第九十六話 十四番『水領』

 わずかに消毒液臭いアパートメントの一室で歪んだ眼鏡をかけた老医師が話す。勧められた椅子には座らずに窓際の壁にもたれかかったままの隊長が腕を組んで聞く中には、奇妙な情報も含まれていた。


「——獣化に蟲を?」

「そうだ。もっとこちらに寄ったらどうかね?」

「ここでいい。続けてくれ」


 逆に医師が隊長のそばまで椅子のキャスタを進めて言う。

「日雇いの連中なんかほとんどが男で年配だからな。獣化すりゃ手に負えない。どろどろに体を崩しながら暴れ回るのを無理に止めようと近づいたら爪を引っ掛けて脈を切られる。だから遠巻きにして蟲の付いた槍……槍ってほどじゃねえな。ありゃ竿だ。竿で突き刺すんだよ」


「獣化に蟲憑きまでして身体が保つのか?」

「保たないね。だからあたしがすぐ呼ばれる。鎮静と元素の調整だ。それくらいはできる。あとは粗布あらぬので巻いて連絡する。連絡先は二つあった。最近ひとつ潰されちまったよ」

「行政に?」

「トール副議長率いる親衛隊ルースヴェルデ獣組けものぐみだな。あそこの女ドーベルマンは容赦がないね。全滅さ。まあ魔石の密輸や女子供の売り買いまで手をつけてたらしいから、しょうがねえっていやあしょうがねえ」

「残りひとつの連絡先は?」

「これが情けない話でな。前市長パダーだ」

「……ずいぶん阿漕あこぎな男だったと聞いたが?」


 その質問に医者が苦々しく笑う。


「あれが市長だった頃は街全体がおかしかったね。獣は見つかり次第しょっぴかれて帰ってきたやつなんかいない。若けりゃなおのことだ、男も女も関係ない。玩具みたいに身体じゅう弄るだけ弄られて飽きたらばらばらにされちまうらしい。胸糞の悪い話さ。街にも獣狩りがしょっちゅう彷徨うろついていてね、だがたまたま蛇が来たんだ」

「蛇? 無限機動か?」


「そうさ。この先にある臨海の補給基地に寄っただけだ。あの時に何があったか知らんが、しばらく市長が姿を消してね。噂じゃあ獣に指を噛みちぎられたかなんかしたらしいけどね。それから今の市長に席を獲られちまって——まあいいや、そのパダーが今は首都で獣の買取をやってんのさ、性懲りも無くね」

「それこそ、恨まれて襲われるんじゃないのか」

「西地区からは逃げちまったからなあ。けどこっちのシマがいたんで喜んでるんじゃねえのかな、今のパダーにはでかい後ろ盾が付いてるしなあ」


 ちらと隊長が窓の外に目をやりながら言う。

「——ディボ=バルフォントか?」

「まあ、そう言うことだ」


 水が流れるように喋る医者は、腹が決まれば実際は胸の内を吐き散らしたかったのかもしれない。聞いていないことまで次々に言葉に出す。


「だからなあんた、臨海調べるってんなら獣には気をつけなよ。すでに蟲が憑いた人形だぜありゃあ。命令されりゃ殺しでもなんでもアリだ」

「そんな簡単に蟲で操れるものなのか?」

「簡単さ。歳取ってから工場の曝露で獣化したような連中だ、魔力マナが落ち着くまで意識朦朧になってるところに蟲を挿すんだ。身体が動いてるだけで乗っ取られてるのと同じだよ」


「いや。俺が聞きたいのは、そんな蟲の操りに長けた人間が首都にいるのかって話だ」

「そんなもん蟲の種も密輸品さ、決まってるじゃないか。東ファガンだよ。狂い姫じゃない方の——」

「しッ」「え?」


 隊長が窓の外をはすに見て。右手で医者の喋りを止めた。老医師は見かけによらず素早く反応して椅子のキャスタを机まで戻して小袋から二個ほど魔石を取り出し、銃把の底を開いて目を丸くした。何も入っていないからだ。

 さっと魔石を詰めて蓋をする。隊長は入口の扉横まで移動した。ベルトから一本、取り出す。魔光剣の柄だ。手に収まるそれは短い鉄の暗器だ。


 耳を澄ます。足音だ。

 二人か。三人か。複数だ。


 階段を駆け上がってくる。医師が銃を構えようとするので左手で制して。扉横の壁に張り付いて。やってくる。着いた。足音が止まった。


 だぁんッ! と思い切り蹴り開かれた扉の向こうから。


 飛び込んできた男の左のこめかみを柄の底で。殴る。蝶番で跳ねて戻った扉を思い切り閉めた。挟んだ男の後頭部をまた殴り落とす。まず一人。すぐ扉を開く。男が崩れ落ちた。

 廊下に二人。縦に並んで。驚いて固まった手前の喉を突いてすぐ引く。「ぐえッ」と呻いて屈んだ後ろに見えた三人目に向かって。

 柄を持つ手を突き出す。どぅッ!と。

「うぶッ!」

 伸びた光線の棒が後ろの一人の胸を突き飛ばした。刀剣ではない光の杖だ。

 手前に崩れた男の後ろ首を真上から。勢いよくしゃがむ隊長の外套が膨らむ。柄をがんッ! と殴り落とす。これで二人気絶する。最後の一人が胸を押さえて起き上がり、だがまた柄を振る。今度は光でまともに眉間を弾かれ敵は廊下に吹っ飛んで。起き上がらない。


 三人。終わりだ。

 立ち上がった隊長が軽く外套を払った。手に銃を構えたままの医師が固まっているのに気づいて。


「取引記録が残ってるなら、全部もらう。あんたはもう街を出ろ。何も持つな。リオネラから船でファガンを抜けてプラグネシア辺りまで逃げるんだな。南の島で暮らすなりなんなり、好きにすればいい」


 鼻からずり下がった丸眼鏡を揺らしながらぶんぶんと頷く老医師にかまわず、隊長が柄を見る。ただ身体が勝手に動いたのだが。

(光剣だけでなく戦杖も出るのか)

 倒れた三人を見渡して思う。長居は危険だ。




◆◇◆




 高台にある療養所の窓からは、首都の街並みが遠く水平線まで一望できる。

 涼しい風が吹き込んで病室のカーテンを揺らす。


 真っ白な病衣を着たエリナはベッドから降りて、ひとりで過ごすには贅沢な広めの個室を軽く掃除していた。本来は付き添いの仕事なのだろうが、ずっと前から日課になっている。サイドテーブルを絞った布巾で軽く拭いて、読んだ本をとんとんと揃えて隅に立てる。


 不自由もない。

 居心地のいい退屈な暮らしだ。

 そもそも自覚なんてないのだ。日常に何ひとつ不便なんてない。そんな自分が治癒魔法さえ効かない〝不治の病〟だとは今だってぴんとこない。


 ただ初期の頃、もう何年前になるだろうか、確かに全身の感覚が失われて声ひとつあげられず身体が固まってしまった経験をしていた彼女は、父の親友に言われるままもうずっとこの診療所の敷地から離れていない。ここが生活の場だ。


 すっかり診療所の介護士たちとも顔見知りになって、たまには中の仕事を手伝ったりもする。そうでもしなければ退屈でしょうがないこの生活も、それももう慣れてしまった。


 赤毛の髪をあげて。ふうっと一息ついたところで扉がノックされた。「どうぞ」と答えると入ってきたのはいつもの〝ゲイリー〟おじさんと、モルテンさんだ。

 ゲイリーおじさんは父の親友だ。もう小さいころから知っている。娘のアリアちゃんともずっと一緒に遊んだ仲だったが離婚してしまったらしい。その辺りはあまりエリナは触れないようにしている。

 モルテンさんはスキンヘッドの見た目が怖いが父の右腕で、大きな体でいつもかしこまって「お嬢、お嬢」と人前で呼ぶのがエリナは恥ずかしい。


 ただ。最近ゲイリーおじさんは、一層顔がやつれたような気がする。


「こんにちは。——また持ってきたの?」

「気晴らしは必要さ」


 季節ごとの花を、見舞いのたびに持ってくるおじさんが勝手がわかったように鏡の前に置いた花瓶に挿し終わって。向き直って。今日は。なんだか。


「……どうしたの?」

 じっと見つめたままのゲイリーおじさんが。その目が。

 愛おしそうな、寂しそうな。

「エリナ。あまり適当なことは言えないんだが。——外に出られるかもしれない」


 また部屋のカーテンが揺れる。 


「……ホントに?」

「まだはっきりとは、言えない」

「パパと、暮らせるの?」


 おじさんの顔がいっそう曇る。ああ。そういうことなんだ。いい話と、悪い話。だからあんな表情をして。


「……まだパパには会えないのね」

「そうだ。すまない。出ても会えなければ意味ないな」

 謝るゲイリーに、エリナがふるふると首を振った。


「出られるだけでも、うれしい。ここも慣れたけど」

「そうか」「うん」

 眉根を寄せて申し訳なさそうに苦笑するゲイリーに〝赤毛のエリナ〟が笑いかけた。





 診療所の廊下を早足で歩くゲイリー=クローブウェルに、後ろから声を投げるのはアンダーモートンのまとめ代行役モルテンだ。丸太のような腕を振りながら忌々しそうに話す。


「どうすんだクロウ。まだコアになる奴ぁ見つかってねえじゃねえか。あんな約束しちまって……」


「お前らがウルファンドで下手打ったからだろうが。なんで蛇がこっちに向かってくるんだ。それだけは避けるべきだったのに!」

「蛇が来たからってなんの支障があるんだ? 確かに連中は強えが、ただの獣だろ?」

「蛇を甘く見るな。バレるぞ。俺たちの計画が全部バレる。奴らがどれだけ鼻が効くと思ってるんだ。そうすれば全部台無しだ。俺らは国家転覆の共謀罪で死罪だ」


 立ち止まったクロウが振り返る。分厚いモルテンの胸板に指を差して。


「しかも未遂でだ、なあ。未遂でだぞ! 耐えられるかそんなもの! ……こうなったらバーヴを使う」

「は?」

「バーヴには責任を取ってもらう」

「ボスを核にだと? 正気か? おめえ友人じゃねえのかよ?」


 強面にも拘らず顔を歪ませるモルテンとは対照的に。青白いゲイリーの視線は凍るように冷たい。


「俺は独りでやるつもりだったんだ。五年も十年もかけて準備して、あとは核を探せば済むところまで来たってのに! なんてザマだ! 余計な仕事を増やしたのは貴様らだぞアンダーモートン! あの甘ったれが蛇なんかとつるむからだ!」


 ぐっと。胸を差す指を押し付けて。


「どのみち生かしておけない。俺はお前らよりバーヴィン=ギブスンを知っている。どうしようもない甘ちゃんだ。子供の頃からずっとそうだ。ぐれちまったくせにくだらない正義感はそのまんまだ。こんな計画、絶対に賛同しないし邪魔するに決まってる。娘に蟲をつけた理由にはならない。俺もお前も、バーヴに許してもらえると思ってるのか?」

「ぐッ」

「違うか? やるなら、やり切れモルテン。お前は乗ったんだ。〝乗るなら乗る、降りるなら降りる〟って決めるのが大事なんだ。中途半端が一番馬鹿を見る。それだけは、俺は主人から学んだ」


 禿げたひたいにうっすらと脂汗を浮かべて。見下ろしながらモルテンが言う。

「や……約束は守れよクロウ」

「守るさ。バーヴが死んだらお前がエリナの後見人だ。アンダーモートンを指揮するんだ」


 上目で睨みながら、約束をする。これもバルフォントから学んだことだ。契約で相手を動かし、最後にそれを反故にする。本当に簡単に動くものだと感心する。こんな愚鈍な男は器じゃない。事が済んだら死んでもらおう。


 だが——獣は嘘が通じない。奴らは秘密を見抜く。確かに人間社会には邪魔だ。


 獣には枷が必要だ。あの忌々しい老議員は少なくとも、やっていることは筋が通っているのだ。頭の中で肯定するクロウの奥歯がぎりっと鳴った。




◆◇◆




 天気のいい午後の山間を蛇が飛ぶ。

 格納庫の手すりにつかまって外の景色を見る副議長は、紺色の涼やかなワンピースにふさふさの尻尾を生やした白狐の姿に戻っていた。風防障壁ドラフトから吹き込む風に髪と産毛をなびかせながら気持ちよさそうに南の山稜を見渡して。

 少し離れた鉄板の上にあぐらをかいてモノローラの部品を油で磨くケリーが、ちらと副議長に目をやって。


「ずいぶん呑気なもんだぜ」

「そう? あなたたちには見慣れた風景かもしれないわねケリー=ウィンターフィル」

 フルネームで呼ばれたケリーの目が少し不機嫌になる。機体のそばで壁に寄りかかるノーマが腕を組んだまま少し笑った。

「私たちのこと、本当に詳しそうね副議長。不公平だわ。亡くなった将軍から聞いたの?」


「——自由に空を旅する蛇の逸話は、あたしみたいな籠の鳥には羨ましかったわ。だからよくおねだりしたのよ、お見舞いに行くたびにね。それに……将軍は蛇の、あなたたちの話をすればその日はずいぶん具合がよくなるのよ」

 緩く首を向ける白狐は、別に責めるような視線でもなく。

「それも羨ましかった。会いに来てくれたらよかったのに」


「文句は評議会に言うんだな。俺らが避けてたわけじゃない」

 狼はまた部品に目を落として拭く。それ以上、二人の狐も何も言わない。副議長がまた外に顔を向ける。緑の山がゆるゆると流れていく。




=取り急ぎ、やらなくてはいけないことが三つある=

(うん)

 こめかみの奥に響く声にアキラが頷く、周囲の誰にも気づかれないように。


 ベッドも扉も新しくなった蛇の診療室では外套と上着を脱いで横たわる犬の上位兵ダリル=クレッソンを取り囲んで、ドーベルマンのレベッカ軍曹、傭兵魔導師ガラ、シャクヤ導師、そしてエイモス医師がいた。

 傷ついたダリルの肝臓がどこまで持ち直しているのか、アキラが再検査をするのだ。全員から見下ろされる兵士の青年は微妙に居心地が悪いのか、仰向けになったままきょろきょろと落ち着かない。


「じゃあ頼むよアキラくん」「はい」

 医師に言われてぐっぐっと右手を握るアキラの頭の中で。


=ひとつは抗魔導線砲アンチ=マーガトロンの解析。これはもうしばらく時間がかかる。今は応急処置で済ますしかない。ふたつ目は蟲を外す目処だ。あの古書から読み取れる内容は、あとは実践が必要だ。そして三つ目がこれだ=


 見下ろすアキラが言う。

「じゃ、じゃあ、えっと。少し左を向いてください」

 ダリルがベッドの上で体をひねる。獣の上半身は裸ではなく、袈裟のような形をした薄い肌着に電子回路を思わせる紋様が走っている。


=辺境を追われたトカゲの軍は遠隔で一斉に武器が止まったと言っていた。つまりこの犬が着ている防御服も、アルター中枢部のネットワークシステムに繋がっているはずなのだ。首都のセキュリティは事前に把握しておかなければいけないアキラ=


 細かく数度頷いて三度目にぐっと拳を握る瞬間。アキラが中指の付け根を押し込んだ。分析の操作である。開いた掌が白く輝いて。ゆっくりと脇腹の肌着の上に。


 その右手首を。くっ。と。

「え?」


 レベッカが掴んだ。ツートーンの無表情な鼻先をアキラの顔に向けて。焦り気味にアキラが喋る。

「ど。どうかしました?」

「……いや」


(え? え? 俺。なんか匂いとかさせてんの?)

=いや。まだなにもお前から分泌物系は発散させていない。軍人の勘じゃないか?=

(げえ……さすがドーベルマン)


「あ。あの。いいですか?」

 濃紺の鼻先がわずかに揺れて、レベッカが「いい」とだけ言って手を離したので。やや緊張したアキラが光る手を防御服にかざして。


=体内スキャンと並行して回路から侵入する=


 アキラの光る手が脇腹から肋骨の上、脇の辺りまでを撫でるようにゆっくりと上下して。ただ黙って行われる霊手の業に注視するグラサンの老人が、わずかに眉を寄せた。あの時より。ずいぶん丁寧な手技だ。してみるとやはり道端で行われた霊手は応急処置であったのか。しかし——


 やがて、とん。とアキラが手を置いて。

「ひゃ」「終わりました」

 ちょっとびっくりした犬の兵士の脇腹を何度か撫ぜて。妙に疲れた感じの青年がはああっと大きな息を吐いてぎこちなく笑った。


「やっぱ、治りが早いですねえ。問題ありません」

「そうか。よかったのおダリルよ」

 ベッドに寝たまま「えへへっ」と笑う犬の青年から身体を退けたアキラは、どさっと隣のベッドに腰を落として傾けた頭をとんとんと叩くのだ。エイモスが気にかける。

「ずいぶん疲れてるな。体調が悪いのか?」

「——大丈夫です。はは。大丈夫」


 そうは言いながらまた、はあと息を吐くアキラを不思議そうに見ているのはドーベルマンのレベッカだが。実際に彼が何をしたのか、何に気づいたのかはわかるはずもなく。


(……どうしよう。これ?)

=ずいぶん場違いなものを見つけてしまったな=



——首都のネットワークの奥の奥の、また奥に。


 獣の名簿があった。

 名前と種別と性別と体長特徴、そして所有者と値段。

 若い女の獣が多い。——



(俺こういうの耐性ないんだけど……誰に話そうか)

=虎に相談するしかないんじゃないか? またひと騒動起きそうだが=


 騒動は起きるだろう。復号化した名簿の所有者権限が〝ダニエル=バルフォント〟と記載されていたからだ。きっとディボ=バルフォント評議員に繋がりのあるものだ。




◆◇◆

 



 西部臨海工業地域が夕暮れに染まる頃、隊長は孤児院に帰ってきた。今度は音のうるさい古ぼけたロックバイクに乗っていたので、台数が増えたと子供たちが喜んで玄関に出て迎えてくれた。もちろんヤンとハンナの二人、そして庭番のガリックも一緒だ。


 暖かい夕食を準備してくれていたので、帝国のバイクの荷物を少し解いた隊長が逆にいくらかの携帯食レーションを分ける。中には飴のように甘味のいいものもあって、これにも子供たちが飛びつく。


 見た感じでは孤児院全体に二十名ほどの子らがいて、最年少はまだ五、六歳ほどではないだろうか。食堂で仲良く食べる中には耳と尻尾の生えた獣の子も混ざっているのだ。小さい子らと飯を食う柄でもないので、彼らが一通り後片付けが終わっていなくなったテーブルに、最年長の二人と食卓を囲むことにする。

 庭番は逆に子供らに混ざって大きな身体を小さくして大人しく食べていて、片付けも一緒にしていた。やがて引っ張られて連れて行かれた背中を見ながらヤンが話す。


「みんなが寝付くまでお風呂に入れたり遊びの相手をしてくれたり、本当に働き者ですよガリックは」

「やはり……言葉を話すのは難しいのか?」

「あれでも、かなりましになったんですが。そのへんはむしろ辛抱強かったのは子供たちの方ですね」


 ああ、と隊長が納得した。自分たちより言葉を知らない大人に、きっと何度も何度も言って聞かせたのだろう、さながら絵本でも読むかのように。




 やがて寝静まった孤児院の中庭で。

 隊長が巻きタバコのローラーで紙を巻く。


 周囲を白壁の廊下窓で囲まれた庭はさながら四角く切り取られた夜だ。見上げればわずかに浮いた灰色の雲に見え隠れする星が美しい。

 ローラーの脇にある丸い窪みが赤く光る。刺して吸えばチリチリと音がして白煙が上がった。外套に仕舞って強く吸い、吐く。頭の痛みが引いていく。


「中庭で火を使うのは感心しませんね」

 声に振り返るとアルトムンドが腕を組んで立っていた。夜のわずかな光を映す白髪が輝く少年は、しかし本気で怒っている風でもない。


「悪いな、次からは敷地を出て吸おう」

「いいです。眠れないんですか?」


 隊長が煙草をくわえたまま、四角い夜を見上げた。


「この場所のことを考えていた。——昔からずいぶんいわれのある土地らしいじゃないか」

「耳が早いですね」

えて選んだのか? 獣になりやすいということは〝場の魔力が高い〟ということだ。あんたは、ここで何をしている?」


 小さな背の少年は暗闇の中でわずかに笑ったようだ。隊長の傍まで歩いて通り過ぎ、中庭の真ん中まで進んで止まる。そこは花壇も菜園もなく木も生えておらず、ただ。綺麗に芝が生えそろった広場だ。

 少年がすうと息を吸って。緩く両腕を開いて。隊長は煙草をくゆらせたまま端で何も言わずに彼の所作を見ている。


 ゆっくりと両腕を夜空に向けて。声を発したのだ。

「〝水領リクラ〟。」



 しばらく。何も起こらなかった。

 そしてはらはらと。


「——雪?」


 くわえた煙草から紐のような煙が立ち昇るまま夜空を見る隊長の頭上から。星粒のような。よく見れば綿毛のような。なにかが降ってくる。少なくもなく、多くもなく。はら、はらと。それは地面の芝に落ちてぼんやり光る。隊長が屈んで指に取ると溶けて消える。指の腹をこするが、なにも残っていない。


 痛み止めの煙草が、今夜は少し効きが悪いのは、きっと何か記憶が疼いているからだ。古い記憶が。隊長がわずかに顔をしかめて。

 両手を上げたまま天に祈るような仕草の少年は、同じく空を見て。そして腕を下ろして振り返る。隊長を見る。


「夜明けには、庭にいくつか。石ができています。明け方にガリックが拾い集めてくれます」

「……ここで、魔石を作っていたのか? ノエルの呪文に、そんなものが?」

「十四番です。隊長さん。あなたなら知ってるんじゃないですか?」


——この世界の本質は、常に隠すべきだ。知る者だけが備えればいい——


 そんな言葉を。確かに。

 隊長は昔、聞いたような気がして。


「そうだ。……竜脈だ。これが、本当の」


「はい。世界の空にはあちこちに、他所より魔力の強い場所がある。時にそれは聖なる場所であり、時に忌まれた場所です。肉眼で見分けはつかない。でも存在する。そういう場所が本来の〝竜脈〟です。いつからか目に見える巨大な魔力の流れだけを竜脈と呼ぶようになったそうですが。……ノエルの十四番は竜脈から採石箱を用いずに魔石を降らせる魔法です。遠い古代の聖文ヒエラルです」


「クレセントが古代の話をするのは禁忌じゃないのか?」

「あなたになら大丈夫でしょう? 魔導師ノエルは古代に使われていた呪文のいくつかを封印してしまった。使途不明の印を押してしまった。この水領リクラもそうです。緩力フーロンもそうです」


 物憂げに話す少年の周囲でちらちらと魔力の雪が光る。


緩力フーロンなんて。あんな強大な聖文ヒエラルが今となっては食べ物を長持ちさせる生活の呪文ですからね。人の想像力って不思議です……僕も本来なら、この水領リクラを人間世界に返すべきだし、実際、何度か返そうとしたんですけど」


 腰のベルトから魔光剣の柄を取り出して。隊長が吸い殻の火を押し付けた。見ればその場所が黒く汚れている、昔から似たような消し方をしていたのだろうか?

「魔石を生み出す魔法なら、社会に不都合が起こるんじゃないのか」


「ええ、水領リクラの降らせる魔力には制限があるので。奪い合いになりました。だからもう今は人間には渡していません」

「制限?」

「六日降ったら一日止まるんですよ」

 その言葉にまた、ずきっ、と。今夜はあまり吸った意味がないなと苦笑する。アルトムンドは夜空を見上げたままだ。


「一日ぐらい休めばいいじゃないですか。でも人間はその一日で争うんです。わずかでも他人より多く魔石を収穫しようとする。なのでもう、どのくらいだろう。百年ぐらい人間にはこの呪文は渡していません。懲りました。ノエルがいくつかの聖文ヒエラルを封じたのも、わかるような気がします」

「——魔力を集めるなら、別の呪文もあるはずだ。俺は、砂漠の蛇が竜脈から魔力を吸い上げるのを見た」

「そうなんです? どんな?」


 少年が興味を示す。あれは、どんな呪文だっただろうか?

「こう、輪を描いて、魔力を集める呪文だ」


「それは知らないなあ。ノエルのオリジナルでしょうか。環状脈サークルでも作るんですか?」

 アルトが笑う。

「魔力を集めるように、見えるかもしれませんね。でもきっと別の効果です。環状脈サークルが関わるなら召喚系だと思いますよ」


 この少年は——クレセントなら当たり前なのだろうが。ずいぶんと知識があって、そして、ずいぶんと。


「百年といったな」「ええ」

「長く生きているのだな、そんな姿で」

「生きてます。でも、僕は見たことありませんよ。そのタバコを巻くやつ」


 隊長とクレセントと。向き合う二人の中庭に魔力の雪が舞う。


「ねえ、隊長さん。僕らクレセントは階梯の高い秘密を話す時、相手にその資格がなければ頭の中で警告が鳴るんですよ。だから事前にわかります」


 絶え間なく四角い夜から降ってくる光の向こうから。


「あなたには、なにも鳴らない。隊長さんは、どこから来たんでしょうね?」


 アルトに言われて。

 遠い言葉を思い出すのだ。



——傷は六つより

  先に増えることはない


  そこが紡ぎの果て 旅の終わりだ


  間に合わなければ

  世界は滅びるはずなのだ——



 誰から。なにかを探せと言われたのだっただろうか?

 それ以上は、隊長の記憶は蘇らない。



 蛇が首都リオネポリスに到着するまで、あと一日。


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