第三十四話 蛇は南へ
しばし向かい合う
両脇に兵を従えたマーガレットは、躊躇なく虎と猫の前でかがみこみ、そっと背中のフォレストンを降ろした。脇の二人も手伝ったのち、数歩後ろにさがった。
艦長とミネアが歩み寄る。
甲板に寝かされた魔導師は、年端もいかない少年であった。
その法衣が血と吐瀉物で汚れている。
仰向けで、胸に手を当てて息が苦しそうなので、横向きに寝かせようとするのを、そばにかがんだ虎が手を貸してくる。
「この子か?」
少年を見たまま虎が訊く。マーガレットが頷いた。
目を横にやれば、ミネアがじっと厳しい表情で少年を見つめて動かない。ふたたび顔を落としてうつむく。
今になって胸が苦しい。ミネアの視線も無理もない、と。こんな子供が魔導師で、こんな子供に頼って私たちは戦闘を——
「先生。アキラ。来てくれ」
腕輪に話した虎の声で、マーガレットがはっと我に返った。
『わかった、艦長』『すぐ行きます』
返事が聞こえる。虎が少しだけフォレストンの背中をさすって。少年を見たままで。
「——魔導の戦争はな」
誰にともなく言う。目の前の少年には、聞こえているのだろうか。
「法に優れてりゃ、子供とか、なんとか、関係ねえんだ。それが嫌になる。それが普通の感覚じゃ、やりきれねえ」
「イース……」
「ファガンあたりにも、いくらでもいるんだ。俺も昔に何度か、こんなちびと戦った憶えがある。やりきれねえよな——テオは、けっこう具合が悪いのか?」
「うん……知ってるの?」「ああ」
あの日。戦況報告の席を中座させられたことを少し思い出す。言いたいことはマーガレットにもいっぱいあるが、言葉がなかなか出てこない。
「——どうして、アーダンを襲ったの」
「静かに出ていくつもりだった。なんか予定が狂っちまってな」
「いっつもだ。イースは」「そうだな」
それ以上は、彼女も続けなかった。いまさらだ。虎は無骨な手で、ただ優しく少年の背中をさすっている。
ややしばらくして格納庫の開いた扉から、ふたり。ひとりは不器用そうに甲板に着地した、ずいぶん不恰好で大きめのパーカーにズボンを履いた若い男性で、見たこともない黒髪で。そして獣ではなく人間だったのにマーガレットが驚く。
人間はもう一人いた。こちらはまだらの白髪の男性で、片目が傷でふさがっている。先に降りた狼の獣人の左肩に手を添えて、ぎこちなく甲板に飛び降りた。
その肩を貸した狼が、なぜか一緒についてきたのだ。
「頼む、先生」
「わかった、いいかアキラくん」「はい。大丈夫です」
年配の男と黒髪の青年がフォレストンの前にしゃがみこむのを、じっと。銀色の体毛をなびかせた獣人が見下ろしている。右手は三角巾で吊ってあった。なんとなく怒っているようなその気配に、少しマーガレットが身構えたのだが。
脂汗を浮かべて、ふっ、ふっと苦しそうに息を繋ぐフォレストンを不機嫌な顔で見つめた後。
横を向いて左手で頭の後ろをばりばりと掻いて。ふいっと背を向けて。一回だけふさふさの大きな尻尾をばっと振っただけで。そのまま蛇に帰っていってしまった。意味がわからず狼の背を目で追うマーガレットに、若い男性の声が聞こえた。
「この子……ストレス性の胃
法衣の上から腹に手を当てる白髪の男が答える。
「私には
「
=似たようなものだ。まず
「うん。先生、この震えを」
「そうだな、ちょっと手を貸してくれ」「はい?」
医師らしき男が黒髪の手を取ってフォレストンの曲がった腹部に当てて言うのだ。
「ここだ。
医師の指示に、青年が虎に目をやれば「やってみろ」とばかりに見ているので、左手の指をこめかみにあてる。
=いいだろう、私が印を切る=
「じゃ、じゃあ、やります」
ぽおっと緩く光る青年の右手を。少し口を開けてマーガレットが見る。そんなはずは、ないのだ。治癒魔法は帝国が独占したはずなのに。だが。
「……うっ、うう、ふう、ふう」
フォレストンの息が明らかに治まって、震えも止まってきた。はああっと声にならない驚きの表情に、虎が言う。
「これはな、メグ。治癒魔法じゃねえ、治療だ。普通のな」
「ち……治療? 普通の?」
「そうだ。傷を縫ったり貼ったり、薬を飲んだりするのの延長だ。それを
聞くところに少し影が差したので。ふっと見上げたら後ろからミネアが覗いている。目が会ってしまった。じっと。見返す視線に耐えられずふいっと前に向き直り耳がたちまち赤くなるマーガレットに、虎が少し笑って続けた。
「どうだ、先生? なんとかなりそうか?」
「アキラくんは、中もわかるかね」「え?」
「鎖骨の真ん中から、肋骨の下あたりまでだ。ただれてないか?」
「えっ、と。やってみます。診てみます」
(できる?)
=問題ない。炎症と潰瘍を見たいのだろう。スキャンする=
少し痙攣と痛みが引いて息の治まってきたフォレストンが、それでも脂汗を
「じっと、してて」
ゆっくりと開いた掌を首元から腹まで、すうっとなぞって降ろした途端。法衣の上のあちこちに、赤い不規則な斑点が浮かび上がる。周りと一緒に少年が目を見張った。斑点は首元から数カ所小さく、鳩尾のあたりが最も赤く、その下にもうっすらと
(うっわ痛そう……急性の潰瘍かなあ、でも食道も腫れてない?)
=お前なんだか詳しいな、ああ、医療系の販売員だったか=
(症例とか、まとめるの手伝ってたから)
=そうか。門前の小僧、というやつだな=
「ああ、あったねそういうの」「どうした?」
「い、いえ。どうですか先生」
「
その言葉に少年が反応して、痛みを堪えながらやや半身を起こして。
「はっ……
「うん? 大丈夫だ。じっとしておくんだ」
「ううっ……」
医師に言われて、フォレストンが観念した風で目を閉じ、また横になる。
「喉元から二、三、六、鳩尾には九番。その下にまた六番……で、なんとか出血と痛みも治まるだろう」
=幽門部の炎症がひどい。強さは三、三、四、六、四だ=
「割合は三、三、四、六、四ですか?」
「……いい感じだ。まかせる」
医師が笑う。女性二人も、もう興味津々の目で見ている。ミネアが虎の耳元で呟いた。
(モニカっぽい導引だね、彼)(そうだな。繊細だ)
青年と医師がフォレストンの脇に寄り、少し体を起こさせて緩めのズボンが全部出るまで法衣をめくる。
シャツの上から当たっていく青年の手に、元素の気配を感じる。
「……ッ。」
焼けついた痛みが、徐々に、治まっていく。楽になる。
酷使したはずの元素たちが。なんのためらいもなく少年を癒す。
「う。うう」「……痛む?」
声をかける青年に。ふるふると首を振るフォレストンは、目を閉じたままだ。
治癒される側と、する側と。小さく甲板の上に固まった数人を、格納庫の開いた扉の手すりにもたれて獣たちも見ていた。狼も。狐も。いくつかの子供たちも。狼は、左の片腕で手すりを固く掴んで。ただ黙って視線を投げている。
外を伺う獣たちの産毛を谷間の風が緩く巻き上げて、山麓の緑がいよいよ眩しい。天気は快方に向かっているようだ。
◆◇◆
痛みがだいぶ治まってきたフォレストンが、エイモス医師とアキラに支えられながら、ようやく半身を起こして片膝で腹を撫でながら息を継いでいる。
「だいぶ楽になったようだな」
「……あんた、が、虎の艦長か?」
イースはそういう呼ばれ方が珍しいのか、少し笑って答えた。
「そうだ、虎の艦長だ。ターガの魔導師か?」
「まあ、隠したって……しょうがないよなぁ、そうだぁ」
「その歳でか?」「歳は……関係ないだろぉ」
そう言って少し視線を外す少年の前に、虎が屈む。
「じゃあ〝
「違うッ!!……ぐうッ」「フォレストン!」
きっと睨んで叫んで。呻く少年にマーガレットが膝を折って寄ったので、慌ててアキラが場所を空けてやる。下を向いてふうっ、ふうっ、と息を治める様をじっと見ながら。
虎のつぶやきは小さかった。マーガレットは聞き取れない。
「そうか、獣か」「……え?」
「いや、いい。立ち入ったことは、聞く気は無い。すまなかったな」
目を伏せた少年に、そう虎が言うので。少し間があって。
「……なあ、虎の艦長」「うん?」
「俺は、なんで、負けたんだろうなあ。けっこう、押してたんだと思うんだがなあ」
今度はイースが視線を脇に外して、尖った耳の裏をかっかっと爪で掻きながら。
「うーん、なんでだろうな。あれがなんだったのか、俺もわからん」
「あれは、合わせ打ちかあ?……まさか、手で打ったのかあ?」
「三人がかりだ、さすがにな」
「獣ってのは、ホントに。いやんなるなあ……だったら、俺、間違ってないじゃないかあ」
息を継ぎ継ぎで、フォレストンが呆れる。
「獣相手だから、あそこまで無茶やったのか?」
「無茶でも。……やれて、いただろお?」
そこは、フォレストンは否定されたくない。やれていたはずだ。やり通せた、はずなのだ。虎が頷いた。
「まあな。でもよくある。やりすぎだ、一人でな」
「……ひとりで?」
「法の強い魔導師には、よくある。なんでもひとりで、やりすぎだ」
「……それ、は……」
「だから、おまえが倒れたら、もうメグも周りもどうしようもなくなる。そこは、お前のせいだ。なんでもひとりでやろうとするからだ」
「イ、イース。そんなことない」
横でマーガレットが慌てる。しゃがんだ虎が、まっすぐ少年の目を見て。
「そんなやり方は脆い。魔導も使えなかった砂漠のベスビオのが、いくらか
そこで。虎が止まる。じっと少年を見る。
「——ベスビオが、いるのか?」
虎を見返す少年の。瞳が、鋭い。
「どう、かなあ」
「……フォレストン?」
=アキラ! 探索……いや、遅いか。=
(えっ? なに? なにが?)
ぶわっと外套を
兵士が左の手首に目をやって。言うのだ。
「導師。計測完了です。東部第三境界、朝第三時5秒前。」
『いーすっ!! もどれ!! みんなっ!!』
同時に腕輪からレオンの叫びが聞こえた。
=炉や通信まで停めていたか。念の
『通信再開。東部第三境界、朝第三時』
『一、二、三、四班。
動力室でダニーが叫ぶ。
「艦長!!
地鳴りが木々を揺らして天に射出の轟音が響く。
森から鳥たちが逃げ出した。
風が舞う谷間の
周囲に独特の駆動音を響かせて、次々にモノローラの部隊が山を越えて展開する。砲煙は遥かウォーダーの上空を飛び去って鋭角に旋回し西の山へ、北へと別れて広がっていく。
山麓上空を、辺境第一中隊が埋め尽くす。
蛇の格納庫ではばたばたと子供たちが艦内に走って戻り、しかし。狼と狐はそのまま扉で待機している。二人とも顔が険しい。虎が腕輪に声を出す。
「白兵戦になる。ロイ。ケリー。ノーマ。これるならログも」
『了解です』『了解』『了解』『承知した艦長』
=アキラ。医者を守れ。彼は非戦闘員だ=
(ええっ、ま、守るって。壁で囲めばいい?)
=それくらいだろう。今後はお前も、攻撃の手段を持っておくべきかもしれんな=
誰よりも呆然としていたのは。
「おまえ……フォレストン……おまえ……」
がくっと。マーガレットが両手をついて。虎を見て。猫を見て。また少年に目を戻す。唇がわなわなと震えていた。
「なんてこと、なんてことを、おまえ!! フォレストンッ!!」
横から叫ぶ彼女には視線をやらず、ただ少年は虎の艦長を見上げている。マーガレットの声はもはや怒りではなく。苦しんで苦しんで、喉から絞り出すようで。
「助けて、助けて、もらったんだぞぉっ!!……」
イースの瞳に怒気が篭った。
「お前、自分ンとこの艦長に内緒でやったのか? これは」
「言えば反対、するだろお?」
「そりゃあ、褒められねぇなあ。あの無茶苦茶な
=……いや。待てアキラ。様子が変だ=
(え?)
「
ふうふうとまだ辛そうな息を吐きながら少年が。強い視線で、イースに言う。
「虎の。艦長。俺らにできるのは、これくらいだあ」
「なんだと?」『艦長』
腕輪からダニーの声がした。
=敵機の駆動音に、変化が起きない=
『囲まれて、いません。南がガラ空きです』
「ガラ空き?」『はい』
その報告に。イースが少年に目をやって。座り込んでうなだれるマーガレットにも目をやって。しばし考えて、腕輪に答えた。
「
空を見上げる。ベスビオが封鎖する東の山麓の向こうにアイルターク国境の峰々がそびえ立っている。やってきた草原側、北と西には、ぐるりとモノローラの部隊が高空で待機していた。外套が風でなびく。
ふう、と。虎が息を吐いた。
怒気は冷めているようだったが、不機嫌な表情はそのままだ。肩越しに少し振り向いて、今は閉じ気味のウォーダーの左舷砲塔群にも、視線を投げて。また少年に向き直る。
「……検討しよう」
その虎の一言に。フォレストンの両肩が大きく下がった。緊張が取れる。これで、やりきったのだろうか。やり終えたのだろうか。
マーガレットはすっかり消沈してぺたりと両膝をついて座ったまま、顔もあげない。そこまでとは思わなかったフォレストンが、申し訳なさそうに視線を落とした。虎の言う通り、相談もなく一人でやり過ぎてしまったのかもしれない、それはもう、わからない。
虎が声をかける。
「先生、アキラ。戻ろう。ミネア。行くぞ」
エイモスとアキラが立ち上がり、振り返りつつ虎について歩き始める、が。ミネアがマーガレットの前に立って、片膝でしゃがんで。うなだれるブロンドの髪を見つめている。
気配がわかる。目の前にミネアがいる。ずっと会いたかった。その彼女を、彼女たちを。罠にかけた。そうとしか今は思えない、思っていないメグが顔を上げられない。ただ震えてじっと動かないので。
ミネアがすっと彼女の右頬に手をやる。
「ッ!!……」
叩かれるかと思ったメグのこわばりが伝わったので、少し手を止めて。緩く頰を撫でて、耳を撫でて。うなじに手をやって。わずかに顔を横に振るメグにかまわず。
彼女を首元に抱きしめる。
息を大きく吐いて、ついにメグは泣いてしまった。
やっと上げた両腕をミネアの背に回して強く抱き返す。少し汗でしっとりとした猫の子の肩に顔を埋めてぐすぐすとマーガレットが泣くのに任せて、ミネアが耳元で呟いた。
「こんなこと、戦場ではいっぱいあるのに……なんで? 出てきたの?」
「だってっ……会えないっ……おいてかれたっ」
「置いてってなんか」
「おいてったっ。……あたしが、あたしがっ。どれだけっ……」
似合わない言葉遣いで。
似合わない格好をして。
どのくらいの歳月だっただろう。今しか言えないかもしれないから、涙声で思いを不器用に繋いでいく。
「あたしっ……なんにも、よく、わかんなくて、でもっ。ほんとうに、ミネアもイースも来なくなってっ、待っても、待っても、ずっと、来ないからっ……もう、もう。あたしが行かなきゃ……行けるようにならなきゃ……会えないんだってっ。やっとっ。やっとわかってっ。」
「メグ……」
「会いたかったんだよっ。つらかったんだよっ。ミネアのばかっ。ばかっ。わああああんっ」
あとはもうずっと泣き声になってしまったマーガレットを、ただミネアはしっかりと抱いたまま動こうとしない。
虎も。黙って二人を見ていた。
◆◇◆
格納庫に全員が乗り込んで。アキラが空を見ればモノローラの大群も、その場を動かず浮かんでいるようだ。
甲板の向こうで小さく立ち尽くす面々に。艦長も、ミネアも。もう振り向くことはせずに管制室に戻って歩く。しばらくして、蛇の駆動音が上がる。
『蛇、浮上します。警戒しますか?』
「……そのままでいい」
ベスビオの管制室では中隊長が、かち、かちと巻きタバコのローラーを右手で遊ばせながらモニタに浮かぶ蛇を見ていた。大人しく獣どもは戻っていったようだ。
なぜリボルバーの甲板で連中が会っているのかまだ何の情報もないが、あの小さな魔導師は、なんとか上手くやったらしい。
「蛇が去った後でいい。ビークルを出してくれ、カーンの連中と話したい。あとお前たちも沢に降りてかまわん。各自補給を取るように」
『了解しました』
船底の緑の光を輝かせ、蛇が上昇する。
それもまた幼い頃から何度も見た光景だ。慣れてくれば、マーガレットはしょっちゅう、蛇が飛んで帰っていくのをやめさせようとして、わあわあと泣いて。父テオドールは、きっと困っていただろう。
今も、メグは泣いている。まだ涙は止まらない。昔と違うのは、追いかける手段を手に入れているということだ。
こうして会えたから。
もう会えないとは、思わない。
やっと晴れてきた空と、沢の両脇に連なる緑の深い
その道の向こう、南へ。
蛇は飛んで小さくなっていった。
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