第百十四話 まさかの空に吹く風は


 帝国のロックバイクに跨ったまま。猛爆に晒されてなお河原を埋め尽くす黒い甲羅の大群を見据えた少年が、小さな胸を張る。

「蟲を川まで追いやります。立て直してください」

「なんだと?」「行きます」


 がり、と。左右の拳を握りしめ眉間に構えて、両肘を開いて腕全体で。さながら開き扉をこじ開けるかの如く。

 その時。将軍は最初、耳鳴りかと思った。蟲の地鳴りと後方からの砲撃で、一帯が轟音渦巻くはずのその場所で。ぴんと確かに張り詰める気配を感じたからだ。


 アルトムンドの微かな声が。

水星ハイドラ大地星タイタニア。〝霜鋒ルテオラ〟」


 地から凍った白の樹々を噴き上げた。

 一斉に白煙が立ち昇り、爆発は河を西から東へ。


 数キロに渡る巨大水路の河川敷、二本の架橋に挟まる上手より下流まで。一直線にどどどおッ! と噴いた魔氷まひょうの樹は、貫いた蠍たちを粉々にして舞い上げる。


「うおおおおッ!」

 仰天して跳び退がる国軍機モノローラの眼前で二撃、三撃と。枝が噴き出す。黒い群を砕いていく。吹き飛んで千切れた鎌が、ばらけた甲殻が、無数の蟲の欠片が。血のような液を弾かせ飛び散った。

 

 すかさず二声。少年が腕を大きく広げる。

火星イグニスッ。〝狩焔鬼カムラギ〟」


 ごおっ! と。突撃隊の剣と盾が真っ赤に焼ける。面食らって身を反った兵士たちのヘルメットに一斉に。

『その熱気は、蟲の復活を阻止します』


 声を通した彼の前に、氷樹を抜けた蠍たちが飛びかかって。

 突進したのは将軍だ。「ぬうらッ!」


 一閃。立ち上がったモノローラのカウル越しに大剣を逆袈裟斬りに切り上げた。赤い創が蟲の腹にざくりと広がって飴のように引き千切る。


 後ろを振り返って。

「——付与エンチャントか? なんなんだお前?」

「味方、とだけ」

「得体が知れねえ。見かけ通りの歳じゃねえな」


 問いに少年はくりんと悪気のない瞳で白髪を傾げ肩を竦める。考えるのが馬鹿らしくなった将軍が腕輪に吠えた。

「よおしッ機を逃すな! 全機、突撃ッ!」


 おおおおおっと喊声かんせい響いた河川敷にモノローラが砂塵を巻き上げる。低く飛ぶ騎兵たちが新たな蠍の群れに、果敢に斬りかかっていく。

 遠くで川から伸び上がったムカデの数体も、バンドランガーの砲撃で吹き飛ばされていく。ファイルダーの号令は止まない。

「押せえッ! 押し返せ! 街に入れるんじゃねえぞッ!」


 怒号の後ろで川向こうに意識を飛ばす少年の目に、無惨に破壊された工場の瓦礫からなお次々と湧いて溢れる蟲の群れが映る。

 奴らの単眼が皆、見開かれている。まるで襲ってくるというよりは、何かから一斉に逃げ出して街へと雪崩れ込んできているような——


 なびく白髪を抜けた風は北西から海へ。瞬間、南の空を見れば。青い波が極光のように漂っているのだ。


(あれは……聖竜紋エルドラゴニア?)


 疑問もまた一瞬であった。ぎゃああと吠えて伸び上がるムカデの一匹に、拳を握り狙いを定めて。「ふッ!」と気を飛ばす。砲撃のような透明の空圧が、高く伸びた蟲の胴体をどおッ! と貫く。





 巨大な髑髏は好戦的だ。これが三発目の頭突きに一歩も引かない。蛇の身体で最も頑強な黒兜の障壁発生塊を包む、青い半透明のたてがみに白く粘って張り付いた爆発性の魔力ごと。

「ううううりゃああッ!」

 ミネアの叫びに合わせて鎌首を突っ込むウォーダーに。骸骨は腕では防がず引いた頭をまともにがあん! と激突させた。


 爆発が起こる。両者のひたいと顔面で。

 互いが反り返る。空が痺れる。

 煙をなびかせ振り抜いた蛇の頭に、今や自由になった骸骨の右手が伸びた。素早く飛び退く。空振からぶる骨の手の後ろから弧を描いて。


 またしても鎖と楔が飛んできた。

「こ……のッ!」

 空を突き破って横切る分銅の軌跡を蛇が沈んで躱した。管制室のモニタに映る。赤い線。二秒。

「狙ってるミネアさん!」

「見えてるッ!」


 ぎゅんと体躯を捻る。山に爆炎が二発。生じた瞬間、地上の蟲どもが二カ所まとめて木っ端微塵に吹き飛んだのだ。時間差がない。操縦席で牙を食いしばるミネアが飛ばすのは冷や汗か。髑髏の周囲で光が六つ。円を描いて。


「こいつまたッ!」

「直射は撃つなッリザッ!」


 操作棹を押し込んだのはリザで咄嗟に叫んで止めたのは飛竜だ。反応したウォーダーは左の翼を斜めに切り上げた。「くッ!」と勢いが詰まった羽根の打撃が化け物の顎を打つ。


 下から殴られた骸骨が仰反る。周囲の光球が成長せずに四散した。だがすぐ。前のめりに勢いをつけて顎と牙を突き出すのだ、威嚇するように。そして首をがぎん、がぎんとひたすら前に振る。首輪が鳴る。これはきっと。


「こいつ。首の鎖も引き抜こうとしてやがる——三本が全部抜けたら本当に爆発するのか、ギブスン?」


 モニタを見据えた虎の目が軋み、エイモスを伺って問う。蒼ざめた医師は両手で顔を覆ったまま震えて細かく何度も頷いた。レオンもリリィも、それはアキラも。管制室の面々が虎と医師とを交互に見て。


 ミネアの牙が小さく鳴った。

 これでは攻めきれない。


=頑丈な敵だ。効いているように見えない。それに後ろの蟲に誘爆するなら下手な砲撃は危険だ=

(ゆ、誘爆って? どのくらい)


=20億ジュールが誘爆すればTNT換算6000トン近い爆発が起こる。小型戦術核に匹敵するだろう、この一帯が跡形もなく吹き飛ぶぞ=


 声の試算にアキラが愕然とする。管制室にロイの音声が響いた。


『あの蟲が爆弾ですと?』

「——聞こえたのかロイ?」

『はい。先生の声が。おそらく私以外にも』


『こちらも聞こえてます艦長』とダニーが返す。


 やはりだ。モニタの怪物から目を離さずに虎が思う。あの時と似ている。あの幻界の草原と。乗組員の意識と感覚が共有されているのだ。では、外には?

「ケリー。聞こえるか?」


 声を発するが返事はない。腕輪を口元にやって再度。

『ケリー。聞こえるか?』


『聞こえます。ひょっとして撃てないんですか? 火星イグニスの強い励起を感じます』

 届いた。やはり共有は蛇の中だけなのだ、外とは繋がっていない。虎が腕輪に続ける。


「そうだ。どうも奥の蟲がとんでもねえ魔力で励起してる。魔術師の目的は首都を吹っ飛ばすことらしい」

『ここでですか? 俺らはそこから北北西に1キロほどです。魔術師の拠点、十七番区画です。爆発させたら当の本人も巻き込まれますよ?』


 ケリーの声が管制室のスピーカーから響いた。モニタに映る骸骨を睨んだままの虎の口元だけが苦笑する。


「街の真ん中で爆発させる腹だろう。上手くいっちゃいねえな、骨のバケモンはこっちに気を取られて、しかも蟲が抵抗してる。——ケリー。笑えねえ話だ。その蟲がお探しの相手だったようだ」

『蟲が誰ですって?』

「ギブスンだ」『は?』


 今度は。虎の牙が薄く音を立てた。

 本当に笑い事じゃねえ、と。


「バーヴィン=ギブスンだ」

 その名を言った虎の脳裏に魔術師の意図が視えてくる。


 牽引車キャリアよろしくこの骸骨に、爆弾の蟲を引き摺らせて街へと向かわせるつもりだったのだ。大群が街になだれ込んでいるのも、超高速弾で国軍が牽制されているのも、怪物が街へと進む道を作っているのだ。


 魔術師は、それを見ているつもりだったのだ。

 観客のように。魔術の塔の特等席で。


「てめえが仕掛けた殺戮に酔いながら、か?」


 相変わらずモニタの向こうで、がきんがきんと顎を前後に振って首輪を鳴らしている骸骨は、まるで〝囚われた奴隷〟のようだ。肩を揺する。首輪が鳴る。折れた牙をがりがり噛んで。唸り、顎を引いて。また激しく首を振った。


 地に縛られた敵だ。幻界よりこの地に上半身だけ呼び出され、鎖で繋がれ、囚人のように蟲を引き連れ、進んで。

 自由になった途端に爆発に巻き込まれて吹っ飛ぶのか? それだけのために、これは異界より産み落とされたのか?


「——雑な狂気だ、だから魔術師は気に入らねえ」

『そうですな』

 声を吐いた瞬間にロイの返事が聞こえたので。虎が鼻を鳴らす。


「砲が撃てねえなら、やることはひとつだリッキー。リザ。いいか?」

 感覚を共有しているなら、


「きゃっ。」「うわ熱ッつ!」

 主砲管制の子猫二人が一緒に操作桿を離す。手を振る。だがすぐ。「りょ、了解ッ」と握り直した。青く紋が光る彼らの手に届くその熱は。


 どこから来たのか。


 管制室のミネアとリリィが虎を見る。決意は伝わったかのようだ。彼女らの視線の先でやや斜めに身を構える艦長イースの外套が僅かに揺らいで、正面モニタを睨む顔の周りから、肩、両腕と。


 青い竜紋に薄紅うすくれないが混ざる。

 火星イグニスの気が灯る。


 その本性ほんじょうは〝怒り〟だ。

 イースは腹を立てていた。


=撃てないなら殴って沈めるしかない=

(へっ?)


 瞬間。

「ふッ!」と虎の拳が見えない。

 ミネアの身体がしなって。かんを切って。

 リッキーの右腕が主砲操作棹を入れて左が引かれた。


 その一撃は長槍のようであった。常に刃物の如く扇に斬り伏せていたはずのウォーダーの右翼が真っ直ぐに。があんッ! と。

 まともに喰らった骸骨の、垂れ下がる五本の角がたてがみのように揺れる。突かれた身体が折れて浮いて。


 どおと倒れ込んだ怪物の質量が地上の建物を将棋倒しに粉砕する。砂塵を舞い上げ鉄塔が、煙突が、次々に倒れていく。


 突いたイースの右拳は顔の手前まで引かれていた。虎の手に陽炎が浮かぶ。視線はモニタから離さず左手首を口元にやって。


「殴り合いだ。ここから先には一歩も行かせねえ。俺らが引き留めてる間に、なんとかできるかケリー?」





 蛇が骸骨を殴り倒すのを、二人は見ていた。

「うおっ!」


 怪物の背で弾ける工場の外壁に、鉄骨で囲まれた集合煙突が押し倒されてどおおっとこちらに向かってくる。隊長とガリックが飛び退いた屋根を掠めて、下の通りに巨大な煙突が斜めに沈んで轟音とともに割れ曲がった。

 折れて崩れる本体を囲む鉄塔が屋根に食い込み立ち上がる。それを。銀髪をたなびかせた庭番の隠れた眼が捉えて。


 粉塵の舞う屋根を蹴ったのだ。隊長が叫んだ。

「待てガリック!」

 待たない。躊躇しない。抗魔導線砲アンチ=マーガトロンの余波を受けてその身から獣の影を吹き流した庭番の、動きはやはり未だ獣のようで。


 とおん、と。

 けぶる大気に身を隠して。


 ぎゃああと鳴いてまた一度、地上に鎌を突き直す胎児の蟲の背中にはあと二本の巨大な棘が刺さったままで。その一本、ちょうど骸骨の左腕輪へと繋がった透明な弩太どぶとい魔力の鎖が遠くに張る。

 跳んだ庭番が斜めに倒れた鉄骨に足をかけて。とおん。とおん。そして。


「ガアアアッ!」


 なんという跳躍。隊長が目を見開いた。

 魔力マナの大剣を大上段に構えたこいつは何者か。

 

 やや淀んだ鈍色にびいろの雲底より陽が差して。巨大な鎖めがけ鉄塔を蹴って跳んだ身体の頭頂に振り上げた剣の鋒でもなく根本でもなくど真ん中に。


 自らの体重を乗せて。


 振り下ろす。甲高い音が響いて大剣が脆くも割れた。が構わず左足に振り抜いて。前のめりに滞空するまま捻った身体を今一度反ってぐるんと左肩に。瞬間。

 またぶおんッ! と魔光剣の柄から次の一本が噴き上がった。今度は義手の右腕に左を添えて袈裟斬りに、まったく同じ位置に。


 がいいいいんッ! と。また割れたのだ。

 径が成人の胴体ほどもある魔力の鎖はびくともしない。


 だが庭番は宙で屈み叩いた鎖を思い切り蹴って。白煙の舞う空を跳び下がってざああああっと屋根に着地した。同時にまたぐるんと撃鉄を起こすかのように柄を巻く。三本目。次の大剣が噴き上がる。


 斬れるのか。斬れないはずだ。外套を風にはためかせ隊長が声に出した。

「無理だガリック」

 折れたのだ。折れるはずなのだ。無茶だ、あの使い方ではすぐ魔石も空になる。


 だが庭番の眼が折れていない。追っている。今しがた叩いた鎖の一箇所をじいっと目で捉えながら。隊長の声は聞こえていたのだろうか、口元が動いた。


「な、な、何度も、こうやって斬った——き、き、斬れなかったのは、一度だけ」


 そしてまた一言呟いて。ガリックが再び屋根を蹴る。

「ガリック!」

 鉄塔へと飛び上がる銀髪が残した一言を、微かに隊長は耳に捉えたように思ったのだ。


 その一度で、すべて、失くした。

 と。



 


 蛇が顕現した瞬間だけ凪いだ風は再び強く、宙に浮く三機を斜め後ろから揺らす。南の二体は殴り合いを始めたらしい。海への吹き込みに髪が巻くのを振り払ってノーマが腕輪に言った。


「時間がないわ。どうすればいいの」


 傭兵の肩に乗せたままの禿げた頭に、脂汗を浮かべるシャクヤ導師が答えた。

「呪を、打つ。き、聞こえるか?」


 彼らの目の前にはどろどろの粘体に包まれた異形の塔がそびえ立っている。

 狼と青果屋の爺はバイクの前後で片手に光剣を構えたまま、飛ぶ二機——ノーマのモノローラとガラのバイクを目で追っていた。導師らが印を張るなら護らねばならない。


「聞こえるわ、なんとか」

「よ、よい。獣よ。続け」


「大丈夫ですかい?」と肩越しに声をかけたガラに僅かに笑って。ぎりぎりと導師が右腕を一指に構え肘を曲げて掲げる。ぐうっと脇腹に走る激痛に顔を歪ませ、しかし気丈に。


「しゃがらんどうに かくしゃくと ——続け」


 シュテの理術文りじゅつもんだ。狐の金髪から突き出た大きな耳が風の向こうに声を捉える。

 その組み立てだけは知っている、詠呪えいじゅの後に韻を打つのだ、が。隠された韻をノーマは知らない。


「舎伽藍堂に 赫灼と」

「ばんにひく はくぼくのもん」

「磐に引く 白墨の門」

「いっこう にこう まよいはらわん」

「一構 二構 迷い祓わん」


 指を震わせ、導師が。

「るえんに かえしたまわらん」

 そしてノーマが。

「流遠に 還し賜わらん」


 言い終えた瞬間。ごお、と。違う風が吹いた。一陣。狐の目が大きく見開かれ細身の胸に膨らむ豊かな乳房が息を吸い込む。脳裏に流れ込むその韻は、見たことも聞いたこともない、だが今は読める古代の言葉だ。


 シャクヤが今一度、震える声を張った。

「繋がったかッ! 続け。せいせよ!」

 二人同時に。第十七地区の空に斉唱が響く。


ALOオロ UTウト PLTMAGLAMパルトマグラム AGLAGARMアグラガラム!」


 狐と導師がともに振り下ろして向けた掌の先。黒い魔術の塔にぐるりと巻いて光の帯が一瞬走ってすぐ。

「うおおおッ!」思わず傭兵が叫んだ。


 どおんッ! と。塔全体が激しく輝いて白い光の渦が巻き起こったのだ。まるで竜巻が空に吸い上げるが如くに雲間へと猛烈な光の濁流が伸びつつ旋回して、異界の防護を削ぎ始める。


 ばらばらと重い工場の鉄板とともに、地に這う蟲どもが巻き込まれて噴き上げられていく。塔の外縁を激しく回転しながら巻き上がる蠍の身体と鎌が引き裂かれ、ざああと砂のように散り崩れていくのだ。


 シュテの理術〝導射伽藍門アグラガラモン〟。

 その級は〝碑文レメゲトン〟の上。


「ヒ……〝聖文ヒエラル〟? こ、これ」


 全身が発光する。思い切り開いて向けたノーマの右掌がびりびりと痺れて震えて。その金髪が立ち上がり花弁の如くに宙へ開く。

 左手一本で支えるモノローラのハンドルが追い風でがくがくと不安定だ。しかし右手は塔の渦から吸い付かれるように引っ張られて離せない。力を抜けば右の関節が脱臼するのではないかと思うほどで。ぶわりと狐の鼻じりに汗が吹く。


 尋常でないノーマの様子に狼が。

「おい! 大丈夫なのかこいつはッ!」

 導師を睨んで叫ぶ。シャクヤはシャクヤでひゅうひゅう肺の擦れる息を継ぎながら先程までの構えた一指を力無く揺らして。


 だが笑っているのだ、傭兵の肩で。

「ふ……韻が、視えたなら上々じゃ。ここに、きて、呪が通らぬ馬鹿もできぬわ。儂の知る、とっておきの。破邪のもんじゃあ。なあ——き、狐よ」

「な、なによッ!」

「あとは、まかせる」「はああッ?」


 ぶるぶると震える指先でノーマを指さして。導師は傭兵の耳元で言うのだ。

「ガ、ガラ……やはり」

「なんすか導師ッ!」


「呪を唱えるは、お、お、女子おなごが似合うと、思わんか?」

「はい?」

 呆けた返事に答えない。導師がまた気を失った。肩に寄りかかる禿頭を見て。狼を見て。狐を見て。ガラが強風に叫ぶ。


「気絶したッ!」

「——ッ。なんって日なのよ今日きょうはッ!」

 パダーとの戦闘でまだ全身が痛い狐が怒鳴った。唖然とする狼の後部から青果屋が忠告する。


「来るぞ」「なに?」

「為されるがままのわけ、なかろうて」

 爺いの口元が歪んだ、まさにその瞬間であったのだ。


 種を散らすようであった。

 魔術の塔から一斉に飛び出した黒体はさながら長細い尾のついた砲弾で。捉えたケリーの目が引き締まった。あれは。

「羽虫じゃッ狼!」「知ってる!」


 全方位に散った砲弾の頭が宙でぐるりとこちらを向いて。その背中から昆虫の翅が開く。下方より折り畳まれた脚が伸びて。目も何もないのっぺりした硬質の頭の下が開いた中には細かい牙がみっちりと並んで濡れた糸を引いていた。


 幾らか? 数十か? 塔の周りを黒くする羽虫は全体が同期しているかのようで。ぎりと牙を鳴らした狼が片手の光剣を逆手に構える。数が多い。

 

 飛び立った。向かってくる。

「来るぞッ!」

 だが。


 止まったのだ。ぶううと不快な羽音を立てて向かってきた群れは何故か途中で滞空して。宙で脚をかしゃかしゃもがきながら激しく唸る翅も虚しく進まない。全ての蟲らがびりびりと。びりびりと震えるばかりで。


 やがて。後方の蟲から。


 吸い戻された。塔を回る白光びゃっこうの渦がその流れを一段と増して、そこから飛び立った羽虫どもを次々に引き戻していく。抜かれるような勢いで宙をぎゅんッ! と引かれて渦に飲まれて。激しく回転しながらばらばらに散開していく。


 数匹、また数匹と。辿り着けない。

 逃れて届く羽虫はいない。苦戦を覚悟し構えていた狼の息は荒いが、引き戻されて減っていく蟲の群れに、怒った肩が少し降りた。


 そして遂に塔にも変化が起きたのだ。ばらばらと。


 外壁を覆っていた漆黒の粘体が千切れて粉のように散っていく、と。同時に禍々しく結われた鋼鉄の配管がぎいいいと甲高い響きとともに、徐々に解かれて剥げていくのだ。塔はまさに、分解し始めていた。




 軋む音は内臓の部屋まで響いている。


 それに構わずぐうっとモニタを睨んだクロウの漆黒のフードからは未だ濛々と霧か煙かも分からない気体が湧き上がるばかりで。硬く握った両の拳を操作盤に押し付けながら肩を震わせる。


 その画面の向こうでは、巨大な幻界の怪物どもが殴り合いを続けているのだ。

「ぐうッ——!」

 言うことを聞かない幻蟲どもを睨んだクロウの脳裏に。遠い昔の台詞が。


——骸骨の巨人を倒せるものなどいない。同じ幻界より天敵でも降りてこない限りはね——


 は、そう言ったじゃないか。


——魔術の塔が破れることなどあり得ない。遥か古代の聖文でも撃ち込まれない限りはね——


「そう、言ったじゃないかッ」


 クロウが声を上げる。そう言ったから、言われたから。これを目論んだはずだったのに。いよいよ肩が震える。壁に伸びる影の中、影より暗い漆黒の横顔に張り付いた切り絵のような黒目がちらと動いたのに、彼が気づくはずもない。


「どれだけ、どれだけ、どれだけ準備してきたと思ってるんだあッ!」

 だあんッ! と激しく殴る操作盤では未だ配管図が赤く輝いたままで。


「なんでだッ! なんで! なんでそんなありえないことばかり起こるッ! 俺が初めて、初めて〝やりたいことをやっている〟んじゃないか! なのにどうして邪魔をするッ! なぜ上手くいかない!」

 何度も。何度も。クロウが盤を殴る。

「なぜ俺だけ! 俺だけ! やりたいことができないッ! ああ? なんで俺だけッ!」

 血塗れの拳を眼前でぎりぎりと握りしめて。


「——おまえたちのやりたいことは、なんでもしてやったじゃないか。恋人にもなってやったじゃないか。惚れた女も諦めてやったじゃないか。不満も耐えてやった。死ぬほど働いてやった。なんでも買ってやった。言うことはすべて聞いてやった。法も犯してやっただろう? 悪事も引き受けてやっただろうが。裏切りもしてやっただろうがッ! 俺は、おれはッ!」


 だあんッ! と。血飛沫が飛んだ。

「っどれもこれもッやりたかなかったんだッ俺はあッ!」


 叫びが。地鳴りが。部屋に響いて。また影の目がちらりと動く。クロウはぎりぎりと両手をひたいの側まで上げて。


「——くそくらえだ。こんなどぶ川、吹っ飛ばしてやる」

 吠えるだけ吠えたクロウが今一度モニタを見据える。あれを、あの蛇と馬鹿骸骨の戦闘をさっさとやめさせないといけない。時間がない。この塔全体の振動はおそらく外からの攻撃なのだ。


 一気に片をつけるのだ。もはや全霊で。放った蟲どもで街の人間は皆殺しだ。


 あの魔術師は言ったのだ。まさかそんなことが今、ここで起こるはずがないのだ。





 虎の踏み込んだ左足元で鉄板の床が軋む。

「ガアアアアッ!」

 大きく振り抜いた左腕はもうくれないの紋がたぎるように湧き上がって。


 赤い火を帯びたウォーダーの翼が思い切り叩きつけられるのを受けた太い骨の右腕が鎖を鳴らす。触れんばかりに空で顔を寄せた蛇と髑髏は同時に咆哮を上げた。

 猛禽の爪に似た怪物の左手が、しかし。またじゃらあっと。中途で止まった。ぎやあああああと苦々しげに激しく首を振る。


 縛られた敵を殴り倒すなど本意でもないのは重々承知の虎が、だが今度は縦に拳を振り上げて。外套が巻き上がった。縦一直線に斬るように。


 鉈となって翼が落ちる。また受けた。凄まじい衝撃音を轟かせ沈み込みながらも、骸骨が防いだ右腕が激しく障壁を撒き散らしながらもびくともしない。同じ動作を真似をする。今度は敵が振りかぶって。

 真上から鎖を振り抜いた。蛇が躱す。どおんと真北へ叩きつけられた鎖の直線が地を吹き飛ばす。


 髑髏の顎が大きく開く。ぎゃああああああ! と。その威嚇が天を痺れさせるように。管制室で構え直した虎の目は覇気が入ったまま、だが。


 口元が笑った。こいつ。こいつは。

「——楽しんでねえかテメエ?」

 モニタに映る骸骨に言うので、思わず皆が虎を見る。そこにいる獣らはあまりにしぶと過ぎる敵に対峙したまま、のだ。





 また、ざあああっと。これで何発目の打撃だろうか、屋根に飛び戻って片膝をついたガリックが左腕をぶんと回した。しかし出ない。次の剣が生じない。側から隊長が叫ぶ。

「替えろガリック!」

 投げて寄越した魔光剣の柄を器用にでかい左手でがっと受け取り二本を掴み、からになった一本をがりっと指でずらしてまた器用に左手のみで隊長へと投げ返した。


 そして振る。低い発生音とともに大剣が伸びた。こちらの柄は満杯だ、あと数本は伸ばせるだろう。受け取った隊長が柄の底を捻って開けて次の魔石を詰め込んだ。

 もはや止めない。彼が斬ると言うのだ、つきあうまでだ。轟々と吹き荒ぶ風の中、だが隊長は彼の意図がわからない。なぜあの胎児のような幻蟲を、ガリックは骸骨から切り離そうとしているのか?


 空に響く悲しげで甲高い叫びの中に、こいつは何を聞いたのか?

 いぶかる隊長も、のだ。





 劣勢は盛り返したはずだったのだが。

「一体どれだけいるんだコイツらはッ!」

 果てが見えない。汗まみれの将軍が吠える。バイクに乗った少年も今一度。

「〝霜鋒ルテオラ〟ッ!」


 叫びに反応して。数リームの高さに水飛沫が立ち上がり川に樹木が噴き並ぶ。木っ端微塵に弾け飛んだ蟲の向こうからまた蟲が湧いて。ざらざらと黒い群れが川向こうを埋め尽くしていく。

「撃てッ! 対岸を吹っ飛ばせッ!」

 再び撃ち下ろす砲撃艦リボルバー旋回連射砲レインブラストが光弾を雨のように降らせる。


 その猛爆が止まないうちから次々と。川に雪崩れ込む蟲は数が増える一方だ。激しくカウルを回転させた将軍のモノローラがアルトの側まで下がって。魔力の大剣を軽々と片手で振って蟲の残骸を飛ばしながら言った。

「三連主砲に切り替えるべきか?」


「いえ。威力が集中し過ぎです。奴らの数に追いつかない。防衛線が退がります。旋回連射砲レインブラストの弾幕が一番有効です」

「いっそ魔術師とやらを吹っ飛ばすってのは?」

「魔術師に砲撃艦の主砲が効きますかね?」


 何言ってんのかわかってんのかコイツという顔で将軍が呆れる。が、きっと魔術師とはそういう連中なのだ。はためく外套を激しく翻して。

「この調子じゃあ、っても一時間ってとこだ。——ちきしょう、さっきからなんだこの風はッ」

 獣のようなもみあげも振った。揺れるモノローラが重くてしょうがないのだ。


「——風?」

 まず。クレセントのアルトが

 意識の外にあった。それはだ。ここはアルターの首都リオネポリス、大陸の東の果てなのだから。


 若いアルターの兵士たちは、生まれて此の方それを見たことがない。

「お、おい」

 上流に位置する兵士たちが、風上を見る。異変に気づく。



 ごおっと燃える拳を引いて構え直した艦長に。

「イースっ。」

 唐突に。声をかけたのはレオンだ。虎が一瞬、少年に目をやる。

「何か言ったかレオン」


 目を見開いたレオンが、まるで何か宙を目で追うように、かすかに首を動かし管制室を見渡すように。

 今、初めて。狼狽する。それはだ。数日も前から判るのが元来、クレセントの特性なのだから。

「そんな……そんなはずないっ」



 その猛風には匂いがした。知っている匂いだ。狼の鼻が微かに動いて。北西の山間を振り返った瞳がまん丸に開いて。

「おい。——嘘だろ?」

 激しく右腕で陣を張ったままのノーマが。ガラが。そして老人も。気づいたのだ。


 音がした。聞いたことのある音だ。隊長は風上に目をやって、それを視線に捉えた。だあん! と屋根に着地したガリックもまた異変に気づく。


 レオンの声に虎が止まる。モニタに映った骸骨の巨体もまた牙の顎を開いたまま、その空洞の眼窩は北へと釘付けになって。蛇が緩やかに、その首を北西の空へと向けて。


 蟲たちの動きが止んだ。兵士らも天を仰ぎ見る。将軍も、クレセントの少年も。空を飛ぶ魔導機が滞空する。


 すべての災厄を圧倒して、それは天に現れた。



 嘘だ。そんなはずがない。アルターが魔石を国外に頼っていたのはまさに、かつて一度も首都にそれが現れたことがないからだ。

 塔の部屋から見えぬはずの兆候に全身がびりびりと震える。痩せこけたクロウの顔に玉のような脂汗が浮かんで。俺は。俺は。


 謀られたのか?


——蟲の群れが脚を止めることはあり得ない。東の最果てリオネポリスに竜脈でも届かない限りはね——



 街の北西を埋める山稜とやや増えた雲とに挟まれて南東の海へと伸びてくる細長く分厚い黒雲が吹きおろしの風を連れてくる。その生成は明らかに尋常の気象ではなかった、手を伸ばすように速く、速く。

 リオネポリスの壊れた街にびょおおと塵が舞う。街路樹が軋んで揺れる。真っ直ぐの影が首都を覆い、その上を厚ぼったい天の橋が貫いていく。


 竜雲、首都に現る。

 蛇の中にダニーの声が、静かに響いた。

『異常な速度です。空域の魔力マナ60万。なお上昇中』


 

 空を見上げるアルトムンドも、こんな速度で生成される竜雲を見たことがない。びりっと白髪が痺れた。西の果てが光ったような気がした。そして。


 これは、思いがけない僥倖なのか?


 彼は長い人生の中で、竜脈直下でそれを唱えたこともない。だが目の前に溢れる蟲の群れを薙ぎ払うのは、それしかないのではないか?

 そう閃いて。開いた両手を天に広げる。空を突っ切る雲に向かって。


 源泉魔力分界呪文。ノエル十四番。


「〝水領リクラ〟。」


 天空より光の水門が開く。

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