第八章 首都リオネポリスの落日〜弩級幻蟲ゴーンジャイアント登場〜

第九十四話 アルトムンド孤児院


 巨大な蟲に破壊されたクリスタニア辺境本部では瓦礫の解体が滞りなく進められていた。月昼期ルナウイーク明けの今日も朝早くから、湖畔の平坦な敷地では多くの重機が砂煙をあげながら忙しく動き回っている。

 そして天気がいい。第十三隊長デイジー=ギャレットは大柄な上半身にはち切れそうなタンクトップを着て、太いベルトで締めた作業ズボンとブーツという出で立ちだ。肩にかけたタオルでひたいの汗を拭う。


「あんま天気がいいのも考えもんだなあ十一ひといち。なあ?」

「そうだなあ」


 側に立つ第十一隊長も似たような作業着だ。双眼鏡で北の仮設本部を見ながら気の無い返事をする小柄な同僚に、後ろから思い切り被さって。


「聞いてんのか? うりゃっ」

「うわっ汗拭けよお前っ」

「嬉しいか?」「バカかっ」

「ナニ覗き見してんだよ、イングリッド様に言いつけるぞお」

「はあ? 覗き見なんかするかよっ」


 ぐいぐい顔を近づけて言う彼女に、十一隊長が呆れ顔で答える。確かに仮設本部に滞在しているのはイングリッド女史とクレセントの少女なのだが、今はもう一人。けったいな客が来ているのだ。


「俺はただ、黒騎士隊が気になるだけだ」

「ああ。あの真っ黒な女の子。あーいうのが好みなのかよ?」

「オマエほんっとに」

「あたしあの子嫌いじゃないよ、なんだか面白そうだし」


 そう言って悪そうな顔で柔らかい体重を肩にかけてくる。十一隊長が軽くため息を吐いて。


「あのな」「うーん?」

「そうやってはっちゃけるのは、俺の前だけにしとけよ?」


 十一ひといちの言葉に、デイジーが少しだけ。唇を閉じて。

 薄目になって。ぎゅうっと。


「——わかってるってえ」「ほんとかよ」

「わかってるけどさあ。生き残ったあたしらはさ」

「うん」

「生きてかなきゃ、いけないじゃないか」


 首元に後ろから一段と強く顔を押し付けてくる。十一隊長がまたひとつ息を吐いて、肩で支えてやる。

「当たり前だろ」

「そうだよ、当たり前だよ」


「汗、拭けって」

「うれしい?」「ばっかやろ」


 コンクリ色の広い地盤が、遠くまで眩しい。

 汗臭いのも、生きてる証だ。





 いったいこいつは何なのか?


 広いテーブルの対面でがっつがっつとひたすら飯を食っている真っ黒な薄鎧の少女を。右腕を肘ごと卓に乗せたイングリッドがぶっすりと顔を曇らせて観察する。隣では特に興味もなさげに、宝玉の杖を抱えたソフィアが椅子を揺らしているだけだ。


 もう七日でも経っただろうか。この浅黒は食って寝てばかりだ。最初に少女が本部に到着した時はてっきり黒騎士から辺境軍指揮の移譲を言ってくるものかとばかり思っていたのだが、もののみごとに何もしないのだ。

 聞けば月昼期のあいだはこの辺境本部で待機する指示を受けているらしいが、今日も起き抜けからひたすら物を食っている。


 イングリッドは相手を注視する時に俯き加減で顔を傾ける癖がある。石の入ってない右眼を正面にやるからだ。結果としてじいっと上目のまま、無心に飯を掻き込む相手を睨んでしまう。

 まあ——漆黒の長髪に童顔で浅黒い肌の、歳もわからないこの少女は確かに外見や態度からして、およそ指揮官が務まる風体でもないのだが。


「……朝っぱらからよく入るな」

「んあ? お前らが少食なんひゃないか?」


 がしがしと。手に持ったフォークで皿に乗った脂焼きを串刺しにしていく。結構な大きさの魚の赤身だ。ちりちりに焼けて香ばしい匂いは食欲をそそるのだろうが、ふた切れも三切れも朝に食う量ではない。

 それを一息でかぶりつく。じゅうっと脂がてかって皿にこぼれる。ソフィアが呆れるのを通り越してへらっと笑ってしまう。


「あなた、本当に美味しそうに食べる」

「ふえ? ふへっへえ、そおか?」

「あなたみたいに食べるやつ、ひとり知ってる。あいつもバカだった」

「なんだよ。あたしはバカじゃねえぞ。もぐもぐ」


「……それで? 倉庫の中身を食いつくしに来たのかカーベリラ? 昨日で約束の月昼期ルナウイークは終わったぞ。いい加減ここに来た目的を話せ。卿は何と言ってるんだ」


 今度は左手で固めのピールを手につかんで。ばちゃばちゃスープの皿に浸してかぶりついたカーベリラがイングリッドに視線を飛ばす。


「爆縮の調査ひょうひゃだよ」

「なんだと? 例の26億ジュールか?」

「ごっくん。あれはさ。ファガン方面は違ったみたいじゃん。あの気狂きぐるいのアヌジャカ姫もさ、向こうは向こうであたしらの仕業だと思ってたみたいだしさ」


「我々がどんな理由で爆縮など起こすんだ」

「うーん? 天雷バベルが解けたとでも……思ったんじゃないの」


 ああ、と。またピールをはぐはぐと口に運ぶ黒髪の少女を見ながらイングリッドが納得した。確かにグートマンの十六番〝天雷〟が解けたのなら、それはファガンにとって脅威なのだろう。だが実際は違った。


 あの爆縮は何もかもが違った。イングリッドが思う。


 通常、大陸で起こる爆縮は周辺区域の魔力が突然跡形もなく消失する原因不明の現象だ。その消失範囲は爆心から綺麗に放射状の円を描くのが普通なのだ。時には竜脈にすらすっぽり穴が空くことすらあるらしい。

 だが先だっての爆縮は違った。発現と同時に大陸に散った帝国各地の魔導炉が一斉にダウンしたのだ。まるで魔力が集中して溜まっている場所を狙い澄ますかのように、意図的に魔力を強奪するかのように。


 だからこそ、黒騎士もエグラム導師も、ファガンの仕業と決めてかかっていたのではなかったか? 南へ軍を進めたのではなかったか?


 それなのに。


「辺境は辺境で調べるつもりだったのか? お前一人で?」

「うーん……まあ、ついでがあったからなあ」

 また妙なことを言う。

「ついで? 何のついでだ? 別件があるのか?」

「あたしが調べてるのは……別の爆縮……」


 ピールを咥えたまま、カーベリラの歯切れが悪くなる。イングリッドとソフィアが顔を見合わせて。また尋ねる。

「別の爆縮? いつのだ?」

 しかし返事がない。

「おい。カーベリラ。いつだ? どこであった爆縮だ? 竜脈研究班にもそんな情報は届いていないぞ? カーベリラ聞いてるのか?」


 寝ている。


「——起きろ貴様ッ!! 赤ん坊かッ!!」

 だぁんッ! と叩いた机の音に隣のソフィアが驚いて緑の瞳を丸くする。びくっと対面の少女が咥えたピールを口から落とす。


「あ? うあ?」

「お。お。おまえおかしいんじゃないのかッ!! 今。私と話していただろうが! 眠いんだったら寝室で寝ろッ!」

「食べてる時にさあ……頭使わせるからだろお」


「ちょっと喋っただけじゃないかッ、もういい。食ったら寝ろ。好きにしろ! ふざけるなッ」


 目を剥いて怒鳴るイングリッドを気にする風でもなくふわあああああとでかい伸びをして。テーブルを立てばまるでどうやって着込むのかわからないほど身体の線に張り付いた漆黒の鎧がしなやかにくねる。伸ばした指できゅっと口元を拭いて。


「十九年も前だあ、記録なんか残ってないよ」

「なんだと?」

「ひと眠りしたら今日あたり、ここを出るからな。約束通りさ」


 そう言って踵を返し、部屋を出て行こうとするカーベリラの背中にイングリッドが声を投げた。


「待て。出て行くとはなんだ。どこに行く?」

「補給もできたし、月昼期も終わったからさ」

「答えが違う。どこに行くのだと聞いている」


「ナイショ。じゃあねえ」


 ひらひらと手を振ったまま、薄鎧の少女は部屋を出ていった。テーブルに乗り出したまましばし固まったイングリッドが、はあっと息を吐いて思い切り椅子に体重をかけなおした。隣のソフィアが横目で見る。


「イングリッド、短気過ぎ」

「知るかッ」


 ぶすっと不貞腐れた顔で腕を組んだイングリッドが、また同じことを思う。いったいあいつは何なのか?

 黒騎士グートマンに付き従う三人の部下は、どれも得体が知れない。髭面で巨漢のサルザンと細身の剣士フーコーは、それでも少なくとも普通のやり取りができる程度には〝まとも〟だ。今のカーベリラはそれすら覚束おぼつかない。

 正体もわからない。黒騎士隊の中で唯一、顔面を宝石で覆われていない。子供のような顔が丸出しで、だから余計に不気味なのだ。あの少女は人でもなく、クレセントでもなく、魔導師でもなく、獣でもないような、そんな不可解な——


 ちらと隣のソフィアを見て。

「あんな女が、気味悪くないのかソフィア」

 ちょっと銀髪を揺らして、杖を抱えた少女がきょとんとして。そして笑った。

「別に。あいつ、かわいい」


 イングリッドが眉根を寄せる。この子が警戒しない。見てくれはともかく黒騎士隊に属するあれを。いよいよわからないのだ。そして。


「十九年前の爆縮だと……」


 黒騎士が直轄で動かし、聖域シュテとエメラネウス山系に飛んだ、辺境五中隊と関係があるのだろうか? 女史の眉間の皺が一段と深くなった。




◆◇◆




 白い漆喰の壁がそのままの廊下を、青年と少女に先導されて隊長が歩く。後ろからはぺたぺたとスリッパの足音を立てて庭番の男がついて来た。

 広く取られた窓から見えるのは四方を建物の一階で囲まれた中庭で、ちょっとした菜園のそばには木が数本生えている。数人の子供が水を撒いていた。やはりこの敷地の主人たちは子供のようだ。見かけた中では今まさに前を歩く青年が一番年長に見えるので、隊長が尋ねてみた。


「ここは孤児院なのだろうか?」


「そうですね、身寄りのない子供たちを引き取ってみんなで暮らしてます。——ご存知なくて来られたんですか?」

「悪い。知らない」


「アルトムンド孤児院です、おじさま」

 青年の横を歩く金髪の少女が振り向いて笑った。歳の頃は隣の彼と同じく十五、六ほどだろうか。自分のような不審な来訪者に臆するようでもないのが、やや不思議に感じる。


「こんな人間を、ずいぶん警戒しないのだな」

「院長にはいろんな人が会いに来ますから。それにガリックもいるし。いざとなったら守ってくれるのよねガリック」

 一通りの言葉はわかるのか、隊長の後ろで庭番があうあうと頷く。


 やがて院長室の固い扉の前で、青年が軽くノックをした。中から聞こえた「どうぞ」という声に、隊長が違和感を覚える。声が幼い。

 扉を開けて入った院長室は広々とした窓に立派な書棚を構え、中央に来客用のソファーと、そして執務机がある。座っていたのはどう見ても少年だ。いや、少女か。


 ショートカットの白髪に透き通るような肌で、まだ幼さの残る端正な顔が、男にも女にも見えない。その雰囲気を隊長は知っているような気がして。きちんとした着こなしの院長に、つい声を発したのだ。


「——クレセント?」


 机に座った少年が賢そうに笑う。


「僕の正体がわかるなんて、ウルテリア=アルターの外から来られたんですか? クレセントのアルトムンドです。アルトとお呼びください」


 そう言って軽く頭を下げて、そして首をやや傾げる。隊長の言葉を待っている。案内した二人と扉の側に立つ庭師も隊長の出方を注視しているようだ。

 丁寧な挨拶の返しをどうするか、やや隊長が迷って顎を少し撫でた後に。


「すまない、私は自分の名前を知らない」


 正直に言うことにした隊長の台詞に。ちょっとだけ傍らの男女が驚いた顔をするが、当の院長少年は涼しい目を向けたままだ。


「死に残りですか。それでよく暮らしてこれましたね」

「名前の要らない場所に居た。帝国の辺境だ。私の出自が必要か?」

「要件によっては」

「調べ物をしている。抗魔導線砲アンチ=マーガトロンというやつだ」


「あの、僕らは席を——」

「かまわないよヤン。ハンナ。座れば? あなたも……ではなんてお呼びすればいいでしょうか?」

「隊長でいい。私はここでいい。そこの彼は?」


 隊長が顎をしゃくる。庭番も部屋の隅にぼおっと立ったままなのだ。クレセントの少年がこめかみを掻く。

「ガリックは低いソファーに座るの嫌いなんです。きっと、あなたと同じ理由で」

 

 深く低い椅子は腰が沈んで無防備になる。

 ちらと隊長が庭番を見る。少年が続けた。

「あの忌まわしい魔導を調べておられるのですか? なんのために?」


「あれ自体には興味はない。その先にあるものに興味がある。誰が、何をしようとして、あれを仕掛けているのか知りたい」


「なぜそれをあなたが? 誰かの指示なんですか? あなたは帝国兵なんですか?」

「今は違う。私は過去を知らない。——それを追うためかもしれない」


 じいっと。アルトが澄んだ目を向けて。



 隊長がごそごそと。外套の中から右手に取り出したのは——わずかに後ろで庭番が身構えた気配を感じた。伸ばした隊長の右手に持っているのは巻きタバコのローラーだ。ソファーから青年と少女も首を伸ばして覗き込んだ。


 クレセントの瞳孔がやや縮んで。右手を差し出すので、隊長が机越しに手渡した。傷を見て、機械を見て、蓋を開けて、取っ手をくるくると回して。興味深そうに部屋の三人も遠くから見ている。アルトが顔を上げる。


「これ、なんです?」


「タバコを巻くやつだ。丁寧に扱ってくれ。もう手に入らない」

「六本傷なら、そうでしょうね……いつの時代の品物なんだろう。タバコって、火をつけて吸う、あの薬みたいなやつ?」

「そうだ」


「ハンナ。お茶入れてくれない?」

「は。はい」

 少女が立って庭番が扉を開けてやる。少年が手を伸ばして返すローラーを隊長が受け取る。


「バルフォント評議員を調べるのが、手っ取り早いでしょうね。彼は抗魔導線砲アンチ=マーガトロンを軍と保安部に導入しようと躍起です。この国にあれを持ち込んだのも彼です」

「どこから?」

 アルトが首を振った。


「正確にはわかりません。でも彼は魔石の密輸をファガンと行なってます。おそらくそのルートかもしれません」


「堂々と議員が密輸とはおかしな話だ。なぜ誰も何も言わない」

「彼は〝管理者権限〟を持っていますから」

「〝死門クロージャ〟の?」「はい」


 少年が席を立って机を回り、窓際に立つ。改めて見れば背も低く本当に幼い子供の風貌でありながら、窓の光に照らされた横顔は深い知性を湛えている。外の庭に面した窓から広々と続く敷地の森に目をやりながら、アルトが呟いた。


「密輸が先なんでしょうね。石で〝管理者選任〟の票を買ったんですから」




 少女が茶を淹れてくれるまで、簡単に少年は昔を話した。もうずいぶん大陸のあちこちを旅してきたこと、庭番の男——ガリックという名は少年がつけたらしい——はこの街に入る手前にスラムで拾ったことなどだ。やがて配られた茶の香りが部屋に漂うころ、クレセントの少年がまた話し始めた。


「僕がこの街にたどり着いて、十年ほどになります。今でもろくなもんじゃないですが、当時の西インダストリアは酷い有様でした。市長からおかしかった。為政者なんてもんじゃないです、ごろつきです。権力を笠に着て好き放題でした。僕、そういうの嫌いなんで。しばらくここに居を構えることにしたんです」

「あんたが住めば何か変わるのか?」

「バランスを崩すのが得意なんです」

「バランス?」


 机の上にカップを置いて、今は隊長と同じく立ったまま少年が笑う。ソファーからヤンと呼ばれた青年が声を出す。


「院長、街に魔石の供給ができるんですよ」

「——どんなルートで? いや、秘密か」


 隊長の答えに「そうですね」と。アルトが続けた。


「結局、連中の権力って原資は魔石の流通独占が主ですから。おもいっきりバランスを崩してやりました。簡単なものですよね、相当な圧政を敷いていたらしくて街の人々も鬱憤が溜まっていたんでしょう、こっちが安価で卸せば楽に寝返ってくれました。今は市長も椅子を追われて、僕の息がかかった市長に代わっています」


「じゃああんたはクレセントで、孤児院の院長で、街の顔役なのか?」

「はい」「たいしたもんだ」


「ただ……安価な魔石が街に出回っているのは事実ですが。それを流しているのがこの孤児院だということを知ってる人は、あんまりいないはずなんですけどね」

 ちらとアルトが視線を送るので。


「この街にも代々続く裏稼業があってな。それ以上は聞かないでくれ」

「いいでしょう——問題は、どうも僕が潰した元市長の魔石流通ルートがバルフォントの傘下ファミリーだったってことですね。少なくとも西インダストリアの支配は、彼の手の内から離れてしまった」


 窓の外に目をやるアルトの視線は、森の向こうの街並みを見ているのだろうか。隊長が空になったカップを「ありがとう」と言って少女に渡して。


「あんたと議員が対立関係なのも、彼が魔石流通と死門管理で力を持っていることもわかった。それが抗魔導線砲アンチ=マーガトロンと、どう関わる?」


 少年が向き直る。

 逆光に輪郭の映える白髪は、閉じた羽のように美しい。


「結局、首都を支配するってことは臨海の工業地帯を支配するってことなんです、隊長さん。必要なのはエネルギーと労働力で、バルフォントは魔石供給を独占していますが、労働力の独占に手をこまねいています。理由、わかります?」


「魔石があるのに、労働力が集まらない。金が足りないというわけじゃない……ああ。魔力のか」


「はい。首都の臨海には二十億から三十億のジュールが日々流通していて、一部の設備は老朽化も進んでいます。当然、現場では魔力の曝露があるんです。人間の労働者にとって長期間の被曝は、獣化を誘発する恐れがあります」


「歳を取ってからの獣化は頭をやられる。身体の変化に精神がついていかない。港湾の労働者あたりでは、まともではいられないはずだ」


 ちょっと驚いたように。クレセントの瞳が大きくなった。


「さすがですね。詳しいですね」

「そうだな……なぜだろうな」


「相手が人間なら、騙して。丸め込んで。どうにでもなりますけどね。獣は狩るなら割りがいいけど、雇うのは人間より面倒ですよ。契約書をまともに読む教養のない獣だって、匂いには敏感です。むしろ嫌な匂いのする紙には、彼らは絶対にサインしない」


 そこでクレセントが言葉を切った。

 しばし二人とも無言のままで。


「——抗魔導線砲アンチ=マーガトロンは軍に配属されるのではないのか?」

「ですね、そう言いました」


「今の話の流れだと、まるで首都ポリスは外敵ではなく、市民の獣に魔導を浴びせるように聞こえたのだが? 彼らを労働力として確保するために」


「ですね。そう言いました」

 クレセントの少年が寂しそうに微笑んだ。




◆◇◆




 茶番だ。馬鹿馬鹿しくて息苦しい。

 老齢の議員がわずかにネクタイをひねった。


 中央行政塔二十階フロアの大勢を占める講堂、リオネポリス評議会議事堂の楕円形に組まれた広大な評議員席の一つに姿勢を崩して深く腰掛け周囲を興味なさげに見渡すディンガー=フォートワーズ議員は思う。くだらない、と。

 座席を埋める百数十名の議員たちの半数、おそらく三分の二を越える連中は、今まさに遠くの席で朗々と声をあげている若きダニエル=バルフォント議員に籠絡されているはずなのだ。腕を組んで隣に座るディボ=バルフォントは無表情で、ただ婿養子の喋る様を見るでもなく議事堂全体に視線を飛ばしている。


 まるで裏切り者を見逃しはしないとでも言うかの如くだ。


 睨みを利かせているのだろう。親子で、議員で、隣同士の席など。一昔前では考えられない醜態だ。議会政治も地に堕ちたものだ。大きくため息を吐くディンガーの耳に、聞きたくもない婿養子議員の声が響いてくる。


「——いまだに市民の中には勘違いをされた諸氏も居られるようですが、これは獣人に対する生存権の侵害というものではありません。あくまで公共の社会における安全保障なのです。世界のすべての獣に魔導線を当てると言っているのではない。いいですか? 首都で人間とともに暮らすなら、そうあるべきだ、と。違いますか?」


 若い声には張りがある。それも気に入らない。

 やたら甲高く、薄っぺらく聞こえるのだ。


「彼らには牙があり爪がある。常日頃から武装しているのと同じなのです。人にも化ける、心も読む。どれだけ危険な相手かわかりますか? その獣たちと一緒に我ら人間が社会を構築してきたのは、ひとえに我らの〝許容〟があったからです。それを良いことに、一部の獣たちの暴走は止まらない。——調査結果は出たんですかファイルダー将軍?」


 一斉に。議員たちの視線が集まる先に腰掛けていた軍服を着た壮年の軍人が。腕を組んだまま面倒臭げに答える。


「あの突撃艦ハンマーはフィルモートン壊滅のどさくさで盗まれた北東基地所属の——」

「発言の際には起立していただきたい将軍」

 議長席から声が飛ぶ。軽く舌打ちして軍人が席を立つ。


「北東基地所属の突撃艦だ。犯行者はまだ調査が終わっていない」

「しかし国章は尾翼に?」

「付いていたさ。当然だ」

「それを蛇は撃墜したと? 通信も試さずに?」


 突撃艦が街に突っ込んできたら俺でも墜とすだろうぜ、とは言えずに。渋い顔で将軍が数度頷いて。

「そうだ。蛇は我らアルターの国軍機を撃墜した」

「いかがですか皆さんッ!!」

 芝居掛かった大声でダニエルが吠えた。将軍がまた舌打ちをする。


「我ら人間社会はどこかで獣の横暴に歯止めをかけなければならないッ! 繰り返します。これは安全保障なのですッ! 人と獣が対等な関係を維持するための——」

「議長」「フォートワーズ議員」


 耳が腐る。聞いてられない。老齢の議員が呆れがちに手を挙げた。気分良く声を張り上げていたダニエルが口を閉じて、じろっと遠くの席を睨んだ。


「二つある。バルフォント議員。若い方だ」

「……わかってますよ。どうぞ」


「ひとつ。国外の獣が暴走する事が、なぜ首都の獣に魔導線を当てる事に繋がる? 武装した相手には外に向けた武器だけで十分ではないのか?」

「規範を示すためですよ。単純じゃないですか。何度言いました? この魔導線はA波だけ照射されても何も起こらないのです。首都の獣たちが全て受け入れているからこそ、初めて外からやってきた相手にも浴びせることができる。つまり一種の入国条件であって——」

「中の獣が浴びているものを、外の獣に浴びせても〝先制攻撃〟に当たらない、と? そんな詭弁が通じるのか?」


「通じるか通じないかではありません。この国ではそうなのだ、と。言い切れたら良いのです。違いますか?」


 薄く笑って人差し指を振るダニエルに。くしゃっと顔をしかめて。いちいち勘に触る若造なのだ。


「ふたつ。いつできるのだ?」

「はい?」


「いつ完成するのだ? まだ未完成なのだろう? 完成したという報告は入っておらんぞ。獣の身体に影響を与える魔導線だ、A波が無害でB波が間違いなく作用するという報告書を早く提出していただきたいものだ。俎上に乗せるのはその後でも遅くない、我々は架空の武器を議論する暇はない」


 じっと薄笑いで。表情をそのままにダニエルが答えた。


「もう最終調整の段階ですフォートワーズ議員。ご心配なく」

「言っておくが。非道な人体実験など行わずに完成させなければな、バルフォント議員。報告書を待っておるぞ」


 釘を刺すフォートワーズ議員が初めて笑った。





「あのクソ爺いッ、本当に腹が立つ奴だッ」


 散会した議場内から続く廊下を早足で。だかだかと革靴の音を響かせてダニエルが歩く。顔は露骨に歪んだままだ。

 つまらなさそうな目線を飛ばしていた義父は配下の議員たちと未だ議場に残っている。呑気に懇談でもしているのだろう。それも仕事なのはわかっているのだが。


 めんどくさい裏ごと荒事は全部自分の仕事だ。また「糞ッ」と小さく呟くダニエルの後を追う青白い顔のゲイリーが声をかける。


「ダニエル様」「なんだッ」

「部屋でパダー様がお待ちです」


 立ち止まって。苦々しげに。

「行政塔の中では会わないと言っていただろ?」

「なにか急ぎの用とかで」「糞ったれッ!」

 


 部屋に戻れば。応接用のテーブルに置かれた深皿の菓子を無遠慮にぼりぼりと食べる、室内で似合わないベレー帽をかぶったままのでっぷりと太った男がソファーに埋まっている。菓子の包み紙が散乱していた。

 男が座るソファーの後ろにはスキンヘッドの黒服が一人無言で立っている。後ろ手に手を組んで何も声を発しない。部屋に飛び込んできたダニエルにも、挨拶もしない。


「何の用だファットジャン=パダー」

「ああ。ああ。おかえりなさいましダニエル様。評議会はどうでしたかね? まあだフォートワーズの爺いがうるさいんじゃないですかね?」


 悪趣味な指輪が数個はまった右手をひらひらさせて迎え入れる太った男の対面に。どかっと。不機嫌にダニエルが腰を下ろした。即座に。


「ここには来るなと言ってるだろうが。なんだ。急ぎの用なのか?」

「ふたつあります。ふたつ。どっちも良い話で。大盤振る舞いですよ」

「ふんッ。ふたつなら帳消しだ」「はあ?」


「なんでもない。何があった?」


「西インダストリアで帝国のバイクを見たという奴がいましてね」

「帝国? なんで首都に? それがどうした?」

「例の魔石ですよダニエル様。あの安い魔石の卸元に関係があるんじゃねえかって」

「それだけか?」「そうそう」


 だんッ! とテーブルをダニエルが叩く。


「追跡しろよッ! それだけじゃ何にもわからないじゃないか! 調査続けてるのかッ!」

「その許可を貰いに来ましたんで」

「許可でも何でもする。調べて結果を持ってこい! 石がいるなら持っていけ!」


 にいっと笑ったベレー帽が。


「へいへい。じゃあふたつめ。新しいルートが発掘できそうですぜ」

「……なに? 獣のか?」「はい」

 ここで初めて嬉しそうにダニエルが笑って。しかし、また渋い顔に戻る。


「慎重にやれよ。フォートワーズの爺いに釘を刺された。死体は完全に処分できるんだな」

「おや? 全部実験で潰してしまって良いんで?」

「馬鹿言うな。最初に見せろ。気に入った娘は残すに決まってるだろ?」

「そうでなくっちゃ。好きですねえダニエル様も」

 嫌らしく笑う男にダニエルが呆れ顔をした。

「それはお前も一緒じゃないかパダー」


「あたしのは儀式ですよ。指の疼きが止まんねえんでさ」


 そう言って男が右手のひらを正面に開いて差し出せば。指輪だらけの人差し指、中指、薬指の三本は紫色の細かい血管の跡がびっしりと張り付いている。一度ちぎれて治癒魔法で再生した証だ。


 今は獣狩り〝ピエールインダストリア〟の棟梁に身をやつした元西インダストリア首長のファットジャン=パダーは、自分の右手の指を吹き飛ばしたウサギの恨みを。未だに忘れていないのだ。

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