第百十六話 背中の楔

 中央階段から続くホールに崩れ落ちた、天井から半分ほどの壁の周囲にごおごおと白く濁る埃が漂っている。

 その巨大な砕片さいへんが。震えた。そして少しずつ浮いて。持ち上げられていく。壁の下では伏せた老議員が皺だらけの目を見開いて呆然と。


「ぐっ……ぎ、ぎ、この……早く」

 こめかみに血管を浮かばせたラウザが髪を振り乱して、両肩に乗った馬鹿みたいにでかい壁石を扛重機ジャッキのように、徐々に。


「早く出なさいッ!」


 貴婦人の叱咤に四つん這いのまま慌ててフォートワーズが抜け出した、次の瞬間。ぐおっと一気に壁の質量が持ち上がったと同時に、副議長が隙間から跳び退いてきたのだ。

「うおおおッ」

 老議員が叫ぶ。再び壁が床に落ちた。衝撃で揺れるフロアに塵が舞う。

 ごほっと咳をしたフォートワーズの横で。立ち上がった埃まみれの副議長は、何とも言えない複雑な表情で老議員を見下ろしている。


「ラ、ラウザ、あんた一体——」


「鍛えてるのよ。悪い?」

「い、いや」「ふん」


 貴婦人は乱れた髪をばっと左右に振って天井を見上げる。

 やってしまった。まいった。仕方がなかったのか? 曲げた口からため息を吐く。




 車から素早く飛び下がったレベッカは、しかし。それは何だと聞きながらも知っているのだ。

 あれはおそらく魔石だ。その中で最も忌まわしい〝幻蟲を封じた石〟だ。


 だらだら鼻血を流しながらボンネットに顎を食い込ませたダニエルの、震える両手がひたいを押さえようとして宙に浮いたまま、なすすべもなく。

 眉間からコンマ数リーム上に深々と——手応えはあまりに呆気なかった。人の身体で最も硬いはずの前頭蓋に、ずるりとなんなく滑るように突き刺さったのだ——埋まった石の跡から、紫の根を張るように毛細が顔全体に広がっている。


「なんて……ことを、きさまッ……ぎええああ」

 皮膚の中で根が動いている。顔を覆ったそれは髪の内側まで侵襲して時折ずりっと糸のような触覚が耳の側から数本突き出し、また体内に消えた。


 哀れみの眼差しでレベッカが吐き捨てる。

「そんなもので、私に何をするつもりだった? 評議員」


「うるさい! うる、さい! ……は、早く、命令を」

「なんだと?」「命じろッ!」

 歯の折れた口を歪めたダニエルが叫ぶ。


「貴様が刺した! 〝こいつ〟は貴様の言うことしか聞かないッ! 命じろ! 収まれと言えッ!……ぐああああ」


 ドーベルマンの鼻先が斜めに下がる。フードの奥の目が冷たく光っている。ボンネットの議員が懇願する口調に変わって。


「なあ。頼む。収まれと。一言でいいんだ。それだけで」

「——獣を殺したことは?」


 ダニエルが固まった。

 レベッカが続ける。


「ずいぶん躊躇のない動きだったな、評議員。獣を蟲で殺したことは? あるのか?」


 いまだ皮膚の中でびくびくと蠢く毛細の侵襲を忘れたかのように。血だらけの奥歯をかすかに鳴らせるダニエルが黙ってドーベルマンの女を見据えて。

 レベッカの鼻先はさらに斜めを向いて。ひくりと動いた。


「——もういい。臭いでわかる」

「ふッ! ふざっけんなこの獣風情がアッ!」


 外套から評議員の顔面を指差して。

「同じことをされてしまえ! そのようにせよ! そして幻界へ帰れッ!」

 彼女の宣言が終わると同時に。

 

 ダニエルの顔全体からばりいっ。とまるで蟹のように節くれた脚が皮膚を突き破って放射状に広がった。それらが内側に爪を曲げた途端、顔を潰すかのように。


 レベッカは最後まで見ない。

 踵を返して駐車場を歩み去る彼女の後ろから、ばきばきと硬い何かが潰れる音に混ざって、断末魔の悲鳴がコンクリ様の地下に響き渡った。





 海への風が吹くぼろぼろの工業地帯にまるで化石の様に横たわる骸骨の横を、緩やかにウォーダーが高度をあげていく。もはや動かない骨の怪物に薄日が差して、表面からさらさらと風化した白い粉が散っている。


 緑色に光る基底盤が横に上がっていく。格納庫からロックバイクで発進したアキラが空から激戦の跡を見下ろせば、もはや沈黙したがらくたの山のそばでうずくまる巨大な幻蟲の胎児はがしゃ、がしゃと鎌の腕を突き立てて微かに鳴いているようだ。

 

(……いない。確かに見えたんだけど)

=いくつかの光点はあちこちに伺える。工業地帯の生き残りだろう=


 声にアキラが頷いて、進む蛇から距離を取る。ケリーに呼ばれたのは第十七地区の朽ちた塔だ、首謀者が重傷らしいのだ。北へとバイクを飛ばしていく。


 微速で幻蟲の真上まで移動したウォーダーが、殴り合いでひび割れた結晶の翼をゆっくりと開けば、ぎ、ぎ、ぎと軋む音がして最後に、右羽根の根元に刺さっていた高速弾の配管が自重でばぎいっと抜け落ち、蟲の傍へと落下した。


 蛇が軽く鳴く。その胸部、主砲群下のバンパー射出口から、地上の蟲へと向かって四つ。どおっ。と白煙が噴いた。

「うおっ?」「えっ?」

 中で獣の面々が声を出す。


 誰からもなんの指示もなく撃ち出された平べったい魔導線の先が。粘体のように柔らかな網となって幻蟲全体を包み込むのだ。


 蟲を係留したままの蛇が、さらに高度をあげる。

 埋もれた瓦礫をばらばらと落としながら、しかし蟲の胎児は何の抵抗もしない。両腕の鎌と長い口吻を垂らしたまま、なすがままに空へと持ち上げられていく。


 ウォーダーが南へと進み出した。海へと。

 自動で動く操縦桿から、ミネアがそっと両手を離す。

 背中に一本だけ楔を残して、蟲が海洋へと運ばれていく。



 動き出した蛇の機体を、工場の瓦礫に姿を潜めて見上げる二人がいた。隊長がガリックに声をかける。


「——なぜ隠れる必要がある、ガリック?」


 その問いには答えず、また言葉を忘れたかのように。

 庭番は銀髪を数度、ただ横に振っただけである。





 ロックバイクを自動で滞空させたまま、計器が破壊された足場の悪い部屋にケリーと老人が踏み入れて、壁に背をつけ足を投げ出したクロウへと近づいていく。ノーマとガラの二つの機体は、近くの空に浮いたまま待機している。


 狼が見る。この男だったはずだ。しかし確かに着ていた漆黒の魔導衣がなくなっている。背広なのだ。

 身体の周辺にわずかに黒い煙がまとわりついているその男は、だが鼻と口から赤黒い血を垂らしてはっはっと息を吐く様は、昔ケリーが対峙したような狂気じみた魔術師に見えない。


 。まるでどこにでもいる普通の——


「おまえらが、とめたのか?」

「なに?」

「おまえら、が、〝蛇〟か?」


「……あんた、ゲイリー=クローブウェルか? バーヴィン=ギブスンの娘を誘拐した犯人か?」


 ケリーの問いに、男がふ、ふ、と口元を緩めた。

 外からロックバイクの駆動音が聞こえる。アキラが到着したのだ。少し振り返るとノーマに軽く頭を下げた彼が大穴の端までバイクを寄せてきたのが見えた。


 狼が軽く手を挙げる。

「こっちだアキラ」「はい」


 おぼつかなげにバイクから部屋へと飛び移ったアキラが、がらがらに壊れた室内を見回しながら歩いてきた。もう一度ケリーが手で止めて。

「ゆっくりだ。気をつけろ」「は、はい」


 アキラが見るその男は、ばさばさの髪に落ち窪んだ目が虚ろな、年齢がわからない相手で、まさに生命の灯が揺らいでいるのだろうか、鼻と口から垂れる固まった血の跡の上を重ねて、新しい血が流れ落ちていくのがわかる。

 

 ケリーの横を抜け数歩先まで近づいて、ふわっと左目をコバルト色に輝かせて。アキラが立膝になって男の全身を伺う。狼の隣に立つ小柄な老人は、このまだらの銀髪を伸ばした青年に、いぶかしげな視線を送っている。


 壁に寄りかかる男の背広に青い走査線が走った。ゆっくりと上下するその線を、クロウも気づいているのだろうか、うつむく顔がわずかに動いて。消えいるような声で。


「……おまえ、医師、か」「え?」

「魔導を、つかうのか?」

「ええ。じっとしててください、動かないで」


「そうか……魔導師か」


 それだけ言って男が沈黙する。痩せた頬にいくらか、内出血の痣が伺える。


=アキラ。この男、播種性血管内凝固症候群D I Cだ=


(〝DIC〟? ……じゃあ、敗血症? なにかの感染症なの?)

 アキラがこめかみに手を当てる。その揺れる左目の光を、瀕死の男がぼんやりと瞳で追っている。


=敗血症とも違うようだ。原因が不明で急性のものかは判断できないが、末期だ。内臓のあちこちで壊死が起きている。どうするのだアキラ、この男を救うのか?=


「できるの?」アキラの口元が動く。


=わからない。元素星エレメントの変位だけでは臓器細胞の再構成は無理だ、輸液も要る。もう手遅れかもしれない=


「なぜ俺を助ける」「——え?」

「大勢、殺した。なぜ助ける」


「あんたには聞きたいことが山ほどある。その後はきっちり裁きを受けるんだな。死ぬなりなんなり、勝手にすればいいさ」


 アキラの後ろからケリーが言う、が。やはり。狼の鼻の皺が消えない。この男からからだ。口から力なく吐く息が、途切れとぎれに言葉を紡ぐだけなのだ。


「——ずっと、旅を、してたかのようだ」


 その言葉に。アキラの視線が止まった。

 男の唇が震えている。


「足で、歩いた、旅じゃない……流されていただけだ。どこに、行き着くかも、わからないまま……終わりも、なかった。働く、場所も、金も……仕事も。なにもかも、胡散臭くて、嘘臭くて、まるで……どぶ川のようだ。沈んだら、二度と。浮き上がれない、どぶ川を、ただ。……顔をあげて、必死に。必死に。息をして。流されているような、そんな」


 男の目には、囲む彼らと大穴の向こうに、無惨に破壊された工業地帯と遠い水平線が映る。


「どこに、自分が、向かっているかも、わからない。川だ。俺は、ずっと、どぶ川の中にいた。いつだって、誰か、他のものに」

 僅かに男が髪を振って。

「命と、人生を、わしづかみにされて、生きていたようだ」


 彼の言葉に何を思ったのだろうか、アキラが繋ぐ。

「それで、こんなこと始めたんですか?」

「吹っ飛ばして、しまおうか、と、思ってな」

 男の視線が青年に戻る。クロウを上目で見るアキラは少し、悲しげで、しかし怒っているかのようで。


「そんな川なら、さっさと出たらよかったのに」


 男は顰めた眉のまま、口の端が少し上がって。苦しげに笑う。また鼻から血が流れる。肩が震え、腹が震えて。痛そうに可笑しそうに。


「——どうやって、出たら、よかったんだ?」

 クロウの口が少し開いた。歯の根も赤く出血を起こして。


「わかるか? 魔導を、あつかう、おまえのような、やつに。獣がいて、魔導師が、いて、魔力マナがすべてで。……こんな。特別なやつらが、うろついてる世界で。どうやって。特別でもない俺が、どぶ川から、出られるんだ? ただ、生きるのさえ、必死なのに。どうすれば良かった?」


 から。


 あまりに自然に持ち上がったクロウの右手に握られていた拳銃を、ケリーはなにが起こったかわからずに見ていただけで。


「ふっとばさなきゃ。ずっと、俺は、変わらないじゃないか」


=アキラ!=


 その時。なぜそこまで恐怖を感じなかったのかアキラ自身にもわからない。ただ後ろからはっと緊張した狼の気配に左手を少しあげて制して。


 男が尋ねる。

「おまえに、これは効くのか、効かないのか? なあ」

 心臓にまっすぐ向けられた銃口に、アキラが目を落として。


「すみません。おそらく、効きません」


 銃身が細かく震える。男が、確かに笑った。

「みろ、そうだろ、そんなもんだ」

「——俺だって、あなたと同じです」


 アキラの言葉に、男の笑いが口を開けたまま止まる。


「旅をしてます。俺もこの世界のことを、なにも知らない。わからない。どこに行き着くのかも知らない。どこかの誰かに、自分をわしづかみにされて、連れてこられただけです。なにもない砂漠の真ん中に、落とされただけです」


 銃口を胸に突きつけられながら、アキラが男に話す。飛びかかる隙を伺っていたはずのケリーは少し、身構えていた身体を起こした。


「あなたと同じだ。自分の足で歩いた旅じゃないんだ。ひょっとしたら、同じようにただ流れに流されているだけかもしれない。——ずっと、夢の中にいるみたいです」


「〝ゆめ〟? ゆめとは、なんだ」

「〝まぼろし〟です」


 まぼろし、と、男の唇が動いたような気がして。


「でも俺にとって、この世界はどぶ川なんかじゃない。もしあなたが、この世界をどぶ川と感じているなら」

 アキラが言う。

「それはきっと、あなたが。つらい生き方をしてきた、せいなんじゃないですか?」

「俺の、せいだと、言いたいのか?」


「たとえ幻でも、俺は、この世界が好きです」

 アキラの言葉に。

 わずかにクロウの目が見開かれて。


「あなたは、どうなんですか?」


 遠くに竜脈から流れ込んだ魔力が、午後の日を浴びて葉脈のように、ところどころが反射して眩しい。

 やや厚ぼったい雲から陽の差す海へ、蛇が飛んでいくのが見える。水平線に続く海面に影と光が編み上がって暗く、明るく輝いて。

 

 そんなはずじゃ、なかった。

 太陽は卑怯だ。

 このどうしようもない街が、こんなに宝石のように。いや。


「ああ……一度だけ」「え?」

「一度だけ、あったなあ」


 クロウの眉間が歪む。


——「だって、いつだって。マリー見てる。ゲイリー」


  「ずっとマリー見てる。そうでしょ?」


  「あたしだって。隣にいるのに」——


 それまで無機質だった顔が叱られた少年のように歪んで、首が細かく震えて。ひきつる頬の上からつうと一筋の涙がこぼれて。


「……サラ、アリア」

 

 それもまたすっと自然に動いた男の腕に、アキラが身構えて。しかし。

「ずっと、一緒にいたかった」


 撃鉄が打ち下ろされて硝煙とともに、ゲイリー=クローブウェルが自らのこめかみを撃ち抜いたのだ。





 もうずいぶんと海へ出た蛇の管制室で。

 深く椅子に座って右手で頭を押さえるエイモス医師の前に。虎がしゃがんで視線を合わせる。


「バーヴィン=ギブスン。あんたと、ゲイリー=クローブウェルは、どんな関係だ」


 医師がかすかに顔を上げて。

「なんてこたあ、ないさ。幼馴染だ」

「幼馴染に、蟲にされたのか?」


「俺はそれだけのことをしちまった……だから面倒も見たし、仕事も誘ったんだけどなあ。だめだ、消えねえものは消えねえ。取り返しのつかねえことを、しちまったんだ……でもなあ」

「でも、なんだ?」

「あいつら本気で惚れ合ってたと思うんだ、俺は」


 軽く首を振るエイモスに。だんだんと、虎の口が半開きで牙が見えて。抜けたような息を軽く吐いて。

「——なんだそりゃあギブスン。色ごとの末でやらかしたのか、こんなでたらめを?」

「惚れた相手が絡めば、もうそれが全部だろ? そんなもんじゃねえのか?」


「何があったか知らねえが、笑い話にしちまえば、よかったんだ。なんのために歳とっていくんだ俺らは」


 く、くと。エイモスが笑って。


「歳とったって抜けねえ楔のひとつふたつ、あるさ虎の艦長。今はその楔に助けられたくせに、よく言うぜ」

「それは、そうだな」「なあ」

「なんだギブスン」


「あんたもさ、イース。虎の艦長。抱えた背中の楔、早めになんとかしねえと俺みたいになるぜ」


 虎が。僅かに視線を下げて振り向くこともせずに、気配だけ伺う。ミネアは、聞こえているのだろうか? スピーカーからダニーの声が響く。

『ウォーダーが、停止しました。インダストリア湾岸から4200リーム洋上です』


 エイモスの顔が虎を見た。


「イース。魔石も、獣も、蟲も。ファガンから流れてくる。西の狂い姫じゃねえ。東からだ。エメラネウス山脈の向こうだ」

「——わかった、ケリはつける」


「俺のことは、娘には言わないでくれ」


 虎が口を閉じて数度頷き、医師の肩をぱんぱんと叩いて。立ち上がる。エイモスが目を隠すように右手を当てたまま背もたれに深く身体を預けた。


 蛇の胸下部に繋がる四本の魔導線が、ぼっ。と。同時に接続部から白煙を吐いて。


『幻蟲が降下します』

「ミネア。反転。退避だ」「了解」


 切り離された巨大な蟲はまるで雛のように丸まって、まっすぐ水面へと落下していく。蛇は小さく弧を描いて旋回し、だんだんとその速度をあげて。

 縦に高く、高く。水飛沫があがった。四本の魔導線も引っ張られるまま水面下へと沈んでいく。


 虎が腕輪に声を出す。

「ケリー。ノーマ。爆風がくる。衝撃に備えろ」

 椅子のエイモスは目を押さえたまま。


——もっと。ブランコ漕いで。


  もういいじゃないか。お昼にするぞエリナ——


 暗い水面を、蟲が沈んでいく。仰向けでゆらゆら揺れる口吻が水面に向かって微かに泡を吐く。その単眼が徐々に閉じていく。


——ねえパパ。どうして誰もお見舞いに来ないの?


  ママには、お友達いないの?——


 上下に閉じる蟲の瞼から。海の水ではない何かが浮かんで、溶けて散って。

 管制室のエイモスが微かに首を振る。手の隙間から、涙が流れた。

 蛇が臨海域へと帰っていく。



 立て膝のまま呆然と。崩れ落ちたクロウの死体を前に言葉も出ないアキラを後ろから抱いてケリーが腕輪に話して、外へと吠える。


「対処します。——ノーマ! おっさん! 衝撃波がくる! 俺とアキラのバイクを同期できるか? さあ、立つんだアキラ」

「バイク同士の連結くらいじゃどうにもならねえぜ旦那ッ! せめて乗ってくれ!」


 震えるアキラが、ぐうっと。歯を鳴らして。食いしばったままで。

 ケリーが引き上げようとするが、重い。動かない。片腕とはいえ獣の力で引き上げているのに、こいつはこんな怪力だっただろうか?

「立てッアキラ! お前のせいじゃないッ!」


 

——マリー。こいつゲイリー。俺の昔っからの親友だぜ——



 閉じ切った単眼を、今一度大きく見開いて。

 沈みゆく幻蟲が思い切り両腕の鎌を引き絞って。

 ばん! と丸まった背中から。


 最後の楔が抜けた。


 海面に数十リームを越える水球が噴き上がる。

 同時にその周囲に円を描いた波が。

 空の雲が吹き飛んで。空気が歪む。


 衝撃波が。全速で飛ぶ蛇を追って。


「うわあああああッ!」


 叫んだアキラが身体を翻して狼の腕を振り払い、強烈に輝く左目の光が軌跡を描いて。大きく開いた左手を海に向かって。ケリーとノーマは。一瞬だけ。何かの〝圧〟が目の前を突き抜けた気がした。


 蛇の後ろの海上で。

 傘のように開いた巨大な空圧の壁が浮かぶ。

 海が縦に弾けた。


 凄まじい爆発音と衝撃が、その大きな大きな傘で臨海域と洋上とを隔絶した透明な壁に衝突し、まっすぐ高層ビルの高さほどに海水面が噴き上がって水と泡とで空が白く染まる。

 

 衝撃波が断面を成して、インダストリアの海に立ち上がる。

 

 猛爆の起こった海からキノコ雲が登っていく。追いやられた雲の穴を通り抜けて、膨れて伸びた爆煙がはるか上空まで達した後に、だんだんと。


 形を崩して消えていく。


『——衝撃が、遮断されました。何が起こったのかは不明です』


 ダニーの声に。虎が、エイモス医師の椅子を振り返る。

 深く背中を預けたエイモスは、右手で顔を覆ったまま、何も言わない。



 はっ、はっ、はっ、はっ、と。息を荒らしたアキラの肩が少しずつ収まって、かわりに聞こえてくるのは。

「ちきしょう……ちき、しょう……」

 今にも泣きそうで、叫びそうな青年の呟きだ。横からケリーが、まだ微かに上下するその背中を軽く叩いて撫でてやる。


 傭兵ガラは馬鹿みたいにあんぐりと口を開けて、海で噴き上がった巨大な光の傘が消えていくのをただ漫然と眺めているだけで。その顔のまま首を前に戻せば、側に浮いたモノローラのシートから。


「彼のコト、よそで喋ったら殺すわよ」


 美しい金髪の狐は、その髪をそよがせたまま睨んでいる。

 それもまた馬鹿のように。ガラがこくこくと縦に頷くのだった。





 猛烈な爆発とキノコ雲は、首都のあちこちからも観測された。


 水路の将軍へも連絡が入る。工業地帯空域の班が目視していた。蛇と怪物との戦いは、怪物の討伐で終息したとのことであった。将軍と白髪の少年が、互いに顔を見合わせた。


 がらがらにひびの入った中央行政塔の中階層からは、海上に湧き上がった巨大な水飛沫も見えた。副議長が遠い臨海域に目をやる。きっと、彼らはうまくやったのだろう。奥の階段から、息も切らさずにレベッカが走り寄ってきた。



 バルフォントの執務室では、凄まじい揺れで机の下に潜らされた娘と孫が恐るおそる出てきた。老人は上等なテーブルに片手をついたまま、バルコニーの向こうの海を見ているだけだ。


「……お父様?」

「もう出かける必要は、なくなったようだ」


 苦い顔をしてディボが言い捨てた。あの爆発音とキノコ雲は、おそらく。なにかしらの決着がついたあかしだ。


 何かが終わったのだ。終わった場所には、逆に居なければいけない。機を逃さず目敏めざとくしていなければならない。何が得を産み、何が降り掛かり、何が暴かれるのか。目敏くして立ち回らなければ、いけないからだ。


 だがきっと。自分にとって良いことではないはずだ。

 あの二人の姿が消えたのだから。


「なんでも起こるがいい。わしはそうそう、くたばらんぞ」

 忌々しそうにバルフォントが、立ち上る爆煙に呟いた。





『蛇、南インダストリア四十番地区上空を通過。微速で北へと移動中。第四突撃艦ハンマーより搬出機カーゴ接近させます。国軍兵と人質を回収します』


 開け放たれて空の風が吹き込む格納庫で、リリィが国軍の通信を聞いて呆れ顔だ。


「人質ってひどくない? 救出したのよねえアタシたちは」

「ホントですね、すみません」


 なぜだか兵士ダリルが掻いた頭を下げるので。にひひっと笑ったウサギがその肩をぺしぺしと叩く。獣たちのやりとりを恐々こわごわと、しかし微笑んで見ているエリナの赤毛を揺らすのは、徐々に近づいてくるアルター国軍の搬出機カーゴだ。

 空を飛ぶ幌なしトラックのような形状の荷台に、数人の兵士が乗って運転席に向かって「3、2、よーし、いやちょっと待て」と声を出しながら、腕輪に言う。


『無限機動ウォーダー。もう少し減速してくれ』



「了解だ。——ミネア、減速だ……?」

 虎が言うが、見返す操縦席のミネアが何も掴んでいない両手をすくめた。相変わらずその操縦桿は、ひとりでに動いているのだ。レオンも怪訝な顔をする。虎がもう一度、今度は艦内に向かって。


「ダニー。ウォーダーはどこに向かっている?」

『北です。北北東に』「なんだと?」


 臨海を抜けた市街地上空には、いまだに純白の光の帯が顕現したままなのだ。モニタを見て、ミネアと目があった虎が。また腕輪のスイッチを切り替えて。


「リリィ、兵士とギブスンの娘は、まだそこにいるのか?」

『あいあい』

「聞け。娘は副議長に保護してもらえ。二人とも今すぐウォーダーから降ろすんだ。ケリー、ノーマ、アキラ。こっちに戻れ。急げ!」


『了解よ。どうしたの艦長?』

「ウォーダーが竜脈移動ドライブに入ろうとしている」

『え?』

「理由はわからねえ。すぐ搭乗しろ!」


 その瞬間。どおっ! と。

 並んで飛んでいた搬出機の兵士たちが「わあっ!」と仰天して伏せる。

 蛇が先端の黒々とした障壁発生塊の下から。二本の平べったい魔光を撃ち放ったからだ。


 ダニーが叫んだ。

魔導錨アンカー射出されました!』

 虎がモニタを睨む。竜脈へと滑らかな魔導の線が飛んでいく。



 二本の魔導錨アンカーは昼過ぎの空を走る線路のようだ。水路の国軍兵たちも空を指差してざわめいて。将軍ファイルダーが腕輪に吠えた。

「おい! どういうことだ虎の艦長ッ! てめえッこんだけの騒ぎ起こしておきながら挨拶もなしかッ!」

『すまねえ。また連絡する』

「ふざっけんなッ!」


 中央塔の副議長も空を走る魔導の線を呆然と見て。

「イース。あなた、どういうことなの? どこに行くの?」


 並列で飛ぶ魔光がきれいにカーブを描いて竜脈に並走し、やがて。その中心に突き刺さって。爆発とともに青白い炎が逆流して。


 その時だったのだ。


【ウォーダーッ! みんなッ! 助けて! 街がッ!】


 はちきれんばかりに虎の瞳孔が丸くなる。

 虎だけではない。獣たちにも。子供たちにも。その映像が。


 血塗ちまみれで倒れ伏すグレイが。ブロが。ボッシュが。かろうじて立つのは小さな身体だ。導師フォレストンだ。焼け焦げた大地に。血を流した少年が歯を食いしばって立っている。


 ウルファンドが燃えている。

 そしてこの声は。


「……カーナ?」と呟いたミネアに。


「ミネア! 全速前進ッ! 竜脈移動ドライブ準備ッ!」

「了解! 基底浮動接続面フロートコネクティング圧力上昇!」

『圧力上昇ッ! 姿勢安定。速度300ッ! 風防障壁ドラフトバリア展開ッ!』

『艦長ッ!』「なんだリッキー!」


 主砲車両で赤青の子猫らが必死にかんを操作しながら。

「翼が動かないッ!」『何?』

「ウォーダーの翼が竜脈移動ドライブモードに入らないんだッ!」



 その映像は、いったいどこまで流れたのだろうか? 格納庫でダリルとリリィが頭を押さえて。え? え? と戸惑うエリナの横でダリルがウサギに向き直って。

「リリィさん」「降りて」

「え?」「早く! この子を抱いて。飛び乗って」

「で、でもウルファンドが」


「早くしろッ!」


 ウサギの叫びに小柄なダリルが細かく頷き、軽々とその身にエリナを抱き上げて。

「きゃあっ!」「1、2、……3!」

 ぶわあっと格納庫から隣の搬送車に飛び乗った。ごろっと転がる二人を荷台の兵士が押さえて。すぐに立ち上がって端に駆け寄った犬の兵士に向かって。


 リリィが手すりに掴まったまま。

「また、会えるかもね」「リリィさんッ!」


 蛇が速度を上げていく。国軍機から離れて、二本の線路に沿って空を滑空するウォーダーの大きく開いた翼の後ろから。

 右翼と、左翼に、それぞれ三つの光が発して。ごおっと大気に陽炎が浮かんだ。



 その映像は、縁あるものに届いていたのか。 

「お、狼の旦那ッ! 今のはウルファンドの——」

「わかってる!」

「ケリーッ! アキラ! 急いで!」

 一気に駆け出してバイクに飛び乗った彼らの頭上を、ウォーダーの基底盤が輝いて通り過ぎて行った。


=アキラ。蛇は推進機能を使うつもりだ=

「え? 推進……なに?」


=ジェットエンジンだ。数日かけた航路を数時間で飛ぶつもりだ=


 声にアキラの顔色が変わる。ロックバイクを一気に上昇させるアキラに、ケリーとノーマも後を追って。腕輪に狼が声を飛ばす。

「三人乗れるか? 悪いな」

『構わんでええぞ、急ぎじゃろ』

 どうやらリアの端に足掛けで青果屋の爺さんは乗れたらしい。ガラたちのバイクも壊れた塔からゆっくりと離れていくのが見えた。


「導師の手当は頼む」

『了解だ旦那。この国にゃ魔法医師がいる。なんとかならあ。俺らの手が必要ならいつでも呼んでくれ! どの町からでも構わねえ!』

 答える代わりにケリーがぴっと指を振った。三機が思い切り加速して蛇を追う。


『竜脈搭乗、30秒前』


 猛烈な暑さに三人が一斉に障壁を張って。狼と狐が、ウォーダーの翼に生じた高エネルギーでゆっくり回転する噴射口に目を見張って。

 リリィが大声で叫んだ。「こっち! 早く!」


『竜脈搭乗、20秒前』


 まるで金庫の鍵が開くように、内側からがん! がん! がん! と。捻られた魔力の円盤がいよいよ陽炎を強くして。

 アキラが飛び乗る。格納庫にバイクをスライドさせる。続けてケリーが。最後にノーマのモノローラが勢いよく旋回して横滑りして。アキラが腕輪にすかさず声を張って。


「このまま飛んでくださいミネアさんッ!」

『竜脈搭乗、10、9、8、7——』


 響いたのは虎の声だ。

全員オールッ!』

全員オールッ! 着艦しましたッ!」

 

 ミネアが操縦桿を引き絞る。


「無限機動ウォーダー! 発進ッ!」


 山岳を超えて西へ続く光の道に、無限機動が滑り込んでいく。




◆◇◆




 帝国の小型無限機動「ベスパー」が四人の搭乗員を乗せて、ウルファンド大断層から続く広大な隆起の大地をゆっくりと飛んでいく。

 後部座席で腕組みをするイングリッド=ファイアストンが運転席の二人に声をかけた。


「すまんな、付き合わせて。しかし隊長のおまえらが出張ってきて、構わなかったのか?」


「いいんですってえ、どうせあたしらがいなくたって飛ぶときゃ飛ぶんですから、なあ十一ひといちっ」

 でかい胸を震わせて辺境第十三隊長デイジー=ギャレットが、運転する小柄な第十一隊長の肩をばんと叩いた。


「痛てッ。ま、まあ。蛇の連中にも会ってみたいってのも本音ですけど。でも突撃艦ハンマー出してもよかったんじゃ?」

「あんな大食いは要らん、魔力が保たない。遠方探索なら小型無限機動こいつが最適だ。……あとどれくらいだ?」


「数時間てとこです。ソフィア様は大丈夫ですか?」


 気をまわす十一隊長の言葉に、イングリッドが傍に座るソフィアへ右目を向ける。元クレセントの少女は何も言わずに杖を抱えたままだ。少しため息を吐いたイングリッドが、その髪を撫でながら。


「そんなに心配するな……でも、本当なのか? 気のせいじゃなくて」


 少女がゆっくり首を振る。

 間違いないのだ。彼女には感覚でわかる。


 竜脈召喚呪文。ノエル二番〝声律トーラ〟。


 彼女の銘が打たれたその呪文を、断りなく使ったものがいる。

 ウルファンドの街に。

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