第百一話 ゲイリー=クローブウェルの半生


——おまえはさあ、なんか不器用なんだよゲイリー。



 工場の裏手に流れるどぶ川の、コンクリの端に立て膝で座った少年は。ぼさぼさの頭に、捲った袖から見える両腕も顔も小傷だらけで。やや下のブロックに猫背で同じく腰を据える賢そうで細い顔のもう一人に言うのだ。

「頭いいんだからさあ、もうちょっと要領よくやりゃあいいじゃねえか」


 猫背の少年はじろっと見返して。

「要領いいならオマエとなんか付き合っちゃいないよバーブ」

「ははッ ほんとだ。そりゃあそうだ」

「いい加減アリバイのネタも尽きてんだからな。次、盗んだら庇いきれないぞ? わかってんのか?」

「だからそういうトコだって。アリバイなんて使い回しゃいいじゃん。ベルアの鉄工所で二人でバイトしてたって言やあいいじゃないか」

「ベルアがな」「うん?」

「『もう巻き込むのは勘弁してくれ』って言ってきたんだよ」


 ぼさぼさの少年が露骨に顔を歪める。

「はあ? おまえにそんな口聞いてんのかアイツ?」

「おい?」「じゃあ俺がまた髪切ってやんよ」

「やめろって! これ以上面倒ごと起こすなって!」

「こういうのはナメられたら終わりなんだぜ?」

 息巻く少年バーブに。ゲイリーがため息をつく。

「やめとけって。それよっか何の用だよ改まってさ」


 ゲイリー=クローブウェルは。いつもなら他の悪餓鬼とつるんで街へ消えて行くはずのバーブが妙にかしこまって自分を呼び出したのが腑に落ちない。そしてその話題を振ると目の前の悪友が急にしおらしくなってしまったのも、腑に落ちないのだ。


「えっとな」

 バーブが鼻を掻いた。


「うん?」「会いたいがいてさ」

「へええええ。そうなんだ」

 ゲイリーが目を丸くする。それは意外だ。心底驚く。正直、バーブの女癖の悪さには手を焼いていたからで、街の仲間と若い子に見境なく声をかけることは多々聞いていても、こんな相談は受けたことがない。だから。

「会えばいいじゃん。いつもみたいに……えっと」

 頭の回転が早い彼は、そこでちょっと躊躇ためらった。こんな相談を自分にするということは、つまり。


「一対一じゃまだ会いたくないって、言われてさ」

「いやいやいやいや!」

「向こうも二人でくるからさあ」

「いや! 俺はやだからな!」

 ばあああっと両手を振ってゲイリーが拒絶した。むすうっと膨れるバーブがわかりやすい。

「なんでだよッ」

「オマエいくらだって連れてける奴いるじゃん! 女受けしそうなやついるじゃん俺なんかじゃなくったってさ!」

「そういう奴じゃダメなんだって今度は。そんな子じゃねえんだって。真面目な子なんだ。股間に蟲付けたような奴、連れてけるかよ」

 がっしとゲイリーの両肩を掴んで。傷だらけの顔が真っ正面から真剣に。

「俺。本気なんだ」「ええええ……」


 

 その日。なんだかいつもと違った服装——それは単にゲイリーにとって新鮮であっただけで、本当にどこにでもいそうな何の変哲もない年相応の服を着ていたのだが——を着込んだバーブが落ち着かない。やたらときょろきょろとしてたまに目が合うと「へへっ」と苦笑いする彼の所作も新鮮であった。てっきり女漁りは慣れているもんだと思っていたゲイリーが思いを改める。

 意外と。こいつは単に気が多いだけで女性に対してはまともなのだろうか? と。むしろそれも性質たちが悪いといえばそうなのだが。そう訝しむゲイリーを余所に。


「あ! きたきた。おーい!」

 手を振るバーブに向かって道の反対側から少女が二人歩いてくる。背格好も近く、一人が赤毛で一人が金髪だ。赤毛がマリー。金髪がサラと名乗った。


 少年ゲイリーは。固まってしまったのだ。


 セミショートの赤毛のマリーは白いうなじがすらりとして僅かに髪からのぞく耳たぶに気持ちだけの小さなピアスをつけていた。眉はむしろ少年のようで鼻筋がくっきりと通り、伏し目がちのまつ毛が長い。

 そんなに胸元を広く見せない服装であったのに、鎖骨の見える首元ばかり目が行ったのは。彼女を正視できなかったせいだったのかもしれない。まともに見れば、きっと顔が火照ってしまったはずなのだ。


 一目惚れだったのだろうか。そして悪いことに。

「マリー。こいつゲイリー。俺の昔っからの親友だぜ」

 嗚呼ああ。やはりバーブの惚れた相手がこの赤毛なのだ。



 ◆



 ほどなくして悪友バーブと赤毛のマリーは付き合い始めることになった。最初のうちは随分と、宣言していたように真面目を貫いていたはずのバーヴィー=ギブスンも、半年ほど経てば徐々にぼろが出て街での悪行や喧嘩沙汰など普通に起こすようになり、そのたびにゲイリーと、やはり彼女の親友であった金髪の長い髪をしたサラは喫茶店の片隅で三人集まってマリーの愚痴を聞いては励ますのが日課になっていった。


「あいつは根はいい奴なんだって」と「俺からちゃんと言っとくからさ」というふたつが毎度のゲイリーの台詞で、そう言われるたびに「ありがとゲイリー、サラ」と涙目でマリーが感謝するのも、いつもの決まりごとのようで。


 夕暮れのある時、その相談事の帰り道に。ふとサラが首を傾げて横からゲイリーを覗いて。

「ねえゲイリー」「うん?」

「ゲイリーって優しいよねマリーには」

「は? ほっとけないだろ二人とも大事な友達なんだからさ。——それに、マリーだけにってわけじゃないじゃん。お前にだって優しいだろ俺は」

「どおっかなあ」「なに絡んでんだよ」


 後ろ手に手を組んで小石を蹴るように歩くサラの長いブロンドが夕陽に揺れる。初めて会った時はマリー以上に無口だったサラは、しばらく後に聞いた話ではあの初対面の時はやはり同じように頼み込まれて渋々マリーに付き合ったらしく、ゲイリーと同じく、きっとそれ以上に緊張して警戒していたそうなのだ。

 今ではすっかり打ち解けた風なサラだったが、それでもゲイリーはまだ彼女と二人っきりで街に出かけたこともない。会う時は必ず四人、もしくは今日のように三人なのだ。


 だから意外だった。

「明日さ。ちょっと昼からだけど」

「うん?」「どこか出かけない?」

「二人で?」「そう」

「構わないよ」「うん」

 そんなことをサラから言い出すとは思わなかったゲイリーは、でも。ちょっとだけ嬉しそうな悲しそうな彼女の笑顔の意味が、わからなかったのだ。



 翌日の昼第二時を越えたあたり、街の広場にやってきたサラの姿を見て。

「お、おまえどうしたんだよ?」

「えへへ。似合う?」

 彼女は背中にまで伸びていた長いブロンドをばっさりと切って思いっきり首元からうなじまで見える、マリーと全く同じセミショートに揃えてきたのだ。しばらく気が動転して言葉を発しないゲイリーにむうっと頰を膨らませて。

「何とか言いなさいよ」

「え? え。あ。ああ。似合う。かわいいよサラ」

 思わず出した言葉に真っ赤になったサラが笑った。


 その日は安いけどいつもより少しだけ贅沢な食事をして、お互いの財布の中身を気にしながら買い物をして。エスコートなんか全然できないゲイリーをサラが街のあっちこっちに引っ張って。時間の過ぎるのがあっという間で。

 昨日と同じ夕方は、昨日と同じ帰り道で。遠くに西日に染まった工場の煙突が真っ白な蒸気を空に吐いているのもそのままだった。道を歩くサラが急に振り返って言う。

「今日、……楽しかった」

「そうだな」

「楽しかった?」「ああ」

 彼女の顔は、なぜか少し悲しそうで。

「今度さ、いつ行こうか?」「うん?」

「いつ、出かける?」「そうだなあ」

 先の予定はどうなっていただろうかと少し思案するゲイリーの前で。それは本当に唐突で。


「なんで訊かなきゃ言ってくれないの」

「え?」「なんでもない」

 そう呟いたサラの目にみるみる涙が溜まってきて。あまりに急な出来事で。

「ど、ど。どうしたんだサラ」

「なんでもないって!」

 ばっと身を翻して立ち去ろうとするサラの細い手首をゲイリーが捕まえた。肩を引く。が、やはりサラは横を向いたまま、その頰にはもう涙の筋が溢れていて。

「どうしたんだよ! 俺、なにか変なことしたか?」


「なんにも……ただ、なんだか情けなくなって」

「はあ?」「私、帰る。離して」

「待てって。サラ。ちゃんとこっち向けよサラ」

 無理に背けた横顔のままで。こんなに短くしてしまったサラの髪が緩く流れた内側に見える頰と耳が染まっているのは陽差しのせいなのだろうか。

「だって、いつだって。マリー見てる。ゲイリー」

「は……は?」「ずっとマリー見てる。そうでしょ?」

 やっと向き直ったサラの潤んだ目が訴えるのだ。

「あたしだって。隣にいるのに」


 太陽は卑怯だ。目に焼きつくような残照が。こんなどぶ川の流れる薄汚れた街を美しくさせる。見つめ返す少女の顔に、ゲイリーが少し黙って。やがて。短く揃えた髪に指を通して頰に触れて。女の子の肌がこんなに脆いほどに柔らかいことを初めて知った。少し上を向かせて。たどたどしく顔を寄せて。


「——泣いてる子にキスするの、ずるい」

「そんなの知らないよ、初めてなんだ」


 確かめるような接吻くちづけで。

 彼女の涙も。濡れた瞳も。夕焼けの街も。

 この瞬間が宝石のようだ。





 やがて年月が経ち、少年少女は大人になって。互いに付き合い、肌を重ねて。同じような時期に彼らは結婚して、同じような時期に子供が生まれて、そして同じように女の子に恵まれた。

 バーブとマリーは女児にエリナと名付け、ゲイリーとサラはアリアと名付けた。互いの子が幼いうちは家族ぐるみで会うことも多くあったが、やがて二つの家族は疎遠になっていった。お互いの仕事、お互いの生活があるからだ——というのは建前であって、じつは。


 ゲイリーはインダストリア臨海の技術職に就いて公的な役務が増えてくるに従って、バーブ一家とは距離を置くようになった。言うまでもなく、バーブの仕事がきな臭かったからである。ただそれだけに彼は羽振りも良く、ゲイリーの稼ぎでは躊躇するような店に連れて行かれることもあったのが、足が遠ざかった一因でもあった。

 大した稼ぎのないゲイリーはがむしゃらに仕事をこなし、小さなアパートメントで帰りを待つサラとアリアがすでに眠ってしまった深夜に戻ることも多くなり、娘と触れ合う機会も減っていった。


 サラはできた嫁で少ない稼ぎをなんとかやりくりしながら娘を育てて文句一つ言うこともなかったが、だんだんと荒れてくるゲイリーの言動に口数も少なくなり、二人の会話もだんだんと減って、やがて寝床が分かれた。夜中に帰る彼が潜り込めば嫁と娘が目を覚ますからというのが、それも建前であった。


 ただゲイリーは二人への愛情が減ったわけではなく、むしろ申し訳なく、しあわせにしてやりたくて、焦っていたのだ。それでもたまに会うバーブに対し、ある時。彼はついに足りない生活費を借りた。嫌な顔もせずバーブは貸し与え「いつでも相談に来いよ」と肩を叩き、何度目かの無心の際にとうとう向こうから切り出したのだ。

「俺のとこに来いよゲイリー」

「……え?」

「お前の良さなんて役所の馬鹿どもがわかるはず、ねえじゃねえか。なあ? 俺、今度フィルモートンに引っ越すんだ。あっちで仕事を立ち上げる。人手がいるんだ」

 いつもより多めの札を手渡したバーブが最後に言った「考えといてくれ」という台詞に曖昧な返事だけ残し、ゲイリーは彼の元を去った。


 夜の街をふらふらと歩く。本当は悔しかったのだ。でも言い訳をした。自分に。


 知ってるんだぞ。お前のやってることは密輸じゃないのか? 魔石を国外から持ち込んでいるだろ? そんなの儲かって当たり前じゃないか! 俺を馬鹿にするな! そう思うゲイリーはもはや二度と彼には近寄るまいと心に決めて。

 一層、仕事に励んだのだ。頰はこけて人相が悪くなり、目つきも変わった。体を心配するサラに「お前に何がわかる! 黙ってろ!」と一喝し、夜中も遅くまで薄明かりの下で、上司に提出する様々な進言書を書き込んでいったのだ。


 それらは全て一蹴された。ある時、デスクに座った老眼鏡をかけた上司が彼にぼそりと話して聞かせたのだ。

「神経を逆撫でするんだよゲイリー」

「——は?」

 言ってる意味がわからない。上司が続けた。

「まるで『こんなこともわからないのか』と言わんばかりの進言書だ。読む相手を馬鹿にしている。もう少し言葉を選んだほうがいいな」

「いや……行政の進言書ですよ? 戯曲の台本じゃない。言葉を選ぶって、なんです?」

「そこがわからなきゃあ、何度書いたって無駄だよ。だから教えた。感謝してくれよゲイリー」


 その日のことは、よく覚えていない。

 浴びるように酒を飲んで、妻に吐いた罵声も覚えていない。サラは泣いていた。アリアは部屋に隠れて出てこなかった。なにもかもが空回りで、あれだけ頑張ってきたことが全て無駄で。しばらくの間、ゲイリーは抜け殻のような表情で、ただ目の前にある書類の束をこなす日々が続いて。やがて。


 見覚えのない人物に呼び出されたのだ。


 男はディボ=バルフォントと名乗った。恰幅のいい老紳士で、背広の生地は一目でわかる上等なもので、しかし見る者の襟を正させるような沈殿するような重い気迫があった。

 中央行政塔の評議員を名乗ったこの男がなぜ自分みたいな一介の技術官を呼び出したのかまったく見当もつかないゲイリーに、バルフォントは。南インダストリアの魔導配管の業務員を探していることを話し、今後ゲイリーに自分の直属で働くこと、そして秘密を口外しないことを誓わせたのだ。

 提示された月の報酬はこれまでの四倍であった。信じられない高待遇に、だが。ゲイリーは直感的に身構えた。この男の指示する業務は並々ならぬものだ。事実その通りで、条件に浮かれて雇われた同期の者はゲイリーを残して全て脱落していったからだ。


 休日というものはなくなった。配給された腕輪からの呼び出しは昼夜にかかわらず、招集は一時間以内が厳守であった。与えられる書類は難解を極め、しかも処理は通常の半分以下の期限であった。明日の朝までにということも珍しくなく、つまりそれは「寝ずに仕上げて来い」ということだ。

 一層頰がこけたゲイリーが、しかし目の光だけがぎらぎらと強く、意志と迫力が戻ってきた。転機だ。ここでふるい落とされるわけにはいかない。彼の部屋には書物が増え、辞書が増え、むしろ家族への口数は減り、そして無口なりに優しくなった。もう娘の前で妻を罵倒もすることもなくなった。だが共に食事をすることも、なくなっていったのだ。


 カラクリはすぐに理解した。

 ゲイリーは未だ衰えては、いなかったのだ。


 巧妙に数字と魔力量は調整されていた。不可解な魔力の総量は南インダストリアの複雑多岐な配管を通り抜けるたびにきれいに洗浄ロンダリングされて、その一部がバルフォントの企業に抜けていくのが手に取れた。そして見事に、芸術的に。全てが法の網を抜けるよう組まれていた。

 こんなやり方が、あったのか、と。なんのことはない、かつてゲイリーがバーブの誘いを断ったのは、彼の粗雑さ、稚拙さが気に入らなかっただけなのかもしれない。それほどまでにバルフォントの手腕は美しく、ゲイリーは何の後ろめたさも覚えることなく、逆に感動し打ち震えたからだ。一瞬だけ。遠い昔に聞いた言葉が蘇って。


——お前の良さなんて役所の馬鹿どもがわかるはず、ねえじゃねえか。なあ?——


 そうだ。

 それだけは、お前の言う通りだった。


 やっと見つけた居場所だ。ゲイリーはがむしゃらに働き、寝る間も惜しんであらゆることを学んだ。


 ある日の帰り際に。

 バルフォントが「帰って読んで、明日感想を聞かせろ」と、テーブルの上にぱさりと薄いファイルを投げた。


 遅い帰宅で書斎に篭ったゲイリーが開いたファイルには、驚いたことに。ずいぶん昔に自分が書いて却下された進言書が挟まっていたのだ。懐かしさ半分で読み返せば。

「こりゃあ……ひでえや」

 今なら、はっきりとわかる。上司の言っていたことは本当だったのだ。やたらと確信めいた論調で、だがどこにも根拠もなく、ただひたすら現状の不備をあげつらっただけのそれは、進言書と言うよりは〝批判書〟であった。読みながらゲイリーが片手で髪を搔き上げる。思わずため息が漏れる。

 これの感想を? 何を書けと言うのか? ゲイリーが新しい紙を出して、その晩は明け方までかかって、自分の古い進言書を書き直し注釈を入れていった。


 翌朝に持ち込んだ新しい進言書を。しかし。

 いとも簡単にバルフォントは、彼の目の前で破り捨てたのだ。


「あ」「誰が添削しろと言った」

「で、ですが……」

「どう思ったのだ? あれを読んで」

「……未熟だと思いました」


「それがわかったなら、この書類の役目は終わりだ。これは私に、お前と言う男に目を留めることをさせた。今また、お前に昔のお前が未熟であることをわからせた。それで終わりだ。何を書き直す必要がある」

 老人が上目遣いでゲイリーを見る。

「次に進めゲイリー。いいか、人間は呆れるほど平等だ」

「平等ですか?」

 およそバルフォントが言いそうにない台詞だ。


「そうだ。万の権力を得た王でも、道端の物乞いでも、時の流れは変わらない。同じように歳を取り、老いて死ぬ。それに抗える人間などいない。魂がうたた寝をしている時にどう生きようが構わん、だが目覚めているならそのように生きろ。時間を無駄にするな」

「わかりました。努力します」


 しばらくして給金は五倍に増えた。少し大きめのアパートメントに引っ越して。少し家具が増えて。服が増えた。妻に渡す毎月の生活費も増えた。だがとても外食などする暇もなく、ただ優しく「アリアと二人で、なにか美味いものでも食べておいで」と言う彼に。


 笑い返すサラは、彼の様子に安心したようで。

 けど少し寂しそうでもあったのだ。





 そんなゲイリーに転機が訪れたのは、アルター国と帝国ガニオンとの休戦協定の使者が評議会に来訪した時であった。


 首都の代表を務めるのは評議員バルフォントで、ガニオン側の黒づくめの兵士然とした大柄な男——黒騎士隊のサルザンと名乗った、あごひげに覆われた口元以外の顔面のほとんどをぬるりと光る漆黒の石で包んだ不気味な兵士は、あろうことか護衛もつけずにたった一人で中央塔に乗り込んできたのだ——と小一時間ほどの会合が設けられ、時間通りに退出した相手を見送った後に部屋に戻ったゲイリーが見たのは。


 完全に気が抜けて呆然とソファーに腰を下ろしたまま天井に目をやる老議員の姿であった。あまりにいつもと違うバルフォントの様子に肝を冷やした彼が揺するように肩に手をかけ「どうしました? 話はうまくいったのですか?」と尋ねる声も響くのか響かないのか反応もなく。やっと。


「——私が間違っていた」

 およそ言いそうもない言葉を議員が口にする。

「帝国には太刀打ちできない……あの男はなんだ?」

「あの男って、今の兵士ですか?」


「本当に、ただの兵士なのか? 私は、帝国で脅威なのは黒騎士グートマンただ一人だと思っていた。だが、あのサルザンとは何者だ? 下手を打てば、あの男一人でアルターは滅ぶ。……お前は、学ばなければならない」

「学ぶ? 何をです? 魔導をですか?」

「違う。魔導ではない、魔術だ。魔術を学ばねばならない。幻界と蟲の扱い方を学ばなければ、我らは次の階梯に進めない。何もだ。何も変わらない。どのような国を築こうとも、所詮奴らの掌の上だ」


 踏み込んではいけない道だったのかもしれない。


 秘密裏に行われていた魔石の輸入品目に〝蟲〟が混ざり、ゲイリー=クローブウェル——この頃からバルフォントは彼を〝クロウ〟と呼ぶようになった。姓の略称とは、ある意味蔑称でもあったのだが、なぜかクロウは全く気にならなくなっていたのだ——がその管理を任された。

 クロウは必死で学習した。これまでの魔導器や炉の学習よりはるかに難解で概念的で、そして精神を痛める内容に来る日も来る日も没頭し、たまに帰るアパートメントから着替えを持ち出しまた議員塔に泊まり込むといった日々を過ごした。サラや娘との会話も月に一言二言でもあればいい方だろうか、会話の最中も目の焦点は合わず、どこか彼方を見ているようなクロウの身の回りを、ただ黙々とサラは整えるのみだった。


 蟲とは。馬鹿馬鹿しい程に規律と道徳をないがしろにした、遵法のかけらもないものだ。人の精神と肉体を外部からどうにでも操れる物を手に入れて、他者に対していったいなんの権謀が必要であろうか?


 蟲を手に入れ、死門クロージャの管理者権限をも手に入れたバルフォントの趨勢は凄まじく、瞬く間に評議会の最大派閥を率いるほどに巨大化した権力を持ちながら、しかし。その振る舞いは大きく変わっていったのだ。

 ややもすれば冷徹なりに筋の通った為政者であった老議員は、この頃から極端に獣を嫌うようになっていた。獣に対する命の尊厳という考えは姿を消して、やがて。その横暴さは敵の派閥、人間にまで及ぶようになった。非合法の者とも手を結び、逆らう相手は闇へと葬ることにした。


 それを率先したのもクロウである。彼もまた、何も感じなくなっていた。クロウにとって人間の区別とは〝操れる相手〟か〝操れない相手〟の二択しかなく、意思や主張、嗜好の類は興味の埒外らちがいとなっていたのだ。


 麻痺を。してしまったのだろうか。

 人間というものに対して。

 妻の浮気が発覚した際も、何も感じなかったのだから。


 テーブルで向き合い、黙り込んで何も答えないサラに、クロウはなじる事もせず、理由も聞かず、ひとことだけ言ったのだ。

「今日中に処理してくれ」と。

 席を立って上着を着るクロウに。放心した目を見開いたサラが。やっとのことで声を発したのだ。

「あの……処理って」

「貯金を持っていってもいい。家財もいるなら持っていけばいい。面倒なら私が引っ越してもいい。その男と暮らすかどうかは好きにしてくれ。とにかく今夜帰るまでに結果を出してくれ」

 玄関のドアに向かいながら、最後に言う。

「こんなことに二日以上使いたくない」


 クロウが出て行って閉じてしまったアパートメントの扉を、ただダイニングのテーブルからサラはじっと見つめたままで。


 誰にともなく呟くのだ。

「あたし。馬鹿なこと、しちゃったねゲイリー」


 閉じてしまったアパートメントの扉にサラが喋る。


「きっと。あたしとアリアはあなたの重荷になってるんだよね。それでもたまに帰って来てくれるの、嬉しかったんだ。……あなたはだって、どうしたってあたしもアリアも手放そうとしないじゃない。どんなに邪魔でも、抱えようとするじゃない。苦しいのは見ててわかったから。どうしたらあなたが、あたしたちを放り出してくれるかなあ、って。身軽になってくれるかなって。思ってたんだ」

 ばらっと涙がこぼれた。

「相手は誰でもよかったんだ。馬鹿なことしちゃった。わかってるんだ。あなたが頑張ってるのも。もっと一緒に話したかったって、それがわがままなのも、わかってる」


「——さよならゲイリー。大好きだよ」

 閉じてしまったアパートメントの扉にサラが言う。

 結局その時まで、セミショートの金髪のままで。


 

 夜にクロウが部屋に帰れば、わずかな荷物と一緒に妻と娘はいなくなっていた。銀行の残高は、なにも変わっていなかった。



 


 独りで暮らすようになったクロウの顔から表情が消えた。雇い主のバルフォントはいよいよ暴走し、ついに奇怪なわざに手を出したのだ。抗魔導線砲アンチ=マーガトロンだ。首都に潜む全ての獣たちに命の首輪を掛けるこの魔法を嬉々として受け入れ、人を治癒魔法で、獣を毒物魔法で、完全に牛耳ろうとする主人の姿に、だが。

 クロウはだんだんと興味を失っていった。そして理解もした。どうせ。この男がやらなければ他の誰かがやるのだろう。それが政治というもので、それが人間というものだ。飽き飽きだ。


 そうだ。魔術を持って旅に出よう。蟲を操る自分はきっとどこにでも行ける。どこでもやっていける。だって、言うことを聞かない相手はただ操ればいいのだから。


 なんだ。


 俺は万能じゃないか。

 なんでそんな俺からいなくなったんだサラ。

 馬鹿だなあ、おまえ。


「——聞いているのかクロウ?」

「はい。聞いています」


「改良型の抗魔導線砲アンチ=マーガトロンは未開発だ。獣の魔力に反応するこの兵器を、相手の魔導によって効果が規定値を保てるのかどうか実験しなければならない。優良な獣が必要だ」

「優良な獣、ですか」

「そうだ——それに関して情報を手に入れた。お前は〝アンダーモートン〟という組織を知っているか? 棟梁の名は『バーヴィー=ギブスン』という」

 しばし黙るクロウを評議員が睨む。

「どっちなのだ?」

「……その組織のことは、耳にしております」

「では罠にかけろ。棟梁に娘がいる。蟲を使え。できるか?」


 クロウは少しだけ笑った。

「造作もないことかと」

 

 このどぶ川のような街を吹き飛ばして。

 俺は旅に出よう。すてきだ。

 そう思わないか? サラ。



 

◆◇◆




 議事堂に兵士の声が響いた。

『蛇、中央行政塔障壁圏内に入ります』


 早朝から集まっていた評議員たちにざわめきが走った。広大な議事堂の前面パネルに首都のビル街を低空で飛ぶ無限機動ウォーダーが漆黒の体を鈍く光らせて映り込む。議員席のバルフォントは何も言わずに蛇の映像を上目で睨み、その後ろで。


 立つクロウは考えていた。

 決断の時とは、向こうからやってくるものなんだな、と。


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