第九章 ウルファンド炎上〜鉄仮面モーガン登場〜

第百十八話 姉弟魔導師


——それは数日前。

  戦地、ネブラザ領クオタスにて。——



 砂埃で煙る外に陽が差して魔導銃ブラスターの音が断続的に聞こえる。

 漆喰の大窓と入口がぼかりと空いた、暗い四角い廃墟の窓際で。

 椅子に足を組んで腰掛けた、軍隊特有の外套を羽織った細いシルエットが、顔の横にあげた左手に、右の指を当てる。


「わかるだろ? 選択肢はふたつ。ひとつは獣になること」

 人差し指を当てる。面倒そうに喋るその声はまだ若い。

 爪の鋭い手を覆う産毛がちらちらと光る。

「ふたつめは魔導師になること。それだけ」

 続けて中指を当てる。


「それが、この世界で魔力と付き合って生きる条件なんだ。三つ目は——」

 指を離し、軽く前に差し出す。

「禁忌なんだ」


 また爆轟が聞こえる。連続で撃っているのは大地星タイタニア付与エンチャントされた弾丸仕様の魔導だろうか、機銃のように音を立てて敵を掃討しているらしき発射音と「向かったぞ!」「撃て! 突っ込めッ!」という兵士たちの叫びも微かに混ざっている。


 外で続く戦闘に興味もなさげなのは、その青年だけでなく。

 彼の肩に横からしなだれ掛かった同じ服装の、体型も似た女のシルエットもまた、緩いカーブを描いて突き出た腰から、長く細い尾を揺らすだけで。


 兵士の叫びが聞こえた。

「メイネマ様! そちらにッ!」

 同時に。窓と入口を覆わんばかりに。ぎょろっと巨大な単眼を見開いた蟲の頭が部屋を覗いたかと思った瞬間。椅子の青年が振り向きもせず、軽く左手を上げる。


 途端に。

 蟲が燃え上がったのだ。


 ごおっと真紅の火焔に包まれて悲鳴を上げるそれが、続けて数発、外から撃たれた。窓から離れて倒れ込む。「大丈夫ですかッ」と訊ねる声に。


「問題ない」

 大窓にやや振り向いてそう答える彼の顔から逆光が解けた。

 猫科の青年だった。

 透けるほど真っ白な頬毛に水色の瞳をした彼が、また向き直って。


「——なあ。六術のうち、魔術は禁忌なんだ。獣でもない、魔導師でもない、ただのヒトが魔力のわざに手を出したって、結局は魂も血も壊して終わりなんだ。いいことなんか何ひとつないんだ」


 部屋の相手を指差して。

「だから訊いてる。あれ一体、どういう事なんだ?」

 その指がだるそうに軽く翻る。明るく日の差す四角い入口を。外を差した。



 瓦礫となった街の路上で。

 今はもう、そのほとんどが獣の軍隊に撃ち倒された蟲の死骸の中で。


 巨大な四本の大鎌を背中に広げた、身の丈がそれを取り囲む兵士たちの三倍ほどもあるヒト型の怪物が咆哮を上げた。けぶる白煙に波紋が立つほどの雄叫おたけびに獣の兵たちが身を竦ませる。


 甲殻に細かい模様の走ったような硬質の顔面には目がない。ただ異様に発達した顎に尖った歯を剥き出して吠え叫び、激しい怒りを辺りに発散させている。

 獣たちは魔導銃ブラスターを身構えながら、しかし誰一人その怪物を撃たない。じりじりと包囲を保つばかりなのだ。


 その怪物に向かって一人。これもまた異様に背筋の張った後ろ姿をはだけた兵士が対峙していたからだ。羽根のように巨大な耳だ。

 身構えて広げた兵士の両腕に、奇怪な装備が激しく回転音を立てている。手首から肘を巻いて高速で旋回するそれは黒い鉄鋼に似た硬盤だ。


 怪物がどおッ! と重機の如き鎌を振り下ろした。突き刺すというよりは粉微塵に粉砕でもするかのような一撃が、しかし。

 なんと避けない。左腕で受ける。高速の回転に滑った鎌先が轟音を立てて肩に、だが刺さらない。背も沈まない。むしろ周りの兵たちが身を伏せる。当の後ろ姿はびくともしない。


 左手首の旋回で、襲った鎌を避け払った瞬間。猛烈な火花とともに甲高い音が響いて丸太ほどもある鎌先が粉々に吹き飛んだ。また怪物が大声を放つ。すかさず。腕そのものも魔導で固めてあるのだろうか。


 ひとことも発せず。

 兵士が拳を怪物の顎に下から叩き込んだのだ。

 巨体が僅かに浮いて、怪物が吹き飛んで倒れた。


 躊躇いなく跨った兵士が、右手首ごと唸る鋼板を怪物の顔へと差し向けて。

 抵抗しているのか、組み付された敵の背中から残り三つの鎌が兵士の盛り上がる背筋に大きく外から回り込んで連続して突き刺さった、はずなのだ。


 やはり刺さらない。敵が暴れている。弩太い杭のような鎌が何度も、何度も爆撃のように。濛々と砂塵が舞う。辺りの街路に穴が空き瓦礫が飛び散る。兵士を上から突いて、突いて、だがまったく刺さらない。その鋭さにも重さにも、激しさにも反応しない背中は凄まじく硬い鉱石のようだ。やがて。


 一段と強烈な肉を削る音が。


 どしゃあっと赤黒い液体と肉片が散り飛んで。「ひッ!」と後方の兵隊たちが身を竦めた。ひたすら足をばたつかせ、跨る兵士の背中を必死に刺し続ける敵の鎌が、やがて空へ伸び上がって痙攣して。


 完全に動かなくなった。鎌が力なく地上へ。どおん、と。


 しばし跨ったままの兵士が絶命を確かめたのか、ゆっくりと立ち上がってその場を退いて。

 両腕の旋回が止まればそれは細い台形の鉈に似た三つの刃で、がしゃりと閉まって籠手になる。


 二、三回、拳を確かめるように握る兵士は〝象〟の獣人であった。


 太い象牙は、しかし鉄の仮面から生えている。鼻の根の背を蛇腹で覆う仮面には横一直線の覗き穴が暗い。横顔全体には象特有の広がる耳が揺れていた。


 その前面をべったりと汚していた敵の返り血が。不思議なことが起こったのだ。まるで脱皮のように、肉片とともにどろりと剥げて薄い粘体となって脱げ落ちたのだ。象の全身、細かく皺の寄った厚ぼったい皮からぶしゅうううっと蒸気が立ち昇る。


 どこともなく兵士の通信が聞こえた。

『モーガンの〝金剛膜ポリオン〟が解除されました。戦闘終了です』



 音声に、白猫の青年が椅子からゆっくりと立ち上がりざまに、首にしなだれていた片割れを緩く腕で退かす。「あん」と艶かしい声を漏らす隣の雌猫もまた真っ白で、二人はそっくりの獣人である。


「終わったそうだ。蟲も撃退した」

 部屋の真ん中に青年が言う。


 頑丈な木製のテーブルに顎をつけた顔が目を剥いて。

「デ、デイモンドを倒した……のか? 貴様ら、なんなんだ」


 こわばった顔で机に伏していた人間の男は壮年で鉄製の椅子に鎖で縛られ、荒い息で上下する肩もがしりと兵士に掴み抑えられて。両手はテーブルに釘で打ち付けられていたのだ。その甲を突き抜けた穴から流れる血が止まらない。

 震えは異常だ。明らかに病的で、べったりと汗で髪が張り付いて顔のあちこちに内出血の斑が見える。


 テーブルの横まで歩み寄った白猫が、涼しげな声で訊く。

「倒した。だからもういいだろう? なんであの男は自分で自分に蟲を刺した? なんで蟲になった? そんな真似したら僕らに勝とうがアイツに未来はないんだぞ? だから禁忌なんだろ? 地から湧く大群を操って僕たちを襲わせる算段じゃあ、なかったのか? それでよかったんじゃあ、ないのか?」


 はあはあと息を吐きながら見上げて男が睨みつける。

「わからん……のか、本当に」

「しつこいなあ」

「アイツの女房と娘を! 吊るしたからだろうがッ!」


 男が叫ぶ。白猫はただ見下ろしている。


「貴様らがッ! 吊るして! 殺したッ! だから耐えきれずにデイモンドは自分を蟲にして襲ってきたんだッ! 貴様それがどうして理解できないッ!」


 悲痛な声に、だが。

 無表情だった白猫の青い瞳がぎょろりと剥いて。傾けた顔と鼻先を寄せて。


「は? 僕らが悪いのか?」

「……なんだと」

「逆さ吊りなんか変動値コント使えば解けるじゃないか」

「人間の女子供がどうやって——」


ッ!」

 があんッ! と。思い切り男の髪を掴んで机に押し付ける。男が激しく呻くのも構わず白猫が豹変して。


「そんな理由か? そ、ん、な、理由かッ! お前らこそなんなんだ人間は! いつだって弱いことを自慢する! 弱いからなんだ? だから加減しろってか? 片足を縄で吊るしただけでなんで死ぬ? なんであんな簡単に脱臼する? なんであんなぱんぱんに顔を腫らして死ぬ? そんな獣は一人もいないぞ? お前らだけだ! そんな脆いのはお前ら人間だけだッ!」


 毛の逆立った手が容赦無く男の頭を揺する。


「それで蟲を刺すなんて。いかれてるぜ。おかしいのはお前らだよ。今だってそうだ。なんだアンタのそのザマは? 手に釘を打たれただけで動けないのか? 抑えられて喚くだけか? 振り払えよ。自由になれよ。鎖くらい引きちぎれよ。この部屋の全員、それくらいできるぜ? できないのはアンタらだけだろ? なんでそれでがぁがぁがぁがぁ」


 また髪を掴んで持ち上げて。

「こっちが文句言われなきゃ! いけないんだよッ!」


 叩きつけた。男の唇が切れる。血が飛ぶ。白猫が押さえ込んだ手を離さずに、後ろの兵隊が肩にかけていた菱形の——それは兵の背中に抱えた細長い魔導槽ダクトセルから管で繋がれた、まるで医療用の酸素吸引マスクに似た半透明の器具を乱暴に掴み取って。


 ぐいと頭を引き上げる。唇の端から血を垂らした男の顔が一段と青ざめた。押し付けられたマスクから口と鼻を横に逃がして。顔を伏せて。また逃して。抵抗する。


「吸えよ! このッ……吸えッ! お前ら人間も〝いぶり球〟なんてもの使うらしいじゃないか? なあ? 獣に排煙吸わせて殺すんだろ? ひっでえよなあ。これなんかまだマシな方だろ?」


 ごりっと。鼻と口を完全に吸引器が塞ぐ。男が必死に息を止めて吸わない。みるみる顔のこめかみに血管が浮かぶ。


「選ばせてやってるんだからな! 死にたくなければ獣になればいい。なれよ。ほら。吸え。吸えってッ! 蟲を刺すより、獣の方が全然いいだろう……がッ!」

 力任せに白猫が男の顔を押し付けた。ついに。がはああっと耐え切れなくなった男が吸引してしまう。激しく肩が震えるが後ろの兵隊も離す気配がない。


 きっちり呼吸した男から、やっと白猫がマスクを離した。ごとりと頭をテーブルに置いて口元から血と涎を流す男の息がひたすら荒い。だらだらと脂汗が酷い。その耳元で。朦朧としたその目の前に差し向けた手のひらの指でくいくいと招きながら。


「ほら。ほら。来い。変われ。こっちだ。こっちに来いよ」


 霞む男の視線がようやっとで猫の顔を捉えた。白猫が少し笑う。


「なあ? 悔しいんだろ? このまま死んでいいのか? 獣化しろって。獣になれば殴れるぞ。戦えるぞ? 自分で選べよ。さ、釘を引き抜け。俺らを振り払え。生きてみろ。強くなれよ。さあ」


「——の、……」「うん? うん?」

 寄せた大きな毛羽だった耳に。


「呪われろ」


 男は、止まった。動かなくなった。


 うっすら笑っていた白猫が、ゆっくり顔を離して、前のめりの背を戻しながら口を閉じて。後ろの兵隊二人に向かって、またちょっと笑って肩を竦めた。そして女の待つ窓際に戻ろうとして。


 素早く振り向いてがあんッ! と机の足を激しく蹴った。

 竦む兵に怒鳴る。

「片付けろ!」「は。はい」


 雪崩れるように椅子に座り込んだ若猫に、またすぐ隣の雌が首に巻きついて。不機嫌な首筋に染み込ませるように囁く。

「暑いわ、クデン」「うるっさいよ」

「いい匂い」「うるせえって」


 女が彼の白毛のうなじを甘噛みする。青年の顔は晴れない。

 うざったく曲げる首に、また呟く。


「たくさん、殺して。まだひとりも獣化できてない。ひとりもよクデン。——焦るわよね? いい匂い。あたし大好き。あなたのその苛ついて、焦って、じりじり焼けていくこころの匂いがたまらなく好き。すごく暑いわ。蒸せるようで。湿ってて。この辺が」


 雌猫が青年の胸板を撫でながら。


「そろそろあたしたち、獣王様から見限られるかもね。うふふ」

「鬱陶しくてしょうがないザーラ。暑いなら冷やせよ。見限られたらなんなんだ? あ? 僕らもああなるってか? 蟲にでもされるか?」


「嫌ぁよ蟲なんて格好悪い。それくらいなら死のう一緖に? あたしクデンと一緒に死にたい」


 また始まった。いつもだ。死にたい死にたいとうなじに囁く双子の姉を言わせるままにクデンの表情が濁る。乾燥して埃の舞う外気が鼻に辛い。

 残念な人間ども。帝国軍には楯突いて、獣王軍には後ろから襲われて。ネブラザの抵抗勢力レジスタンスは崩壊寸前なのだ。


 このクオタスの街も、壊せるものはあらかた壊してしまった。捕虜に魔力マナを嗅がせても、ろくに獣化する人間もいない。いたとしてもどろどろに皮膚と筋肉が崩れた〝なりそこない〟ばかりだ。


 はずれだ。ここは赴任地として。

 もう、つまらない。


 鉄仮面モーガンは次の戦地に飛ばされるだろう。自分らメイネマ姉弟きょうだいは? 獣王セルトラが戦果も出さない自分らを許すとは思えない。さっくりと処分されるのだろうか?

 死ぬのは怖くない。そんなもの、いくらでも見てきた。むしろそこは姉と同じで、この糞ったれな世界から抜け出せるなら悪くもないかもしれない。


 だが。だったらこんな埃っぽい土地が最後の赴任地になるのか? それがろくでもなくて、嫌でしょうがないのだ。


 もはやしゃべくるのをやめて、ひたすら彼の軍服の上から胸板を撫で回して恍惚とする姉を、横目で見る。ザーラは死体がそばにあるとすぐ発情する。死ぬ寸前の匂いがたまらなく良いらしい。されるがままに、せっかくの綺麗な顔を少し崩して自嘲気味に笑うクデンの横から。


「通達です」

 入口に若い犬の兵士が姿を現して。


「……なんだ? 帰ってこいってか? いよいよ」

「いえ」「報告するような戦果はないぞ」

「攻撃命令です」


 まさぐるるザーラの手が止まった。双子の白猫が兵士を見据える。

「どこを? 移動か?」

「はい。目標、ウルファンド。時間、ただちに。です」


「——ウルファンド? 断崖船渠グランドック? 中立地帯の? あれは獣の街だぞ?」

「そういう通達です。私にも、さっぱり」

「目的は?」

「住人の捕縛です。使えそうな獣を捕まえるようにと。搬送車ビークルも二十台ほど出ます。兵の構成はメイネマ様に一任、街の施設は不要なので破壊して良い、とのことです」


「復唱したか?」「はい」

 白猫が青い目を剥いて。

「間違えてたら殺すぞお前」

「間違いでは、ありません」

 怯える兵士が、細かく頷きながら答える。


 口を半開きのまま固まる横から。また雌猫が呟く。


「……ウルファンド。滝の街よね。キレイな街。そして、ずるい街。ねえクデン?」

 女の口元が濡れている。

「弱い獣たちが。なんにも努力せずに。平和をむさぼる街。子供も、大人も。楽しく食べて、笑って。なーんにも、辛い思いもせずに。だらだらと生きる街。ずるいわよねえ? あたしたちがこーんな埃っぽくて、からからに乾いて戦っているのに。冷たい水が滝になって無限に流れ落ちるの。毎日冷たい水を飲んで、お風呂に入って、身体を洗ってるのよ、きっと」


 再びザーラの手が軍服の上から撫で回す。指先を立ててかりかりと弟の胸板を掻きながら。

「まっさらよクデン。まっさら。あたしたちが壊すの。壊そう? 早く。ねえ」

 首筋に囁かれるまま、弟猫の口の端がだんだんと。上がって。そしてザーラが嬉しそうに。

「暑いわ。暑い。クデン。すっごく暑い。うふふ」



 命令は、焼けた街路に佇む象にも伝えられた。

 死体のそばに立つ鉄仮面から伺える表情は無論、なにもない。兵士の通達に一言も声を発せず、ただ僅かに頷いたモーガンを置いて、伝令の兵は走り去って。


 乾いた砂礫に陽が差す。

 気配に。象が死体を見た。


 いつの間にか、音もせず。たおれた巨体の片隅にしゃがんでいる黒い影のような法衣がいる。

 その差し出した両手に、死骸の胸から黒い霧のような煙のような粉が湧いて巻き取られて。こちらを見返す法衣のフードから口だけが見えた。突き出た下顎の歯が象を睨んでいる。そして。


「見るな」


 象に言って、そのまま。塵を巻き上げる風に溶けて消えた。鉄仮面の長い鼻が少し揺れて。それだけだ。




◆◇◆




「11、12、13……14」

 神社の裏手で、かわいい女子の声がする。


 境内広場の展望台に立つくすのきに似た広葉樹の枝葉の中を声が登っていく。

「よ。っと。ていっ。やっ。」

 がさ。がさっと。揺れが上へ上へ駆け上がって、やがててっぺんから。

「ぶはあっ」


 葉っぱを飛ばして顔を出したのは黒猫キーンだ。

 朝焼けの空が染みた街の向こうは山並みがうっすらとして、小鳥たちのさえずりだけが滝の音に混ざって聞こえてくる。獣たちが起き出すより、まだ時間は早い。


「19。」「ぃよっしゃあっ!」

 キーンが両手をぐっと上げた。


 ほけえっとマーカスの鼻が上を向く。犬の彼は木登りはまったくもって苦手なのだ。数えていたルーシーが両手を口に当てて、木のてっぺんに声を届かせる。

「今度は20切ったじゃんキーン。すごいねえっ」

「だっから簡単だってのっ」


 上からの得意げな声に、ふんと鼻を鳴らした森猫アランが小さな両手の指を組んでくきくきとほぐしながら数歩出て。


「何度も挑戦すれば登頂ルートが確立されて当然だ。こういうのは一発で決めなきゃ意味がないだろ? 20以下だな」

「未満ね」

「こまかいなあ。まあ楽勝。——指をくわえて見てるんだマーカスっ」

「いや僕は別に」「いくぞっ」

「あ。あたし。やりますっ」

 アランが足をつっかける。手を挙げたのがカーナだったのでルーシーが目を丸くした。

「ええ? 大丈夫なのカーナさん? キーン。カーナさんが登るって」

「は? あぶなくね? ホントに?」


 周りで心配するずいぶん歳の離れた子供らに、うんっとあどけなく頷くカーナの顔は真剣だ。何度も登り降りしたキーンの動きを、ずっと彼女は目で追って。なんだか。


 やれるような気がして。

「あたし。がんばるっ」

 胸の前でぐっと握る拳の、右手首には墨でなにやら不思議な紋が描かれたサポーターが巻いてあった。内気な火炎豹クーガーの耳と尻尾がひこひこ揺れる。


 たんッ! と。最初の跳躍に三人の子らが身を反らして驚いた。

 風星エアリアの気も感じないのに、彼女が一瞬で手頃な枝まで飛び上がったからだ。慌ててマーカスが言う。

「ル、ルーシー。数えてっ」

「あ。あ、1、2、3……」


 跳ぶ。蹴る。目の前に枝が迫る。掴んで。体の重みを感じないから、まるで縦に走ってるようで。姿勢が崩れない。次にどの枝か分かる。上を見て。繁った葉の隙間から空が見える。キーンが目を丸くしてる。うふふっ、と。なんだか笑いが込み上げて。左手で。


 ぱき。と。

「きゃっ」「わっ」「あ」

 折れた。細かった。だが。


 体勢を崩して青葉の海に落ちかけたカーナが近くの枝を掴んで、ざあっと宙吊りになって。「ふうっ」と息を吐いて鉄棒よろしく勢いつけて、ぶん。っと。もう一度、枝に乗る。

「え、えっと。あ。15、16、……」

 見ていたルーシーが数え直す。下で見ているこっちがむしろ、はらはらだ。アランもマーカスも口が半開きだ。


「26。」「ぱはぁっ。」

 葉っぱを散らしてカーナが黒猫の隣に顔を出した。結局20は切れなかった。ブロンドの髪についた若葉をふるふると振って飛ばす豹のお姉さんを、黒猫がぽかんとして見るばかりだ。


 やがてカーナが落ち着いてきて。息を整えて。

 思わず胸を膨らませて吸った世界は無限とも感じる元素の気配だ。


 崖の滝からごおごおと巻いて散るのは朝に立ち上る大地の恵みを含んだ軟水の飛沫だろうか。

 どこまでも続くはるかの山を見渡して。手を伸ばせば掴めそうなほどそこにある澄み切った空の湿りに混ざり込む温もりは、そろそろ照らんかとする晴れの陽射しだ。


 吸った息から全部が染み込んで。はあああっとため息に似た思いっきりの呼気が出る。なんて朝。なんて空。故郷のイルカトミアにだって。


 空はあったはずなのに。

 あの頃は下ばかり向いてたような気がする。


「カ、カーナさんっ」「え?」

 ちょっと驚き気味にキーンが。

「なんで涙目?」「あ、あ、あれ?」

 慌ててカーナが両手の指先で、まるで化粧を伸ばすように目の下を拭うので。そしてキーンはもっぱら正直者なので。


「か。かっわいいなカーナさんっ。あ」

「ええっ?」「いやあのえっと」


 下でルーシーの猫耳がぴこぴこと動いた。

「……あいっつ。すぐ口に出すんだからっ。」

「言ってやれリザに言ってやれ」

 横から囁くアランの顔毛をみいっと引っ張って。

「いだだだ」「正直なのも考えものねえ」


 彼らは神社で朝練をしていた。

 もう今日あたり、ウォーダーは首都に到着するはずなのだ。

 宿坊の側から歩いてきたのは老婆キィエだ。


「また木に登ってる。別のやり方はないのかい。朝飯だよ」

「うおっ」「待ってましたっ」

「キーン。朝ごはんっ」


「わっ。降りる降りるっ」

 樹上の二人もざざざっと新緑を揺らして降りてきた。





 本来、蛇から降りてウルファンドに根付いた四人、キーン、アラン、ルーシー、トーマスの里親は街長まちおさダンカの縁故であってここグレイの神社ではない。ただ蛇が戻るまでの間、カーナがこちらに世話になってるので朝からちょくちょく遊びにきているのだ。


 食事の後は、本格的な朝練だ。

「さあ。今朝は誰からくるのかな?」


 朝の境内は樹々の向こうにそびえ立つ崖から流れる滝音が瑞々みずみずしい。胸に下げた眼鏡をちゃらっと鳴らしながら袴姿で、組んだ手をぐいぐい伸ばして左右にほぐすグレイが言う。

 はいはいと手を上げる子供たちからは少し離れて、霊術士の老婆とカーナが石のベンチに座っている。


 もうだいぶ陽は差すが木陰は涼しく、一望するウルファンドの街はだんだんと、獣たちの動く気配がする。遠く川から聞こえるのは小売船が鳴らす木鐘の音だ。


 カーナが差し出した右手首から、サポーターが外された。

 その下に割と大きめのあざがある。


「ふーむ、これでも消えないかね。結構強めの〝解読げどく〟の印なんだけどねえ」

 キィエが首をひねった。


 手首の腹は薄い産毛に覆われて、だがその下にはっきりと。

 例えるなら地球の洋梨によく似た、水滴型の頭にちょんと捥いだ枝のような痕まで丁寧に描かれた痣だ。


「法術の〝陣〟でも〝契印シール〟でもないねえこりゃ。反応がなさすぎる。といって霊術の気配も感じないねえ、まったくもってさっぱりだ——痛くはないんだね、今でも?」


 キィエの問いにカーナが頷いて。

「悪いものじゃ、ないんです?」

「まあ悪さをしそうな感じは、しないねえ。お前さんが気にならなきゃ放っといても構やしないんだろうけど。どうだい?」


 また頷く。覚えているのだ。

 数日前、蛇がここから飛び立つ際にエイモス医師と握手した時から、これはある。あの先生が自分に何か悪さをするはずもないし、そのうち蛇は戻ってくると聞いている。


「私は、特に問題ないです」

「そうかい。まあ、彼なら分かるかもしれないね」

「彼?」「まだらの銀髪のさ」

「ああ。アキラさん。お婆ちゃんに分からないものまで、アキラさんって、分かるんですか?」


 ぼさぼさの毛に覆われた老婆の表情が、少し緩んだような気がする。

「まあね。彼ってか、彼の中に〝棲まうもの〟かねえ」

 言われてカーナが、ああ、と思い当たる。それは蛇の乗組員たちの間で時おり会話の端々に出てくるものだ。


 彼らは〝声〟と呼んでいた。

 続ける老婆はまるで独り言のように。


「——不思議なものさ。あれには情緒の揺らぎを感じない。でも冷酷でもない。何も知らないようで、なんでも知っているような、得体の知れない……もともと現界に〝器〟すら持たない魂だったかのような、今までに見たことも聞いたこともないねえ、あれはさ」


 少し離れては、一緒に飛びついたキーンとアランの二人が難なく神主のわざに巻かれて流されて「わああっ」と。土に這う。軽く砂埃が舞う。


 まだ痣のある手首を持ったままのキィエが続けて言うのを、カーナも預けたままじっと耳を立てて聞いている。だから気づいたのだろうか、まるで脈をとるように痣の上を細い指で押さえた老婆の顔が上向いて。


「カーナ。あんた〝風星エアリア〟も強いねえ」

「……風星エアリアって、元素の?」


「そうだよ。火星イグニスに隠れてるが、風星エアリアも強い。探求を、未知を欲するこころだ。もともと好奇心旺盛な子だね、あんたは。言われなきゃ読まないから怖がらなくていいけど、そんなあんたがここまで遠慮がちで引っ込み思案になったのは」

 毛に隠れた青い瞳がカーナを捉えて。

「いろいろと。抑え付けられてたんだろうねえ」


 少し。火炎豹の娘は口を結んだ。

 老婆が指先で手首の痣を、とんとんと叩いてやる。


かなくて、いいからね」「え?」

 伏せた目を開けるカーナに優しくキィエが語る。


「ヒトの皮を捨てて、獣になって。今のあんたはここにいる。命を拾ったのはさいわいだ。けどねカーナ。獣になったことがあんたにとって、よかったのか。悪かったのか。まだ急いて答えを出すことはないからね」


 老婆の指は、まだ彼女の手首をとん、とんと。叩いて。カーナは黙って聞いている。


「あんたは知っている。もう、おそらくあんたの魂は、その答えを知っている。でも言い聞かせちゃいけない。確かにそれとわかるまで、自分で自分に言い聞かせちゃいけないよ。明らかにはっきりと、頭と体に染み込むようにわかる時がくる。そういうのをあたしら霊術士は〝つむぎの果て〟と云うんだ」


「紡ぎの、果て」

 

「そうさ。紡ぎの果ては旅の終わりだ、そして新しい旅の始まりでもあるのさ。そんな旅を何度も何度も繰り返して、人は生きてくのさ。そういうのが人生ってもんさ。最後の最後の紡ぎの果ては、言葉通り、人生が終わる時、なんだろうねえ。まああたしみたいな老いぼれには、そろそろの話さ」


「そんな」「いいんだよ」

 叩く老婆の指が止まって。


「あんたはまだ若い。これからも、何度も紡ぎの果てを見るだろう。そのたびに、よろこびも、かなしみも手に入れるだろう。それは、あんたのもんだカーナ。誰も奪い取ることのできない、あんただけの紡ぎだ。そうやって紡いでいくんだ。急がずにね」


 ぼんやりと。カーナが思う。

 同じことを、誰かに言われたような気がする。

 老婆がまた少し顔を上げた。その顔が笑っているようで。


「——いいね、急くこたあ、ないんだよ。ただ、獣の身体を手に入れたあんたは、次に欲しいものが、あるみたいだね?」

 ちょっと顔が火照る。でも。自分でも驚くほど言葉が素直に出て。

「あ、あたし。魔導の勉強がしたくてっ」


 今度ははっきりと老婆が笑った。

「ふっふ。あの〝やんちゃ〟と相弟子あいでしでも、いいのかね?」

「え、やんちゃってモニカさ……あっ」

 空いた左手で思わず口を押さえるカーナに、キィエが可笑しそうにくっくっと。


 笑って。しかし。


「——お婆ちゃん?」


 ゆっくりと。老婆が顔を上げて。東を見る。街の広がる空を見て、その視線が南へと。

 同じく。軽く子供らをさばいていたグレイの構えが止まった。狼の神主が鼻先をあげる。空を見て。その眼差しは少し細い。


「グレイさん……?」

 きょとんとした子供たちが身体を起こして。だが神主はそっと右手を上げて、髪から伸びた狼の耳が、かすかに動いて。

 ざわっと。カーナの体毛が毛羽だった。視線を飛ばす。


 西にそびえるウルファンドの断崖が伸びる街のはし、ずっと南の彼方に。落ちる滝を繁らせる森の遥か上から。幾つもの小さな点がゆっくりと降りてくるのを目で捉えて。





 光球は、朝の街のそこかしこに浮いていた。

「うん?」「どうした。なんだあれ?」


 両手で持てる鞠ほどの大きさをした光の球が、商店街の石畳にも、川沿いの橋縁にも。小道にも、中央の通りにも。ゴンドラ駅の駐車場にも。ぽつり、ぽつりと、ふわふわと浮く光は、だがなんの元素星エレメントも感じないので。


 獣たちの数人が、軽くつつく。反応がない。

「おーい。なんだこれ?」

「どしたの?」「おい、大丈夫か?」


——四種混合。励起系法術〝浮榴爆雷デグロマ〟。


 街の光が。一斉に爆発した。

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