第百十七話 荒野に集うもの

 獣たちが去って、もはや沈黙した第十七地区の魔術塔は、その外殻からはみ出た鉄管の破片が時おり風でぎいぎいと音を立てている。

 大穴の空いた部屋にも弱い日が射して、壁際に横たわったクロウの死骸に微かな陰影をかたどっていた。


 その壁に。滲むように。

 暗い暗い闇が立ち昇り、まるで影絵のような魔導師の左半面が描かれる。腫瘍のような長い鼻が垂れ下がり薄く空いた目にもなにもなく、切れ込みのような口が呟きながら、影の両手で糸を巻くように。


 同時に。死体の全身より霧の如くに湧き上がった黒い粒子がざあざあと宙に渦をなして、その回る両手へと集まっていくのだ。


 どこからともなく声が聞こえる。

『出来はどうなのだアントニム』


「種の斉一に隷属する生命の焙焼が斯くも個体に差異を生むは驚嘆の極みである」


『臭いはどうなのさ?』

 若い女の声がした。影の鼻が微かに動いて、答える。


醇乎じゅんこたる無臭の映えが素晴らしい」

『……あたし、それ、欲しいなあ』

『くだらぬ。回収して戻れアントニム』


である」

 黒い霧の渦が影絵の両手に巻き込まれて、雲が微かに陽の光を陰らせた瞬間。その魔導師の姿がまた滲むように、消えてしまったのだ。




◆◇◆




 どことも知れぬ高地の、なにもない荒野に点々と黒い法衣を着た生気のないものたちがうろついている。


「——投入せよ、次」


 幾人かは荒野の向こうへと胸に抱えた黒色の塊を持って去り、また幾人かがやってきて報告を繰り返すのは、上等な飾りの入った法衣を着た背の高い魔導師と、大きな岩に立て膝で座り込んだ少女の魔導師へ向けてであった。


「——投入せよ、次」


 また新しい法衣のものが、胸に塊を抱えて報告する。


「北エマトナにて魔術を行使し発狂、町民を殺害して自死で終わった者です」


 岩の少女がちらと見て、興味なさげにまた目を逸らす。長身の魔導師のフードの奥は闇に包まれ何も見えない。その声も抑揚がない。

「——投入せよ、次」


「ネブラザ領クオタスで魔術を駆使し反乱を起こし討伐された者です」


「……おっ」と少女が身を起こす。長身の魔導師が問う。

「反乱の理由は?」

「妻子が惨殺されたとのことで」

 いよいよ少女が身を乗り出して。しかし。


「——投入せよ、次」「はい」

「え? ちょ、ちょ、ちょっとマーロック」


 魔導師の法衣から左手がぶわっと伸びて。見えない圧が少女の全身を激しく岩へと押し返した。「ぎゃんッ!」と潰れる叫びとともに仰向けの身体がびしびしと岩に埋まって食い込んでいく。


「あッぎぎぎぎぎ、ま、マーロックッ! わかったッ! わかったから!」

「——投入せよ。持っていけ」「はい」

「あああ! 終わる! 終わってしまう! マーロック!」


「そう邪険にしないでよマーロック」


 魔導師たちのそばには二人の髪の長い男がいた。それぞれが距離を取り、別々の乾いた岩に腰掛けたその男たちは、長髪は同じでも全く風貌の異なる二人であった。


 声をかけた一人は若くも見え壮年にも見える、まるで彫刻のような均整の取れた美しい身体になだらかな薄い一枚布の織物を巻き付けただけで、真っ直ぐな髪は金の糸のようで緩やかに風になびき、彫りの深い顔に静かな笑みを湛えている。

 が、首筋からはだけた胸元に向かって白い肌に浮き出た血管は紫色で、両腕にも張り巡らされた血の流れの上に巻きつくような紋が彫られていた。


 腰掛けるというより横臥に近い姿勢で岩の上からサンダルを履いた長い足を投げ出して、涼やかな声で魔導師に続けるのだ。

「ミリアンも器を無くしたばかりじゃないか、慣れるまでは時間がかかるだろう?」


「現界の肉に対する未練など、早々に断ち切ってもらわねば困る」

「わかったッてば! 解いてマーロック!」


 叫ぶ少女に魔導師がす、と向けていた左手を上げた。「ばあッ!」と少女が起き上がる。両腕の埃をばっばっと払って魔導師を睨む。


「君も、そう焦らなくてもいいじゃないかミリアン。今からいっぱい収穫できるよ。ついに〝赤毛のエリナ〟がんだからね。大陸のあちこちで、記憶の打ち消された連中が騒ぎを起こす。彼らが頼るのは魔術か、蟲かだ。これからいくらでも〝殻〟は取り放題さ」


 くすくすと青年が笑う。


「ゲイリーはいい仕事をしてくれたよ。あれだけの事を起こせば、そりゃあ〝殻〟も上等なものが採れるさ。僕としてはバーヴィン=ギブスンの〝殻〟も見てみたかったけどねえ」


 楽しげに話す青年に、魔導師がフードの闇を向けて。

「だが、まだ全然足りない。今日もあれで最後だ」


「だったらもっと頑張らなきゃマーロック。ねえ。ただ探して集めて持ってくるだけじゃ蟻と同じだ、そうだろ? 君らは働き蟻なのか? 元帝国の高名な魔導師様だろ? その城から叩き出した憎たらしい黒騎士に、一泡吹かせてやるんだろ?」


「——ミリアンと違って私は霊化して久しい。煽りなど効かんぞ、皇子よ」


 魔導師の答えに皇子と呼ばれた青年が少し目を丸くして。


「僕はこういう喋り方が好きなんだ。もともと論者だからねえマーロック。気に障らないなら有難い、じゃあ言わせておくれよ。もっともっと攪拌者アジテーターとして世界をかき混ぜておくれよ。そのために僕の国から魔術も蟲たちも提供してるんじゃないか」


 両腕を広げれば、それも長い。まさに荒野に置かれた彫像のようで。


「何度でも言ってあげるよ、足りないって? 足りないのは僕の方だよマーロック。全然足りてないよ。もっと世界には苦悩が必要だ。絶望が必要なんだ。満たされないものを増やさなきゃいけない。抑圧され、低きに置かれ、虐げられ、辱められるものたちこそ、魔術を手にした途端に弾けるんだ。彼らは果敢に燃え盛る。その熱量こそ〝殻〟を焼く大いなる命の熱だ」


 朗々と。美しい髪が揺れて。


「魔術を渡して。欲望と、狂気に。打ち震えさせなければいけない。周りを巻き込んで、たくさんの命を追いやって、殺して、殺して、そして鮮烈な失敗と死を。そうだ。死は鮮烈なものでなくてはいけない。すべての感情をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて燃え尽きた果てに、なんの臭いもしない漆黒の〝殻〟が採れる。人間の人生は素晴らしい焼窯やきがまだ、そこで焼かれた〝殻〟を、君たちがもらう。僕が欲しいのは、その焼けた灰だけ。残りかすだけ。なんて素敵な取引をしていると、思わないのかい?」


「——要は、その滓で、より強い蟲を創りたいのだろう皇子よ」

「その通り」皇子が笑った。


「ねえ。そりゃあそうさ、蟲になったものたちこそ、報われるべきだ。〝殻〟を奪われた哀れなゲイリーも、いつかは僕が使役してあげるよ。幻界のよどみから見つけ出して、立派な蟲に生まれ変わらせて、この世界に戻してあげる。僕はね、マーロック」


 皇子は、その長い手のひらを胸に当てて。


「善行をしたいんだよ。長く生き過ぎたんだ、僕も、妹もね。かわいそうなアヌジャカは破壊でしか心が満たされない。だから蟲を増やして妹に渡してあげるんだ。もう人間には興味がない。短い人生のくせに、そのほとんどをぐずぐず悩んで何もしない、成さない、そんな人間たちは、現界に相応しくない。ただただ器を欲しがる蟲たちの方が、はるかにこの世界に相応しい。だから入れ替えてあげるんだ。素敵な善行だろ? もういいじゃないか、結局、人間はなにも成さないじゃないか。何年も、何百年も、人間は変わらないじゃないか。つまらないよ」


 そして胸から離した手の指を、遠い荒野の彼方に向ける。


「君らのお慕いになる皇帝陛下も、その人間の滅びに一役買うかと思っているから。僕は力を貸しているんだよマーロック。あの忌まわしい〝樹〟を元通りにしたいんだろ? だったらお互い頑張ろうよ。陛下のためじゃないか、ねえ」


「——ご高説、反吐が出るぜ」


 皇子の言葉が止まった。わずかに開いた口が、笑って。残りの一人へ視線をやる。


「そう言って欲しいんだろ? ガラムジャン」


 最後の一人は。長髪といってもぼさぼさの、まるでたてがみのように溢れんばかりの茶色い髪を肩が埋まるほどに伸ばした剛毅ごうきな顔相の男だ。

 深く顰めた眉根から一本の傷跡が左の頬まで刻まれた顔は壮年で、皇子とは対照的に全身を毛羽だった袖のない上着で包み厚布のカーゴにブーツを履いている。剥き出しの二の腕は鋼のようだ。


 引き締まった顔で、また男が続けて言うのだ。

「よくべらべらとしゃべくる舌だ、とも、言って欲しいのか?」


 皇子が緩やかに顔を向けて。やや左右に首を振りながら笑顔のまま。


「素敵だ。君のその変わらない無謀な勇気が素敵だよヴァン。今、この荒野にいるものたちの中で。最も〝弱い〟君が。それを気にせず無頼に振る舞う。いかしてるよヴァン」


「てめえはいかれてるぜガラムジャン。だが残念だな。この姿でも鼻は効くんだ、てめえの思惑は丸わかりだぜ。狂気を演じるのも魔術に必要か?」


 皇子と男が視線を交わす。いまだ皇子は笑顔のままだ。

 今度は男の口の端が、少し上がって。


「なあ。正直に言えよ〝界脈アムトラ〟を探し出したいってな。世界をかき混ぜるのは、そのためだろうが」

「もちろんだとも。僕が滅ぼしたい人間たちにはシュテの坊主も含まれてるんだ。あんな連中に竜脈を渡したままなんて、耐えられない。相応しくない。そう思わないかい?」


 やや皇子が身体を起こして。

「そんな事を聞きに来たんじゃないんだろ? 君こそ正直に言ってくれなきゃ、僕は鼻が効かないんだ、獣と違ってね」


「——あの〝抗魔導線砲アンチ=マーガトロン〟ってのは、なんだ? あんなものを、なんだってクリスタニアの辺境に流した? 俺への当て付けか?」

 男の眼光が鋭い。剥き出しになった左腕を、右手で撫でながら。


「てめえ、この〝胎泡カルマ〟じゃ満足できねえってのか?」


 心底楽しそうな顔をして皇子が答える。


「うふ。うふふ。アレはちょっと改造されたみたいだね。ねえ。人間って、そういう欲望が大事なんだよ。あれのおかげで人間たちは目の色を変えた。獣を支配する。服従させる。隷属させる。それに躍起だ。嬉しくてしょうがないんだ。でも、構わないだろ? もう僕に出会ってから君は目が覚めただろヴァン? 思い知っただろ? 昔みたいなくだらない願いは捨ててしまっただろ?」


 男の顔がかすかに歪んで。

 だが、何も言わないので皇子が続ける。


「僕を殺しに来た時のこと、覚えてるだろ? ひどく残念な有様だったじゃないか。ねえ。獣の国、なんてさ。——人間が上? 獣が上? 馬鹿馬鹿しい、同じさ。どっちも何も違わないんだ。けどくだらない人間たちは嬉々として獣を支配したがるんだ。あの発明のおかげでね。愚かだよねえ踊らされてるとも知らずにさあ。造った僕と、狙われる君が、こーんな近くにいるなんて、誰も知らないんだ。うふふ」


「だが蛇は倒せなかった」

 そう言ったのは魔導師マーロックだ。

 皇子が身体を起こし、大仰に考えるように顎を撫でて。


「そうだねえ。あれは僕も残念だった。君らの遣わした魔導師がダメだったのか、辺境大隊長がダメだったのか、どっちなんだろうねえ?」

「ビートゥごときに蛇が倒せるわけ、ないじゃない。あたしだってこのザマなんだから」


 岩の上で少女が肩をすくめる。強面の男の鼻がかすかに動いて。そして立ち上がって。


「どちらにしたって、あんな武器を世界に流したのは俺への敵対とみなすぜガラムジャン。今だって俺らの軍が獣で構成されてるのに変わりはねえんだ」


「ふふ、おかしなことを言わないでよヴァン。敵対なんかしなくたって、僕は今すぐ殺せるんだよ? 簡単にさ」

 皇子が人差し指で一直線に、首に線を引いて。だがたてがみの男も笑ったままだ。


「殺せねえよ、お前に俺は」「うん?」


「俺を殺せば〝號星アルカスト〟も、どっか消えちまうぞ? またいちから探すのは面倒だぜ、ノエルの呪文はよ。蟲の天敵を撃ち落とす呪文が、欲しくてたまらねえんじゃ、ねえのか? 俺の許可があれば、それも可能だ。違うか?」


「うーん? 蛇はね、まだしばらく泳がせておきたいんだ、僕はね。あれは世界を混乱させるのに優秀な〝触媒〟だからさ。いい〝殻〟を造ってくれる。だからもっと活躍させて——」


「それを言いに来たんだ」

 荒野に、かすかに風が吹いた。

 男のたてがみが揺れて。


「ウルファンドに兵を出した。ウォーダーは間に合わねえ」


 皇子の目が少しだけ見開かれて。岩の少女は仰天した顔で男を凝視して言葉も発しない。魔導師は特に反応がない。

 そして皇子がゆっくりと。ぱん。ぱん。ぱん。と両手を鳴らす。


「……素晴らしい。素晴らしい進歩だ。獣の国なんて言ってた君が、獣の街を襲うなんて」

「これも、てめえの予知のうちか?」

「どおかなあ」

「だが今度は、間違いなく間に合わねえぜ。リオネポリスからは数日はかかる。あいつらはお前の言う〝触媒〟には、ならねえ。俺のとこの兵隊が街を蹂躙して終わりだ」


 だがまだ皇子の笑みが消えない。

「——どおかなあ?」


 ち、と。男が舌打ちをする。


 目の前にいる青年、魔導国ファガンの長兄ガラムジャン。

 強力な魔術師であり、ノエル十二番〝胎泡カルマ〟の所持者であり、数百年の時を生きて、そして最も厄介なのは。幾ばくかの〝予知の力〟を持つ。得体の知れない男なのだ。


「まあ、結果を楽しみにするんだな」

「お互いにねヴァン。さあ、帰りたまえ。僕から離れるんだ。歩いて、歩いて。離れていきたまえ。しあわせだろ、その方が君も」


 手で荒野を指し示す皇子に一瞥をくれて。

 言いたい言葉を寸前で飲み込んで。

 男が歩き始めた。青年と、魔導師たちが見送る中を。


「そうだ。ほら。ほら。歩きたまえ」

 背中から皇子の声がする。ざ、ざと荒野をひたすら歩く。と。


 距離ができればできるほど。だんだんと男の顔が剛毛に包まれて。ぎりぎりと音を軋ませて顔面の骨格が激しく変わっていく。大きく耳が立ち上がる。鼻が尖り、口元が裂けて。牙が伸びて。剥き出しの両腕に黄金色の体毛が溢れていく。


「歩け。はっは。歩けヴァン。あっはっは。さようならヴァン」


 荒野に獣が歩いていく。獅子だ。

 男の全身が。

 茫々とたてがみを湛えた、顔面に傷の入った獅子へと変化へんげする。

 

 獣性封印呪文。ノエル十二番〝胎泡カルマ〟。


 あの皇子に近づけば近づくほど、獣の力は封じられる。

 姿形だけではない、隠身とは違うのだ。

 その特性、身体能力。そして魔導すら封じられ、獣はただのヒトに戻るのだ。




 もう彼らからは随分と離れた場所で、ヴァンが足を止めた。


 荒野に立つ獅子が、獣に戻った右腕を見つめて、ぎゅっと筋肉を引き絞る。ざあっと流れる魔力と共に剛毛が波立って揺れて。



——どこに行くてめえらッ! なぜ武器を捨てるッ!


  無理ですセルトラ様。無駄死にです。お、俺らは——



 初めて東ファガンに攻め入った時の屈辱は忘れない。

 半径数キロリームに展開して街へ潜入した獣の部下たち全員が、すべて無力な人間へと変化してしまったからだ。混乱し、士気は総崩れであった。


 街へ足を踏み入れただけだったのに。逃亡され、裏切られた。人間に虐げられた獣たちだから、それだけで一丸となっていると思っていたのは、自分のはかない幻想だったのだ。


 あれから、ヴァンは変わった。

 獣は所詮、獣の皮を被っただけで、本質は変わらない。憎むべき人間と同じだ。


 イースに敗れた理由も理解した。獣の力を持ちながら魔導に手を出すあいつをあの頃の自分は鼻で笑っていたが、イースは本質を見抜いていたのだ。人間だの獣だの関係なく、あいつは信頼のおけるものに背中を預けていた。戦局を有利に運んだのは、当たり前のことなのだ。


 変わらなければ死ぬ、と思った。

 だから幻想など、捨てることにしたのだ。


 ただ、たった一つだけ〝胎泡カルマ〟でも消せないものがあった。鼻だ。匂いだ。たとえ人に戻されても、なぜかは不明だが相手の心の匂いだけは、変わらずわかるのだ。

 

 だから。今もそうだ。寸前で飲み込んだ言葉はひとつ。


——あれは僕も残念だった。君らの遣わした魔導師がダメだったのか、辺境大隊長がダメだったのか、どっちなんだろうねえ?——


「見えないモノができたんじゃねえか?」と。


 本当に困惑している匂いがした、あの皇子が。しかしヴァン=セルトラは言うのを止めたのだ。ここで言うのは得策じゃない。突き止めてからでも遅くない。


 原因が蛇の中にあるはずだ。だから蛇を挑発した。ウルファンドを襲った、それが第一の理由であった。


「また一緒に血を流そうぜイース。てめえ、今度は何を拾ったんだ?」


 厚雲の流れる荒野に立つ獅子が、空に呟く。





 会合が終わり、獣王は去った。魔導師たちも荒野の向こうへと姿を消した。ただ一人残ったファガンの皇子は、ゆるゆると揺れる金髪を相変わらず風になびかせたまま、岩に座って動かない。


 互いの人差し指をぱし、ぱし、と叩き合わせながら考える。


 フィルモートンは予知通りに壊滅した。

 しかしウルファンドも暴風で壊滅する


 ゲイリー=クローブウェルが蛇に敗北するのも知っていた。

 だがインダストリア臨海域もそこで吹き飛ぶ


 そして。クリスタニアは本当に予知が外れた。

 あの網状竜脈で蛇は墜落する


 なにかが、おかしい。


 なにか異物が混ざり込んでいる。それを元帝国の魔導師たちは気づいているのだろうか? ヴァン=セルトラは気づいているのだろうか? 何百年生きたとて、結局ヒトは獣のように鼻が効くわけでもなく、相手の匂いは読み取れない。


 くっくっと笑う。面白い。まだ、こんな面白いことが世界に残っていたなんて。


 答えはどこにある? 長い年月を生きたガラムジャンは、この大陸のほとんどの知識を持ち合わせている。ただ一つだけ手に入らないのは、文字通り〝聖域〟と呼ばれる場所の知識だ。シュテのラーマ寺院だ。


「避けて通れないなら、しょうがないよなあ」


 長髪の皇子は、心底楽しそうだ。どのみち、竜脈を完全に支配する呪文と呼ばれるノエル二十一番〝界脈アムトラ〟も、聖域ラーマに隠されているはずなのだ。もちろん。竜脈の支配も魅力のある目的では、あるのだ。


 だが。

「うっふふ……ふふ、ふふふ、あっはっは、あはははははっ」


 まだ、誰も知らない。

 まだ、誰も気づいていない。


 彼がこの世界に生き続ける本当の目的を。





 荒野はどこまでも続き、ぽつぽつと黒い法衣が行き来する中を、魔導師マーロックとミリアンが歩いていく。両手を頭の後ろに組んだミリアンが、隣の長身を見上げて言う。


「あの男のことは言わないのね」


「当然だ。調子ものに全てをさらけ出す必要はない。何百年生きようとも肉の器に固執すれば、あんなものなのだミリアン」

 うっへえと少女が舌を出して、すぐ、にやりと笑って。


「今、あたしらが皇帝陛下さまにやってんのも、その〝器への固執〟ってやつじゃないの? 違う?」

「違うな。行うべきは〝制御〟だ」

 そして立ち止まる。少女も足を止めた。魔導師のフードの奥が呟く。


「なぜ、このようなことが起こったのか……」


 漆黒の法衣を着た魔導師たちの集う荒野の真ん中に空を覆わんばかりに枝をなしているのは樹というにはあまりに禍々しい代物であった。


 その根は一人の人間であった。


 人間の下半身が焼けた地面にひざまずき腹から上の肋骨のあたりから破裂して膨大な枝というより逆さに弾けた果実か肉のように曇天の空全体へと蠢く触手を為している。


 触手のあちこちには男女交えた無数の裸体が粘土のようにかたどられ、それだけではなく数々の獣の身体もまた粘体に型を成して。


 それらが互いに。争っているのだ。


 ぬるぬると伸びる手が。突き出る顔が。互いを引っ掻き、咬みあい、引きちぎり、また生えて、吠えて、叫んで。争い続けているのだ。負けるものは周囲の口から喰われて失われ、また生まれてを繰り返している。


 その中心に。不規則で非対称で筋肉質な何本もの腕を周囲に伸ばしたひときわ大きな顔があちこちより人や獣を引きちぎって、歯の並ぶ大きな口で咀嚼している。真っ赤な粘液を垂れ流しながら。


 近づいた魔導師が、塊を投げる。入れ替わり、また投げる。

 繰り返し投げ込まれるたびに「おおおおお」と不快な声を出して、樹が揺れて縮んで、だがまた震えて枝が伸びて。


 大きな顔が、横の枝から子犬のような塊を引きちぎって口へと運ぶ。ぎゃんぎゃんと吠えるその塊が一瞬で噛み潰された。


 魔導師が言う。

「だいぶ、まとまってきたではないか」


「今、食べたのナニ? やっぱりアレがヴァラグエル様の本体? 醜いなあ」


「不敬な奴め。赤子など皆、似たような顔ではないか。だが赤子では困るのだ。もっと殻が必要だ。固く、頑丈な殻でこれらの暴れる魂を、仕舞って纏め上げる器を造るのだ。ゲイリーを入れれば多少は違うだろう、あやつはたくさん殺した。大きなことを起こした。これまでで最も期待できる殻になるだろう」


 マーロックの声に、かすかに感情が篭ったのだ。


「忌々しい〝契命イグノラム〟の呪文めが。我らはなんとしても、陛下の身体を取り戻すぞ」




◆◇◆




 戦いの終わった瓦礫に西日が降りてくる。隊長はまだ残っている壁とも言えない工場の壁に背を預けて、ただ庭番の動きを腕を組んで漫然と見ていた。

 銀髪の大男は、道路を埋める鉄板の屑をしゃがんで持ち上げては覗き込み、また移動して。また下を覗いて。


 明らかに、何かを探しているようで。

 やがて諦めたのか、へたりと地面に膝を付く。


 隊長がガリックのそばに歩いて。

「何が見つからない? 何をなくしたガリック」

「——いなくなった」「なに?」


 仰ぎ見るガリックが、まるで子供のような泣き顔だから。

 怪訝な顔で眉根を寄せる。

「どうしたんだ、おまえ?」


「お、お、俺が、あかんぼうで」

「なんだと?」


 必死な顔で訴えるように。


「あかんぼうで。俺が、なにも、わからなかったから。食べるのも、食べさせてくれて。むしをとって、くだものをとって。歩かせて、はしらせてくれた。教えてくれた」


「……赤ん坊の頃の話か?」

 ガリックが、ふるふると首を振って。


「右手が、とれた。……俺は、そのとき、生まれた、ばかりで。かたてで、なにも、わからなくて。しらなくて。できなくて。でも、あいつらが、いっしょだったから。たすけてくれたから。生きていられた」


 隊長は、じっと聞くだけで。瓦礫が風にかたかたと鳴く。


「森で、ねているときも、あいつらが、くるんでくれて。さみしく、なかった。怖く、なかった。ずっと、いっしょに、いたのに。アルトに、拾われてからも、あいつらは、ずっと。いっしょに、いてくれたのに」


 庭番が涙を流して。隊長は一言だけ。

「その〝あいつら〟は、どこにいたんだ?」


 ガリックが胸を。心臓の上を義手でどん、と叩いて。


「ここにいた。ここに。いっぱい、いたんだ。みんな、いなくなった。きえてしまった。俺は、おれは、ひとりぼっちだ……わあ、あああ、ああああああ」


 ついに大男は声をあげて泣き出してしまった。わあわあと子供のように泣きじゃくるガリックに、隊長が顎に手を当てて思い起こす。

 あの影は、なんだったのだろう?

 確かに見たのだ。蛇と骸骨が戦っている最中に流れ込んできた乳白の魔光を浴びたガリックの体から、いくつもの……


 まずい、頭が軋む。

 少し首を振って。

 

「——おまえは独りぼっちじゃない、ガリック。子供らが待っているだろ? ずいぶん言葉も達者になったじゃないか。きっと、みんな驚くぞ。帰ろう、もうここに用はないはずだ」


 隊長が大男を引き上げる、まだぐずぐずと泣くガリックが立ち上がって鼻を啜り、そして。


 宣言する。

「俺は、いかなくちゃ」

「行く? どこに?」


「俺を、さがしに。おれは、おれだけど、おれじゃない。こ、こ、ここの」

 ガリックがまた心臓を、今度は左手の指で突きながら。

「ここにいた、俺は、つれていかれた。俺は、なにも、しらない。わからない。おぼえていない。もっていかれた。ぜんぶ、いっしょに」


「——お前、昔、剣士だったんじゃないのか?」

 ガリックが。その問いに首を振る。

「おぼえてるのは、ちょっとだけ。てが、おぼえてただけ」

 

 じっと考える隊長が。


「お前は、お前を、探しに行きたい。そういうことか?」


 ガリックが頷いて。また新しい涙が頬を伝う。

 似ている。隊長が思った。この男は自分と似ている。自らが何者か、知らないのだ。微かに首を頷かせる隊長が、ガリックの左腕を軽くはたく。


 インダストリアの、鉄の戦野に西日が降りる。



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