第百十三話 聖竜紋 エル・ドラゴニア

 ごおと身体を持っていかれそうな猛風が白い屋根を吹き抜ける。背中に刺さる楔から血のような体液を撒き散らし、巨大な幻蟲が鎌を掲げてびいいと鳴いた。

 はためく外套の襟を強く腕で巻き込み身を丸める隊長の頭上を、千切れた鉄の破片が飛んでいく。


 がらくたの山には依然として周囲から次々に破壊された工場の瓦礫が吸い寄せられているのだ。が、明らかに、急激に。

 風の強さが変わった。遠く骸骨の向こうに浮かぶ蛇が、何かやらかしたのだろうか?

「くッ!……」

 舞う埃を避けて細くしかめる隊長の目が、見据えているのはガリックの変化であった。


 仁王立ちで光の大剣を真っ直ぐ構えた庭番の周囲から。


 それはまるで漆黒の樹皮が吹き剥がされるかの如くに。ざらあっと。そしてまた、ざあああっと。四つ足の生き物の影が現れては流されていく、何匹も——気付いたのは。


「ガリック、おまえ」


 庭番は、泣いているのだ。身の丈ほどの光剣を構えながら、微かに肩を震わせ頬に散る涙は、それらが剥がされるごとに。ガリックが目を閉じ、顔を振り、また前を睨む。獣たちの影は確かに口を開け生き絶えるように風に溶け出して、そのたびに。


 ぐううっ。と。庭番の口元から嗚咽が聞こえる。

 同胞はらからの死を。悼むかのような。だが風の中、構えは解かない。

 空を舞う馬鹿でかい三本の、魔力の鎖を見据えたままで。




「モニカ遠隔映像ビット戻せ! 同期が外れるぞ!」

『了解ッ』

 

「くっそ!……このおッ!」

 風は強くなる一方で、機体は不安定になる一方だ。ぎりいっと牙を噛んだミネアの細い腕がしなって操縦桿を引き寄せる。身体を包む紋が揺らぎ、玉の汗が散った。


軍霊ケルビム〟が発動したはずの蛇の体内が、今は何の負荷がかかっているのかびりびりと振動する。立て膝で右手は床に広げ左手は上に掲げたレオンの周囲で竜紋は青白く光って渦を成す。


 しかし。

『二百四十、三十、下がりました。四十……二百五十万突破。魔力マナが上がりません艦長!』


 ダニーの声は聞こえているが、操縦席を左手で掴んで振動を逃す虎はそれには答えずただ少年を見れば、レオンは腰まで伸びた真っ赤な長髪が水のように揺蕩って。苦悶の表情で歯を食いしばって。

「ぐっ……おおおッ」

 その震える背中をアキラもまた見守るしかできずに。


(なんだよっ! なにか手伝えないのかよ! 俺にできること、ないのかよ!)

=ない。今は上下二ヶ所同時にノエルの陣を張っているのだアキラ、下手に加勢すると何が起こるかわからん。それにお前には——来るぞ!=


 頭の声にアキラが素早くモニタを睨む。また赤い線が空間に。だがミネアも反応した。「この!」と叫んで舵を切り抑える。ごおっと管制室が横に滑った、次の瞬間。猛烈な爆炎でモニタが眩しく光って、ばぎいっと甲高い音が響いた。


 また後方下で爆発音が聞こえた。工場が破裂したのか。

『右舷第二砲塔上部、障壁被弾ッ!』

 舵を倒したまま首を肩から曲げ起こしてモニタを見据え、かはあっと息を吐いたミネアの産毛がびっしょりと汗に濡れている。ぎりぎりだ。あの超高速弾を相手に、今の距離ですら近すぎるのだ。





 市街地を横に貫くだだっ広い工業水路の向こうに広がる臨海は、第三十地区付近だろうか何本もの煙が吹き流されているのが、河川敷より高い沿岸道路に整列した国軍バンドランガーの兵士たちからも視認できた。


 巨大艦独特の平板な船底を緑色に光らせた砲撃艦リボルバーが兵士たちの頭上を北へと移動していく。その円盤の三連艦首はゆっくりと移動して遠巻きながら射線を外さない。

 しかしそのあちこちに設置された旋回連射砲レインブラストはその射出口を俯角に取っている。主砲が向いた臨海で蛇が戦っているらしい。そして。


 連射砲が狙いを定める水路の向こう。工場地帯を越えて市街地に、蟲たちが雪崩れ込んでくるらしいのだ。

「5班、6班、7班! もっと上流だ! 急げ!」

『第三連絡橋。まだ視認できません』

『全機! 低気圧形態ウエイトフォーム!』

 声と通信が乱れ飛ぶ中で徐々に整列する国軍の、上空を吹き流れる強風は南の工業地帯へと向かって。だがその風下より。それはまず微かな地鳴りで。


 ひとり、ふたり、数人と。気づいたものから周囲を窺い始めて。やがて。

「き、来ましたッ! 幻蟲の群れを確認ッ!」


 初めは、橋に繋がる道路の彼方にざらざら見えた何体もの塊が。

「……ひッ」

 ぞああっと一気に道を埋め尽くす黒い蟲の波となる。がじゃがじゃ振り上げる鎌の音が地響きとともに徐々に大きくなって、唐突に。道路だけでなく対面の河川敷に並び立つ工場の屋根全体から。


 湧き上がる。

 膨れて一斉に河へと。溢れていく。こちらに来る。

「迎撃しろ! 一匹も通すなッ! 撃てッ!」


 道路に並ぶ国軍機の直射砲が一斉に火を噴いた。河川の対岸に沿って猛爆が起こる。蟲と工場の壁が吹き飛んで散る。上空の旋回連射砲レインブラストがドリルのように回転して。


 砲弾の雨が降り注いだ。

 地上から撃ち放たれたバンドランガーの一斉射撃に。斜め上からの弾幕がどおおおっと降り注いで。土手向こうの工場群が次々に爆発粉砕されて火球が吹き上がる。


 国軍の猛攻凄まじく。

 だが。


 ばらっばらにあっけなく飛び散る蟲たちに高揚する兵士らは。

「撃て撃てえッ! 一匹残らず殲滅しろ!」

 まだその物量の凄まじさに、気づいていないのだ。





——なにか、おかしい。狼の眉間が締まる。


 激しい風に揺れるバイクの高度を維持しながら、北から塔に近づくケリーは目を細めて遠くの蛇を見ていた。その基底盤の下に輝く環状脈サークルは、もう少しで真円を描き切る程には成長している。が、上が足りない。


 上下で挟めと自分が言ったその上の円は、四分の一も描かれていない。吹き荒ぶ臨海でまた、小山が爆発を起こし蛇が避けた。全ては一瞬で、直後にいくつかの工場が粉砕したのだ。巨大な骸骨は忌々しそうに両腕を折り曲げがちゃあがちゃあと鎖を鳴らして蛇を追っている。


「どうした旦那ッ」「いや……」

 傭兵の声が聞こえた。だがケリーは飛ぶ蛇を睨んだままで。そこに。

『ケリー。聞こえる?』

 100リームほど離れて飛ぶノーマのモノローラから音声が入る。向こうも揺らぐ機体を懸命に抑え込んでいるようだ。狼が左手首を耳にやった。


「聞こえてる。——なんか変じゃないか?」

『うん。クリスタニアの時とでしょ』

 ケリーの眉根がいよいよ深くなって、思い出す。思い出せない。なんだっただろうか? こんな激しい風ではなかった。もっとこう、穏やかで荘厳な。


 あれはまるで世界の扉が。鍵が開くような——

『ケリー!』

 狐の叫びにはっとする。骸骨の口の奥が光ったのだ。



 モニタに映る化け物の口が光った瞬間。管制室の獣たちはざあっと身構える。それは虎もそうだ、致死性の呪文なのだ。対抗できるのはアキラしかいない。

=来るぞアキラッ!=

「うわあああッくっそこのッ!」

 もはや素っ頓狂な声をあげるに構わず思いっきり。格好など関係ない。


 ぶわあっとアキラが両手を前に振り下ろす。同時に。膨大な光の息を髑髏が吹き放った。白い毒の光は蛇の寸前で押し広げられて散っていく。が、今度は。

「う、う、う、うわああああ」

 止まない。アキラの両腕がぶるぶると震え出した。髑髏の息が途絶えない。その周辺に。ぼっ ぼっ ぼっ ぼっ ぼっ ぼっ。と。六つの光球が。


「くッ!」と唸って操縦桿を握るミネアに虎が叫ぶ。

「退がるなミネア! 後ろにはケリーとノーマが飛んでる!」

 制してすかさず。

旋回狙撃砲バッシュレイッ!」『あいよッ!』

 虎の叫びに反応して。蛇の腰から一対のブロックが衛星のように飛び出して。


 猛烈な回転とともに。渦を巻いた無数の光弾が発射された。

 空圧を突き破って骸骨の顔面を捕らえた。

 連鎖する爆発でぎゃああと怪物が仰反のけぞる。六発の直射砲があらぬ方向へ発射された。

「右だ!」「了解ッ!」

 避ける。蛇の機体が横にスライドした。直射の四発は空の彼方で爆発し、二発が地上でどどおっと火を吹く。また建物が吹き飛んだ。対峙は解かない。空中で身構えたままだ。ブロックの回転が緩くなる。


「な、なんだ今のは旋回連射砲レインブラスト並みじゃねえか……」

『親方が弄ったんだよ艦長』

 モニカの声に右手の甲で顎を拭く虎の笑いは、しかし。レオンへの視線ですぐに消えた。少年の息が上がっている。はっはっと汗だくのクレセントを、管制室の面々はかつて見たことがない。無常にもダニーの声が。

『まだ五百万を越えたあたりです艦長、七億には、とても』


 レオンでは無理なのか?

 今、アキラに代わるわけには、いかない。

 喚ぶのを諦めて、一気に詰めるか?


 判断が迫られている。ざりざりと右手の甲で擦る虎の顎が鳴る。

 



 まずい、と。ケリーが思った。


 ウォーダーがあの化け物に圧されているように感じたからだ。さっきからあいつが口から吹き出している白い魔力は。蛇の前面で弾き返しているのは魔導の攻撃じゃない、あれはなにか別のもので。


「まさか……抗魔導線砲アンチ=マーガトロン?」


 アキラが、防いでいるのか?


——どうなってるんだアキラッ! 聞こえるかアキラッ!——


 あの時もそうだ。

 アキラが一人で防いでいた。護っていた。

 クリスタニアの東方で。真夜中の網状脈ヴェインで。

 痺れるような強烈な魔力が気に満ちて。


 記憶が。暗い夜から浮かび上がってくる。

 ケリーの左手首が、腕輪が口元に。


 声を発する。

「レオン。



 その声が、管制室に響いた瞬間。

『レオン。聞こえるか? 

 瞳を見開くレオンの赤い毛がゆらめく。押し潰すような肩の強張りが消えた。レオンの中でぐしゃぐしゃに絡まっていた何かが呆気なく解けてぴいんと張り詰めた弦のように。


 こころが凪いだ瞬間。聞こえた。

 それは皆に聞こえた。


 すべてのものの魂に響くのは〝備えよ〟と。


 瞬間。「くッ!」と牙を鳴らしてケリーがハンドルを切る。狐の機体も向きを変えた。二人は知っている。「衝撃がくるぞガラ!」と飛ぶ狼の声に傭兵も反応して背を丸めバイクのカウルを蛇に向けて体に巻く魔導錨アンカーの縛りを強めた。

 南では大剣を両手で構えた庭番が大きく目を剥きざまに工場の屋根を跳び下がり隊長の前に陣取って。

「ガリッ……!」


 真円の猛烈な衝撃が空を走る。

 周囲の工場が吹き飛ぶ。


 肋骨へとまともに空圧を食らった怪物が身体を折った。邪魔だとばかりに蟲が飛び散って。第十七地区の魔術塔も大きく揺れて。

「ぐうおおおおおッ!?」



 南インダストリアに吹く風が、唐突に消えた。


 幻界より喚び出され鎖に縛られたまま首都を破壊し、今は漆黒の無限機動を迎え撃つはずの巨大な骸骨は、なぜか。圧を食らった胸の肋骨を押さえ鋭い骨の爪を曲げた両腕を宙に固めたまま、頚椎に乗る髑髏をかすかに曲げ降ろして。


 眩しいのだろうか。睨んでいるのだろうか。ただ。

 動きをやめたのではないのは分かる。首と手首の鉄輪をも含め細かく震えていたからだ。そして唸りをあげていたからだ。


 静寂の空に狼が呟く。三機が北より蛇を見る。

「止んだ……」

 骸骨の元から吹き上がる瓦礫の白煙もまっすぐに、その周りを濁流のように動いていた蟲たちもまた、流れを止めて吸い寄せられるように蛇を見上げている。


 雲の増えた工業地帯の空に。

 そこに太陽はあっただろうか?


 一体どこより差し込むのか定かでない光芒が、二本、三本と細い線を投げ降ろしてくるウォーダーの、その上と下とを平べったく輝く光輪がゆっくりと互い違いに旋回しながら、まるできりきりと目盛りを合わせているかのような。


 異界を開く扉の鍵なのか。


『うッ!……動けッ』

 内臓のような部屋でクロウが声を絞り出す。

『動け貴様らあッ!』

 暗き塔より叫ぶ魔術師の声を、しかし圧倒して。


 上下の輪に挟まれて現れた蛇は、全身に蒼き結晶のような外殻を纏い、ざあと輝く半透明の翼を広げて。威嚇の声か。高く一声、吠える。澱みより産まれて湧いた者どもに咆哮が響き渡る。

 地を埋める蟲たちが一斉に、蛇の声にねむい単眼を一気に見開いて。ざああああっと北へと逃げ始めたのだ。


 幻界生物召喚呪文、ノエル十番〝円環〟。

 古き使途不明の呪いが解けた。




 ぶはああああっと大きく息を吐いたレオンが両の手を床につく。

 管制室で呆然と立ち尽くす虎が違和感に気付いた。


 辺りの空間がおかしい、まるで空気の粘度が上がったように自ら息を吐く口元に波が湧く。顎から離したでかい手のひらを眼前にやればゆらりといくつもの残像が浮かんで消えるのだ。

 そして青く輝いている。自分の周囲だけではない。アキラと同じくレオンもそうだ。リリィも医師エイモスも、そして操縦席のミネアも。


 全員の竜紋が青い。操縦桿を両手で握り締めながらミネアがぐうっと息を飲んだ。体が重さを感じない。七番を発動した時に感じるはずの強い負荷と疲労感が消えている。


 ここはまさに今、無限機動の管制室ではなく〝幻界生物アステロイドの体内〟なのだ。あの時に似ている。アキラに連れられて蛇ごと飛ばされた、あの真っ青な空の下の草原の——


 モニタの骸骨が口を光らせた。

 ミネアが見た。瞳孔が締まる。

 リッキーの腕が動いた。


 蛇が咄嗟に。右の翼を振り抜いて。一瞬。

 ずどおおっ! と。

 早撃ちで右舷主砲が髑髏を撃ち抜く。 

 光線が後頭部を貫通して口内の牽引車トレーラーが。


 爆発したのだ。

 数本の牙が折れて飛ぶ。


 即死の忌まわしい発射装置が、怪物の口内で木っ端微塵に吹き飛んだ。唸りをあげた怪物ががしゃがしゃと鎖を揺らしながら剥き出しの牙を押さえる。身悶える。濛々と爆煙が口から漏れている。


「——いい加減その汚い口を閉じろ」


 虎が言う。へっ? と長い耳の根元を髪ごと押さえたリリィが振り返った。同じ言葉を思ったからだ。ゆっくりとミネアが虎の方を向いて。

「なんだ?」

 訝しげに見返す虎に、細かく頷いて。

「そうだよね」「なんだと?」


「アタシもそう……思った」

 互いに顔を見たのは一瞬で。すぐモニタを見据える。


 口を覆った骸骨がわなわなと両手を離して長い尖った指先を互い違いに折って伸ばして。その全身がゆらあっと揺らめいたのだ。厚く、分厚く。透明の粘体が覆っていく。


=こいつは、魔導障壁も張れるのか?=


 しかし。開かれた掌を猛烈な勢いで蛇に向かって伸ばしたその骸骨の右手首で。がしゃああっと。鎖が鳴る。一直線に空を張って。背中の楔を引っ張られた蟲が鎌を掲げて仰け反ってびいいいっと鳴いた。

 縛りがあって届かない。忌々しそうに髑髏の顎が開いて、咆哮するのだ。同時に。ガラクタの山から二発。


 その動き、生命のように。


 無限機動が翼を閉じた。小山に爆炎がふたつ。長い機体が縦に円を描いて旋回し、巻き上げた尾が骸骨の頭上に振り下ろされた。後方の地面が二カ所破裂するのに合わせて上段から眉間へと叩きつけられたのだ。

 骸骨の顎がひしゃげる。咄嗟に骨の手が伸びる。また。がしゃああっと。鎖がその動きを止めた。凄まじい声で吠える髑髏は首と両腕をがしゃがしゃと振り回して。


 明らかに奴は束縛に腹を立てている。それでも頭頂への一振りは効いていないかのようだ。


「な、なんなのコイツッ」

 ミネアが呟く。これだけタフで戦闘能力の高い化け物が、どうして縛り付けられているのか?




「やめろッ! 蛇と戦うな! そんな遊びをするために貴様を喚び出したんじゃないんだッ!」

 どろっどろの部屋にクロウの叫びが響く。口から立ち昇る黒煙を本人は全く気づいてもいないかのようにモニタへ向かって声を張り上げている。


「バーヴを連れて行け! 早く連れて行けッ! 戦うのが役目じゃない! 街の真ん中までそのでかい醜い蟲を引き摺って行けッ! 凱旋だ! 蟲の波を引き連れて凱旋するんだッ! その……その、魔力の塊をッ!」

 だあん! と計器盤を拳で叩いて。

「早くしないと間に合わないだろうがッ!」


 くずおれたビル街。立ち昇る煤。生臭い煙。内臓の匂い。血で染まった鎌を掲げた蟲たちの中を、真っ直ぐに進む。首都の真ん中まで。ずるずると引き摺られた巨大な蟲が、真っ白に煌めいて。そして——


 ぎゃあああと聞こえた叫びにクロウが我に帰る。骸骨は必死で鎖を引き伸ばしながら蛇を捕まえようと。

 もはや両目と大きく開いた口からぼろろろろろろと墨のように噴き上る黒霧に顔を斜めに伸ばして魔術師は震えて吠えるのだ。


「そッおおおおじゃッ! ないだろうがあああッ! ふざけるなああッ! おれの、おれの、俺の人生を〝失敗〟で終わらせるつもりかああああッ!」


 部屋に叫ぶ魔術師クロウの後方へと長く伸びた影が壁で折れ立つその中に。居た。同じく闇の色をして。


——命を餌に熟成し妄想の壊滅が幻界の殻を愈々いよいよと錬磨すべきは甘美なり——


 せなより響くくらき横顔の言葉はもはや聞こえてもいないのか、モニタの向こうでばん! ばん! ばん! と右腕をひたすら伸ばす骸骨を睨みつけるクロウの形相は凄まじく。


 やがて。ばん! と。

 抜けた。

「だ……だめだ 今 抜けたらっ」




 それは完全にミネアの死角であったのだ。一段と甲高い蟲の叫びと空に飛び散った体液を伴って、骸骨が思い切り伸ばした右手のその向こうから。

「なッ!——」

 空に弧を描いて。さながら鎖に繋がる分銅ふんどうのように真上を抜けて。

 

 蛇の背中にどでかい魔力の楔が叩きつけられたのだ。


 幻界の外殻と〝軍霊〟の魔法に身を包んだはずの体内にそれでも強烈な一槌からの衝撃が突き抜ける。ミネアが桿に掴まり身を伏せて。虎は身を屈めて。アキラとレオンが傾いた床を滑った。

「わあああッ!」

 それでも主砲車両の両側に陣取っていたリザとリッキーの二人が青い紋の浮き上がったそれぞれの腕で瞬間的に盤のスイッチを押して叫ぶ。


減衰爆破バンパーッ!!」

 

 上から鎖で押し潰される蛇の下で前から後ろに一直線に。どどどどおっ! と緑の光を放って爆発が起こった。墜落寸前の蛇が堪える。瓦礫が飛んで塵が舞う。骸骨は身を反らせてじゃああああっと鎖を引き上げて。

「躱せミネアッ!」

 虎の声を待たずに一瞬。ミネアが棹を引いて蛇が逃げたそこに。二度目の鎖が叩きつけられた。ばらっばらに粉砕された鉄の配管が蟲の群れごと宙に噴き上がった。


「くおのッ!」

 飛び退きさまに畳んだ蛇の翼から。それもまた間髪入れずに十六連の主砲が火を吹いた。猛爆が骸骨を追いやる。が。


 山から爆炎が。同時に。それは初めて。

 ばがいいいいんッ! と強烈な金属音がして。蛇を包む青い結晶に刺さったのだ。ぐねぐねと強烈な力で捻じ曲げられた金属の鋭い飛礫つぶてが、しかしその結晶で止まった。右羽根だ。勝手に動いて伏せた扇のように頭部を覆った右翼が高速弾を受け止めた。

 動かしたのはリッキーだ。はっはっはっと息を継ぎながら自然に反応して駆動棹を握りしめた右手を見ている。主砲車両で立つロイも見ていた。今の動きは、なんだ? と。


 管制室のアキラが目を丸くして。

「と、止めた……」

=そうか。顕現した蛇は流星物質メトロイドに対応できるのだアキラ=

「メ、メト?」

=今はいい。それより問題が増えた=


『後方の励起が強烈に上がっています艦長!』

「なんだと?」

火星イグニスの不安定さが増しています!』


 全員がモニタを注視する。いまだ蛇の砲撃で煙を上げる骸骨の向こうで、かすかに掲げた鎌が映る。びいいいいと声が聞こえた。

 他のものと同じく全身を青い光でゆらゆら包まれた医師の顔がびっしょりと汗をかいて。


「艦——イース。」

 虎が向く。エイモスの右目の義眼が見開かれて。

「イース。全部抜けちまったら。爆発する」

 座席に座ったまま、ぱたぱたと汗が落ちる脚を食い込むほどに爪を立てた医師の声は別人のようで。その喋りは間違いなく。


「お前……バーヴィン=ギブスンか? うおッ!」


 唐突に蛇が身を振って。それもまたミネアもリッキーも自然に体が動いて。青く光った右羽根が刃物となって骸骨を襲う。

 その翼を左手で受けた。障壁の塵が粉となって散る。今度は化け物が受け止めたのだ。左手首の腕輪を、鎖をがしゃがしゃと揺らしながら。


 



 終わらない。きりがない。

「う、撃てッ! 撃ち続けろ! 怯むなッ!」

 一方的に蹂躙しているはずの国軍兵士が、だが焦りの色を浮かべて叫ぶ。撃てども撃てども次々に湧いて向かってくる蟲たちの数が、むしろ増えてきているかのようなのだ。

 発砲に熱を帯びた三連主砲の旋回連射砲レインブラストがいくつか止まった。弾幕が薄くなる、とすぐさまぞろぞろぞろと煙の向こうから蟲が湧く。幾らかの蟲はすでに水中へと溢れて潜って姿を消して。やがて。


 ざばあああっと。鎌が。

「きッ来た! 打ち払えッ! 近づけるな!」


 ついに河川敷へと何匹もが這い上がってきたのだ。水にぬめった黒い甲冑から反り返った尾を蠍のように曲げ上げた蟲は完全に単眼を見開いている。兵士が声を張る。

「攻撃上げッ!」

 バンドランガーから射撃を続ける兵隊が一斉に右手をじゃッ! っと伸ばして魔導銃ブラスターの砲身を剥き出しにした。カウルに乗せて構えて。


 撃ち放つ。目を潰す。

 ぎああああと蟲の断末魔が響く。


 だが上からの射線が定まらない、ただでさえ機体から撃ち出す砲撃は続けたままなのだ。

「うわあああッ。来るな! 来るな!」

 闇雲に撃つ銃撃がフィールドのあちこちで爆発を起こして。対岸への攻撃が疎かになって。向こうではいよいよ多くの蟲が水へと雪崩れ込んで。


 ざばざばざばと次から次に蟲が上陸してくる。走り込んでくる。もはや何機もの砲撃は手前に向いて。対岸と別れて手数が減っていく。幾らかの蟲が公園の木々に潜り込んで姿を消した。音だけが聞こえる。がじゃがじゃと独特な。

「ひ、ひ、ひい……」

 

 ついに出た。

「うわああああああッ!」


 バンドランガーの隊列の、その目の前に。飛び出した蟲は蛇腹のような腹を向けゼロ距離で砲撃を受けて弾ける。吹き飛ぶ。だがもう。

「うわっ! うわああッ!」

 混乱した兵士らが機体を倒す。逃げ惑うのだ。

「抑えろッ! 落ち着け貴様ら!」

「わああッ! ああ! ああああ!」


 乱れた隊からの砲が途絶えていよいよ迎撃が減っていくのだ。もう蟲たちは群れをなして水の中へと雪崩れ込んで。

 突破されたのか? これは、突破されたのか? 来るのか? 一斉に来るのか? 奥歯をがちがちと鳴らしながら必死に川面を虚しく撃ち続ける兵士たちを嗤うかのように。


 水を噴き上げて現れたのは全身に無数の目をつけたムカデのような幻蟲だ。それが何体も、何体も、何体も。ぐねぐねと触手の如く川岸から伸び上がって。

 その水のふもとよりずあああああと湧き出る蠍たちに気圧される兵士の目の前にまたしても。


 川土手の森林を掻い潜って蟲が突っ込んできた。ぎゃあと叫ぶ兵隊の右手が飛んだ。血飛沫が舞う。振り上げた鎌を、だが周囲からの一斉放火で吹き飛ばして。

「回収しろ! 負傷者を下げろッ!」

 また別の場所で。胸を刺されて身体ごと持ち上げられて。二人、三人と弾き飛ばされて。頑強な脚の一撃で折れた顎を押さえてうずくまる。たまらず逃げ出す兵の背中が切り裂かれる。脆い。アルター国軍の防御服プロトームは帝国兵のそれより遥かに脆いのだ。

 

 空からの援護も、しかし。

「ち、近すぎるッ」

 もはや弾幕を撃てない。味方を巻き込むからだ。単射に切り替えられた砲撃艦からの援護が、弾数が足りない。


 まさに防衛線が突破されそうになる、その瞬間。

「第二撃ッ! 突っ込めッ!」


 バンドランガーの隊列を飛び越えて。国軍のモノローラ隊が一斉に河川敷へと雪崩れ込んだ。全員が魔導の盾と光剣を装備した精鋭の突撃隊である。先頭は。


「はッ! やっぱり俺ァこっちの方が向いてるなァ!」


 元准将。将軍ヴェルナー=ファイルダーである。ぎしりと音が鳴るような筋肉を湛えたど太い右腕一本で抱えた魔導の大剣を。

「うおおおりゃあああッ!」

 横一閃で振り抜いた。が、が、が、がっと数体の蠍を難なく切り抜いて。ぎゃああああとカウルを回転したモノローラが直角に旋回する。砂煙が上がる。飛び込んできた鎌を平然とまともに受ける盾の脇から。


 貫く。すぐ抜く。引いて。カウルが逆回転して。

「らああああッ!」

 蟲の胴が引き千切られた。真っ二つだ。


「続けえッ! 押せッ! 押せえッ!」

 将軍の叫びに土手上からまた一気にバンドランガーの砲撃が始まる。士気を吹き返した兵士たちが撃ち払う。平地で次々に起こる爆発に、だが将軍は顔色ひとつ変えない。

 じゃあああと向かってくる蠍に「邪魔だッ!」と叫んで剣を切り上げ吹き飛ばす。獣並みの剛腕である。その将軍を見咎めたのか。


 川からムカデが頭を曲げて、無数に突き出た鎌を鳴らしながら。また逆回転に旋回したカウルで独楽のように弧を描いてざあと引く将軍機を長く長く追いかけて。どこまでも伸びる。

「ちィ!」

 そのムカデのさらに上の空から。


 振り下ろされた小さな手のひらにいかなる力が篭っているのか。


 甲高い衝撃音を放ってムカデの首が破裂した。ばらばらと別れて蠍に戻る。蠍たちも死んだ蟲のように鎌と足を縮めて散って落ちる。は? と空を見上げた将軍の手前に降りてきたのは。


 ロックバイクは大型で。

 乗っているのは小さな子供で。

 髪の毛色は白髪はくはつで。


 なにもかもがちぐはぐな少年が振り向いて。

「この蟲はなんです? 兵士長さん」

 士長と言われた将軍が呆れて笑う。

「魔導師かお前? どこから湧いた?」


「人を探してまして。お手伝い、しましょうか?」

 クレセント・アルトムンドが蟲の群れを睨みながら涼やかに答えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る