第百十九話 氷獣の襲撃
耳を
爆発は、街の広域で同時に発生した。
ウルファンド大滝の溜まりから東へ伸びる中央路で一箇所。
道に沿った大川を跨ぐ二つの橋梁でそれぞれ二箇所。
北の住宅街を巡る小路の数箇所、天蓋の覆う商店街で一箇所。
そしてゴンドラ街駅の駐車場で一箇所である。
巻き込まれた獣たちの身体が吹き飛んで、湧き上がる白煙が通りの空へ抜ける。が、その凶行がより残虐であったのは爆圧とともに周囲に撒かれた赤黒い
ぎゃあああっと悲鳴をあげたのは、爆発を逃れながらも魔力を浴びた者たちだ。その全身が発火する。一瞬で炎まみれになって転げ回る身体に沿って、赤い火焔が燃え広がった。
商店街に火の手が上がる。木壁が燃える。天蓋にも移って一気に。悲鳴はさらに酷く、酷く。
橋が傾く。石の上に敷かれた床組が弾け飛んでどぼんどぼんと川に落ちていく。濛々と上がる煙より這い出た炎が主橋を焼いた。
ゴンドラ駅の駐車場では数台の
朝を吹き飛ばして。
ウルファンドの全景から爆煙と火の手があがる。遥か南方、崖の遠くで降りてくる光点と街の惨劇を瞳を揺らしながら見ていた境内のカーナが、その音に気づいた。
神主グレイが袴をはためかせて納屋へと駆け出したのだ。途中でざっと止めた草履から砂が舞う。振り向いて狼が。
「みんな街へ! 救援を!」
「了解ですッ!」
一斉の返事に驚いたのはカーナだけだ。
「えっ! あのっ」
その時には全員、走り出していた。駆けながら黒猫が各自を指差す。
「マーカス。街のみんなの避難補助。アランと一緒に。ルーシーは診療所に。俺、駅の通信部に行くから」
「うんっ」「了解だ」「わかった」
走る全員が石段を飛び降りるように下る、その上から。がぁんッ! とがらがらに乾いた機械音が響いて。錆ついたロックバイクの基底盤が頭上を飛び越えた。運転しているのは神主だ。
「誰か駅に行くのかい!」
「俺が!」「後ろに乗んなさいッ!」
石段の手すりに、たんっ。と。片足をついて跳ねたキーンが伸ばしたグレイの手を掴んでそのままリアへ跨った。残りの子らに狼が叫ぶ。
「無理するんじゃないよ!」
「はい!」
バイクとともに駆け降りていく彼らは旋風のようだ。
あまりの成り行きに頭がついていかないカーナの足が微かに震えて、石のベンチの脇に佇む老婆の背中を見る。
街で激しく鐘が打ち鳴らされている。湧き上がる黒煙のいくつかからは、赤い火の根が見える。
燃え広がっているのだろうか。
「お、お婆ちゃん……」
震えるカーナの声に、しかしキィエは黙ったままだ。毛むくじゃらの顔は街の煙を見据えたまま微動だにしない。
老婆には、わかるのだ。
無作為に火を放つ、その暴力の意味が。
「宿坊に隠れといでカーナ」「で、でも」
「早くするんだ」
振り返らないその声の圧に、数度だけ涙目でこくこくと頷いた豹の子が踵を返してたっと走り去っていった。
ふう、と。老婆の隠れた口元の毛が揺れる。
「……と、そうだった」
腰の帯に手を当てて。思い出した。短刀はあの〝やんちゃ〟に預けたままだった。
自分で言ってりゃあ、世話ないねえ。
老婆の顔毛が揺れている。
だったら。こっちも受け取るまで死ねやしないじゃないか。
ずう。と。広げた両手を、傷ついた街へと向けて。
「
右手を二指に構え。
「
顔の正面で縦に印を打つ。
「
右より左 左より右」
びっ、と。横一直線に印を切ったのだ。声を発す。
「〝
◆
それは不可思議な。
「火を消せッ! 火を……えっ?」
獣たちが家屋に移って燃え盛る炎を、見上げて。しかし。
ざあああっと。
黒い煙の中に立ち上がる舌のような火焔が一瞬で。音を立てた。崩れ落ちてきたのだ。
炎が、砂に変わった。
赤い光を放つ灰のような粒子になって、いくつかは煙とともに空へ舞い上がり、ほとんどは重みでどさああっと道に流れ落ちて。新たな驚愕の叫びが響く。獣らが身を伏せる。
橋の上でも起こった。まるで一瞬、時が止まったかのように橋桁のそこかしこで立ち上っていた悪辣な炎の柱がぱしいっとその形のままに動きをやめて。次には脆くも崩れて倒れる。紅い砂の柱だ。ざばあっと欄干で弾け飛んだ。
街道から通りを走っていた幌付き搬送車の荷台から未だ飛んでいた声は、水牛のボスだ。今朝の彼は麓に降りていたのだ。でかいツノ付きの顔を助手席の窓に向けて。
「どうなってるッ! ゴンドラは無事なのかッ!」
「そ、それが連絡がまだ」
荷台で別の獣が、耳に腕輪を当てながら叫んだ。
「ボ、ボスさん! 火が消えたってッ」
「なんだと?」
「北側の火が、鎮火したそうですっ」
また別の獣が道の先を指差す。
「あれです。あそこです。ボス」
水牛を含めた荷台の全員が視線をやる中央通りの爆発現場は道がぼっこりと抉られた傍に、まるで焼け灰のような赤い土砂が散って積まれて山になって。ただ黒い煙が燻っているのみだ。
到着した搬送車の後ろから巨体を身軽に翻したボスをはじめ、右手に
「……なんだこりゃあ」
小路や商店の側でも。
ばたばたと店から獣たちが駆け出して、幾人かは吹き飛んだ石畳に散った赤土から登る煙に呆然とし、また幾人かは巻き込まれた獣の介抱をしている。
呻く彼らの体から火傷が消えたわけではない。もはや息絶えたもの、四肢を吹き飛ばされたもの、全身が焼け爛れてすぐにでも呼吸が止まりそうなもの、辺りは凄惨な有様だ。
「診療所に! 救急だ! 担架!」
「服を無理に剥ぐな! 水もってこい!」
鎮火した商店街のぶら下がる天蓋の元、声がこだまする。
遥か南の空から崖を降下していたのは十数台の空中搬送車だ。緑色に光る基底盤が編隊を組んで滑るように飛んで降りていく、その先頭車両の荷台で。
手すりに掴まって身を乗り出しあんぐりと馬鹿みたいに口を開け、目を見開いて街から立ち登る
「き、き……消えた。火が。でもどうやって?」
一緒に乗っていた七、八名ほどの兵士が荷台を後ずさる。この指揮官の性格を知っているからだ。
「どういうことだ? なあ? どういうことだよッ!」
白毛が膨れて牙を剥く青年の肩向こうから、同じ顔がひょこっと首を伸ばした。
「言った通りでしょ? 魔導師ぐらい、飼ってるんだって。
「笑ってんじゃねえよザーラ。魔導師? どこだ? どこにいる?」
煙の立つ街の全景を、二つの顔が見渡して。
また笑ったのは姉の方だ。きしり、と。
瞳孔が縦に絞られる。
「見つけた」
その瞬間。ずらああああっと。
飛ぶ搬送車の荷台から空へ。姉猫の身体が覆った軍服の外套ごとまるで布人形のように形を崩して解けて。紙縒りの如くに伸びて横一直線に細まって、空に飛び出て消えた。荷台の者たちに声だけが残る。
「遊んでなさいね、うっふふ」
残った雄猫の後ろ姿が、肩が揺れている。
「くっ……く、くっこのおおお」
「メ、メイネマ様」
「馬鹿にすんなよお?」
突如、膨らんだ外套から大きく両腕を広げたのだ。同乗する兵士たちの毛が逆立つ。
「メイネマ様ッこんな空中で!」
「うるっさいッ! 引っ込んでろッ!」
ひいっと次々に身を伏せる兵士らに構わず、白猫が声をあげた。
「〝
それはまさに空に広がる鶴翼のようだ。
中央路の爆発現場で数人の獣が空を指差して。
「ボ、ボスッ!」「なんだッ」
南を見た水牛が目を丸くする。
崖から飛んでくる機影の先頭から。
白煙を伸ばした無数の光球が翼のように左右に広がった。
その中心に微かに見える人型が両腕を振り下ろす。
「吹き飛んじまえッ!」
広がった光球が発火して飛び放たれる。連続した轟音とともに街へと。
そのひとつが中央路にも突進して。
「避けろぉッ!」
ボスの叫びで獣たちが一斉に飛び退いた中心に墜落した一撃が猛烈な爆発を起こしたのだ。吹き飛んだ地盤に合わせて油のような真紅の液体が周囲へと飛び散った。発火する。炎が降ってくる。しかし。
ざらあああっと。降り注ぐ火が粒子化して砂へと変わる。波の如くに地面へと降って叩きつける砂が獣たちを襲う。
道路に投げ出されたボスが見たのは空を突っ切る雲だ。街のあちこちへと、川の向こうへと飛んで消えていった、数瞬の後に。
街で爆発音が次々に聞こえる。屋根が吹き飛んでいる。
「敵襲だッ! 迎撃ッ!」
幌の中からぬうっと顔を出した
空では、地上からの砲弾が隣の車体に直撃する、が。巻き上がった爆発の煙を吹き流し、さらに降下して向かってくる飛翔車両のいくつかが旋回する。クデンが周囲を指差した。
「作戦変更なし。全域に展開! 二台ついてこい。残りは河川を抜けて散開、街路を上空より砲撃。
広がって飛ぶ各隊に指示を出し終えたクデンが、またしても街を睨む。荷台ではすでに兵隊たちが地上に向けて応戦を始めた。
その目の前に光弾が飛んでくる。
「だぁうるっせえ!」
右手を振った。空中で着弾前の光線が爆発する。
「なんなんだこれはッ! 街に火が点かないじゃないか! 早くしろザーラッ!」
◆
北の空を。抜けて。街の向こう。断崖の。神社の。展望台の。
老婆の全身がざわあっと毛羽立つ。
「——くッ!」
キィエが一瞬。身を翻した。
広場を何かが横切って。
その目の前に通過痕が。空気が歪む。視界が歪む。目の前に透明な壁が。濡れた壁が。
「——氷?」
空間が凍りついたのだ。老婆の横を一直線にうっすらと濡れた透明な氷の壁が通り過ぎて。
氷はぐるりと竜の如くにとぐろを巻いて老婆の前に戻って。糸か。紐か。違う。布か。それも違う。宙より湧き出た細い揺らめきがざあっと型を成して渦に丸まり。
ばんッ! と外套が開く。軍服を着た白猫が空中に浮いている。
キィエの毛むくじゃらの顔に、その奥に薄目が開いて。
宙にうっすらと張る氷の向こうで不敵に笑う雌猫に、声を投げる。
「〝
「ふうん。どんな奴かと思ったら、あたしを避けるなんて。あなた霊術士さん? 珍しいわあ。見えてるのね?」
小柄な腰をわずかに沈めてキィエが問う。
「ふん、身構えちゃいるさ。どうせ街に火を放ったのも、魔導の使いを燻り出すためなんだろ?」
「あらぁ素敵。よくわかってるのね。もちろんよ。でも〝
「この街になんの用だい。見たところ軍隊らしいじゃないか」
「うっふふ。あたし? あたしはエメラネウスの獣王軍よ」
「……なんだって」
雌猫がふくよかな飾り毛に右手をしならせて。
「狂獣王軍ネブラザ前線隊、ザーラ=メイネマ。どお? お婆ちゃんはどなたかしら?」
「あんたみたいに平気で
「失礼ねえ、教えてよ」
「あたしゃ旅の〝
一閃。キィエの逆手を差し向けた長袖の布地が風を切る。
がしゃあっと。風圧で氷が粉々に弾けて割れた。
が、
「あははぁ! 疾いわ、お婆ちゃん!」
その姿が淡く消え、ぱしりっ。と。咄嗟に老婆が身を躱した。
「つッ……!」
新たな氷の壁が。展望台の崖端を抜けて小木の向こうまで。
また女が現れたのは背向かいの木々の奥だ。
そして。微かな風に揺れた並ぶ植木が、切れ倒れたのだ。氷の道に沿って嵌まった細木の幹が、枝が、すべて綺麗に、まるで鋭い剣で薙ぎ伏せたように斜めの切口を見せてばらばら落ちていく。
老婆の口から牙を噛む音が聞こえた。翻した右手の甲を、ぎゅうううと左手で絞れば毛に血が滲む。その毛にはうっすらと霜が噴いていた。
木の向こうから猫が覗く。
「あっはあ。なにその動き。すごいすごい。あたしみたいなのと戦ったことがあるのかしら? そこらの兵隊なら顔が剥げ落ちて死んでるところよお」
「——ふん、これだけ生きてりゃあね」
霜に固まる右手を振って。
「それだって、こんな成り行きで戦うような真似するもんかね。あんたみたいなのと遣り合うなら、もっと周到にするさ。楼を張って閉じ込めなきゃ話にもならないしね」
その言葉に。明らかに。
雌猫が青い目をぎょろりとひん剥いて。
「うふふ。
ふッ! とキィエが両腕を振る。巻き上がる風刃に、しかし。また猫が
「ねえお婆ちゃん? どっち? いま
「このッ!……」
氷が消えぬうちに、また。ぱしいっと。身をかがめる。今度は頭上を斜めに。
「閉じ込められちゃうわよ? あっはははは! 疾い疾い、あたしが見た中で一番疾いかもね、お婆ちゃんすっごいわあ。でも所詮、その程度よねえ!」
氷に囲まれる。次が来たら避けられない。キィエの
「くあッ!」
その全身から吹き出した圧が。周囲の氷壁を木っ端微塵に粉砕する。ばらっばらに散り飛ぶ欠片が地に落ちる、その前に。
ぱしいッ! と。
「ぐあ!」
右腕を新たな氷の壁が突き抜けたのだ。薄い、押せば簡単に割れそうなその氷が肘の下わずかを貫いて。老婆の身体は一瞬で反応して停まった。そこに留まった。
震える。氷の向こうの右手の指を動かす。動く。まだ切れていない。だが。
「ほおら。捕まったねえ」
老婆の正面に。すぐそこに雌猫の身体が布を巻くように現れた。腰を折りキィエの顔面に高さを合わせるように鼻先を寄せてくる、それだけで。キィエの顔毛に真っ白な霜が降りて。
「こ、このッ——」
「でもすごい。お婆ちゃん、ほんとうにすごい。名の知れた魔導師なんじゃないの? こんなの見たことないわあ一瞬で身体を停めるなんて。腕、まだ繋がってるの?」
氷で捕らわれた腕を猫が突こうと指を伸ばす。
「触るんじゃないよッ!」
「あははは! あっはは! 触らないわよお馬鹿ねえ。腕、落ちちゃうじゃない。そんなことしないわよ可哀想じゃない。ねえ。お婆ちゃん?」
いよいよ艶かしく笑って。
「お婆ちゃんなら、わかるわよねえ? どうやったら、その氷から抜け出せるか。ねえ、簡単よねえ、もうすでにやってみせてるもんねえ?」
「あ、あんた最初っから。それが——」
「ははははは」
猫が笑うたびに、老婆の体温が。服が。白く。凍える。留める右腕が辛い。だが微かな動きすら今は。
「なにしに来たと思ってるの? 遊びに来たと思ってるの? 当たり前じゃない。
「こ、このっ」
「いるの? お婆ちゃんの他に〝
「さ、さっさと殺せば、いいんじゃないのかい」
「馬鹿にしないで? 街に丸ごと仕掛けるような規模の術、霊術に法術、仕込まないと無理よね?」
読まれている。キィエの顔が歪む。ザーラは右手の指をあげて。
「殺したらもう解けないんじゃないの? 違う? お婆ちゃん解いて? 自分でかけた術でしょお?」
すう、と老婆の胸を撫でる。息が詰まる。心臓が凍えて締め付けられるかのようだ。霞む視界でキィエが必死に考える。
こんなやつを解き放つわけには、いかない。こいつは幻術の楼で閉じ込めなければ、誰も勝てない。それができるのは、確かにこの街には、自分しかいない。だから。
まだ、死ねない。
一瞬だけ、
腹を決めた。
「〝
その瞬間。ざあっと氷が消えた。まるで空に溶けるかのように。老婆の長袖に丸く線が入って。解けてばあっと振った右腕から袖だけが抜け飛んで。返す右手で印を切って。
「
「遅いッ!」
猫の放った掌底から。
発した強烈な〝
広場の端まで吹き飛んで、転げて止まったキィエが気丈に身体を起こして、しかしその胸を押さえて。
どろりと、口元から血が垂れる。ふ、ふ、ふっと息が荒い。
今度はゆっくりと歩いて近づく雌猫が外套を翻して、両手を広げて。きょと、きょと、と。
「うーん? 解けた? 解けたのかなあ」
確かめるように辺りを見渡して。近づいてくる。
「疾いってのはね、あくまで獣にしては、って意味だからね? 信じちゃったりしてないわよねそんなの」
「ぐ、ぐふッ……」
溢れる血が止まらない。
また読まれていた。
氷の縛りから抜けるため。無事に身体を傷つけずに抜けるためには、
この雌猫はそれを見越して一瞬の転元のさなかに〝風撃の一発〟を選んでいたのだ。
「うふふ。内臓をやっちゃった? 血が出てるわよお婆ちゃん。それで法術組めるの? きちんと呼吸できるの? 一旦解いて、やり直しするつもりじゃなかったの? うふふ。甘くないそんなの?」
街では。
「う! うわああああ!」
再び炎が燃え上がったのだ。
積み重なった赤土が突然発火して、驚愕する獣たちが逃げ惑う。猛烈な火焔が道を伝い、壁を伝って燃え上がる。
火の手が、黒煙が街を覆う。
その煙が遠く神社の境内からも見えた。口元の毛を解かしながら猫が笑った。
「うふ、上手くいったみたい。残念だったわねお婆ちゃん」
「げ、
老婆が血を吐く。ぱん、ぱん、と。白猫が手を叩きながら。
「無理だってえ。そんな傷じゃ詠唱なんかできないって。ねえ。お婆ちゃん。あたしが、なにをしてたか知ってる? なにをしてたと思う?」
「な、なにを……」
ザーラの真っ白な右手が前面に伸びて。指を開いて老婆に向けて。
真っ青な瞳を見開いて言う。
「手加減してたのよ」
ぐぎりっ、と。凍る顔毛の奥でキィエの目が見開かれて。両手で掴み絞る左胸の服の上で、手の形に皺が深く食い込んで。なにもない。なにもないのに。
「ぐがっ! は、は、があああッ!」
濃い赤色の鮮血が泡立って、口の端から糸を引いて垂れる。思わず老婆が膝をついて、
「生きて、動いてる心臓って。硬いわよねえ。死にたくないのよね、みんな」
「が、が、があああッ」
「生きようと
雌猫が真っ赤な舌を覗かせて。
「それを握りつぶすのが好き」
「が! あ! あ! あッ!」
その一瞬。
巨大な岩石と
まさにキィエの心臓を引き絞ろうとするザーラを、真横から吹き飛ばしたのは。直径が人の背丈ほどもある燃え盛る火球だ。
その大質量にありえない凄まじい速度で白猫の全身がひしゃげるほどに衝突し、展望台の足場の棚石までばらっばらに抉り飛ばして。
「ぎゃ? あ あ あああッ!」
奇声をあげて空へ投げ出された猫が燃える。火球の中に巻き込まれる。
「ぐあああッ! 熱い熱い熱いッ!」
突っ伏した老婆が口から血の線を垂らしながら、驚いて境内の外を目で追う。空を見る。浮いた火球が燃え盛っている。
振り返れば血が糸を引いて。
「お婆ちゃんに触るな化け物ッ!」
火炎豹の娘が両手を前に構えて立ち尽くしていた。
その足はがくがくと震えている。
「カーナッ! あ、あんた」
「ごめんなさいお婆ちゃん! ごめんなさい!」
涙目を潤ませて謝る娘に少し頷いた老婆が。
地に伏せたまま、指先を複雑に動かし法陣を切る。
声は出ない。韻は打てない。
ひたすら指が動く。
「こ……のおおおおッ!」
どおッ! と鈍い破裂音が聞こえた。空の火球が飛び散って。四肢を広げた雌猫の外套が宙に揺らめく。その服と、身体に。白煙が巻きついている。
「熱ッいじゃないの誰アンタッ!」
ひいっ。と後ずさる豹の娘を見咎めて。ぎょろりと目を剥いて。
「なんなの? 邪魔しないでよ。その可愛い顔、おいしいお菓子みたいに真ん中から切り分けてやるわ」
右手を伸ばして背を丸め肩を入れて、前へと。だが。その手の甲に火がついた。
「熱っつ」
空に浮いたまま手を振る。消えた。甲より残煙がふわりと立ち上って。また点く。「熱いって」と忌まわしげに左手で擦る。消えた。今度は。
「熱いッ!」
擦った左手のひらから小さな火が出た。右手の甲からも、ぽうっと。また火が起こる。
「こ、これって? なに?」
右手と左手に火をつけながら、猫が広場に伏したキィエに視線を投げた。老婆の右手の一指が、こちらを差したまま。
「ひ、火は撃てなくても、陣は張れたね」
「貴様ッ!」
「そ、その火は、消せない。なにをしても」
一指。横に切る。
「顕現〝
唐突に。猛烈に。
「ぎゃあああああああッ!」
白猫が爆炎に包まれる。
それは陣を発した老婆本人すら仰天して目を見張るほどだ。なにもない空中で雌猫の全身が凄まじい火焔に覆われたのだ。
払いきれない炎で焼かれる雌猫が思わず叫んで。
「熱いッ! 熱い熱いッ! 助けてクデンッ! 助けてえッ!」
燃え盛る身体全体がばらあっと布が剥げるように崩れて。白煙を残して宙に消えた。いなくなった。
カーナがその場に尻餅をついて。だがすぐ。
「お、お婆ちゃん!」
四つん這いでばたばたとキィエの側まで寄って。緊張が解けたのか、どさりと頭を土につけたキィエを膝に抱き寄せて。
「お婆ちゃん。しっかりしてお婆ちゃん!」
見上げる老婆の顔毛に娘の涙が落ちてくる。細かく頷く老婆が逆にカーナを元気付けるかのように。
「た……たいした、火力だ、あんた」
「お婆ちゃん。あたし、どうしたら」
「た、助けを、呼ぶんだ」「え?」
「あれも、助けを、呼びに行った。だから、もうひとり、いる。あんなのが、もうひとりだ。あたしらだけじゃ、太刀打ちできない。だ、誰でもいい、誰か、外に、街の外に、助けを呼ぶんだ……いい、ね」
娘の濡れた頬に差し出された手が、力尽きて。どさりと落ちる。気絶した老婆を両手で膝に抱えたまま。
「お、お、お婆ちゃん……お婆ちゃん。あたし、助けなんて、どうしたら」
途方に暮れるカーナは、まだ気づいていない。
抱えるキィエの頭に隠れた己の右手首の痣が。
かすかに明滅を始めていたことに。
◆
突然の発火に迎撃陣が驚愕する。
「う! うおおおッ!?」
道に飛び散った赤い土砂から猛烈な勢いで炎が噴き出したからだ。
「ボ、ボスッ!」
「狼狽えるな! 隊列を崩すんじゃない!」
逆に。
「うお? 火がついた。ついた! あっはははは」
「メ、メイネマ様ッ!」
降下中の搬送車から。外套を翻した白猫が十数リーム下のまっさらな区画地に向かって飛び降りたのだ。
ボスたちも気付く。その猫を凝視した、その目の当たりで。
落ちてくるクデンの周囲にまたしても翼のように白煙を引いた光球が並んで。ついに。
どおんッ! と地面を穿って着地した瞬間。
「吹っ飛んじまいな!」
数十もの光弾が水平発射された。
自警団が身を伏せる。飛び退く。その頭上を轟音を上げて球が飛ぶ。魔導の光線ではない、明らかに塊となった弾道が川向こうへの街へと突っ切って。
どどどどどどどおッ! と猛烈な爆発が起こった。
家屋が木っ端微塵に吹き飛ぶ。火炎が噴き上がる。衝撃音に悲鳴が混ざって。
光弾の数発がすぐ西側のゴンドラ駅へと。ボスの目が見開かれて。
まとまった複数の爆発が駅前面を粉砕したのだ。風に唸って切れたケーブルが滝に飛ぶ。宙吊りになっていたゴンドラが傾きながら落下し、地面に激突したのだ。
吹き飛んだ駅に火災が起こる。ばらばらと投げ出され、逃げ出す獣たちが明らかに負傷している。血まみれだ。
「あっはははははッ! これだよッ! 襲撃ってこれじゃなきゃなッ!」
狂った白猫が両手の拳を握って笑った。
◆
びぃいいいいんッ! と音を立てて跳ねたケーブルに、滝側駅の展望台で構えていた
ゴンドラが落ちていく。下の駅が爆発した。吹き飛んだ。そこに。
数台のキャリアが飛来して空中から一斉射撃を始めたのだ。
「さ、退がれ退がれッ!」
応戦しながら退却する獣たちの数人が撃たれて吹き飛ぶ。獣たちを追いやりながら滝の裏側へと微速で侵入する搬送車の運転兵が。
目の前を凝視する。瞳孔が開く。ずっと続く洞穴の石畳の奥に、三台のどでかい大砲が鎮座していたからだ。
砲座に乗っていた親方タイジが大声をあげる。洞窟の工場にも響き渡る。
「吹っ飛ばせてめえらッ!」
荷台の兵士たちが吹っ飛ばされて岩に叩きつけられて。その姿を遠目に見たタイジの下、魔導大砲の操作盤を弄っていた大猫のブロが声を上げて。
「親方! あれ獣じゃないの?」
「獣だな」「ど、どうして」
「知るかよ。戦争なんざぁいつだってやられた側は、煙に巻かれたまんまだあ。わけも知らずにおっ死ぬんだ! 事の顛末を聞けるのはな! 生き残ったもんだけだぜぇ! 発射ッ!」
次々に噴き上がる大砲を、ブロと同じく操作していた熊のボッシュが思考する。
こいつらは強襲兵だ。占領軍だ。なぜ? と。
大滝の裏に洞穴を構える
ああいった中型の揚陸艦が一番難しい。滝の水圧で叩き落とされるからだ。だから今みたいに水流の途切れた駅側の展望台付近から侵入するしかないのだ。格好の的だ。
「撃ち方、やめッ!」
タイジが吠える。敵の第一搬送車はひっくり返って底の基底盤を見せたまま沈黙してしまった。こうなる。だから腑に落ちない。逆にボッシュは警戒していた。
その警戒に応えるかのように。
があんッ! と。
倒れた搬送車から、なにかを。鋼鉄を鈍器で殴るような音がする。
それは、二度。三度。タイジが声もあげずに左右に指を振る。獣たち全員が大砲のそばから全員、がしゃあっと右手の魔導銃を構えて。
やがて。なにかが高速で回転するような。ここの獣たちはいつも聞いている音だ。それはブロも。ボッシュもそうだ。
鋼鉄を切り裂く旋盤の音だ。
やがて機体から凄まじい火花が縦より斜めに吹き上がって。猛烈な金属音が洞穴にこだまして。めりいっ。と。
車体の鋼板をぐにゃりと片手で開いた奥から。それは現れた。巨体だ。熊のボッシュの倍近い。広がった耳。鉄の仮面で覆われた顔。ありえないほどでかい扇のような耳と弩太い牙。
そして見たこともないような長い、あれは鼻か? 鼻が伸びているのか?
「な、なんだありゃあ獣か? 蟲か?」
親方の声が震える。ボッシュが思うのだ。
こんな無茶な敵の特攻は、ひょっとして。
あれをここに降ろすためにだけ、行われたのでは? と。
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