第百九話 このどぶ川のような人生を
「ぐぬうッ!」
導師シャクヤが歯を食いしばる。脇腹に穴の空いたコートを押さえつけた。掌から薄赤の光が漏れて、禿げ上がったこめかみから耳の根元にだらっと脂汗が垂れる。
鼻をつく焦げ臭い匂いに、長い銃身を未だ構えたまま。
「焼いて止血か。治癒魔法も使えないのは不便だな」
クロウが呟いた。
——魔導師が火薬の銃に弱い理由は〝弾速と威力〟にある。——
よろめいて立ちふさがる老人に今一度、銃口を向けて。クロウの痩せこけた顔、前髪の奥に見える切れ長の眼には、いかなる感情も
シャクヤが今やるべきは。壁を強く張り直すことだ。だが。
があんッ! と。
躊躇なく。撃ち放たれた次弾は右胸に当たった。衝撃で半身を捻ったシャクヤが地面に倒れる。それでも驚くべきことに。
「ぐ……ぎいッ。くそッ……」
胸をまともに撃たれて、なお。声が聞こえるのだ。クロウの眉が驚きで軽く上がる。
「ああ、硬気か。さすがだな」
〝硬気法〟は励起系の気術である。身体の外に障壁を張るのではなく、身体そのものを鉄のように硬くする術だ。
——火薬の銃弾は魔導の光弾に比べて異常に速い。そしてその質量エネルギーに魔導師は馴染みがない。通常、魔導師が纏っている障壁は物理防御と魔力防御の両方に硬度が割かれている、だが魔力防御に振っている硬度は当然、鉛の弾には全く意味がないのだ。事実、シャクヤが張っていた壁は容易く貫通されてしまった。
強い壁が間に合わないと踏んだシャクヤは障壁から硬気に一瞬で意識を切り替えたのだ。それでも胸の筋肉で留まっているのだろうか、弾痕から血が流れ、衝撃でまともに息ができないでいる。
獣の毛皮ならともかく人間の皮膚で行う硬気など高が知れている、せいぜい鈍器による打撃の防御のみに有効で、鋭い刃物の刺突や、まして銃弾など完全には防げない。
倒れて呻く魔導師を、今はクロウが敵とも見做さない。そのまま脇を抜けて建物へと歩みを進める。息を必死に継ぎながら微かに目で追うシャクヤの向こうで。
彼の背に。どろどろと流れ落ちる黒い液体に覆われた勝手口へ向かうクロウの全身に。漆黒のガスに似た揺らめきが漂っているのだ。
「ク……〝
この男。魔術師だ。
痛みと失血でシャクヤの意識が濁っていく。
クロウが握った勝手口のドアノブにべったりと張り付いた漆黒の液はコールタールのような粘体で、その手を喰うが如くに覆い込んでじゅうと鼻につく白煙を放つ。
皮膚を焼く痛みに少し眉を顰めたクロウが「
単なる施設の廊下だったはずのそこは今や異界かむしろ生物の体内を彷彿とさせる様相で天井から左右の壁、床に至るまで細かく蠢く肉襞に変化した中を何体もの、すでにもうヒトとは呼べない奇怪な白い肉虫を頭からぶら下げた白衣の係員が彷徨っている。
彼らは一斉に振り返った。だらんと垂れた全員の白肉が持ち上がって、その先端の顔がこちらを向いて。骨の棘を突き出した両腕を振り上げて。
やはり躊躇なく歩みを進めながらクロウが両腕を斜め下に広げる。白衣どもものろのろと近づいてくる。互いの距離が詰まり、そしてクロウが。
「
わずかに黒い霧を口から吐いて。不可解な呪文を唱えた。ぎゃッ! と白衣たちが小さく叫び、慌てふためいてまた一斉に踵を返しクロウから逃げ出そうとした、が。
羽化か。破裂か。
彼らの首から上を巻いた蚕の幼虫に似た白肉が。
次々にばうッ! ばうッ! と破れて。
ぎいいやああああと悲鳴が溢れる。
破れから湧きあがったのは膨大な黒い霧だ。砂鉄が磁力線を描くかのように。
階段へ曲がる
悲鳴は二階でも響き渡っていた。身悶えする所員たちの蟲から湧く霧がただ階段を登るクロウのあとを追いかけ追いつき纏わり付いて。どす黒い〝もや〟はすでに実体となって全身を包む布のように分厚く固まっていく。
「うおッ?」
三階の廊下で職員たちを片っ端から切り捨てていた三人が同時に声を上げた。無限に続くかに見えた廊下を向かってくる敵の、その頭からぶら下がった蟲が。突然ギャアギャアと悲鳴をあげて次々に破裂していくからだ。
湧き上がる煙か霧かわからない黒い気体が塊となってこちらに流れて。
「しュえッ!」
細く気を吐く老人が床に魔光剣を突き立て印を組む、と。
ぼおっと。狼と傭兵まで合わせて三人を半球状の壁が覆う。汚水のように廊下を流れた霧の中、壁に包まれ伏せたケリーが老人に目をやった。独楽さながらに身体を旋回させ敵を斬り倒す様といい、傭兵に紹介されたこの老人は、どうやらただの情報屋ではないらしい。今も瞬時に壁を張って、隣のガラに悪態をつく。
「聞いとらんぞお。ホントになァどうなっとるんじゃ飴屋ッ」
「俺もだ。果物屋は逃げ切ったのか?」
「知らんわ。蟲に食われてなければの——あれが楼の〝当主〟か?」
老人に言われて狼と傭兵が振り向けば。
柔らかく波打つ三階廊下の階段出口に向かって流れて寄せる漆黒の霧が渦かとぐろか巻き打って。出てきたその誰かへと纏わりつく。ぎゅるぎゅると。ぎゅるぎゅると。ぎゅるぎゅると。そして。
ばんッ! と黒が強く弾けて焼け屑のような粒となって飛び散った。中のそれが大きく両腕を広げたのだ。
現れたのは黒の法衣だ。
頭全体を深く覆ったフードの奥から視えるのは垂れ下がった前髪のみだ。法衣の表面全体に細かく流れる刺繍はいかなる原理なのか血液のように動いて流れている。
ケリーの銀の体毛が逆立った。まずい。直感が警告を放つ。それは隣の傭兵も同じだ。
「——合わせろ旦那。後ろだ。三」
ガラの呟きを聞いた老人が伏せた拳の親指をばちんと鳴らす。一瞬で。壁が消えた。
「二」
狼は見た。間違いない。フードの奥であいつは薄く笑っている。
「一」
両手のひらを前に
「
広げた手の空間に巨大な漆黒の渦が巻き起こって。ガラが叫ぶ。
「走れッ! うおおおおおおッ!」
「がああああああッ!」
一斉に。黒の法衣に背を向けた三人が通路の奥へと駆け出して。ガラとケリーが握りしめた拳を遠くの行き止まりに向かって振り抜く。
轟音とともに馬鹿でかい光球が二人の腕から撃ち放たれた。同時に。強烈な目眩で足を取られそうになる。魔力が減少する。同じくその背中より。
ごおッ! と質量を持った膨大な漆黒の霧が。クロウの両手から吹き出して逃げる三人へと飛びかかった。走る。必死で走る。無限に見えた通路の果てに。
ガラとケリーの光球が着弾し猛烈な爆発を起こした。その中に躊躇なく飛び込んだのだ。
第十七地区の魔導送配管本部の三階が内部から吹っ飛ぶ。
異形に変化した横壁に這う鉄のパイプが炎とともに周囲に弾けた。壁を流れる液体が四方に散って。その中から。
空にケリーたち三人が飛び出した。
「うおおおッ!」
外だ。
「
真下の広場へ垂直に緑光を撃ち放つ。どおんッ! と湧きあがった爆発は衝撃より反発が遥かに高く波打って揺らいだ空気が落ちる三人の速度に干渉する。
「う、うおっ」「ひょっ」
軽く浮き上がった狼は駆け下りるように数歩勢い余って着地した。傭兵が受け身を取って地面を転がる。なんと老人は最も身軽にとんとんッ。と二度ほど身を跳ねて着地し素早く元居た三階を振り仰ぐ。
それは。爆発の中より湧きあがった奇怪な煙だ。気体の煙が壊れた壁からどおおおっと噴いて、しかし。まるで。止まった映像のように宙に固まる。そして壁の中へと縮んで消えたのだ。
有り得ぬ挙動に三人が息を飲む。もしあの黒煙に絡め取られていたら、どうなってしまったのか?
「逃げて正解だ、ありゃあ魔術師だぜ」
ガラが立ち上がった。狼も鼻先を上げたままだ。
「アルターの首都にファガンの魔術師がいるのか? ——なんだこの雲は」
建物よりさらに上、頭上の空はどろどろと暗雲が渦巻いて。魔導送配管本部は黒い液体で汚された棘だらけの城のようだ。
吹き飛んで空いた壁の穴に到達した黒煙が蠢いて。ぐにゃりと粘度を上げて界の破れを修復していく。
その中に侵入者たちはいない。どうやら逃げ
時間がないのだ。
柔らかな廊下を早足で歩く。その先の壁がぐにゃりと。まるで主人の帰りを待っていたかのように左右に縮み上がって穴を開けた。
穴の中は一段と生物の臓物を
「
黒煙の噴き上がる右手を撫でるようにかざす。眼前の機械が一斉に動き出した。モニタが映し出すのは臨界の工業地帯の遠景だ。遠くに港と南海洋まで映っているのだ。
もう一度手を振る。画面が変わった。蒸気をあげる卵型の巨大な建造物が映る。第三十番魔導炉だ。
◆
「中に入れアキラッ! 退避しろ!」
「は、はいっ」
突然の襲来に。
虎に言われたアキラが格納庫へと急ぐ。正門ゲートに現れた獣たちは、どのような個体差があるのだろうか、狂ったように目を剥いて走り向かってくる者と、死んだような顔でのろのろと距離を詰めてくる者がいるのだ。
蛇の着陸した第一エリアは本部正面よりやや横に位置する。ゲートからは距離にして300リーム。滑走路二つ分程の幅がある。
「全機迎撃ッ! 一匹も中に入れるなッ! 障壁上げッ!」
将軍が腕輪に吠える。だが。激しく旋回するカウルが唸りを上げて、国軍モノローラの数機が彼らの頭上を越えて低空で向かった。
「待てッ! 前に突っ込むなッ!」
外套を翻させてファイルダーが上空に怒鳴るが遅かった。溢れた獣たちの数匹が四つ足で走り出し、思い切り地面を蹴って。
飛んでくる機体に飛び掛かった。
「う、うわあああッ!」
兵士が悲鳴をあげた。
「さげろ! 将軍! 近接は無理だ!——ぬおおおおッ!」
虎の全身から爆発的な魔力の奔流が立ち上って。
赤く紋が渦巻く右腕の拳を握って眼前から斜め上に大きく構えて。
「ぬうあッ!」
思い切り踏み込んだ右足とともに振り抜いた。
向かってくる敵の前でどどどどおッ! と。
横一直線に巨大な爆炎が立ち上がる。敷地が吹き飛ぶ。
地上の兵士たちが轟音に身構えた。
炸裂した魔導の爆発に巻き込まれた獣たちの身体がばらっばらに引き千切られて宙を舞う。
すかさず拳を握った両腕をぐぎりと曲げて構えた虎の周囲に光輪が一瞬きらめいて。一周回ったかと思うと七つの光球に分裂した。
「俺らが撃ち払う! 後方で援護してくれッ!」
顔も向けずに叫ぶ虎を一瞬だけ見て。将軍が腕輪に声をあげた。
「
飛竜は敷地の外壁に目をやった。
壁の向こうから伸びたいくつもの手ががしゃあと鉄条網を平気で掴む。そちらからも。一気に飛び越えた獣らが基地内へと飛び降りてくる。中には足を針金の棘に絡ませてぶら下がり肉のちぎれた音を立てて落ちてくる者もいるのだ。
異常だ。ただの獣ではない。飛竜が声を張る。
「——蟲憑きです艦長ッ!」
その言葉にむしろどよめいたのは国軍の兵士たちだ。数人が総督の前に出る。
獣に、蟲が? この全部に、か?
ファイルダーの顔に冷たい汗が流れた。
人でも獣でも蟲憑きが最も厄介なのは彼らに痛覚もまともな思考もないことだ。事実。
燃え上がる残炎から次々と。その身を焼かれながら獣たちが歩き出てきたのだ。何匹かは体毛に火がついて煙をあげながら向かってくる。将軍が思い切り手を振り下ろして。
「一斉射撃ッ!」
地上の兵と空飛ぶ機体から光弾が撃ち出される。後ろに吹き飛ぶ獣たちを縫って飛び出す別の個体がどんどんと距離を詰めて。しかし。
「がああああッ!」
それは火焔の円孤だ。
虎が振り切った腕に沿って敷地に膨大な炎の帯が噴き上がる。
真っ赤に燃えた領域が突進する獣たちを焼き焦がした。
強烈な熱が後ろの兵士たちにも伝わって全員が思わず顔を覆う。初めて断末魔の悲鳴をあげた獣たちが一瞬で燃えてその場に崩れ落ちる、が、まだ後方から続々と。
体毛を燃やして突っ切る獣たちが駆け寄りながら「ギアアアアアアッ」と奇声をあげて威嚇する口の中には歯や牙ではなく無数の触手が生えている。
ロイが顔面で握った両拳の鱗が擦れてごりっと音がする。そのまま腕を交差して。
「ぬうッ!」
一気に広げた腕から走った旋風がこれも巨大な円弧の衝撃波となって。砂塵を巻いて。壁を越えて走り来る獣たち一団へと衝突した。胴体が、腕が、切断されて吹き飛ぶ。
虎は右肩に左拳を構えた。周囲を旋回する光の護衛に命じる。
「迎撃ッ!」
同時にぶんと振り抜いた拳の軌跡に沿って七つの光弾が旋回をやめて前へ飛ぶ。駆け寄る獣たちを片っ端から後ろに叩き飛ばす。
その隙にも国軍から連続した射撃が弾幕となって獣たちを撃ち払う。防御は破られていない。前衛の虎と飛竜のたった二人が、一匹の獣も近づけない。
しかし。
着弾で濛々とけぶる正門の向こうから。
凄まじい連続の発射音がして。
煙を貫いて数十の棘のような物体が撃ち出されたのだ。疾い。それは虎たちの頭上で展開する
「む、蟲だあッ!」
障壁を破った線虫のような蟲が兵士の首や胸の皮膚を突き抜けて。ぎゃああやめてええと暴れる兵士の身体が内側から膨れ上がって破裂した。鮮血と肉が弾ける。機体が落ちる。
「退がれッ!」
虎の叫びに一斉に後退した国軍兵の前に
正門の煙から歩み出たのは。まだ両腕にがらがらと音を立てる
虎が牙をがりっと鳴らす。
「……アンダーモートンッ!」
◆
外から派手に聞こえる爆発音と微かな振動に、医務室でモニカとサンディが周りを伺う。ベッドに寝かされたその少女はまだ気絶したまま動かない。タオルを絞りながらモニカがスピーカーに向かって声を飛ばした。
「敵襲? 応援行かなくて大丈夫なのかい?」
『艦長とロイが押さえ込んでいる。他の皆は外に出るなと艦長が言っている。
ログの返答にダニーの声が混ざった。
『
「全く? じゃあ一体なんなんだい」
『わからん。いつでも飛べるようにはしておこう。ミネア』
『了解』
そのやりとりに顔を曇らせたサンディが言う。
「ケリーさん、大丈夫でしょうか?」
が、モニカはそう心配はしていない。
「なんとかするだろ。あの傭兵とシュテの導師様も一緒なんだし」
そう答えながら少女の頬を拭いてやる、と。「う、う」と微かに呻いて。まずいか? とモニカが思った瞬間。
赤毛のエリナが。ぱちりと目を開いたのだ。
「エイモス先生。具合悪いんですかっ?」
揺れる通路を歩いてきたアキラが、医務室のそばで壁に背を預けて、こめかみを押さえたエイモス医師を見つけた。
医師は軽く手を挙げるが眉間に皺が寄っている。頭痛がするのだろうか。
「アキラくんか。問題ない。少し記憶に障害が出ているかもしれない」
「中で休んで……あ、あの子が」
頷く医師が「今はな」と言って苦笑した。だが。
——おとうさん、ブランコ漕いで。ねえ——
彼女が運び込まれたせいなのだろうか? ずきずきとこめかみが痛む。
艦長の話だと、この記憶はアンダーモートンの棟梁、バーヴィン=ギブスンのものらしい。クリスタニアで襲われたとき、誰だかわからない高圧的な声は〝赤毛のエリナ〟と言っていた。確かに娘の——エイモスが自分の娘だとずっと信じていた少女の名だ。
母親の、妻の名はマリーだ。娘とよく似た赤毛の美しい女性だ。しかしそれだけではなく。徐々に偽りの記憶が鮮明になっていく。
——なあ。もうちょっとマリーを大事にしてやれよ——
ずっと。マリーと付き合ってから。そう言って余計な世話を焼いていた奴がいた。頭を押さえるエイモスの指に、微かに力が入る。なぜ今になってこんな偽物の記憶に
ベッドに寝ている少女には会うべきじゃないとモニカが言っていた。この子は自分の娘ではない赤の他人なのだ。こういう風に意識が混乱するから、考えるべきではないはずなのに——
「キャアアアアアッ!」
突然、部屋の中から悲鳴が上がった。アキラが驚く。エイモスの全身に鳥肌が立った。その声は。あまりにもよく知っている声で。聞き慣れた声で。
娘の悲鳴に体が動かない父親なんていない。
「——エリナッ!」
「先生ッ!」
咄嗟にエイモスは医務室のドアを勢いよく開けて中へと駆け込んでしまったのだ。
「いやあっ! 誰か! 誰か助けてッ!」
「ちょっと! 落ち着きなってッ!」
ベッドから起き上がった少女は胸に枕を抱え壁に背をつけて。モニカが必死になだめるにも拘わらず「獣ッ! 獣がッ!」と短く叫びながら激しく震えている。部屋に飛び込んだエイモスがベッドまで駆け寄る。サンディが振り返った。
「先生っ。」
「いいんだ。——エリナ。エリナ。落ち着け。落ち着くんだ」
怯えた赤毛の少女が駆け込んできた二人の人間に目をやって。
「ここは。ここはどこッ? あなたたちはっ。」
「落ち着いてエリナさん。俺たちは味方なんだ」
「お、お兄さんッ。デントーさんは? デントーさんはどこ? きゃッ!」
また蛇が揺れる。外で戦闘音が聞こえる。構わずエイモスが話す。
「エリナ。私は親父さんの知り合いだ。古くからの友人だ。君を守るために連れてきた。彼女らも味方だ。なにもしない、危害は加えない。わかるか?」
ずきずきと響く頭痛を堪えながら必死で話すエイモスに目を向けるエリナの瞳は、幻界で蟲に憑かれていた時と違って、白濁が消え真っ黒に澄んでいた。しっかりと医師の顔を見据えて、まだ少し震える声で答える。
「……パパの?」「そうだ」
頭痛が一段と。激しく。だが。エイモスが。
「パルトムーカのクリームパイ」
震えるエリナの瞳が丸くなる。
「マリーの、お母さんの、得意な……違うな。それしか作れなかった。あいつは」
ぎこちなく手を差し伸ばしたままのエイモスが笑って。
「お父さんは……バーヴは、甘いものは嫌いだった。でもおまえはマリーのパイが大好きで、いつも公園に行くときは俺……バーヴが折れて、バスケットの中はピールのサンドセットと一緒に、パルトムーカのクリームパイが包んで入れてあった」
枕を抱えたまま固まるエリナに少しずつ。開いた右手を伸ばして言う。わずかに開く赤みを帯びた唇から、少女が声を漏らした。
「……パイは、いくつ?」
医師は笑って。だが。
「三切れだ。バーブは食べない。ブランコを漕いだ後、芝生に座って。でもサンドセットしか食べずに、パイはおまえにやるんだ。おまえはいっつもマリーと半分こして。そうできるように、いっつもあいつは。マリーは。食べないのを知ってて。三切れ、入れてるんだ」
義眼の右目から。なぜ。今になって。そんなことに気づくのだろう?
涙が。
「そうだ……そうだったな……もうマリーは死んじまったんだった」
細切れの記憶が。消されていた過去が。鮮明に。かたぎになれない俺を気にかけてばかりで。あいつは心労で。痩せて。体を壊して。
「葬式の日は、雨降りだった」
「——どうして? どうして知ってるの? あたし、おじさんを知らない」
赤毛の少女に、エイモスが答える。
「葬式には誰も呼ばなかった。身内の連中だけだ」
エリナが頷く。彼女の目も赤い。まるでこの人は。この人の喋り方が。
「うん……うん。どうしてパパは誰も呼ばなかったの? ゲイリーおじさんも、いなかった。どうして? 友達なのに」
また少し、蛇が揺れた。
「ゲイリーを、呼ぶわけには、いかなかったんだ。俺……バーヴは、あいつに、ひどいことをした。とても、呼べなかったんだ」
——やっぱりマリーがな。暇がありゃゲイリーの話ばっかするんだよ。お前ら三人がちょいちょい会ってるからじゃねえのかよ? なにかありゃゲイリーに比べてあなたは、って。うんざりだぜ?——
エリナの目からも、かすかに涙がにじむ。
「パパが、ゲイリーおじさんに?」
——ありゃあゲイリーに気があるんだ。ふざけんじゃねえよ。なんのためにお前を連れてきたんだ? 早くしろよ店の使い込みバラしちまっていいのか?——
頷くエイモスが。伸ばした手を下ろす。
その手も震えていた。
「そうだ。ひどいことをした」
——とっととゲイリー堕とせよ。サラ。——
◆
ごおごおと真っ白の蒸気を周囲の煙突から吹き上げる第三十番魔導炉の正門から。巨大な
その車体は頑丈な
運転車に搭乗しているのは三人、その助手席の端に座っているのがパダーの右腕、バグル=ジャックマンだ。綺麗に禿げ上がった額に親指を当て計器盤に肘をついて辺りの工場を伺う。
ジャックマンはパダーがノーマに討ち取られたことを、まだ知らない。だがすでに何があってもこの荷物——
しかしパダーが? うちの棟梁が評議員だと?
最後の通信でそんなことを言っていた。笑わせるぜ。と。ジャックマンの口の端が歪んだ。
緩やかに曲がる牽引車を工場の陰から伺っているのは。
「——
隊長が顎を擦る。隣の陰でガリックが唸っている。
◆
複雑に点滅する計器盤の操作が、ついに終わった。いくつかのダイアルを慎重に回した後、クロウが椅子から立ち上がる。
黒の法衣に蠢く奇怪な帯状の紋様が血管のように脈打っている。
正面パネルに真っ直ぐ両手をかざす。映っていた魔導炉が遠ざかり、遠景となり、工業地帯の全景が映り込んで。また海が見えた。
もう後戻りは効かない。たくさん殺した。
漆黒の生地は苦痛と恐怖で織り込んだ無垢な他人の魂だ。
魔術とは。それを為せるものだけが実践できる。
倫理を破り。躊躇を破り。良心を破る。
このどぶ川のような人生をばらっばらに吹き飛ばしたら、
やっと。俺は旅に行けるんだ、サラ。
両の手を大きく開いて。クロウが叫ぶ。
「
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