第四十二話 街からの離脱

 川から垂直に飛び出したエネルギー線が一斉に折れ曲り、街の空を飛んで行って数台の帝国機を撃墜したので。その爆発音に驚いて、卸町おろしまちから工業団地に至る西街で働く多くの者たちが、ビルのあちこちから顔を出して空を見て、流れる川を見下ろした。


 指差すのだ。その水流を。

 道路に。橋に。人が駆け寄り身を乗り出す。


「どけどけっ! 邪魔だ!」

「道に出るなッ!! 川に寄るんじゃない!」


 そんな野次馬を蹴散らすかのように、川の低空を飛ぶモノローラから兵士が叫ぶ。さらにその後方、両岸に溢れ出すほどの巨大な波が迫る。


「おい……おいおいおいっ! 逃げろ! 逃げろぉ!」


 慌てて人々が逃げ去った橋の下を巨大な影が通り抜け、膨れ上がった水面がまともにぶつかってどおおおん!! っと真っ白な水しぶきが橋桁を覆った。

 イルケア川本流に架かる橋は、埠頭の大橋まで橋脚がない。掘削された岩石を運ぶ大型の魔導機が自在に行き交う用途で設計されている、その水中運河の流れを膨らませて大質量の蛇が潜行する。



 動力室のテーブルに浮き上がる街の地図を見ながら、リンジーが腕輪に声を出す。

「卸町の第二橋梁を通過。西大橋まで五分です!」


「了解。基底盤フローテイング斥力上昇30。離水準備。西大橋通過と同時に離水開始。風防障壁ドラフトへ変更。進路。南南西20」

『了解。南南西20。通常障壁メインバリアから風防障壁ドラフトへ変更』

 ダニーとやり取りをするミネアの握った操縦桿がゆっくりと倒される。蛇の速度が徐々に上がっていく。



「本気か青年? 30000ジュールの衝撃だぞ?」


 開け放たれた格納庫の扉の外、魔法の壁に遮られた水中を見ながらロイが言う。小規模とはいえ魔導錨アンカーの衝突に耐えられるということは、帝国の魔導砲ビーキャノンなど全く効かない、という意味なのだ。はたして彼は、そうなのだろうか?


『やります。自分の身体ごと車を引っ張りあげてください』


 返事を聞いたログが横から呟く。


「紋も出せるのだ、勝算があるのだろう。後ろのキャリアーは私が網状砲線バインドフレアで補助する、メインの牽引はそちらでやってくれ」


「——わかった。やるぞ。先生、こっちは大丈夫だ」

 通信を終わった飛竜が鱗の輝く右手をぐっぐっと数回、握りしめた。



◆◇◆



『了解だ。リザ、聞こえるか?』


 腕輪の声がエイモス医師に変わる。

 十二番艇が甲高い唸りを上げて裏通りを疾走する。


 完全に壁が解除された搬出便ポーターはまともに風を受けて、後ろのキャリーで少女を抑える獣たちの体毛をばたばたとはためかせていた。


 首元も眉間も、腕の内側も。肌の露出したあちこちにできた皺が乾燥してひび割れ赤い血と煙を滲ませてくるのだ。まるで内側から強い熱でいぶられているかのようで、魔力の膜で保護されたリッキーとエリオットの手のひらには焼けるような痛みが伝わってくる。


「ぐうおおお、熱っついいいい」

「このおおおおお」


 無理やり起き上がろうと暴れる少女の両肩を、牙を鳴らせて少年二人が抑える。ぎりっ、ぎりっと、その抵抗は凄まじい。踏ん張る彼らの鼻から垂れる脂汗は暑さのせいだけではない。


「早くリザ!」「う、うん。先生っ。水星ハイドラ?」


火星イグニスの励起に水星ハイドラは使えない。大地星タイタニアで鎮静する。五番〝減衰〟を肩甲骨の中央に面で打ち込むんだ。相を間違えないように。五番は陽相が衰性すいじょうだ』


衰性すいじょうでいいんですねっ」

『いい。だが熱の放射までは止められない。一段と熱くなるから壁は開けたままにするんだ。その子に皮膚の裂傷は?』


「あ、ありますっ」

『では同時に二番も仙骨の上に。これも大地星タイタニアでいい』


「仙骨っ? 仙骨ってどこ……」

『尻の上の辺りだ、もう尾が生えているならその付け根の上に』


「お、お尻っ、えっと」

 赤猫が屈みこんだ、その瞬間。

「がああああっ!!」「きゃあ!!」

 

 唸り声とともに少女が半身をねじる。左足が勢いよく円を描いてリザの頭上めがけて振り下ろされたのを素早く庇ったのはサンディだ。構えた右腕で少女のふくらはぎを受け止めるが、激しい蹴り降ろしに耐えきれずリザを押しつぶすように沈み込む。


「ぎゃんっ!」「ごめんっ! 平気っ?」

「平気っ。合わせて、サンディ。背中に五番!」


 頷くサンディの上からぎりぎりと力をかけてくる左足を。ついに腹をたてて。

「い。い。かげんに。しろおッ!!」

 その足首を右手で鷲掴みにしてシートに叩き下ろして抑えつける。

けてリッキー!!」「わあっ」


 肩を抑えていたリッキーが飛び退く。髪と耳を振り乱したサンディが片膝で座り込みぐいっと娘の半身を横向けに倒しフードから繋がる外套を捲り上げ、リザと一緒にその背中を覗き込む。


「うぎゃッ」「ひっ……」


 座席に押さえつけられていた背中はさらに状態がひどく外套の下の薄い上着はどろどろの血がべったりと張り付いて、所々から薄黄色の液体が服を通して糸を引いていた。そして。うなじから首筋、肩にかけて。皮膚が破れて中からびっしりと濡れた体毛がすでに見えてきているのだ。異様な叫びにアキラが反応した。


「大丈夫なのっ?」

「……だ、大丈夫! 運転に集中してアキラさんっ」

「了解っ」


=アキラ。敵の光点が先回りしている=

(えっ。どこにっ?)


=西大橋から埠頭へ続く道路だ。封鎖するつもりらしい。後ろの機体も左右の道を回り込んでこちらを取り囲んでいる。おそらく産業道路に飛び出した瞬間、全方位から一斉射撃がくるぞ=


 声の分析にアキラが冷や汗を流す。しかし。


——『その子らにケガさせるんじゃないよ』——


 ぎりっと歯を食いしばって。


(川に飛び込んだ方がいいんだろ?)

=そうだ、道より川の方が動きようがある。だが水上が不安定だ。障壁が密閉できないなら仕方がない、要塞の兵士の〝魔法の盾〟を覚えているか?=


(盾?)

=木の葉型の大きな盾だ。あのデザインは使えるかもしれない=


「まかせるっ。信用してる」

 風に捲き上る銀髪を少し振って視界を戻し、正面を睨んで加速する。


 後ろのキャリーではサンディが、ぐううおおおっと唸って海老反りに暴れる娘の肩を左手でがっしり掴んで離さない。この犬の娘もまた、怪力では負けていないのだ。肩甲骨の正面に開いた右手のひらに魔法の陣が浮かんだ。


 リザの右手の甲にも陣が浮かぶ。こちらは二番の魔法陣だ。


「いくよ!」「いいよ!」

「いち! にぃ! さんっ!!」


 二人が同時に。背中の二箇所に元素星エレメントを打ち込んだ。



◆◇◆



 下流域を東西に貫く産業道路が西の工業団地に届く前、イルケア川本流を渡る架橋が西大橋である。わずかに雲の浮かぶ青空のもと、左右三車線ほどの広々とした道路には街灯が並び、600リームほどの川向こうまで橋脚もなく一気にアーチ型に伸びている。


 その空を低く上流から飛んできた数台のモノローラがカウルを回転させて急旋回し、川の東側、産業道路から左折して中洲に沿って埠頭に続く道路に集結した帝国兵の集団に飛んでいく。


『蛇、第二橋梁を通過しました。数分で到着します!』


「よおし! 急げお前ら! 獣がくるぞ!!」

 道を塞ぐように配置された周囲のキャリアに第四隊長が叫んだ。荷台の魔導砲ビーキャノンが唸りを上げて、交差点へと照準を定めていく。


「いいか! 機体を狙え! 吹っ飛ばして停止させるんだ!」


 第三隊長も兵士たちに大声をあげる。道に沿った森林公園からも数台のモノローラが樹々を揺らして浮上してきた。それぞれに二挺の魔導砲を装備している。交差点周囲の低い建物の陰からも次々に。モノローラが浮上して狙いを定める。完全に橋の手前が包囲された。


『蛇!! 接近します!!』


 腕輪から声が響いた。隊長たちが一斉に川上に視線を飛ばす。


 広々とした下流域の水面の彼方。北からわずかに泡立って膨らんだ水の塊がごおごおと鈍い音を立てながら突き進んでくるのが眼に映る。全員に緊張が走り数本の魔導砲がぎいいと向きを変えようとした。


「蛇を狙うんじゃねえ! 交差点だって言ってんだろうが!」

 慌てて腕を振る第四隊長を遮って。


搬出便ポーターが接近します! 駆動音確認!!』

「ぐッ……来たぞ!! 構えッ!!」

 

 硬質なエンジン音が道の向こうから近づいてくる。

 川の向こうから橋に向かって巨大な水の塊も近づいてくる。


「狙えッ!!」


 すべての魔導砲が輝きを強める。

 しかし。次の一瞬。


 兵士たち全員が視線を向けてしまった。西大橋の橋梁に到達した巨大な水の塊の上部が橋桁に衝突したのだ。高さ数メートルを越えて空いっぱいの真っ白な水しぶきが立ち昇る。波が音を立てて橋の中央へ降り注ぐ、その兵士たちの意識の外で。


 裏通りから高速でぎゃああああっとドリフトした十二番艇が産業道路に飛び出した。真っ直ぐに交差点へと突入する。


「しまっ……発射ッ!! 撃てッ!!」


 一拍遅れた帝国兵たちの機体から次々に魔導の砲弾が撃ち出された。まさに爆発する交差点の、その爆炎を突き抜けて。


 白煙をなびかせて十二番艇が宙を舞う。

 曲がらない。


「なあッ!! あいつらっ!?」


 道に向かわない。埠頭に、こちらに向かわない。爆風で折れ曲がった川岸の街灯と鉄柱を飛び越え、下流の水上へと飛び込む。空中を跳ぶその機体には、はっきりと魔導の障壁が見て取れた。が、その型は異形であった。


 くさび形だ。四つの尖った笹の葉のような透明の壁が右上、右下、左上、左下と斜めにすいを成して運転車とキャリアを包み込んでいる。


 その四つの壁が空中で、斜め四五度にがしゃあっと一斉に開いた。


 新鮮な風が吹き込む。キャリアの獣たちが、子供たちが。一斉にぶはああっと息を吐いて、だらっだらの汗を掻いて空から道路を見降ろす。

「うわああああああっ」

 魔法の壁が浮舟フロートのように滑り込んだ。激しく水しぶきが上がる。その川の向こうで水面が一段と膨らんで、駆動音が聞こえてきたのだ。


 ミネアが叫ぶ。

「ウォーダー! 浮上!」



 午後の陽を浴びたイルケア川の工業地域に鋼鉄の蛇が浮上した。表面にいくつもの輝く水流が線を描き、膨大な水が全体から流れ落ちて川の周囲を波打たせて。


=遠巻きに並走しろアキラ! 巻き込まれるぞ!=


 声に言われてアキラがハンドルを操作する。白い軌道を水に描きながら搬出便ポーターが下流に舵を切って蛇に追随した。機体の速度は衰えない。速い。滑るように水面を走るのだ。


 動力室のリンジーの声が腕輪に響く。

『浮上開始! 埠頭大橋まで残り1200リーム!』



「なあぁぁにをぼさっと見てんだッ!! 撃てッ!! 撃沈しろ!!」


 第四隊長の叫びに兵士たちが我に返り一斉に射撃が再開した。東岸のあちこちから水上に向かって光弾が飛び交いあちこちで水柱が立つ。しかし当たらない。滑らかに進む十二番艇が器用に着弾を避けながら蛇に並走する。


 落ち着いてはいるがはあはあと荒い息で強烈な熱を発したまま眠ったように倒れている少女の周りで、獣たちは機体を取り囲む変形した壁を呆然と見渡すのだ。時折近くに着弾した水の跳ねがばしゃあっと降り注ぐが、笹型の壁に守られてキャリアまで水は落ちてこない。


「な、なにこれ? これって障壁?」

護衛星サテライト?」


 その壁を見る。砲撃を続ける地上の敵を見る。サンディがアキラの背中を見た。こんな特殊な壁を発生させながら、本人は完全に運転に集中しているのだ。自律式の魔法だ。しかしそんな契印シールセフィラも、彼は結んでいない。まるで——


 他に誰かがどこかで。彼とは別に操作しているようで。

 犬の鼻先に汗が垂れる。


 速度を上げる蛇の中央に、やっと格納庫の扉が姿を現して、飛竜と岩の二人が水上を走るアキラたちの機体を視認した。ざあああっと水を落としながら蛇が水面を離れていく。


 またリンジーの声が聞こえた。

『回収急いでください! 埠頭大橋まで残り1000リーム!』


 躊躇ためらいなく。ロイが右腕をぐうううっと後ろに構えて大きく息を吸った。隣のログはぐっと腰を下ろして両腕を拳で握って引く。


「ううううおおおおッ!!」

 最初に思い切り腕を振り切ったのはロイだ。魔導砲よりはるかにでかい轟音を立ててその右腕全体から魔法の光線が噴き出した。撃ち出された光の筋が空でぐにゃあと飴のように弓なりに曲がる。その先端が、並走する搬出便ポーターの正面へと向きを変える。


「いくぞ青年ッ!!」

 魔力線の噴き出した右の手首を左で取って、右足を踏み出し前に肩を入れて体を揺すってロイが魔導錨アンカーを操作する。


 曲がった光が速度を上げた。一気に運転車に向かってきた。


=接続。障壁30000。凝縮展開。身体と車体を重合化ポリマライズする=


「みんな! つかまって!」


 降り注ぐ砲弾と水しぶきを躱しながら素早く振り向いた銀髪の下。獣たちは、子供たちは目を丸くする。青い。その横顔に浮かぶ竜紋は美しい青色をしていた。アキラの身体から爆発的に魔力マナの圧が噴き出した。一斉に獣がキャリアの座席に伏せて捉まる。


=全速。正面からぶつかれ。突っ込め!=

 

 上ふたつの笹の葉が。軽々と突き破られた。


 砕けた硬質ガラスのような魔法の欠けらが宙に飛び散る。飛竜の魔導錨アンカーがアキラの身体に衝突した。


 強烈な光と。衝撃が全体に伝わる。車体が激しく揺れる。運転車に張られた薄い魔力の膜全体が放電した。

「きゃあ!!」


 フロントカウルの一部が弾け飛んで計器から火花が上がる。全身を魔力で包んだアキラが耐えて、耐えて、踏ん張って。両手で掴んだ搬出便ポーターのハンドルがぐにゃあっと後ろに湾曲した。

「ぐうううああッ!! このおッ!!」


 イルケア川に駆動音を響かせて、一気に。蛇の船体が上昇を始める。手応えのあった飛竜が腰を沈めて腕を引き、ログに叫んだ。


網状砲線バインドフレア! 頼む!」


 両の拳を右に持ち上げたログが捻った体で思い切り振りかぶる。

「ぬうッ!!」

 両方一緒に振り下ろす。


 どおんっ!! と二本の光線が両腕から宙に飛んで、空中で弾けて。無数の細い光の紐が運転車に、キャリアーに垂れ下がっていく。獣たちが目で追う中、光の紐は車体に反応してそのあちこちに音を立てて食い込んで絡みついた。


 透明な笹の浮舟フロートから水を滴らせて。

 ゆっくりと。川から十二番挺が持ち上がる。


 獣たちが空に吊り上げられる。蛇の真っ黒で濡れた表面がぎらぎらと陽の光を反射して、宝石のような底面の緑光を激しく輝かせ飛び立っていく。

 川向こうの鉄鋼プラント群のあちこちには作業員が溢れ、飛び立つ巨大な無限機動を指差して騒いでいたが。一斉に。


「う! うわああっ!」

 人々が、そして東岸の兵士たちも。後ずさって逃げるのだ。

「主砲を向けたぞおッ!」「砲撃がくるぞ!!」


 全長数十メートルを越えるウォーダーの左右十二本の主砲が機械的な唸りとともに、風を切って一気に空に広がったからである。巨大な影が川の上を広がっていく。




「主砲、広がりました! 街を砲撃するつもりですかッ!?」

 地下の管制室前面のモニタに映る蛇を、逃げ惑う人々を見て、管制官が老婆に叫ぶ。が。「ふん」とまた一息だけ鼻を鳴らして平然として。


「馬鹿言うんじゃないよ。あれはああいうもんだよ」

「え、ええっ?」


「翼なんだよ。懐かしいね。どのくらいぶりだろうね」

 上目で画面をじっと見つめて、目を細めるのだ。




『ウォーダー離水完了! 全速! 進路、南南西20!』


 水の滴る翼を青空に広げて。

 蛇がイルカトミア南の山塊に舵を切る。


 追撃するモノローラから発射された魔導砲ビーキャノンのいくつかが蛇に衝突し爆発する。風防に切り替えた蛇の表面が傷つくが、それをものともせず煙をたなびかせて飛んでいくのだ。


 魔導錨アンカー網状砲線バインドフレアに繋がって。ぐうううんっと円に振られた搬出便ポーター全体にかかる遠心力にも、この青年はびくともしない。左腕は飛竜の綱を巻いてしっかり握り、右手のハンドルから手を離すこともない。まるで身体全体が車両と張り付いたかのようだ。ばさばさと音を立てる銀髪が振り向いて。


「みんな大丈夫ッ?!」

「だ、大丈夫だよアキラさん!」「平気ッ!」


 答える子供たちは、しかし包み込まれた光の網の中で、じっと伏せて飛び上がった空に目をやるだけなのだ。焼けるような娘を抱いて汗だくで掴まっていたサンディだけが。青い紋を放つアキラの横顔を凝視する。


 魔導師は、数人。敵でも味方でも過去に見たことがある。中には確かに桁外れの魔力を持つ者もいた。人間離れした魔法を使う者も。だが。目の前で風を受ける彼は。


 違うのだ。

 魔導とか、そういうことではなく。

 なにかが決定的に違う。そもそも本当に。


(……このヒトは、人間なのっ?)

「サンディ!! 後ろ!!」「えっ!」


 叫んだエリオットの声に振り向いたサンディが見たのは、まさにキャリアーに真っ直ぐ向かって飛んでくる魔導砲の光弾だった。二発。反応が遅れた。

(ま、間に合わ——)


 一瞬だけだった。ハンドルにしがみついていた運転席の青年の右腕が、その一瞬だけ。ぶうんっ! と。


 横に払われたのだ。

 光線の軌跡がぐにゃりと曲がった。


 犬の娘が目を丸くする。あらぬ方向へ飛び去って爆発した光弾の音が響いたので、伏せた頭を上げる子供たちがサンディに聞く。


「は、外れた?」「外れたよっ」

 それも青年が答えた。半開きに口を開けたサンディは混乱して声も出ない。


=何とか操術の基本も可能なようだな。要塞の所長ぐらいになるには、まだ時間もかかるだろうアキラ=


(練習しなきゃね)

=……そうだな。お前が望むなら、そうしよう=


 戦いの魔法は教えない、と。最初にそう言っていた声の反応は違っていた。だんだんと蛇に引き寄せられる十二番艇に繋がる魔導錨アンカーを握りしめながら、アキラが小さくなる眼下のイルカトミア市街を見下ろす。


 たった一泊のこの街で。少しだけ。

 彼の意識は変わっていた。


 今回の逃亡劇で、あまり恐怖を感じなかったのは。竜紋のせいだけでは、ないのかもしれない。



◆◇◆



 飛んでいく蛇を目で追いながら。第四隊長が大きくはあっと息を吐いてから、腕輪に声を飛ばした。


「よおし。やめやめ。戦闘終了だ」

「は……はあっ?」

 横から第三隊長が素っ頓狂な声をあげる。


「なんだ、文句あるのか?」「追撃はしないのか!」


「あれはお前、ダメだろう。無茶だろうが。俺たちの手に負えるのかって言ったのはてめえじゃねえか」

「言った、言ったが……」


「獣が街にいた。俺らが追っ払った。やつらは逃げて行った。おわりだ。他に何か必要か?……まあ、理由は聞いてみたかったがな。命がけでやるほどのことじゃねえ」

「き、貴様はほんっとうに……」


 呆れる第三隊長には目もくれず、また空に視線を戻す。兜の下に手を伸ばし少女に削られた右頬を撫でればすっかり傷は消えてかさかさと血の塊が粉になって剥げてくるだけだ。綺麗なものだ。


 指についた血のかけらを擦って落としながら第四隊長が思う。

(まあ、こんな考えだから生き残ってんだよな……若返りなんて無理かもなあ)



 その空を見つめる者が、もう一人。帝国のキャリアーの荷台から、震える両手でフレームを握りしめて。老いた目にわずかに涙をためて。


「お願いします……どうか……どうか」


 娘の父親が、天に呟いていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る