第九十五話 抗・抗魔導線砲
じつはこの時点で、ウルファンド方面から隊長には何の通信も届いていない。
院長室をあとにして、隊長は青年少女——彼ら二人は、やはり院内の子供の中では最年長で、世話役のヤン=ローレンツとハンナ=ベルマンと名乗った——と一緒に玄関先まで戻った。庭番も相変わらずひょこひょこと付いてくる。
まだしばらくクレセントのアルトムンドから詳しい情勢を聞き出したかったのだが、急な来客があったのだ。
隊長と入れ替わりに部屋に招かれた男性たちは一見不穏そうな出で立ちであったが、この子らも庭番も特に反応しなかったのでおそらく顔見知りなのだろう。
戻る廊下を歩きながら、ヤンとハンナが代わりに色々と話してくれたのは曰く、アルトムンドが街に来るまでここは廃院で長く放置され、街の浮浪者ややくざ者の溜まり場になっていたこと、彼が手を入れて一気に立派な孤児院として蘇らせたこと、小綺麗になった途端に要らぬちょっかいをかけて来た連中はことごとく院長と庭番のガリック二人で追い払ったことなどである。
「——ただ雨風を凌いでいただけの方もいらしたので、院長は近くのアパートメントを建物ごと借り入れて無償で住居を提供しているんです。それと日々の食事や簡単な労働と。もちろん報酬があります」
「個人でそこまでは無理なんじゃないか? 余所者だろう」
隊長の質問にヤンが笑う。
「行政の地区担当に取り入るのも、あっという間でしたよ。院長、なんだかすごく手馴れている感じで。あちこちで似たようなこと、されてきたのかもしれないです」
「経験豊富なのだな」「そうですね」
玄関から出て、炊き出し台の手前から数リーム先の石畳に置いてあったバイクを隊長が軽く操作する。ぶうん。と起動音がして基底盤が浮いた。近くで溜まっていた数人の、人と獣の子供らから「おおっ」「すっげえ」と声がするので、ヤンが諌める。
「変なことしてないよな」
「やってないよお」「それ中に置くの?」
「しばらく預かるだけだよ」
ヤンの返事に男の子らが「ぃやったッ」と拳を握る。苦笑したヤンが庭内を見渡して。玄関から左に伸びる建物の先、物置だろうか、
「あのあたりでいいですか?」
「どこでもかまわない」
答えて隊長が跨ろうとしたとき。ちょんちょん、と。
「うん?」
後ろから無造作に銀髪のかかった顔を寄せて。庭番のガリックが「あ、あ、お、おれ。おれ」と自分で顔を指差している。どうやら自分がやると言っているのだろうか、だがこれは軍用のロックバイクで、かなり馬力が高いのだ。しかも彼は右腕が義手である。
ちょっと隊長が躊躇したが、任せることにした。退いたシートに改めてガリックが跨がれば、意外と猫背がしゃんとして
じゃりッ。と。
ハンドルに軽く乗せた金属の指が曲がらないまま、滑らすようにガリックがスロットルを吹かした。緩い駆動音を立ててロックバイクが滑らかに進んで半分ほど走って。その場で旋回して音が止んだ。
浮いたままの機体が慣性でリアから流れて物置の壁に吸い付くように横付けされて、ぴたりと停まったのだ。
「ほお」
思わず隊長が感心する。見かけに似合わず丁寧な乗り回しだ。子供らがわあっと声をあげてガリックのところに駈けていく。何人かがガリックに飛びついてバイクに乗るので「こぉらっ」とこちらからヤンが声を飛ばす。
確かめるように隊長も言う。
「壁も張ってくれ。駐輪用の最小限のやつだ」
あうあうと遠くで頷くガリックがハンドルを操作するのが見える。バイク全体がぼおっと光った。指示通りだ。また子供らが騒いでいる。
「すみません、むやみに弄るなと言っておきますので」
「いいさ。——彼は人気なんだな」
ハンナが笑って答える。
「優しいし、邪険にせず遊んでくれます。男の子には体術とか闘術まで教えてくれるから、しょっちゅう取り合いになって」
体術は民間だが、闘術は一般に軍属の身のさばき方を鍛える術だ。してみるとあの庭番はどこかの軍に身を置いた経歴もあるのだろうか? 子供たちに囲まれている男を遠目に、ふーむと考える隊長の後ろの玄関から。
「また何か報せが入ったらお願いします」
クレセントの声が聞こえ、振り向けば少年に礼をした二人の男性がちらとこちらに視線を飛ばして、石畳を小走りに門の方へと消えていった。背中を目で追う隊長の横にアルトが並んだ。
「——なんだか、きな臭いことになってきました」
「私に教えて構わないのか?」
「ええ。アルターの
「ウルファンドで? ……街に被害は?」
「崖の上に墜ちたらしくて。そこは幸いだったんですが」
おもむろに隊長が左の手首を顔の前にやる。腕輪は鳴らない。鳴っていない。そんな事件があったのに、妙だ。しかし隣から隊長の仕草を見た少年が。
「ああ。」「うん?」
「すみません。敷地から出たほうがいいです。ここでは繋がりません」
苦笑して見上げるアルトムンドを、隊長がしばし見返して。急に門まで駆け出した。
少年が声を投げた。
「また戻ってこられますかあ?」
走る隊長が軽く手を上げたのが見えた。
門から出て壁沿いにしばらく走って停まり、腕輪を操作する。案の定いくらかの着信があった。ウルファンドで別れたカーンの連中だ。こちらから送信すると、すぐに。
『やっと繋がったか。何かあったのか?』
「いや、問題ない。事件があったと聞いたんだが」
『アルター国籍の突撃艦が
「迎撃したのに首都へ向かっているのか? アルターから離れたほうがいいんじゃないのか?」
『トール副議長一行を乗せている。正当防衛の証人だ』
「申し開きをするつもりか? 議会で?」
『申し開きというか、殴り込みなんじゃないかな』
いや。またあの蛇どもは面倒なことを。きっと腕輪の向こうのバクスターも同じ顔をしているに違いない。そう思いつつ隊長が二、三の打ち合わせを終えて通信を切る。
もう陽が高くなってきた。朝方の雲も晴れている。敷地沿いの壁から伸びる庭木の木漏れ日に顔を上げて、隊長がふうと息を吐いた。
視線を孤児院の白壁に戻す。
この場所はなぜか、
「外を動き回るしかないな」
◆◇◆
行政塔のそびえる中央区から湾岸は南から西にずうっと海岸線を西インダストリアまで工場群が立ち並んでいるが、逆に東方面の海端は数キロリームに渡って首都国軍の広大な敷地が開けている。
穏やかな海風が吹き込む発着場に円盤型の巨大な
将軍ヴェルナー=ファイルダーは張りのある揉み上げがそれこそ獣のように左右に広がった強面の壮年で、一見すれば最前線の兵士然とした風貌だ。
見た目に違わず面倒な深慮遠謀には頓着がないので、議会の席からの帰りは大概不機嫌である。が、帰路の車内に届いた報告で本日はそんな機嫌どころではない。
迎えに出ていた上位兵に開口一番で質問しながら、早足でビルに入る。
「——蛇なんぞに乗ってんのか?」
「はい。すぐ繋ぎ直します」
「イかれてやがるせ、あの婆さんは」
陽に焼けた顔が
前面にガラス窓の取られた上階管制室の中央パネルで数人の通信兵が操作する中、部屋に入った将軍がどことはなしに声を張り上げた。
「帰ったぞ副議長! 本当に蛇の中なのかアンタは?」
『お役目ご苦労様ねファイルダー』
「何考えてんだラウザ、そいつらはフィルモートン襲撃と国軍機撃墜の被疑者だって分かってんのか?」
『だから乗ってるんじゃない、保険よ保険。あたしたちが搭乗しないまま首都に蛇が近づけば国軍が攻撃するんじゃないの?』
「俺らは蛇とは違う、領空侵犯は強制着陸に決まってるだろうが。だがこっちは首都の防衛だ、下手な動きは一切許容できねえぞ」
『無茶するつもりはないファイルダー将軍』
聞こえたのは野太い男の声だ。管制室がざわめく。どこを睨むともなく、将軍の眉間に皺が寄って、ざっ。と右手を顔の横に構えて何も言わず指を折って後ろの兵士にサインを出した。指示は待機人員と都市内砲塔の確認だ。兵士が一言も発さず一礼して部屋を出る。
「——蛇の艦長か?」
『無限機動ウォーダー艦長、イース=ゴルドバンだ。ウルテリア=アルター国軍ヴェルナー=ファイルダー将軍で間違いないか? 本機はリオネポリス評議会ラウゼリラ=トール副議長と聖域シュテ調査員シャクヤ=ゴルドー=グラストン導師を移送中だ。人員は五名』
「領空への侵入許可は出せねえぞ無限機動ウォーダー。お前たちは犯罪容疑が——」
『武装艦による帰国移送はあたしが要請しました将軍。ウルファンドで命を狙われたのを護ってもらったのよ?』
「……なんだと?」
副議長がとんでもないことを言い出したのだ。
「狙われた? 本当か?」
『こんなこと冗談言ってもしょうがないでしょ』
「そうか——よく聞け蛇の艦長。トール副議長が襲撃されたのを助けたってのなら護衛は認める。だが首都領空では我々に従ってもらう。こちらの武装は通常弾幕だ、空砲じゃねえぞ」
『了解だ。到着は明後日の朝になるだろう』
それだけ言って通信が切れた。横の通信兵に将軍が言う。
「
◆
蛇の管制室モニタの前にはいつもの面々に加えて、首都へ送る五人も固まっていた。護衛の獣たちと魔導師ガラは複雑な計器盤を物珍しそうにみている。ドーベルマンの女は操縦席に座るミネアに視線を向けて、何事か考えているようだ。
前面に映る空を見つめたまま、もう何も言わなくなった通信を止めて、隣に立つラウザに虎が呟いた。
「——どうやら武装は通常弾幕らしい」
「ね。将軍がそう言うなら、
「統制が取れていれば……それで済むんだろうがな」
思わせぶりな虎の言葉に、一緒にいたシャクヤ導師がグラサンの奥から虎を見る。
「軍に外部の内通者がおるとでも言うのかの?」
「わかんねえな。だが将軍の言葉だけじゃあ
「どうやって?」
「まあ、なんとかなるんじゃねえかな」
虎が笑うのに飛竜が肩を竦める。滅多なことはまだ言えない、が。あの暴風の中で獣の住む街に飛来した複数の光弾を、アキラはまともに壁で受けたのだ。
いつもと違って会話の主導を握っているのはアキラだ。会議室のテーブルで密かに集まったリリィ、ログ、モニカ、ノーマ、ケリー、そして復帰したエイモス医師の六人に話す。
「ぶっちゃけ、元素の解析はできてます。攻撃してくる光弾の組成率が読めれば見分けはつきます」
はあっ。と。獣たちは呆れるような納得するようなため息を吐く。ログと医師は感心したように頷き、ノーマが代表で答える。
「あのねアキラくん」「はい」
「元素や法陣の組み方なんて、そりゃあ基本的な仕組みはあるけど最終的には気の遠くなるような試行錯誤を繰り返して、思う効果を得る術を組んでいくのよ? 術によっては何年もかかるし、聖域にはそれ専門の〝論者〟って職もあるくらいなのよ? まして他人が組んだ術式を外から読み解いていくなんて——」
「リバースエンジニアリングって言ってですね。地球じゃ結構普通に行われていることなんです」
=そんな一般的か?=
(異動した先輩のマクロ組み替えるのとか大変だよ?)
=ああ。そういう残念な話か=
「おちおちお前の前じゃ術も見せられないなアキラ」
椅子にもたれかかるケリーが苦笑して、だがまた真顔になって。
「やっぱり
カーナの件を口にする。クリスタニアで火炎豹の彼女だけが魔導の効きが悪かった件は、すでに仲間内で共有されていた。アキラも頷いて。
「そうですね、
「じゃあ四種混合なのか」
「はい……ただ」「うん?」
「分析の途中で気づいたんですが。式の組み方って、その人なりの癖があるって、わかりますよね?」
ああ。と、リリィを除く全員が頷く。ウサギだけがきょとんとして。
「そういうものなの?」
「そりゃあ使える部分は他の術にも使うからさ。同じ作用の陣ってのは使い回しが利くしねえ……え? いや、ちょっとまってアキラくん?」
モニカが気づいて注視する。反り返っていた姿勢を正す。周りで聞いていた他の面々も、彼が何を言っているのかわかってきた。
式に誰かの癖がついていて。
その癖にアキラが気づいた。
ということは。
「
全員が思うことをログが言って。
「はい。
アキラの答はあまりに衝撃的だ。
あの忌まわしい魔導の源にノエルの
「もしそうなら、どういうことになるんだ? ノエルの呪文の中に〝獣を殺す効果を持つもの〟があるってことか?」
=そうとは限らない。効果は偶然かもしれない。むしろ別の必要条件がある=
「むしろ〝
「そうだ」とログが頷いた。
「ミネアが
「匿名のまま保有者が確定するってことです?」
「そう、そうだ。その表現が一番近い」
=まるで
声にうーんと唸るアキラを見て、モニカが。
「けどね」「え?」
「誰が解いたかってのはわかんないけどさ。どの
その台詞に顔を顰めたのは狼だ。
「……僧院ラーマのシェイか? あの生意気な」
ああとノーマも、そしてログも笑う。
「またそんなこと言って。可愛いじゃないあの子」
「クレセントの見た目なんか信用できるかよ」
「第十七番。
「シュテの僧院ラーマでは、話が遠すぎるな」
初めて医師が発言した。
「もう明後日の朝方には首都に到着する予定だ。それまでに
「そうだ。——聞きたいことがあるアキラ。お主はウルファンドの街で敵の砲撃をまともに受けていたな。あれが
「はい。組成が一致していたら受けた箇所だけ切り離す予定でした」
「瞬時に?」「瞬時に、です」
それしかないのだ。虎も、帰りの
「消極的だな。
「いやダメじゃんナニ言ってんの?」
「バカ言うんじゃないよ」
「なんで貴方はそうなのケリー」
「おまえら……」
「少し弱い意見だが」医師が言う。
「あれから聞いた
「そうです先生。あれは心筋の麻痺でした」
「
「〝
「冷水に浸かった時に起こるアレだ」
「ああ」
「神経系の麻痺も起こっていたようだから、症状を聞けばそれだけではないかもしれない。ただ少なくとも〝
「
ノーマが目を丸くするが。しかしアキラは納得する。
=
(そうだね。電気ショックは有効かも)
「わかります」「わかるの?」
「そんなに強烈な電撃じゃあない、微細なものだ。これがひとつ。もう一つはカーナの件だ。彼女に
これにもアキラが頷いた。四元素の混合が有機化合物に酷似していることを既に理解しているからだ。
「——
「そうだ」
「……熱に弱いってことか?」
ケリーの呟きに医師が笑う。
「仮定だ。誰かが実際に光線を受けて確かめる必要がある。もちろん獣の君らにはやらせられない。試すのは人間で、かつ元素変化の分析が瞬時に出来る者じゃなきゃいけない」
「はい。やります」
アキラが即答したのでリリィの耳が立った。
「いやいやいやアキラくんっ」
「俺しかいないじゃないですか」
「だってさあ。危険じゃないそんなのっ」
「じゃあ、それで決まりだ。組成が一致した攻撃はこれまで通り障壁を捨てるのが当面は有効だろう。もし首都で機会があれば、なんとか君が放射を浴びなきゃいけない。先に進まない。それとさっきの電撃の分量と方法だが」
「それも俺、皆さんに教えられると思います」
青年のあっけらかんとした返事に笑う医師の周りで、皆が彼らを呆れて見るのだ。この人間ふたりは一体、なんなのだろうと。
◆◇◆
昼下がりの店は単に毎日の習慣で開けているだけで、特に店主にとっては客が来ようが来るまいが関係はない。暗くなればまた毎日のごとく店のシャッターを下ろす、それまで何の気無しにカウンターで、新聞に目をやっているだけのことなのだが。
「……またあんたかよ、勘弁してくれよ」
ガラス扉を開けて入ればあからさまに眉をしかめる店主にかまわず、隊長が中を見渡す。やはり武器を取り扱っているようで、いくつかの短銃らしきものが鉄柵の奥の棚に並んでいる。
「バイクは隠せた。別のやつが欲しい」
「中古のぼろでいいのか? 駆動6000ジュールだぜ」
「いい。それとあれと」顎で銃を指す。
めんどくさそうに店長が立ち上がって棚を開け、一丁に手をやるが。
「下のやつだ。小さい方。これに隠せる程度の」
隊長が外套を少しまくる。聞こえるようにため息を吐いて店主が、そちらに手を移して取り上げた拳銃をテーブルに置く。
「
「かまわない、これで足りるか?」
小袋から転がした二個の魔石に、ぎょっと身をすくめて。
「こんなもん持ち歩いてんじゃねえよ! 危ねえなあ」
「曝露はない。何年前のやつだと思ってるんだ」
「……まさかウチに入れてあったんじゃねえだろうな」
「貸金庫屋が金庫の中を詮索するのか?」
「ちっ。——他には? 用はそんだけか?」
「医者を紹介してくれ」「は?」
「医者だ。もと魔法医師で、
「なあ。ほんっとやめとけって」
「俺が身を守れない人間に見えるか?」
また大きく舌打ちをした店主が乱暴にメモを取って殴り書きした住所をびッ! と差し出した。黙って受け取る隊長にしっしっと手で払うが。
「最後に」「まだあんのかよ」
「お前の紹介したあそこは、どんな
「ああ?」「元は廃院だと聞いたぞ」
そこで初めて店主がきっちりとカウンター越しに向き直って、隊長との間にある白い鉄柵越しに。
「あの孤児院は昔から獣化がひでえんだよ。理由は知らねえ。引き取られた子供がしょっちゅう獣に変わっちまってな。前の持ち主はな」
「——もういい。獣化した子を売っていたんだな」
「そうだ。結局獣たちに恨まれて襲われてな。五体ばらっばらの最期だ。しょうがねえよな、そんだけのことやってたんだからな。今の院長になってからは、そんなことは聞かねえがな。これでいいか?」
軽く手をあげて。やっと出ようとする隊長に背中から店主が声を投げる。
「バイクは夕方に寄りな」
◆
少し
道の時々で数人、胡散臭そうな通行人に目も会ったが気にすることもなく、小汚い正面扉から入って階段を登る。
その部屋は、数回のノックで声がした。
「あいてるよ」
開けて入れば確かに診察室だ。破れた待合の椅子が数脚、奥のカーテンは診察ベッドなのだろう、診療机に座った白衣の男が肩越しに振り向いて。
「何の用だい」
「少し話を聞きたい」
「お断りだね。そういうのは情報屋をあたりな」
微妙に歪んだ丸眼鏡を鼻にかけた医者はずいぶんと老けて皺だらけだ。構わずに隊長が話し続ける。
「臨海工業地域の患者を引き受けることはあるか?」
「聞こえなかったのかい? お断りだって言ってんだよ?」
さっき買ったばかりの拳銃を構える。医師の目が眼鏡の奥で細くなる。
「なんのつもりだい」
「問題があったら〝脅された〟と言えばいい。臨海の日雇いで獣化が出たら、あんたは対応するのか? 運ばれてくることはあるのか?」
「あったとしたら?」
「その処置はどうする」
「行政に任すさ」「他のルートは?」
「……なあ。こんな汚ったない街でもあたしゃ残りの人生、ここで働いて暮らしてかなきゃいけないんだ。下手なこと喋って食い扶持なくすわけにはいかないじゃないか。わかるだろ兄さん?」
拳銃を見た医師が、そんな深刻な物云いをする。逆に隊長の表情がやや緩んだ。どうやら一人目から当たりを引いたようだ。
「じゃあ残りの人生を売ってくれ」「はあ?」
拳銃を構えたまま、隊長が近寄ってくるので。医者が両手を胸元にあげて椅子ごと後ずさる。反対側の手で外套の内側から取り出した布袋を、隊長がじゃっ。と机に放った。
視線はそのままに、そおっと医者が袋の紐を解いて。中からうっすらと光が漏れた。みるみる瞳が点のように縮んで。
「……いくつ入ってるんだ?」
「数えていない。足はつかない。上物だ。これだけあれば街を出て余所で立て直せるんじゃないのか」
返事をした隊長が拳銃を手の中でくるりと回して机に置いた。
「護身用だ。殺傷能力は低い。一緒に持っていけばいい。これも買ったのは俺だから足はつかない」
「い、いつまでに返事を」
「今だ。話せないなら他をあたる」
そう言って隊長が袋に手を伸ばすので。医者が慌てて。
「待てっ。ま、待て。何を聞きたい? どこまで?」
「あんたが知ってることは一通りだ。街を出るなら、もう隠すこともないだろう」
老人医師のひたいがじっとりと汗ばんで。軽く顔を振って。
「ああ、ちきしょう! こんなこた、もう死ぬまで無えやなッ!」
医師がひゅっと顎を近くの汚い椅子に振った。
「座んな。さっさとだ。気の変わらねえうちだッ」
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