの そらへ とく かなえたまいと とおすなり



「わからない! わからないです!」

 必死にカーナが首を振る。声は止まない。



 とく ひらきて ききたまい かなえたまいと とおすなり



 全身の震えが収まらないまま、座り込んだカーナが頭を垂れてキィエの右腕に陣をかけるだけで。う、う、う、と涙と嗚咽もまた止まらないのだ。


 赤き鳥居をくぐって登ったが、どういう場所なのか。

 カーナは知らない。わかるはずもない。





「うぶっ……げ、えほっ、えほ、け、煙がっ」


 道を流れる煙にトーマスがせて鼻を押さえた。犬の彼には特につらいのかもしれない。そこかしこで焼ける木壁から発するやに臭い白煙は、鼻だけでなく目にも沁みる。隣のアランも口を覆って手をかざす。通りの視界が悪い。


 火の手は街のあちこちで上がっていた。がんがんとやかましく打ち鳴らされる鐘の音に混じって響くのは悲鳴だけでなく、突然の災禍に抗って必死に叫ぶ声もまた大きい。


「家財はほっとけッ! 早くしろ!」

「三番! 十七番の梯子! 降ろせ! もう叩き割れ!」


 木造の商店を繋ぐ橋架が壊されて、道の端に流れる湧水に据え付けた汲み上げ式の消火栓を押すもの、伸びるホースで水を撒くもの、子供や老人を誘導するものが辺りに駆け回っている。


 こんな騒ぎの中で子供の彼らが、大人に混じってやれることはない。邪魔になるだけだ。それはアランもトーマスもよく知っている。

 彼らはロイが率いていた辺境大隊避難民の出だ。そして蛇の搭乗者でもある。森の中でも蛇の中でも、自分が何をやれるかは叩き込まれてきたのだ。


 自分らのできることは。

 獣たちが逃げてくる商店街の東が、火が大きい。アランが横で咽せるトーマスに言う。


「目とか鼻とかどうでもいいんだトーマス。聞こえるのか?」

「ひどっ」「急げって」

「ま、待って。鐘の音がうるさくて」


 言われてトーマスの垂れた耳がひくりと動いた。鼻を押さえながら通りを見渡す彼の目がしばたきながらも懸命に動いて。声を上げた。


「いた! 聞こえた」「どこ」

「あそこ。泣いてる。火が近いって! 隣まで来てる!」


 言うが早く二人同時に駆け出す。通りにぱちぱちと木の燃える音がする。


 ばっとトーマスが指差した二階建ての家屋は、隣からすでに炎に包まれ東側は延焼して窓から赤い火が煙の中より舌を伸ばしていた。

 走り込んだ森猫アランが身をかがめて。赤砂利の道をたあんッ! と蹴り飛んで。軒先から木壁を縦に降りる雨どいに手をかけ、掴み、身体を振った。


「このッ!」


 まだ焼けてない窓のらんに飛ぶ。届いた。火を噴き出しているのは隣窓だ。こちら側まで熱と煙がすでに激しい。ぶらさがるアランに下からトーマスが叫ぶ。


「窓あける前に壁張って!」

「わかってるッ!」


 振り子のように揺れた勢いで欄干の板に降りる瞬間、アランの全身が強く光った。小さな体で縮こまって、そのまま。引窓の自分が屈む反対側を揺する。動かない。桟が固い。毛深い顔から牙が覗く。


「がああああッ!」


 力任せに引いた途端に激しい破裂音がして窓が弾けた。アランが伏せる。膨れ上がった空圧が吹き出す。ガラスの破片が宙に舞った。ひとしきり噴いた窓から中を除けば廊下であった。中ほどに一人倒れている。


「おかあちゃん! おかあちゃん!」


 縋り付いているのはまだ年端も行かない幼女だ。

 アランが一気に駆け込んだ。


「大丈夫かッ!……ッ」


 母親は尾の形状から犬科だろうか、だが。天井から崩れたでかい柱に背中をまともに潰されて、薄い茶色の髪から覗く長い鼻の下、半開きの口から舌が垂れて床板にはどろりと血が溜まっていたのだ。


 絶命していると一目でわかる。中腰のアランが伸ばしかけた手を止める。

 幼女が駆けつけた助けに、ぐずぐずの泣き顔で振り仰ぐ。煤で汚れた頬の産毛にべったりと涙の跡がある。


「おかあちゃんが。たすけて、たすけて」

「そ、それは——」


 廊下の奥でばんッ! と板の弾ける音がした。家全体から激しい軋みが響く。薄い白煙がこちらまで流れ込んでくる。じきにこの場も火に包まれるか、支えがこの有様なら最悪、倒壊するかもしれない。


「きゃ」


 アランが子供を抱え上げた。一気に振り返って駆け出す。窓に向かう。


「え? や。や。おかあちゃんは? おかあちゃん! おかあちゃんはッ! いやあッ! いやいやあッ! おかあちゃんッ!」


 猛烈に暴れだす幼女をぎゅっと抱え込んで。その子の爪が食い込む。身を包む背中の壁にがりがりと透明の跡がつく。

 一切なにも言わずにアランがその子を抱いたまま、二階の窓の欄から空中へと飛び出したのだ。


 トーマスが見上げた。

 だが。陽が陰ったのは。


「大丈夫なのアラン——ッ!」


 東に続く細長い通りに。

 燃える両端の木造家屋から噴き上がってとぐろを巻く煙煤えんばいの中央から見えていた、それも縦に真っ直ぐ伸びた僅かな空を、ぬうっと現れた搬送車キャリアの基底盤が遮ったからだ。


 少年と幼女は宙に浮いていた。彼らは背を向けていた。

 搬送車の荷台に見える逆光は明らかに、眼下に砲身を向けていた。

 トーマスが吠える。


「やめろおッ!」


 撃ち出された光弾をまともに喰らったアランの背中で爆発が起こる。その衝撃はトーマスも襲った。猛烈な爆圧で後ろに投げ出される。咄嗟に構えた両腕が軋む。

 並ぶ家の木壁が粉々に吹き飛んで、細かな塵が煙と共に宙を舞って。


 ただ撃って飛び去った搬送車の向こうからまたわずかに見えた空を、仰向けで朦朧と見つめるトーマスの手足が動かない。ぐ、ぐ、ぐと身体を起こす。細かい木片が胸から落ちた。

 やっとのていで半身をあげた彼の数リーム先、まだぱらぱらと埃が飛ぶ赤茶けた道の真ん中に。


 アランと幼女は落ちていた。

 彼はちいさきものをかばって丸まって。

 だが。


「ア、アラン」


 呼ばれた声にアランが微かに首を上げた。

 覆って守ったその子を見れば地面に隠れた後頭部のうなじの辺りから廊下に倒れた母親と同じように赤黒い溶液の塊が音も無く、しかし勢いよく広がって土を染めていく。

 目は見開いていた。わずかに開いた口の舌は反応がない。


 命の消えた身体に被さったまま、少年が激しく震える左手で子供の頬に触れようとして、だが突然視界が薄れていく。

 アランの柔らかい、今は焼け焦げた長毛に包まれつんと突き出た鼻先からだらりと紅い糸を引いて血が垂れる。口からも。食いしばる牙を濡らして唇の両方から膜を張るように多量の血が溢れた。

 

「ごほ」


 かろうじて息をした。

 それが、彼の最後の呼吸であった。

 幼女の隣の赤土あかつちに、ごとりと。その頭が落ちる。


「アラ、ン。アラン。アランッ!」


 足を引きずる同胞の声が虚しく響く。通りはまだ燃えている。





 止まない銃撃の中で仁王立ちになった白猫クデン=メイネマが紺碧こんぺきの瞳をぎらぎらと煌かせて吠えた。


「みんな撃ち殺せ! 弱いものを殺せ! 子供を殺せ! 老人を殺せ! 守って盾になる奴を引き摺り出して捕まえるんだあッ!」


 まだ建物のない南方面の空白地に浮遊する数台の搬送車と、すでに着陸した兵士たちから撃ち出される光弾が、中央の通りで身を屈めながら応戦する街の自警団を次々に吹き飛ばしていく。

 敵の歩兵もまた幾人かが撃たれて薙ぎ倒されながらも、ざりざりと一列に広がって距離を詰める。


 水牛ボスは数人率いて果敢に反撃していた。数回撃たれても立ち上がり銃を構えていた。だが身体に張った彼の壁もあちこちがひび割れて、おそらくもう幾らも保たない。


 同じく。あの中心に位置する——おそらくは敵の司令官であろう外套を広げて立つ猫科らしき男にも何度も銃撃は命中しているはずなのだ。のっぺりと毛の少ないボスの頬に汗が流れる。


 あれが吠える言葉。狂っている。

 また聞こえてくる。


「弱い奴はいらないッ! 餌にしろ! 無抵抗の女子供を吹き飛ばして見せつけろッ! それが餌だッ! 俺らが必要なのは〝役に立つ奴〟だ! ひとりでもふたりでもいいんだッ! 宝探しだぞこれは宝探しなんだわかってるかあッ!? ぐおッ!?」


 どおんッ! と。

 クデンの左胸あたりで爆発が起こった。命中したのだ。

 それなのに。

 

「あああああ鬱陶しいなあッ!」


 爆炎を右手で払って。外套を膨らませて大きく両腕を広げた。周囲の兵士がぎょっとして構えるのが遠目に見えた。


「伏せろッ!」

 

 ボスが叫ぶのと同時に。遠い白猫の背中付近で容赦ない爆発が起こって周りの兵が巻き込まれて投げ出されるのだ。

 爆炎から飛び上がるのは骨の翼のようなフレアに広がった無数の光弾だ。緩やかに広場いっぱいに飛び上がって前に折れた白煙の先から。


 空に向かって。ボスたちの頭を越えて。

 ウルファンドの街へと尾を引いて飛び去っていくのだ。


 まただ。また街を狙って。振り仰いだボスががりいッ! と牙を噛む。あいつはなぜこの砲撃を俺たちに浴びせない? なぜ遠くの街ばかり狙う? さっきから吠えている通り、本気で無抵抗の民だけを殺傷しようとしているのか?


 怒りと焦りでボスがでかい角を一振りして汗を飛ばす。

 逆だ。まるで俺らが考える侵略と逆だ。


「なぜ街を狙うッ!?」


 ボスが驚く。隣の若い自警団の一人が立ち上がって、激しく吠え出したからだ。同じことを思っているのだ。


「ここだッ! 俺らはここだ! ここを狙えばいいだろうがッ! なぜ街を狙うッ!」

「やめろッ! 伏せろ! 伏せ——」


 引き下げようとしてボスが若者の背を、どろどろに汗で汚れたシャツの背を。左手で掴んで、しかし。


 視界が、わずかに。歪んだ。

 横の立ち上がった若者の姿が、揺れているのか?

 揺れているのではない。これは?


「——こ、氷?」


 若者を見るボスの前に、うっすらと音もなく氷の壁が張っているのだ。立ち上がって吠えた若者の牙がかたかたかたかたと細かく震えている。その目から涙が。かすかに視線がこちらを向いて。


「ボ、ボス」


 ずるうっ、と。彼の右半身、鎖骨から肺を通って肝臓を抜け、右の太腿あたりがひと塊にずれ落ちる。同時に。背のシャツを掴んで伸ばしたボスの左手首が。


 落ちた。

 若者の猛烈な血が天に飛ぶ。


「ぐッ!……が、がッ」


 ボスが掴んだ自らの左手首からも血が吹き出す。別の一人が「ボスッ!」と叫んで服を引き破って布紐を作って。

 巻いて強く引き絞られた肘を仲間に任せて、歯を食いしばるボスがそれでも剛毅に敵の彼方を凝視した。


 今のは一体? その時、見えたのだ。


 白猫の司令官の正面にざああああっとなにもない空間から巻き上がる真っ黒な布のような物体が大きく渦巻いて膨らんで。

 布は外套となってまず細い右腕がそこから一本。空に立ち上がる。火がついている。腕が燃えている。一気に腕が旋回し外套を巻き上げた。


 新たな声が飛ぶ。


「熱いッ! 熱い! 熱いクデンッ!」

「はあッ?」


 同じ猫だ。白猫だ。だが聞こえたのは女の声だ。雄の声が叫んで返す。


「おっまえ戦ってる奴を殺すなって言ってンだろッ!」

「どうでもいいから! 入れてクデン! そこに入れて! 熱いからッ! 助けてクデンッ!」

「うるっせえな勝手にしろッ!」


 その声を受けて。ボスは見た。獣たちは見た。痛みどころではない。水牛の口があんぐりと開く。


 ざらあっとまた黒い布状に変化したその雌猫の身体が雄の白猫全身に巻きついて。染み込むように中へと消えたのだ。程なく。


「あっはああ」

「ぐ! ぐぎッ」


 雄猫の顔、右半面が毛羽だって風船のように膨らんだのだ。はち切れそうに毛と皮膚が広がったそこに粘土のように〝もうひとつの顔〟がかたどられて。


「ああああ落ち着く。おちつくわあクデン」

「ぐぎぎぎぎひひひ引っ込めザーラあああ」


 端正な顔が歪む。顔型は笑っている。二つの顔が会話している。


「でも消えない。この火が消えないのよおクデン」


 その声と同時に白猫の身体と、顔と、服のあちこちから黒煙が上がって。周りの獣たちが「ひ、ひいッ」と距離を取る、が。

 燃え始めた両手を広げて見て。大きく歪んだ口元は笑っているのか? 呆れているのか?


「はッ」

 その視線を、こちらに戻すのが見えたのだ。


 左腕の激痛を堪えながらボスが、食いしばった牙から大きく息を吐く。

 死を、覚悟する。

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