第四十四話 本部クリスタニア

 それは、遠い昔の話である。


 この世界の月は、時節ごとに大きさを変えていた。月が世界に近づく年を近月節マージと呼び、太陽が姿を消す「月昼期ルナウィーク」では朝第四時から昼第二時ほどの、四時間近くの「長い日蝕」が数ヶ月続くのだ。


 朝が来て、夜が来て。夕方が来て、また夜が来て。世界は寒かった。圧倒的に陽の光が足りなかった。「月昼期ルナウィーク」の空は昼間でも星々の中に真っ暗な穴が開いたようで、凍えるような日々に作物は凍害に襲われ悪事が横行し、弱き者たちは時折その暗い天を貫いて現れる竜脈の輝きに、ただ祈り、救いを求めていた。


 湖のそばの小さな貧しい村に、ひとりの少年が住んでいた。


 ある寒い日に少年は湖畔で行き倒れの、布の仮面を被り全身を包帯で巻いた奇怪な老人を助けた。数日の間、ぼろ小屋で彼の家族は老人に藁の布団を与えた。


 老人は具合が悪そうであったが不思議なことに、二日も三日もまったく食を摂ろうともしなかったのだ。なけなしの粥しかない少年の家は、それはそれで助かったのだが、まるで獣の毛を焼き削いだかのような、皮膚のただれた老人の手を見た親は、ただ恐るおそる寝床を貸すのみであった。


 何も求めずおとなしいその老人は、やがて足腰が立つようになって彼の家から旅立つ日を迎えた。名残惜しむ彼と湖の分かれ道まで歩き、その最後に、別れ際に。


 そっと。彼の手を取ったのだ。

 火傷のあとで崩れんばかりの手を恐れるより先に、痛ましく思う少年のこころに。


 不思議な魔法の印が流れ込んできた。


「天を見て、考えなさい。いつまでもいつまでも、そのしるしのことをこころに留めておきなさい。おまえが運命の中にあるならば、やがて時がくるだろう」



 それより数年ののち。凶作が村を襲った。冷夏の季節に引き続いて「月昼期ルナウィーク」が重なってしまったのである。飢えと寒さで多くの村が死に絶え、少年の村も雪に閉ざされ、もう蓄えも底を尽きて。


 陽の差さない黒い空のぽっかりとした穴を、月を思って。白湯しか口に入れるものがなく、がりがりの少年がぼんやりとした頭で。


 なぜかふと、思ったのだ。

 陽の光が差さないなら。

 あの真っ暗な月が、大穴のような空が。


 自ら、輝けばいいのに。と。


 そんな馬鹿みたいで簡単なことを。


 瞬間、肋骨の浮き出る少年の胸のあたりが激しく輝いて、魔法の印が現れて、家族が驚くぼろ小屋の塞いだ窓の隙間から光がさしたのだ。力を振り絞ってよろめきながら小屋の木戸を開き、折れそうに痩せた足でふらふらと歩いて空を見た少年の目に。


 天を覆う月が、輝いていた。中心に途方も無い大きさの魔法陣がゆっくりと回り、細かな光の線が隅々まで走る、巨大な月はまるで光で造形された機械からくりのようで、発せられる暖かな光を吸った空はすでに夜ではなく、数ヶ月ぶりの青さを取り戻していた。


 呆然として見る彼のこころに。

 その時。浮かんだのだ。


 この奇跡には〝十八〟という数があり〝月鏡ルテナ〟という名前がある、と。


 それより先、「月昼期ルナウィーク」の月は柔らかな光をたたえ、世界が凍えることは、なくなったのである。



 少年は魔法を失った。

 その胸が輝いたのは、一度きりであった。

 かわりに手に入れたのは、探求のこころだった。


 『月鏡ルテナ』に〝十八〟という数があるならば。他の数も、あるのではないか? と。昔に出会った不思議な老人に想いをせ、世界の向こうに想いを馳せ、やがて少年は成長して村から旅立ったのだ。


 それから歳月が過ぎて、西の彼方に。

 彼は小さな小さな国をおこした。


 国の名は、ガニオンという。




◆◇◆


  

 

 無機質で広いホールのような階段を帝国軍特有の外套の裾をなびかせ、早足で登っていく大隊長ムルバオが、硬い胸当ての首元を赤く腫れるほどにがりがりと爪で掻きながら大声で独り言を叫ぶ。


「中央魔導軍! 中央魔導軍! うううっ! なぜだ! なぜ帝都ルガニアの連中がここに来た? 東には興味がなくなったのでは無いのか! をなんと説明すればいい! ぐあああッ!」


 腫れた首筋を時折びくびくと震わせながら、もみ上げまで繋がった髭面が斜めに傾いたまま、たまに足が止まって。


「ぎいいいいいいッ!!」

 両肩をがりがりがりと激しく掻いて。登りつめた踊り場の先にある巨大な鋼鉄の両面扉が一気に開いて、その部屋へ躊躇なく入ると同時に自ら叫ぶ。


「敬礼ッ!!」


 驚いた兵士たちが一斉に立ち上がって曲げた右腕をあげる。手指を伸ばしたしょうは力を入れてこめかみに当てる。ぐるりと見渡してまたムルバオが声をあげた。


「敬礼よしッ!! 報告ッ!!」


 構えを解いて座る兵士たちがぐるりと配置されたその管制室は、全体が複雑な配管と計器で壁が埋め尽くされ、正面の湾曲したガラス窓の向こうには美しい湖の遠景が広がっている。その上空には数十台のモノローラに加えて、長いつののような砲身を設えた単座の魔導機が何台も飛翔していた。


 クリスタニア辺境本部、中央管制塔の最上階、地上より数百リームに位置する総合管制室からは湖の遥か向こうのイルケア山系も見渡せる。晴れた空には、しかしだいぶ雲が出てきた。


「主力砲三機、副力砲三機、ともに設定を完了。」

「湖底魔導炉、接続終了。魔力充填1200万ジュール。」

元素星エレメント封印痕シーリング完了。波長は陰性で同期。」


 次々に声が上がる管制官の中から。


「竜脈の予兆が出ています。大隊長」

「なに?」「ほぼ南北に三国国境トライポイント付近までです」


 報告とともに窓の右側に巨大な地図が投影される。

「発生確率が上がっています。8割です。クリスタニア湖の東岸をかすめて発生、直線距離約50キロリーム。ただ魔力変動が不安定ですので——」


「ふ! ふふふ! 竜脈か! そうか! 同時に試せるとは僥倖だ! すばらしい……うううううっ!」


 最後まで聞かずに首を曲げて顎を突き出して、吠えるのだ。


「おおお! 発進準備! 竜脈が出たなら搭乗ランディングせよ! ハンマー2機! ベスビオ1機! モノローラと飛空突撃砲バンドランガーを編成! リボルバーは要らん! 主力砲と副力砲をしろ!!」


 最後の言葉に管制官たちが振り返って。


「大隊長。竜脈の模擬実験シミュレーションはまだ」

「要らん!」「し、しかし」

「要らああああああんッ!!」


 割れ鐘のような大声でムルバオが部屋を黙らせる。


「この機に試さなくてどうする!! 抗魔導線砲アンチマーガトロンを竜脈に流すのだ!! 主力砲と副力砲を流体に再構成しろ!!」


 それでも管制官の一人が抵抗して叫んだ。

「失敗したら竜脈が汚染されます! 全員——ひっ」


 外套の裾が輝いて。部屋に銃撃音が響いた。


 管制官は椅子から激しく弾かれて背中を計器に叩きつけ、反動で床に倒れ込んで動かなくなった。伏せた身体から焼けた臭いがする。

 他の者は目を見張ったまま何も言わない。大隊長の外套からはみ出た魔導銃ブラスターの銃身がぱりぱりとわずかに電光を発している。


「下には、誰も何も言うな。」「了解です」

「主力砲と副力砲を!! 流体に再構成!!」


 無言で。全員が機械に向き直ってオペレーションを開始した。機器の稼働音だけがかたかたと鳴る。ムルバオが両腕を高く掲げて。


「全軍!! 出撃準備!! 出撃準備!! うううう!!」


 叫びを残して踵を返せば両扉が開き、部屋から出て行った。鋼鉄のドアが自動で閉じられた瞬間。数人が同時に撃たれた兵士に駆け寄るが、すでに脈は止まっている。胸に真っ黒な焦げ跡があり、瞳孔も開いている。一人が腕輪に叫んだ。


「中央管制塔だ! ! 魔法医の手配を!」


 時間との勝負になる。遅くなればなるほど知性と記憶は消えていく。だが。死者の復活にこれ以上、一般の兵士がやることはなにもない。連絡を終えた兵士がぱたりと死人の腕を床に降ろして。


 映し出された地図を見る。魔力の地域変動値は、細かに数字が変わり続けていた。まったく不安定なのだ。おそらく次に出る竜脈は——




◆◇◆




 大隊長の執務室に呻きながら入ってきたムルバオが、またしても「ぎぎぎぎっぎぎ!!」と両肩を掻きむしって宙に叫ぶ。


「これでいいのだろ!! どうするのだ!! これからどうするのだ!! 中央軍だぞ!! 中央軍になんと説明すればいいのだわしは!!」


粛々しゅくしゅくと行うのだ。ムルバオ。』


 声とともにごぼっ! と一瞬で。大隊長の髭面に顔が増えた。首筋から顔の右半分、頰から額にかけての皮膚が空気仕掛けのように膨れ上がって人間の顔になる。


 皮膚の中に、誰かがいる。


 引きって左に傾けた首が直らないムルバオの頰に出来た顔は、逆三角に痩せて細く蟷螂カマキリを思わせる大きな眼窩をぎょろっと動かして言葉を続ける。口元をかたどる皮膚が粘土のように動いて大隊長の唇が巻き込まれてぎりぎりときしんだ。


『すばらしい。すばらしい采配だムルバオ。帝都ルガニアの泥棒どもなど恐るるに足らぬ。粛々と行え。』

「うぎ……ぎぎぎぎっ……痛い、ゆ、緩めて」


 引っ張られた唇の端が切れて血が滲む。が。次は。


『私に頼みごとをするな』


 首の皮膚の中に右手と左手がぼこりと浮かび上がって。ぎゅうううううっと。一気にムルバオの頸部を内側から締めていく。髭面がみるみる赤くなり紫になって。


「がががあああ」

『不愉快だ。頼みごとをするな』


 ぼこぼこと泡立った涎を垂らしながら首を細かく縦に振動させるので、やっと両手の力が抜けて。ずるずると首から上がって顔の皮膚の中を移動していく。


「ぎああああっ……あ」


 もう大隊長の顔面には、右半分で喋る別の顔と、口から鼻を通り抜けて指を広げた手と、左のこめかみまで登ってきた手の三つで。それらが皮膚の中で動き回って、千切れんばかりに引き攣って。瞼も口も閉じることもできず、喉から妙な呻きが出るばかりなのだ。


『魔導師と。人間は。対等ではない。わかるか? 知恵も体力も意志の力も。無関係なのだ。いいか。無関係なのだ。このまま神経の束を引きちぎれば、それで貴様は廃人なのだ。おわりなのだ。簡単だ。虫を潰すより簡単なのだ。だから対等に話すことをするな』


 ただ、こくこくと。

『頼むな。祈るな。従え。言われたことをしろ。』


 また、こくこくと。


 ひたすら涎を飛ばしてムルバオが頷く。皮膚の手がぐりぐりとその左目の眼球を上下から押さえ込むので、だんだんとそれが顔からはみ出てきた。


「おおおおお」


『いいかムルバオ。蛇でなければならぬ。その辺の獣では仕方がない。あれに乗っている獣たちは最高級品なのだ。試験は、最も厳しい基準を越えねばならない。わかるか』

「おう。おう。おう」


『医師は、そのための仕掛けだ。鹿鹿。しかし。人間は仕掛けで動くのだ。簡単に動く。だから人間もまた、くだらない』

「おうっ。おおっ」


『こんなくだらない、仕掛けをするのも。いいかムルバオ。抗魔導線砲アンチマーガトロンが大きすぎるからだ。あのように馬鹿でかい機械では話にならん。しかも六門など。もっと改良して、改善するのだ。従え。言われたことをしろ』


 ただただこぼれそうな左目を落とさない程度に首を縦に振るしか仕方のないムルバオの頰から中央に。ずるずると険しい顔が寄ってくる。


『理解するまで。何度でも言う。何度でも聞け。ムルバオ。獣の呪いを解くのだ。すべてを取り戻すのだ。皇帝陛下、万歳。わかるか』

「か、かっかか、かうていへいか、ばんざい」


『すばらしい』

 顔が笑った。




◆◇◆




 鉄板の上にあぐらをかいて。アキラとエイモス医師は扉の開いた格納庫で軽食を取っていた。飛ぶ蛇の向こうで遠くの山が流れていく。この辺りまで南下すると植生が違うのだろうか、ずいぶんと緑が濃い。


 よく晴れた空だが、風は涼しい。ログがちゃっちゃっと作ってきてくれたのはなんだか春巻きのような細長いパイのような卵を混ぜた包み焼きで、一緒に細切れの野菜をスープに浸して食べる。カップに入った紅茶に似た味の飲み物は、わずかに甘みがあるのだ。


 だいたいのやり方は一通り医師がモニカに話した。症状も落ち着いているようだし、なにより獣といっても若い女子なのだ。ここからはあたし達でやるよとモニカに言われて、エイモスは外に出たのだ。

 ちょうどさっきまで洗い物を頑張っていたアキラが交代したところだったので、二人で休憩がてらの昼飯にありついていた。格納庫の端の方では、子供たちが入れ替わり立ち替わりで出入りして洗ったタオルを紐に干している。


 パメラの姿もある。もう大丈夫なのだろうか。背伸びして無心でぱんぱんと干したタオルを伸ばしていた。


「ここのみんなは、よく働きますよね」

「そうだな」


 少し笑ってエイモスがぱりっと野菜をかじる。パメラの姿で眼の約束を思い出したアキラが、左手に座ったエイモスの右目をちょっと見るが、医師の義眼は常人と見た目が変わらない。これくらいのレベルまで、あの子の眼は治せないだろうか?


 エイモスが気づいた。

「どうしたかね?」


「その……聞いていいかどうか、わかんないんですけど」

「私の目のことかな?」「えっ」


=視線でわかるぞアキラ=

(うううっ、そうなんだ)


「おそらく君は、宝玉憑オブシディアンもよく知らないのだろうな。最初から話した方が、いいのだろうか?」

「よかったら、ぜひ。お願いします」


 エイモスが青空に目を戻して。


「——この世界には、魔力マナがある。魔力はさまざまな恩恵も与えてくれるが、それと引き換えに、人は魔力に浸かって生きていかなければならない。水の中の魚のように、だ。そして、この魔力と時に強く反応しすぎる人間が現れる」


「暴走ですね」

「そうだ。そこから先は三つの選択肢しかない。死んでしまうか、獣になるか、魔導師になるか、だ」


「魔導師も、そうなんですか?」

 アキラの疑問にエイモスが頷いた。


「死をまぬがれても、多くの者は獣になる。人の姿を保ったまま生きていくためには、体内の魔力を完全に制御する必要があって、それができた人間を〝魔導師〟と呼ぶんだ。やり方は色々で、聖域シュテでは特殊な法で暴走を抑え込むらしい。魔導国のファガンでは自分の体に印を彫り込む。まれに自力で抑え込む人間もいるらしいが、本当に少数だ。そして近年、主流になった方法が〝石〟だ。これだ」


 とんとん、と。エイモスが指し示したのは、しかし義眼でない左目だ。縦に傷が走って、今は塞がってそこには何もない。


宝玉憑オブシディアンは便利だ。魔力だけではない。魔法も、それ以外のものも埋め込める。自在に取り外すこともできる。入れ替えることも、他人の魔力と知識を奪うことも可能だ」


「ええ……なんだか、良いことばっかりじゃなさそうなんですが」

「当たりだ」「え?」


 息をついて、医師の眉間に少し皺が寄った。それはそうだろう、今から話すことは決して愉快な話では、ないのだ。


「アキラくん。石は、他人に無理やり埋め込むこともできる」


 黙って聞く。


「他人を無理やり、魔導師に育て上げることも、できる」

「……そう、ですね、きっと」

「無理やり育てた魔導師から、石を収穫することもできる」


 鉄板の照り返しが眩しい。少しアキラが目を細める。


「百人の子供から、百個の石が獲れる。知識も。記憶も。経験も。魔力も。取り上げることができる」

「取られた子供は? どうなるんです?」


「からっぽだ。何も残っていない。生きてはいるが、人生は、なくなる。やりなおしだ。そういう廃人が集まって貧民窟スラムが広がった」


「帝国って、そんなことやっていたんですか? まさか〝人狩り〟って……」

「いや。違う。それは断言する」


 エイモスがかぶりを振った。


「初代は普通の王だったらしい。どこかで狂ったのか、前帝は酷かった、そういうことをやっていた。今の皇女は前帝を追い出して、そういうことをやめたんだ。元に戻したというべきだろうか」

「えっ。追い出したんですか?」


 驚くアキラに、医師の表情が緩んだ。


「まだ、あの国は昔と今が混ざっていてな。過渡期なんだ。私の研究所の上司も人格者だった……前帝の頃は、私も何度、逃げ出したいと思ったことか」


=ふーむ。それでは話が変だな=

(そうだね)


「あの」「うん?」

「今の帝国は、やってないんですよね? そういうの」


「そうだ、今は、やっていない」

「でも。じゃあ、なんで今になって? 上司の人も良い方だったんでしょう? ていうか、その」


 少しアキラが言いにくそうに。

「そんな酷い頃に、なんで先生は帝国の魔導師を?」

「それを知らなくてね」「へ?」


「記憶を預けなければ、帝国では魔導師として働けなかったのだ。だから私は、自分がなぜ帝国に来たかを、覚えていなかった。自分の過去を、知らなかったのだ」


「今は……知っているような」


「知っている。皇帝が追放されて皇女になった時に、全員に通達が出た。記憶を預けたまま帝都ルガニアで勤めても良い、昔の記憶を取り戻してもよい、ただしそれで帝国を去るなら、魔導師を辞めよ、と。当然かもしれない。記憶を取り戻したものの多くは、故郷に帰りたがるだろう。よその国にいたずらに、魔導師を解き放つことはできない」


 医師の白髪が風に揺らぐ。


「私は知りたかった。だから記憶を返してもらった。そして思い出した。のだ」


「……そうだったんですか」


「思い出してしまったら、無理だな。会いたくなる。おかしいものだ」

「そんなことないです。わかります、すごく」


 アキラが強く言うので、救われたように笑う医師が続けた。


「密かに探してもらったんだ。フィルモートンから知らせが入った。だから、私は帝国を抜ける決心をして、左目を潰して石を返上したんだ。だが一般人となった私に身分の保証はない。アーダンでしばらく働いていたが、そこから砂漠を越える方法が、先に行く方法が、なかった。ただ——」


 今度は。医師が右目の義眼を指す。


「私には個人的な財産があった」

「ノエルの十番ですね」


 頷いた医師が、両手をついて少し伸びをする。


「ムーア主幹——私の上司だが。彼には悪いが、私は黒騎士を信用していない。これは、持ち出そうと思ったのだ……そういえば、いろいろありすぎて、アキラくん」

「はい?」


「私と艦長の交渉は、終わっていないな」

「えっと、そうなりますっけ? 先生、どこまで行きたいんですか?」


 エイモスが笑う。


「シュテより遠いぞ」「えっ」

「ファガンだ。私は魔導国に行きたい。艦長は、なんて言うだろうか?」




◆◇◆




 山地に囲まれたクリスタニア湖は美しい。内海と見紛みまがうほどの広々とした湖の西岸に街は位置し、拓けた平野にひときわ目立つのが帝国辺境本部で、遠目にそれは管制塔と本部ビルと、横の広大な停留エリアには五機の無限機動が着陸しているのがわかる。豆粒のように飛んでいるのは巡回のモノローラなのだろう。


 しかし、そんな辺境本部より、さらに北側のほとりに。六つの建造物が見える。


 建造物は鋼鉄で組み上げられていた。数十リームはあろうかと思われる鉄の台座には、まるで巨大な円盤を斜めに取り付けたような鉄製の凹面の中心に細長い槍型をした尖った支柱が天を向かい、無数のパイプが地中に向かって据え付けられている。


 地球人なら、それを理解したかもしれない。六機のパラボラアンテナが、湖に建造されていた。しかしそんな知識もない二人は、ただ双眼鏡を覗きながら呟くしかなかったのだ。


「あれは……なんだ?」


 遠く離れた山地の森に隠れて。停止した小型無限機動クロムヴァルカンが微かに唸りをあげる横で。バクスターとフューザの二人の上位兵が汗を拭う。

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