第百四話 幻界蟲 二態


=時間がない。行動しろアキラ!=


 最上階の外壁に背を付け耳に手を当てたまま固まっていたアキラが我に返る。声が続けて指示を出した。

=無限機動に乗った虎は臨海区域の手前、距離にして十数キロリーム離れている。助けを呼んでも間に合わない。我々でなんとかするしかない=

「な、なんとかって」

=幻界が絡むのなら、どのみちお前でなければ無理だ。今やるぞ。その覚悟で来たのだろうアキラ。さきほどの男が移動を始めた。階段を上がってくるぞ=


 広く開かれた出入り窓へアキラが振り向く。男が「クロウさん」と呼んでいた通信の相手はおそらくゲイリー=クローブウェルだろう、こちらに対して「必要なら蟲を使え」と喋った。


 しかし——


 動きざまにアキラが声を出す。

「ひとつだけ。試したいこと、あるんだ」

=なに?=



 一階のロビーの片隅で。待合のソファに腰を下ろした男が腕輪から耳を離して眼鏡の奥の目を細め、舌打ちをする。

「……威張り散らしやがってクソ野郎が」

 素早くソファから腰をあげ、階段へと向かう。緩く鼻に乗った細眼鏡の視線は最上階へ向けたまま、早足で一気に登り始めた。角張った革靴の音がかつかつと響く。


 二階、三階、四階。その歩みはまったく衰えない。



 開き扉から部屋に入ったアキラにリリィとダリルが視線をやる。瞬間、部屋を見渡した銀髪の青年は一言だけ。

「やっぱり反応されました。今ここでやります」


「え? あ、あの……」

 赤毛のエリナは意味がわからない。だが部屋の両側の二人は。

 目を丸くしたのは一瞬で軽く頷いたダリルが、部屋の扉に身構える。

 しゃがんだリリィはボストンバックに手を入れて。中の釘打銃ネイルガンを掴んで、まだ出さない。バッグに突っ込んだまま立て膝で構える。


 ただならぬ緊張にきょときょと部屋を見渡すエリナに。

「エリナさん」「は。はい」

「さっきの人、もう長いの?」

「え? デントーさん」「そう」

 彼の言葉に反応したのはむしろリリィだ。

「アキラくん?」

「父の部下です。もう最初から入院した私の世話を……あのっ」

 そこまで聞いて。アキラが扉を開けて廊下に出て行く。わずかに目を見開いたリリィが声を出す。

「アキラくんッ!」



 細身の背広にも呼吸にも一切の乱れなく階段を駆け上がってくるデントーがついに最上階に繋がる最後の踊り場を曲がって。かかかかっと一気に登りきって。階段出口を曲がって廊下に向き合った、そこに。

「てめえ……」


 まだらの銀髪の青年が立って、こちらを見ていた。廊下で立ち止まったデントーも視線を外さない。鼻の眼鏡をくいと人差し指で上げる。

=急速に男の魔力が上がっているぞアキラ=

 ゆっくりと。アキラが開いた右手を前に向けて。細身の男が半身を軽く捻る。一言発したのはアキラからだ。

「アンダーモートン?」

「——そうか、決まりだな。敵か?」



 効いたか。どうか。

 変化は。


 明らかに見ればわかる。眼鏡の奥から見据えていた細く鋭い眼光を押しのけて驚愕の色が現れたからだ。男の離れた薄い唇から漏れるように声が出る。


「……できるのか?」

「〝蛇〟から来ました」

 効いた。アキラが畳み掛ける。


「艦長は、バーヴィン=ギブスンが娘を人質に取られて、無理やり自分らを罠にかけたことを知ってます。仕掛けてるのはおそらくゲイリー=クローブウェル。そしてエリナさんは、自分の身体に蟲が憑いていることを知らない。違いますか?」


 男はまばたきもせず。何も言わない。アキラが続ける。

「協力してほしいんです。俺たちは味方です。エリナさんを助け出して蟲を外せば、あなたたちも自由になるのでは——」


「外には出せねえ」「え?」

 男が口を開いた。


「お嬢の蟲は、療養院の敷地を一歩でも出れば自動で目を覚ます。お嬢の身体を支配する。そういう風になってる。蟲を外すってンなら敷地の中でやるしかねえ」

「中で、ですか?」

「そうだ。しかも俺は呼んじまった。じきここに応援が来る」

「応援って、でも同じアンダーモートンの人なら」

「違う。来るのはピエール=インダストリアって獣狩りだ。パダーのじじィが連れの女に用があるんだとよ。それにな」

 デントーの目がまた眼鏡の奥で鋭くなった。

「もう俺らの中にはクロウに寝返った奴もいるんだぜ」

 アキラがわずかに身構えて。

「……あなたは?」


「俺ァお嬢の子守だ。赤ん坊の頃から見てんだ」

 細身の顔が自嘲気味に笑ったのだ。



 早足で廊下に出たはずのアキラが背広の男と連れ立って部屋に戻って来たので、身構えていたリリィとダリルがあっけに取られる。デントーは素早くエリナに駆け寄りベッドの脇に座らせて。

「デ、デントーさん?」

「お嬢。今から何があっても驚いちゃダメですぜ」

 目付きは悪いまま彼女の両肩を持った男が言うのに任せて、アキラが手招きする。ダリルとリリィが部屋の中央に寄った。その女性がバッグから抜いた右手に銃を持っていたのにエリナが気づいてぎょっとするのだ。


「いいですか? 始めます」

「あのおじさんは?」「心配ありません」

「自分らは何をすればいいですか?」

「……正直、何が起こるかわかりません。必要な対応を」

「了解です」


=アキラ。敵の動静も気になる。誰か外に出しておけ=

 声に言われて外を見る。部屋と同じくらいの床面を持つルーフ型のバルコニーだ。

(むしろ外でやろうか)

=それでも構わん。では窓を入り口にしよう=

(入り口?)


「アキラくん?」

 移動するアキラにリリィが声をかける。アキラがこめかみに手を当て、大きく開いた出入り窓の手前に真っ直ぐ立って外を見る。全員に振り返って。

「自分の後から、外に出てください。エリナさんも一緒です」

 それだけ言ったアキラが、目を閉じる。こうべを垂れる。


=二度目だアキラ、前の回想イメージは残っているか? 接続を開始する。識域下より認識域へ元素星エレメント実体化。事象反射の世界深度は300で設定=


 窓が。外の風景が。遠くに見える街が。世界が揺れる。


 ベッドのエリナが。ゆっくり立ち上がる。

 今度ばかりはデントーも目を見開いた。


 ダリルは口を開きっぱなしだ。

 目を丸くしたリリィが「えへへっ……」と無理に笑う。


 のだ。


界振動アストラウェーブに干渉完了。個別世界レイヤークオンタム、完成。=


 部屋の全員を見たアキラはもう一度言って。

「みんな、付いて来てください」

 そのまま窓から草原へと入っていく。



 どこまでも果てのない草原が前回と違うのは、微かに夕暮れの赤みを帯びていることだ。なぜ夕方なのだろう? と思うアキラの後ろから恐るおそる草を踏んで歩く四人が辺りを見渡して声も出ない。ただ。

 変化はすぐに始まった。呆気に取られて周囲を伺っていたはずの、エリナの様子がおかしい。いくらか歩いて立ち止まり、徐々に息が荒くなる。まるで空気が薄いかのようにはあはあと肩が上下する。ついにエリナがその場にしゃがみこんでしまった。


「お嬢っ……え?」

 思わず手を出したデントーの。その右腕に沿って。


 振り向いたアキラ達も気づいた。細身の男が伸ばした右手を顔の前に戻す、その手のひらと、返した手の甲と。手首と。二の腕と。何か鱗のある透明で微かに視認できる管が、目で追えば肩の方から幾つも巻きついている。

 同じく、腰を折ったエリナの背中にも何かがぼんやりと浮かび上がってくる。それはどちらも徐々に色を成して。


=アキラ……構えろ!=


 見え始める。

 青年と犬とウサギが距離を置く。

「う……うあっ」とダリルが驚きの声を漏らす。


 最初は水晶か氷の作り物のようであった。

 やがて完全に色彩を帯びて。その世界に出現する。


 少女エリナのしゃがんだ上に覆い被さっているは彼女の背中に沿って伸びた頚椎のような骨の先に繋がった髑髏しゃれこうべだ。

 人のものではない。口の部分に口がなく無数の鞭毛から呼吸管のようなエラのついたふんが垂れ下がり頭蓋全体を柔らかな粘体で丸く覆っている。骸骨の後ろは人のように丸くなく五本のつのがたてがみのように、これも下に垂れているのだ。

 鎖骨のあるべき部分には平板で頑丈そうな肩当てに見える、人間にはない骨が細い枝を木の根のように張って彼女の脇下から乳房と腹側に巻きついて。


 背負っている。

 彼女に怪物が背負われている。

 異形の両腕、太い骨が広げたのは蟷螂かまきりの鎌に似て。

 蟲というなら、そこだけが蟲だ。


(こ、これが蟲ッ? 化け物じゃんッ!)

 じゃッ! とアキラが右腕を短く振る。握った拳を擦って手甲から剣が滑り出す。同じくダリルが「ふッ!」と振り下ろした両腕に。輝く剣と盾が現れた。がしゃッ! と耳元で釘打銃ネイルガンのスライドを鳴らしたリリィの長髪が揺れた。


「み、みんな……ドウシタノ?」

 顔を上げるエリナの目は。膜が張ったように白く濁って瞳がない。アキラがぐっと奥歯を噛む。

「あ、あれ? 見えなイ」

「お嬢ッ! い、今助け……ぐあアッ!」


 デントーの叫び声に顔を向けたリリィが「いッ!」と声にならない悲鳴をあげた。草原に立っていたはずの細身の男は、すでに捕らわれて。


 男の背後に取り憑いた蟲は全身が完成した身長三リームほどの巨大な骸骨の怪物だ。だがその四肢を型取る骨は丸太か鍛え上げられた筋肉のようで尖った杭に見える指を大きく構え明らかにこちらを威嚇している。

 髑髏の造形はエリナのそれと違い歯と顎があり、ツノは二本だけだ。まだ人間の頭蓋骨に近い。身体のあちこちを覆う人間にはない平板な骨格は鎧にも見えた。


 デントーの身体は完全に、怪物の内側に取り込まれていた。その両手両足には鱗のある管に似た拘束がプラグ状に無数に突き出してそれぞれの対応する四肢へと繋がっていた。脇腹と胸板、そして首から顎にかけても。完全に骸骨と管が結ばれているのだ。

 ゆらああっと前に屈めて突き出した髑髏の首から。

 その牙の隙間から。

 凝縮した蒸気をぼうううううっと吐き出して威嚇する。見上げるデントーの頰からこめかみにかけて紫の血管が切れそうに浮かんで。

「こ、こ、こんなもん俺にッ! 憑けてやがったのかッ!」

 蟲はその全体が現実世界に顕現しない。その部品、一部だけだ。今も振り上げた骨の両腕からがじゃああッ! と二対の刃が爪のように伸びて。デントーはその爪しか知らない。おおおおおと雄叫びをあげて振りかぶる巨体が。だが。


 果敢に。「しッ!」


 ぐっと右手の剣を背中に引いたダリル=クレッソンが少年の姿のまま跳躍する。風を切って振り下ろされた骨の右腕と対になった爪を。強烈な衝撃を盾で受け流して。独楽のように内側に捻って回った小柄な体にバネを効かせて巨体の右目に。

「がああああッ!」

 吠えて一閃、光の剣を突き立てたのだ。素早く拳を捻って。ばきりと剣を折る。返す巨人の甲が兵士を弾き飛ばした。まともに盾で受ける。「ぐふッ!」と息が詰まって。盾にヒビが入った。人に化けてもその身体能力は獣のそれだ。縦に回転してざあっと着地する。千切れた草っ葉が舞い上がる。

 立て膝の少年が「ふッ!」と両腕を振り下ろす。ぶおんッ! と魔力の音がして剣と盾が再生する。


 アキラは二体の怪物を互いに見て。リリィが叫んだ。

「アキラくん集中してッ!」

 構えた銃から三発。リリィが釘状の光弾を撃ち出す。頭蓋を守って左手をあげた巨体の仕草に、だが大きくリリィが撃ち放った銃を振った。光弾の軌跡が飴のように曲がる。巨人の左手を躱す。顔面に三つ連続して。

 三連一気に破裂した。大きくのけぞり蒸気をあげる顔面から白煙が噴き上がるのだ。


=こっちが先だアキラッ!=

「お嬢をなんとかしねえか馬鹿野郎ッ!」

 頭の声とデントーが叫ぶ。同時に。

 エリナの背から左の鎌が。

 アキラに向かって横殴りに飛んできた。右腕でまともに受ける。

「——ぐうッ!」

 まるで机でも投げつけられたかのような重い衝撃に一瞬息が止まる。身体が揺さぶられて。左足で踏ん張って。しかし。

=逆がくるぞ!=


 少女の背中で弓形ゆみなりけ反った骸骨の右鎌が。大きく円を描いてアキラの頭上に振り下ろされた。思わず腕を交差して、だが。

 首から背中を貫く打ち下ろしにアキラの全身からガラス片のような魔力の飛沫が弾け飛んで。激痛に目が眩む。意識が霞む。右腕に伸ばした魔法の剣が割れて吹き飛んだ。

「アキラさんッ!——うおッ!」

 轟音とともに草むらに突き刺さった怪物の右の爪をかろうじて。身を転がしてダリルが躱す。そこに巨大な左手が掴みかかって。——止まった。空中でぎりぎりと震える掌を抑えているのは。

 ゲントーだ。振りかぶった左腕を震わせながら右目と、左の耳と鼻から血を流して。

「は、や、く、しねえかッ……!」

 骨の動きに対抗しているのだ。咄嗟にダリルが跳び下がって。体勢を立て直す。叫ぶゲントーの口からも血の泡が飛ぶ。

「お嬢の蟲を外せえッ! やるっつッたろうがてめェ!」


=アキラ! 剣も壁も再生できる! 剣を張れ!=

「け、剣を」

=そうだ! 意志に魔力は反応する! 張れッ!=


 止まった左腕の上を抜けて。またリリィが撃ち放った杭が怪物の顔に刺さって爆発した。二発。初めて敵がぎゃあああと叫んだ。効いている。髪をなびかせ振り返ってリリィが「アキラくんッ!」と声をあげる。

 向こうは二人で手一杯だ、自分がやるしかないのだ。しかしアキラは素手のままで粘体に包まれた髑髏に掴みかかって。

「壁は破れないんだなッ!」

=破れない! だがいつまでも保たないぞアキラ!=


 引き寄せる。間近で見る蟲の身体はあまりに頑強な骨板が肩から胸を覆って。垂れ下がる口吻を別の生き物のように激しく振り回して。粘体の内側から真っ黒に空いた空洞の目が「邪魔をするな!」と言わんばかりにこちらを凝視している。

 そのどろどろとしたゼリー状の塊に素手の指をアキラが突き刺す。両方から鎌が。掴みかかったアキラを引き剥がそうと万力のような圧で顔を押しやって。


 押し負けそうだ。顔面に当たる鎌は間近で見れば。異様に複雑な形状で細かく波打った骨には明らかに魚類のエラを思わせる、毛羽立った細かい目がそれぞれに動いているのだ。


 押し負けそうだ。チリチリと震える鎌の波目に意識が持っていかれる。その周辺で散っているのはこちらの顔面に張った障壁の欠片なのか。首が曲がる。背中が反っていく。喉がちぎれそうだ。


 ぎりぎりと。押し負けそうなのだ。

「うっぎぎぎぎッ」と歯を食いしばるアキラが。

 だが叫んだ。

「喰らえッ!」


 粘体ゲルの中で。

 新たに発現したアキラの剣が。


 頭蓋とうがいの左下顎から頚椎を突き破ったのだ。後頭部のツノ下二本を破壊して剣が貫く。折れんばかりに強烈な押圧で蟲の鎌がアキラを弾いた。

「ぐあッ!」

 後ろに吹き飛ばされる。アキラが弾かれる。剣は抜けてしまった。

 ごおおおおおッと口吻が蒸気をあげた。

 奇怪な液を飛び散らせて少女の上で滅茶苦茶に鎌を振り回す、その頭蓋骨の真横が。


 唐突に爆発したのだ。

 リリィの杭が一発、刺さったのだ。

 爆炎とともにアキラの入れた切れ込みから。


 髑髏が千切れて横に吹き飛んだ。

 粘体がびしゃああっと弾ける。

 

 首のない蟲の頚椎がしな垂れて、両腕の鎌が動きを止める。耳をつんざくほどの咆哮を響かせた巨体の怪物が右足を踏み出す。草原が揺れた。

 アキラが立て膝で振り向く。青白い魔力に包まれた銀髪がたてがみのように立ち上がって。真っ直ぐ伸ばした右腕に左手首を十字に添えて。

 思い切り肘を引いた。そんな手甲の機能は知らない。こころが「出来る」と理解したのだ。


 猛烈な発射の爆発とともに撃ち出されたアキラの剣が一直線に輝く軌跡を放って光線の如く怪物の眉間に突き刺さる。ずがあんッ! と岩を断ち割るような音を立てて刺さった根元から縦にひび割れて。

 ぐらあっと。前のめりになった敵の横からダリルが跳んだ。

「うおおおおおッ!」

 全体重をかけた右腕の剣が。


 その首を斬り飛ばした。吹き飛んだ首が土煙を上げて草に転がる。そのまま。鎧のような巨体が突っ伏して。男が下敷きになって。

「デントーさんッ!」

 捲き上る草の葉の向こうからアキラが叫ぶ。首のなくなった巨体はぴくりともしない。うずくまったままの少女も動かない。


 やがて。それは始まった。


 構えを解かない三人が見据える中、少女の背でしな垂れた蟲の死骸と、突っ伏した巨体の死骸が、ともに。それは砂細工のようにざらざらと崩れて色褪せて。形を失っていく。

 骨の怪物二体が、白い砂へと還っていく。




「——リリィさん、彼女を」


 アキラの声に我に返ったリリィがエリナのそばに駆け寄って。逆にアキラとダリルの二人は今は砂の山となった巨体の死骸を掘り起こす。

 男の身体はすぐに出てきた。潰れているわけではない、だが動かない。二人がゆっくりと仰向けに返せば。

「うっ……」

 まだ息のある顔面は、しかし右目と両方の鼻の穴から血を流し、口元の端から血の泡が垂れている。へ、へ、へっと細かく息を吐いたデントーが最後に、どろっと口から大量の血の塊を吐いた。


「こ、これ……」

=無理だ。ここは幻界だアキラ。現実の体に元素星エレメントを使った治癒はできない。それにおそらく多臓器を損傷している、我らには手に負えない=


 唇を尖らせお、お、お、と。

「お、お嬢。おじょうは」

「無事です。外しました」

 その返事に細かく、震えるように首を頷かせて。まだ唇が閉じない。血で真っ赤になった歯ががちがちと鳴って。細かく振動する手の指が、アキラの右手に食い込んで。引き寄せようとして。口から泡が飛び散る。


 アキラが。

 その震える口に、耳を寄せる。


「よ、よかった」「はい」

「じゅう、じゅ、じゅうなな」

「え?」「いしが、いし」


「十七地区。魔導送配管本部ビル」

 横からダリルが声を出す。男が血だらけの口を歪めて笑う。頷く。頷いて、頷いて。——止まった。

「デントーさん?」


 瞳孔が反応しない。

 しばし固まったアキラが、震える指で。男の目を伏せる。

 どさりと青年と兵士がその場にへたり込んだ。

  

「アキラくん。気、失ってる」

 リリィが声をやる。呆然としたまま振り返るアキラの向こうで、リリィがエリナの身体を抱きかかえて、そちらも草むらに座り込んでいた。


=アキラ。時間がない。幻界を解除するぞ=

 声だけが頭に響く。まだアキラはまともに思考が働かないままだ。





 一瞬。アキラは。

 その男が生きているのではないかと思ったのだ。


 気がつけば三人は屋外の広いバルコニーでへたり込んだままで。アキラとダリルに囲まれて仰向けで横たわったデントーの顔には血の一滴もついていなかったからだ。だが伏せた目も薄く開いた唇もそのままで、まっさらな顔は動かず息もしていなかった。首に手をやれば脈も止まっている。

 あれだけ化け物が振り回した鎌の跡も、爆発も。最上階のルーフにはどこにも傷一つない。まさに〝夢から覚めたあと〟の如く、戦いの痕跡は現実世界に残っていない。


 エリナは呼吸をしている、だがリリィに抱かれたまま意識は戻らない。まだ思考が定まらないアキラが無理に考える。頭を振る。


 無様な戦いぶりだった。


 ろくに身体が動かなかった。もっと何か、蟲を外すまともな手順があったのではなかったか?

=仕方ないアキラ、我らはあまりに情報が足りない=

 頭の声に。細かく頷くアキラが、しかし。


 人がひとり死んだのだ。

 彼の蟲は、アキラには外せなかったのだ。

 

=覚悟を決めろ。敵が近づいている=

 ぶん。と。ひとしきり大きく髪を振って。


「リリィ。ダリルさん」

「うん」「はいっ」

「ここを出る。彼女は連れていく。俺たちが保護する。ダリルさん。この街で最も安全な場所は?」


「——東インダストリア工業地帯に隣接する国軍本部です。きっと蛇……ウォーダーもそこに係留されているはずだと」

「わかった。その子を」「え?」


 アキラがリリィのそばまで寄って、抱き上げられたエリナの腕をとって、背中に背負い始めた。見ていたリリィが黙って手を貸す。肩に両腕を巻きつけさせて。ぐっと背負い込んで。そのまま。

「ア! アキラッ!」


 最上階のバルコニーからアキラが跳んだ。全身に纏ったのは風星エアリアの壁だ。ざあっと。唐突に屋上から飛び降りてきた青年に数人行き来していた患者が「ひいッ」と悲鳴をあげる。

 数瞬、躊躇いの後に。

 残った二人も宙に身を投げた。ビルの最上階から立て続けに着地する。「もうッ」と声を飛ばすリリィに構わず駐車場の端に停めたロックバイクへとアキラが向かう。


 アキラが一台に乗る。開けたリアシートの内側から出したロープでリリィが彼の腹に回したエリナの両腕を縛る。

 さらにたすき掛けに、頑丈に彼女を縛り付けていく。されるがままシートに座ってハンドルを握るアキラが少し迷って。

「リリィ」「うん?」

「パダーって名前を知ってる?」


 ウサギの手が止まった。しばし返答せずにロープを握ったままで。やがてアキラの顔を振り仰ぐ。

 その表情はかつてアキラが見たこともない、今は美しい人間の少女に化けたリリィの瞳は大きく開かれたまま。じっとこちらを見返してくるのに。目の焦点は合っていない。アキラを見ている風に感じない。


「……ファットジャン=パダー?」

「フルネームは知らない。その部下が向かっている」

「どうして?」

「クローブウェルと繋がっているらしい。パダーが君の名を知っていたそうだ」

「アキラ」「うん?」


「人、殺しそうな顔してるよアキラ」


 その一言で。アキラの目の焦点がリリィに合う。戻ってくる。

 なんのことはない、二人とも似たような顔を相手に向けていたのだ。

 リリィがアキラの頰を両の手のひらでそっと包んだ。

 その手も今はヒトの手だ。細い指は少し冷たい。


 ぱんぱんと彼の頰を軽く叩いてリリィが言う。

「わかった。ありがとアキラ」

 やや伏し目で頷いて、いつもの顔に戻ったアキラが深く息を吐く。意識は平常に、だが、確かに。スロットルを握るアキラは確実に変わっていた。


 敵は倒す。

 でなければ、仲間が死ぬ。

=そうだ、そういうものだ=

「うん」


 もう一台はリリィが跨る。ダリルに向かって目で合図する。ちょっと躊躇ったダリルがリアに乗ってウサギの腹に手を回して。アキラのバイクに声を飛ばす。

「あの。自分が案内を」

「大丈夫。道はわかる」

 そう答えたアキラの網膜にナビゲーションが映し出された。道に上書きされたルート情報と距離、到着時間は——

=敵の動き次第だ。状況によってはルートを迂回する。そう伝えろ=

 アキラが頷いて。


「敵次第では遠回りするリリィ」

「うん、了解」

 療養院の玄関が騒がしくなってきた。従業員の数人が患者たちと一緒にこちらを指差してなにやら言い合っている。ほどなく、最上階のデントーの死体が見つかるだろう。エリナが消えたことも事件になるはずだ。

 どうやら保安部らしい体格の良い男性が奥から出てきたのが遠目に見えたので。アキラが魔導槽ダクトセルのスイッチを入れる。バイクの駆動音とともに基底盤が輝いてぐん。と車体が浮上した。


「待ちなさい。君たち……うわッ!」

 保安員の制止を振り切って。二台のバイクが滑らかに加速した。後を追う男たちを砂煙に巻いて広場に弧を描いて。


 彼らのバイクは走り去ってしまった。

 この時点で。騒ぎを起こしたのが獣たち、蛇の仕業であることはバレていない。従業員の連絡は一般の保安隊に知らされた。

「そうです。男二人と女が一人、当院の患者を一名連れ去って——」

 市街地を警戒中のモノローラに通信が飛ぶ。


『北オートロウ地区ブレナデス長期療養院にて殺人ならびに誘拐事件発生。容疑者はロックバイク二台にて市街地を南に逃走中。付近の保安隊は急行せよ』

 街道を平常運転していたモノローラが道路から飛び立つ。飛行形態に切り替わって空から街を見下ろして探索を始める。


 保安の通信は頭の声が把握していた。

=イルカトミアと同じだな。人間の街では追われてばかりだ=

「ホントだよ。モノローラは上から?」

=飛んでくる。まだ一番近い機影も数キロは離れている。なるべく死角に入ろう、その立体交差を左に=

 二台のバイクがバイパスの下、短い交差を潜ってビル影を南東に抜けていく。



◆◇◆



 エリナの誘拐は当然、その保護者に登録されたゲイリー=クローブウェルにも伝わった。事情を訊こうとする保安隊の通信を適当になしたクロウが足早に歩いていたのは中央行政塔のバックヤードだ。


 評議員たちが行き来する絨毯が敷かれたメインの通路と違ってオフィス然とした通路に靴音が響く。歩きながらクロウは左手の腕輪に言葉を投げていた。

「犯人は男女三人組の人間らしい。獣とは聞いていない。どういうことだ? これが〝隠身〟というやつなのか? おまえの目当てのウサギが、その女なのか?」

『わっかりませんねえ。獣の隠身てのは見事ですよおクロウさん、化けたらまったく見分けがつかねえ。どっちにしたって私もカラ喜びはごめんです、この目で確かめてやりますよ』

 腕輪の向こうで、パダーが矛盾することを言う。

「……見分けがつかないのに、その目で確かめるのか?」



 街の大通りを爆走する数台の真っ黒な乗用車リムジンは第二街道バイパスから山手へ走っていく。奥の座席でポップコーンのような菓子をぼりぼり口から溢しながら頬張るパダーが身体を揺する。

「ええ。ええ。獣に戻ったらこっちのもんでさ。目印があるからねえ」

『目印だと?』


。あたしの指も吹き飛ばしましたがね! ひゃっひゃっひゃ」

 食いカスを飛ばしてパダーが笑うのだ。

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