第百七話 棟梁パダーの強欲
防御か。それとも罠なのか。
異界へと変容した魔導送配管本部の三階廊下に、蟲に憑かれた肉塊が
「後ろ任していいか」
「あいよ旦那」
隠身を解いた狼と傭兵魔導師が背中を合わせ、敵に構える。今になってケリーが訝しげに遠くまで視線をやる。
遠いのだ。廊下の端が不自然に遠い。匂いの件といい、なぜもっと早く気づかなかったのか? その方が気掛かりだ。まるであのフィルモートンの老婆が使った霊術のようだが、きっと。
これはあれより。はるかに禍々しいものだ。
「——魔術か?」
狼が呟くのだ。
研究員らしき膝まで裾のある白衣を着たそれらは男も女も顔がない。頭があるはずの場所に巻きついて肩から垂れ下がるそれは粉石灰のような触れるに忌避する白色ででっぷりと太い——もし地球のものが見たなら巨大な〝
本人なのだろうか。顔がある。まさに蟲だ。首から離れた帯の先に張り付いた顔面が持ち上がってこちらを向いてかたたたたっと左右に震える。
吹き飛んだ両手首から突き出されたのは、これも骨のような色をした鋭角な棘の槍だ。ウルファンドの
肉の千切れた出口から血は溢れていない。何やらどす黒く汚れて垂れている油のような粘体が、それなのだろうか? もう生きちゃいねえなとケリーが思う。
その時、敵が一斉に。
二人が互いに一歩踏み出す。
「ふッ!」
臓物の内側に似た足場の沈む廊下にばしゃばしゃ敵が駆け寄って。ざあっと伸ばした棘の一撃を流す狼が軽く屈んで。肋骨に一撃を叩き込む。吹き飛んだ相手が後ろを巻き込んでよろよろと後退する。が、手応えが薄い。
傍から出たもう一体に斜め下、得体の知れない肉帯の首元に。掌底を突き上げ狼の爪で。
「があああああッ!」
逆手に引き抜きざくりと四つの傷をつけた。黒い液が噴き出し身体を囲む透明の壁に撥ねて汚す。首の裂かれた敵のぶらさがった顔がぎああああと不愉快な悲鳴をあげた。ケリーの鼻根に皺が寄る。こいつらは打撃が通らない。効きが悪い。
ばらっばらに引き裂かないと倒せない。
「ろくなもんじゃねぇな!」
逆に後ろのガラは解っていたのだろうか、飛びかかる相手に振り上げた手刀をまるで片手剣の如くに一閃、振り下ろして。
「ぬうッ!」
垂れ下がる肉帯を切り落とした。どばっとまとめて噴き出す汚液に塗れた彼もまた光の壁に守られて。そして手元を包む障壁は薄く刃物のようにぎらついていた。
わずかに後ろを見た狼が理解する。手刀か。前を振り返って。
飛び込む敵の槍をぎりぎりで避けた。棘が壁を剃る嫌な音がする。そこから踏み込んで。大きく引いた銀毛の右腕で。
「があッ!」
一直線に馬鹿力で突き破る。肉帯の巻いた頭が飛んだ。天井に油を飛び散らせながら仰向けに倒れる敵を、しかし踏み潰して次が来る。
造作もない。だが数が多い。やってくるのだ、ぞろぞろと蟻のように。
「……くそッ!」
構えを戻す狼の横顔をまた棘が掠める。じゃッと。傾けた首の横で擦れた壁に火花が散る。生身で受ければ串刺しほどの威力に見える。壁はいつまで保つのか。短く吠えてまたひと突きした左手が、今度は敵の胸に刺さった。肉の感触に黒の液が垂れ流れて。
顔が歪む。なにかが少しずつ奪われていくようだ。
後ろのガラは手元を見た。どろどろに汚れた手刀の切れ味が悪い。錆びたように。
「まじいな……この液はなんだ? 壁が脆くなってきやがる」
ふうっと息を吐いて今一度、気を張る。右手が再度、輝いた。
確かにまずい、消耗戦になる。銀狼が牙を剥く。
異変は三階だけではなかった。
「うわあああああッ!」
階下に悲鳴がこだました。
巨大な地鳴りに襲われたが如く足元の床が一回どおんッ! と飛び跳ねた次の瞬間に。硬いはずの建物の壁面が蛇腹か
逃げる職員の頭めがけて上から下から伸び寄って巻きつく。あっという間に頭部が締め付けられて。手を縮めてばたばた
人間だったものが床に倒れて痙攣して、やがて。
のおおんと。ぶら下がった両手も使わず皮膚から生えた剛毛のように足だけで身を起こすのだ。緩く巻き解かれて垂れ下がるその白い肉帯の先に見えるのは泣いているような顔だ。ああ、盗られてしまった。盗られてしまった。そんな嗚咽の顔だ。ふたり、三人と。捕まり頭を潰された職員が次々に立ち上がる。
「ひい、ひい、ひいいいいっ」
変わり果てた職員たちが垂れ下がった顔を左右に震わせて近づく。まだ変わらぬ同僚を捕まえ押さえつけていく。肉帯の先の知った顔が二つ三つと触れるほどに
人が人を襲う一階の勝手口からいち早く逃げ出したのは、ケリーたちが札を見せた警備員だ。裏庭に出て建物全体を振り仰ぐ。
「じょ、冗談じゃねえッ。聞いてねえぞッ!」
空の低くに渦のような暗雲がこれもまたとぐろを巻いている。
濛々と蒸気を吐く煙突が棘を刺す伏せた貝殻のような魔導送配管本部の全体が細かく振動しながら、壁に巻き付いた鋼鉄管のあちこちからどろどろとした黒い粘液を垂れ流している。
傷ついた血管のようだ。
「ひ……ひっ」
後ずさる警備員の後ろから小さな影が一瞬で横切った。
男が驚いて飛び退く。
「てめえ〝
止まって振り向いたのは狼と傭兵に図面を見せた、
「きゃつらは中かの?」
「中だッ! こりゃ魔術……おい!」
たっと走り出す老人に警備員の声が飛ぶ。
「死にに行くのかよッ?」
「請け負うた仕事じゃ。厄介じゃわ」
それだけ残して老人が勝手口から飛び込んだ。
せむしのように猫背に縮んで走る老人が異様に素早い。寄ってくる白衣どもをとっ、とっ、と。右に左にいとも簡単にすり抜けて階段を数段飛びに登る。二階の廊下より肩越しに振り向いた一体が威嚇するように両手をあげて。
「ふん」
駆け上がる老人が走りを止めず縮めた胸元で両手を握る。手の中が緩く光った瞬間。その小柄な体が撥ねた
ざんッ! と。か細く曲がった枯れ枝に似た老人の腕のどこにそんな力があるのかわからない。刀身80リームほどに伸びた光剣の切っ先が難なく敵の首を刎ねる。廊下に片足で着地して。返す身体で上への階段に、鋭角に切り曲がって駆け登るのだ。
倒しても倒しても。敵が減らない。
ガラの息がだんだんと上がってくる。「くっそッ」と今一度、ぶんと振り下ろした両腕に光の壁を張り直せば、ついに。ぐらあっと目眩がして。まずいのだ。玉のように吹き出すひたいの汗が目にかかる。と、そこに。
階段の上り場付近から二つ三つと縦に光が走って。その異音に狼も気づいて振り向いた。ガラの目の前の敵も
「〝青果屋〟かっ。加勢が遅えぞ」
「あいよ。獲物じゃ。要るかの?」
右手に持った二本の鉄の筒を投げる。傭兵が両手で受け取った。ケリーが言う。
「——それは魔光剣か?」
「使えるか旦那」
一本を素早く肩越しに投げる。狼も肩越しに受け取って。
どのくらいぶりなのか、軽く捻って手に握り思いっきり振り下ろす。じゃあッ! と。懐かしい音とともに光剣が伸びた。
背中越しにガラが言う。
「なんだ、
「昔な。蛇に乗る前のことだ」
ぐっと切っ先を右斜め下に低く構えて。狼が腰を溜めて。
「ろくに魔導も使えずに旅してた頃だ……くそ、いったい何人いるんだこいつら」
目の前の廊下に重なった死骸は七、八体。じりじりと進むケリーたちに、だが次々と部屋から現れる敵が向かってくる。柄の底に左手を軽く当てて踏み込んだ狼が、最初の敵を「しッ!」と逆袈裟で斬り上げた。
◆
=まずいな。橋を封鎖されているぞ=
「え?」
首都北西部山麓のブレナデス長期療養院より幹線道路を避けてジグザグに臨海工業地域へと下るアキラたち二台のバイクも、そろそろビル陰に隠れて上空からの捜索を躱すのが限界になってくる。中央バイパスや高層ビル街を抜ければ海に向かってまただんだんと背の高い建物が減っていくからだ。
横目に遠くに見えるひときわ高い塔の集まった建造物群が、きっと行政区域なのだろう、真ん中の塔に議事堂があるのなら、今朝方に蛇の停留していた場所からはとっくに彼らは海寄りに抜けたことになる、いよいよ工業地帯は近いのだが。東インダストリア海浜区域の手前には巨大な水路が走っているらしいのだ、脳にインストールされた全域の地図を思い浮かべれば分かる。
=いいか、主要道路が通る橋の手前に光点が集まっている。赤だ。三本の幹線橋すべてだ。強行突破するか?=
「ぐっ……」
声にアキラが戸惑う。怒りに任せて敵を殺した反動が心に重くのし掛かってくる。はたして今この状態で戦闘に入ったとして、自分はまともに戦えるだろうか?
「……戦わなきゃ、どうするんだよッ」
=どのみちこの先、隠れる場所は残されていない。いいかアキラ。これは地球のバイクじゃない、ロックバイクだ、それなら——=
その提案にアキラが運転しながらしばし考えた。
首をかすかに回せば肩にもたれた少女は未だ目を覚ます気配がない、が、それもいつまで保つかわからない。もう寄り道はできない。
腕輪に声を飛ばす。
「リリィさんっ。俺の
『うん? りょーかいっ、ってナニ?』
瞬間。ウサギが仰天した。
アキラのバイクが大きくフロントカウルを立ち上げぎゃああああんッとリアを滑らせながら道路の真ん中でハンドルを直角に切ったからだ。そのまま。街路樹の隙間を縫って歩道へ、さらにその先の植林へとまともに飛び込んで。
思わず追い越したリリィが慌ててハンドルを切る。振られる後部にきっちり捕まったままの少年ダリルが思い切り髪をなびかせて叫んだ。
「そっちは! 臨海公園ですッ!」
「あっはあ。わかっちゃったッ」
大きな目を丸くしたリリィが笑って叫ぶ。アキラは導師シャクヤと同じく河川敷の広場を突っ切って巨大な工業水路をバイクで飛ぶつもりなのだ。だがなぜここにきて? またダリルが叫んだ。
「河川敷は空から丸見えですアキラさんッ!」
『時間がないんだ。このまっすぐ南はッ?』
「……国軍本部まで直進ですッ」
『じゃあ突っ切る!』
植林の森はくねくねとした細い遊歩道だ、まだ空からは見えない。アキラがスロットルを吹かす。手慣れたローリングで煉瓦道を飛ばしていくのだ、まるでここですら道がわかっているように。ひゅんひゅんと周囲のぎりぎりの木々が風を鳴らす。
東下流、第一橋梁の北入口付近で、来るかもわからない獲物を待っていたピエールインダストリア一班のバイクのリアで。
背広がかんかんかんかんと魔剣の光で道路を叩いていた。運転者が振り向く。
「うるっせえ。いらいらすんだろうが」
「すんのか? 今から? 俺ァもう苛つきまくってんだが?」
「なぁんだと……あの音、なんだ?」
「あ?」
リアが叩く切っ先がかっ、と止まった。バイク音だ。だがその聞こえる先は。橋にいた数台の連中が一斉にぶわっと上流を振り向く。河川敷の臨海公園の遊歩道からだ、森の中だ。
音は反対の第二橋梁、上流で待つ五班にも聞こえた。工業水路の遠く下流に続く植林公園を橋の上から全員が目をやれば。
どおおッ! と。草を蹴散らして豆粒のような二台のロックバイクが飛び出した。
「居たぞおッ! 河川敷だ! 見つけましたぜッ!」
一気にスロットルを吹かした敵のバイクが次々に鋼鉄の欄干を飛び越える。流域に続く広大なグラウンドに土煙が上がる。
空を捜索する保安隊モノローラが音に気づいた。工業水路を見下ろして。
「なッ……あれは! 居ましたッ! 逃亡者発見!」
三機の班がカウルをぎゃあああああッ! と激しく回転させて鋭角に旋回し一気に空から降りてくる。
=来たぞアキラ! 左右から赤七台! 上空から保安隊三台! 赤が発砲する!=
「リリィさん
『了解ッ!』
ひゃああああと背広が奇声をあげて。真っ直ぐ水路へ向かう二台へ上手と下手から魔弾が飛び交う。風切るアキラの壁に着弾しびしッ! とひびが入る。だが速度は緩めない。川が近づく。降りてきたモノローラから『止まれッ! 発砲するな!』と声が飛んで。だが。
突然であった。その保安隊の一機に。
『ぐあッ!』
バイクの連中が撃つ魔弾とは比べ物にならない強烈な一撃が。飛ぶモノローラを斜め横から吹き飛ばしたのだ。透明な壁がガラスのように砕けてカウルがひしゃげる。
飛ぶ機体が爆発した。巻き込まれたのはリリィのバイクだ。
「きゃあッ!」「ぐあッ!」
後部のダリルごとロックバイクが砂煙をあげてざあっと転倒した。獣二人が投げ出される。
「リリィさんッ!」
=振り向くなアキラ! 任務を全うしろ!=
一瞬で立て膝になったリリィが長髪を思い切り振って腕輪に叫ぶ。
『先に行ってアキラくん!』
「リリィさんッ!」
『行け馬鹿ッ! 止まるな! 飛べッ!』
=この娘を届けるのだアキラ!=
「うあああああッ! ちきしょおおッ!」
河の端からアキラが飛んだ。
保安隊モノローラのもう一台が、またどこからかの砲撃で吹き飛んだ。
その音を後ろに聞いて。水路の空でアキラが叫ぶ。
「救援要請ッ! 救援要請ッ! 艦長! リリィさんが敵に囲まれて!」
川向こうにアキラのロックバイクが遠ざかっていく。逆に強烈な回転でカウルを唸らせて降りてきたのは三台目のモノローラだ。首都の保安隊だ。
女性と少年の前に果敢に身を呈して。二人に向かって。
「下がってッ! 下がるんだッ!」
しかし。
「ひゃあアアアアアッ!」
飛び上がって突っ込んできたピエール隊のバイクから振り下ろされた光剣が。その保安隊員の背中を斜めに斬り伏せたのだ。口から血の塊を吐いた隊員が倒れた瞬間。着陸したモノローラにリリィが飛び移ろうとした、が。またどこからか。
「ぐうッ!」
三発目が着弾した。機体のカウルがばらっばらに割れる。防御したリリィの右腕に破片がかすった。血が噴き出す。
がああッ! と唸ったダリルの全身が輝いて。隠身が解けた。牙を向いた凶暴な犬の形相に変身したルースヴェルデ親衛隊員ダリル=クレッソンが小柄な身体の両腕を思い切り振って。
剣の突き出た盾を発現させる。双剣両盾に包まれた左右の腕をわずかにがしゃッ! と鳴らす。
腰から
砂煙で汚れる青白い長髪の隙間から長い耳が立ち上がり首から胸元に産毛が膨らむ。右腕に吹き出す血が止まった。
そこで気づいたのだ。瞳がぎゅうっと縮まって。
遠くの橋の向こうから河川敷を一台の黒塗りの車が走ってくる。わずかに浮いた車体が巻き上げる土砂の煙にまみれて疾走する
振り下ろされた瞬間。
轟音とともに腕全体から発された光線は
バイク隊七台が完全に迫って、しかし二人とも怯まない。やめない。
「しゅッ!」
軽く息を吐いたダリルが跳んで独楽の如く旋回させた刃を身体ごと一台に叩きつけた。叫び声とともに運転者とリアの二人が一気に左腕を吹き飛ばされてロックバイクがざあああっと滑って倒れる。
「犬を撃てッ! 犬だッ! ウサギは捕まえろッ!」
怒声が飛ぶ。リリィの顔が歪んだ。やはりあいつらだ。全身の白毛が怒りで毛羽立つ。耳がツノのように尖って立ち上がる。
じゃあっ! と顔面から横に構えた
一気に撃ってくる。狙いは変わらずダリルなのだ。
犬の動きは素早い。ジグザグに跳びながら一瞬で間合いを詰める。撃つ敵が「ぎっ。」と銃から剣へ切り替えるが遅い。ひと突きで首を刺し貫かれた。ばふっと血が噴き出す。
すぐ跳ぶ。両腕の二枚の盾で身体を包みぎゅんと回って次の敵へ斬りかかる。だがそこに。
「危ないダリルッ!」
またしても輝く光弾が今度は犬を直接狙って飛んできた。思わず両手の盾を空中で組んで。敵の数人もまとめて巻き込んで。
爆発した。
「ぐあッ……!」
盾が割れて吹き飛ぶ。威力がでかい。ダリルが河川敷に投げ出され二度ほど跳ねて転がった。ウサギが叫んで飛びついて。
「ダリルッ!……このおッ!」
抱えざまに振り返って右腕を張る。どおんッ! と地面から勢いよく透明の壁が噴き出した。バイク勢が詰める。全員の照準が二人の獣にぴたりと合って。リリィの胸に抱かれたダリルはひたいから血を流している。意識は消えていない。だが呼吸が荒く倒れて投げ出された両腕から、盾と剣が消えていた。
河川敷の真ん中で小さな半球の壁に逃げ込んだ獣たちが包囲された。
壁の維持に立て膝のリリィが正面にばっと手を開いて。だが。彼女は本来こういった壁出しは得意ではない。瞬発力はあっても安定して魔力をコントロールする持続力がないのだ。ぶるぶると右手が震える。顔の毛が汗でじっとりと濡れていく。
囲まれた二人の前に砂煙をあげて。ついに黒の
黒マントを思い切り開いて両手を構える。
中の背広の全体に。魔導の紋様がぎらっぎらに輝いていた。
「はっはァッ!! やっと! やっと見つけたッ! お前だウサギッ!」
ピエール=インダストリアの棟梁、ファットジャン=パダーが叫ぶ。
透明に光る壁の小さなドームにのしのしと近づいて。ぎりぎりまで寄せて覗き込むのだ。染みのある弛んだ顔をリリィが思い出す。あの時もそうだ。こいつはねじ伏せられた少女の自分に臭い息が掛からんばかりに顔を寄せてきた。
今もそうだ。蛙のように両手のひらをパダーが障壁につけて。
やっとそこでダリルも理解したのだ。臭いを嗅いだのだ。ぶああああっと全身の
鼻が曲がりそうな悲鳴と死臭と嗜虐の匂い。脳天が眩む。どれだけの獣をいたぶって殺したのだこの男は。こんな男に、リリィさんは狙われているのか。健気に体を起こそうとするが効かない。全身が動かない。
壁の向こうでだらあっとパダーが笑う。
「ひゃっひゃ。見ろこの手を。指を。綺麗に治っているだろ? 高くついたぞリリィ。お前が引きちぎったんだ。弁償をしないとなあ。そうだろ、んん? 今でも疼くんだぞ? お前にさわりたくてさわりたくて指が毎晩疼くんだあ」
壁に広げた両指に紫色の血管が浮いている。治癒魔法で治した証拠だ。ウサギの顔が歪む。障壁に奪われる魔力で、身体がじっとりと汗ばんでいく。
「この指でずっと乳を揉んでやる。尻を揉んでやる。ひゃっひゃ。撫で回してやる。その毛深い毛深い、毛深い全身をだ。いいかぁ。首を締めてやる。ぎゅうううううっとだ。泡を吹け。ヨダレを垂らせ。そして俺を舐めろ。お前はこれから死ぬまで。首をぎゅうぎゅう締められながら俺の全身を毎日舐めまわして暮らすんだ。ひゃっひゃっひゃ。朝も昼も夜もだ。お前の身体に傷はつけない。もったいないからなあ。だから神経をいじってやる。言うことをきかすためじゃあないぞ、痛がって転げ回るのが見たいだけだあ。殴らないぞ。穴も開けない。綺麗なままで気が狂うほど痛めつけてやるぞ。泣き叫べ。そしてよがり狂え。苦痛も快感も俺の意のままだ。ひゃっひゃ」
パダーが嬉々として喋るのだ。心底いい笑顔で。
「なあ? 昔は悪かったなあ。歯を全部抜こうとしたからなあ。腕も折ろうとした。獣が爪やら牙やらあるのがいけねえんだ。だが今は蟲があるんだあ。この、ここにな」
自分の後頭部を指差して。
「蟲を埋めるだけだあ。いい世の中になった。ほんとうに、いい世の中になったなあリリィ。きれいなままでいられるぞ。きれいなままでのたうち回れ。泣きまくれ。そしてぼろぼろ泣きながら俺を舐めろ。一生だ。死ぬまでだ。あああたまらない、きれいだあお前は。さあ出てこい。手に入れるぞ絶対に手に入れるぞ絶対にだ絶対にッ!!」
突然振り上げたパダーの拳が激しく光って。
があんッ! と鋼鉄の槌の如くに振り下ろす。
「俺からッ! 逃げたケモノは! お前だけだッ!」
何度も何度も叩きつけるのだ。びりびりとドームの中に伝わる空振が大きくなるにつれてリリィの全身から浮き上がる紋はゆらゆら揺らめいて。ついに玉になった汗が首元の毛から胸に抱えたダリルの顔へぽたぽたと落ちてくる。
壁の外でうっひゃっひゃっひゃと笑いながら叩きつけられるパダーの腕は。あの服は。相当高性能の
遅かれ早かれだ。自分の障壁では防ぎきれない。
汗ばんだ胸にぎゅっと抱え込んで。小声で。
「ダリル」「は……はいっ」
「もし壁が破れたら私を殺して」
胸元の犬が血まみれの顔で目を剥く。息の荒いリリィは気丈に壁を睨みつけながら。やはり小声で。
「聞いてたでしょ。死ぬほうがマシ……ぐっ!」
びしッ! と入った障壁のひび割れに。歯を食いしばる。またひびが小さくなり、しかしまた。ぎゃははははと笑ってパダーが打ち付ける。殴り続ける。止まらない。伸ばしたリリィの右腕ががくがく震えて。
もう湯気が立つほど全身を緊張させて壁を維持する。ふうっ、ふうと息が荒い。
「オラ出ろッ! 出ろ! 出てこい!」
リリィの歯が震える。腕が垂れて。目に涙がたまって。
こんなところで。こんなところで。
死にたくなんかない。
その音は雨粒か砂つぶなのかわからない、まるで竜脈が巻き起こす嵐の始まりに似て、彼方から。ざああああっと空を流れる光の粒が工業水路の向こうから。
降り注いだのは光の
パダーの身体には刺さらない。雨のように降る矢を全身がことごとく弾いて。だが。その降る矢に紛れてそれも彼方から。爆発的な駆動音を響かせて。
カーキ色の機体がパダーを激しく弾き飛ばした。
大きく息を飲んだリリィの目からばらっと涙の玉が落ちる。
数リームほどごろごろと投げ出された巨体がのろおっと難なく立ち上がって。
「うらああうらあッ! なんだてめえ——はッ!」
全身が輝くパダーは効いてないのだ。だが目を剥く。獲物を見つけた目だ。
「うひょおおおおおッ!」
土煙の中に着地した大型のモノローラに立ち乗りするぎゅっと絞られた細身の身体から。リリィより遥かに長い純金のような髪が広がり舞い上がる。大きな金色の尾が揺れて。斜めに下ろした鼻すじから切れ長の目が、長いまつげを伏せて迷惑そうに。
金の狐が。ノーマ=アンブローズが。
醜悪な棟梁を睨む。
「
「オマエも舐めろオォォッ!! ひゃっひゃっひゃッ!」
思い切り両手を開いたパダーが逆手で煽るのだ。
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