第四章 アイルターク国境南進〜無限機動リボルバー登場〜

第三十話 マーガレット辺境伯令嬢


 雲のかかる山塊に薄明かりが射す。


 サンタナケリア東部第三境界の時刻が夜第十二時から朝第零時に変わる。砂漠から草原へと変化した大地も段々と起伏が増えてきたので、カーン辺境軍のリボルバーが、低い振動音を立てて高度を上げた。


 左右が長く中央がやや短く上部に位置する三つの艦首は、真横に照らす雲間からの弱々しい陽を浴びて、深い陰影をたたえている。

 三又の矛先を寝かせたようなその全体は、蛇よりは大きくベスビオよりは小さい。艦首の交わる後方艦体から生える細い尾をなびかせて、低速で草原を進む。アイルタークとの国境は30キロリームほど先で、あとはやってくる蛇を待ち構えるだけなのだ。


 窓から見る空は曇天で、あまり気が晴れない。そもそも無限機動の寝床は固い。ただ、マーガレットがこんな明け方に枕を抱えながら寝そべってベッドのそばの鎧戸をあけて、まだ暗い西方の空をなんの気もなく見ているのは、寝床の質にうんざりしている、それだけではないのだ。


 もちろんそうだ。ろくに眠れるはずがない。

 イースが。ミネアが。むこうから来ているというのに。



◆◇◆



——メグはね、お父さん。ミネアのお嫁さんになるの。


 少女にとって胸が割れそうな、意を決した告白だったはずなのに。耳元で秘密を囁かれた父親がただ苦笑するだけなのが、幼いメグ——マーガレットには極めて不満で意味がわからなかったのだ。


 寡黙な父テオドールがこの砂漠を治める領主であると同時に相当な武人であることは、彼女も屋敷や街のあちこちで噂に聞いていた。しかし旧知に獣の者がいるとは、郊外の砂漠に降りた蛇を見るまで知らされていなかった。


 砂塵を舞い上げる鉄の蛇は恐ろしく、虎の艦長も目にはあまりに凶悪で、思わず父親の外套を掴んで身を隠した少女は、しかし。

 虎の後ろから降りてきた、けぶる砂を気にするでもなく真っ直ぐに歩む、年恰好が自分に近い猫の獣人に。


 見とれてしまった。

 頰とひたいに獣の紋を流したその子が。

 凛々りりしかったのだ。


 今思えば不恰好な大きいコートをはためかせて近付く子猫の服装が、シャツにハーフのパンツだったのが、そもそもの勘違いの始まりだったのかもしれない。尾の生えた獣人の女は屋外でめったにスカートを履くことがないという、そんな獣たちだけの常識をわざわざ教えてくれるものは側に控えていなかったのだ。


 性別を誤解するのをテオドールとイースの二人が放っていたのを、彼女が知ったのは、ずっとあとのことだ。それは確かに、悪い虫を追い払うには便利だったかもしれない、が、人の気も知らないでひどい話だ。実際だいぶ大きくなってからミネアがぼそりと話した、街に一緒に出かける理由が「伯爵令嬢の護衛のため」と言い付かっていた事実を知って、寝ずに泣いたこともあった。


 もっと隔たりのない間柄でいたかった。幼い頃からの想いに折り合いがつくまで、父親に反抗した時期もあった。だがそれも些細なことだ。


 子供の反抗など些細なことだ。戦争が始まってしまえば。父親が父親である前に民を護るべき領主であることを思い知らされ、戦局の悪化とともに憔悴していくテオドールに、年頃の少女がかける言葉は見つからない。

 部屋の外には武装した兵士が立つようになって、時折現れる獣たちの姿も。その頃には美しい細身の身体を外套に包んだミネアの姿も。もう窓の外から園庭の遠くに見るだけになって。


 手を振れば部屋から出られないマーガレットに、ミネアはわずかに振り返してくれた。それだけが、待ち遠しい日々が続いて。


 その日。


 なぜか、その日だけ。父が許してくれたのだ。

 予感すべきだった。察せない自分は愚かだった。でも。


 部屋の扉を勢いよく開け放って、回廊を早足で歩いて、歩いて、遠くに彼らの姿が見えた瞬間。もう想いの丈を振り切ってしまった。無我夢中で小走りになるマーガレットの、名を呼ぶ声をとらえたミネアが振り向いて。


 なにも考えずに誰かの懐に飛び込むなんて、人生で二度しかない。


 ずっと小さい頃に転んで泣いてすがりついた父親の胸より、その時よりも鮮烈に。もう大人になりかけていた彼女のこころを縛る幾重もの弦が一気に弾けてただ抱きつきたかった。


 ミネアは少し驚き、でも受け止めてくれた。緩くなびいてやがて胸に収まるブロンドの髪を撫でて押さえてくれたから、せなに伸ばした両手をぎゅっと絞って強く顔を埋める。

 しばしそうやって時を忘れていたマーガレットを胸から優しく引き離して「元気にしてた?」と一言だけ声をかけたミネアの瞳は、微かに寂しさをたたえていたのだ。



 初めて同席する戦況の報告で聞いた内容は、驚愕に値するものだった。


 帝国ガニオンにて皇女クラウディアが政変を起こし、父親である皇帝とその側近を追放したというのだ。次いでアルター国との休戦を申し出てきたとのイースの言葉を聞いて、最初、マーガレットは虎の艦長の表情があまりに浮かぬ顔だったのが合点がいかなかった。


 戦争が終わる。

 しかも戦局はアルターが劣勢ではなかったか? こういうのは先に休戦を願い出た国が不利益を被るものではないのか? 喜ぶべき場面ではないのか? 政治に疎いマーガレットでも、それくらいはわかる。しかし報告はそれだけではなかった。


 この大陸全土に渡る〝治癒魔法〟を帝国が独占した、と。


 言っている意味がわからず父親テオドールに向き直る。そもそもマーガレットは早くに母親を病で亡くしていた。その時も父は魔法医師だけは呼ばなかった。辺境カーンにおいて治癒魔法に頼るのは前線で傷つく兵士のみと、契約痕クレーターに固く領主の誓いを立てていたのだ。

 テーブルの上で両手を組んだまま伯爵は眉間の皺をいよいよ深くして頭を垂れた。おそらく父は、すでに前線から報告を受けていたのだろう。傷が治らないと。死んだものが復活できないと。それは予想していた最悪の回答で、国家と民の在り様を根底から覆す帝国からの通牒だった。


 呑まねば、ぞ。と。

 ガニオンはそう言ってきたのだ。


 呑まぬはずがない。今ここにかいしているテオドールやイースのような治癒の術に頼ることを良しとしない武人ばかりではない。切った指先さえこれから従医で治せないと知った諸侯貴族が、戦争を続けるはずがない。

 加えて帝国の物言いは降伏の勧告ではなく休戦提案だったのだ。国権を持つ者たちへの配慮すら伺えるその提案を行ったのはクーデターを起こした皇女ではなく、新たな側近のエグラムという名の魔導師だという。


「——この機を逃すでないぞ、という意味なのだろうな」

「今なら面子が保てるわけだ。狡猾だな……ミネア」


 艦長に呼ばれて猫が見る。


「しばらく二人で散歩してこい」「えっ」

「こんな話に付き合わなくてもいい。積もる話もあるだろう? なあメグ」


 虎の言葉にだんだんと、そして一気にマーガレットの頰が染まる。ミネアも少し困った顔でうなじを撫でたが、ついと席を立って。


「行こう、メグ」「あ、あの。うん。お父様」


 テオドールも苦笑して手を振ったので二人はそのまま部屋を出た。考えれば今日に限ってわざわざ会議の同席を許されていながら中座させられた不自然さに、そこで気づくべきだったのかもしれない、が。それどころでは、なかったのだ。自分でわかるほど鼓動が大きい。ただ夢中でミネアの後を追いかけたのだ。


 だから、部屋に残った大人たちの会話は。マーガレットは聞けていない。




 やしきの庭園は大柄な多肉植物がそこここに植えられ、その葉は水星ハイドラの恩恵でいつもわずかに瑞々みずみずしい。

 園の中頃にあつらえられた真っ白で小さな東屋は、よく二人が遊んだ場所でもある。今は椅子に腰掛け、マーガレットは丸テーブルに肘をついて、ゆっくりとたどたどしく話すミネアをじっと見つめる。


 いつからか、ミネアは話し手でありマーガレットは聞き手になっていた。小さい頃とは逆だ。昔は無口な猫の子にひたすらちょっかいをかけていた金髪の少女は、いつの間にか。遠い旅から時折帰ってくる獣の土産話をねだる令嬢に変わっていったのだ。


 話すミネアの顔に獣特有の豊かな産毛がふわふわと、風になびいて揺れているのが可愛い。頬杖をつきながら、ずるいなあ、と、マーガレットが思う。昔っからそう思っている。


 その産毛のせいで、獣たちはいつまでもなんだか子どもみたいだ。それもまたずっとあとから聞いた話だが、獣人は魔力マナの流し方で顔立ちや牙や爪も変わり、刺青のような紋すら浮かび上がるらしい、が、そんなミネアの姿は一度しか見たことがない。街で流れ者を追い払った時だけだ。あの時だって怖くはなかった。綺麗だ、と思ったのを覚えている。


 今、目の前で話すミネアの横顔も、綺麗で好きだ。でも。

「また、むこう向いてる。ミネア」「え。ああ、そうだね」


 言われて彼女が少し姿勢を戻す。いつもミネアは、喋ってるうちにどんどん視線を外していく。見つめられるのが苦手で、こうして言えばいつも少しばつが悪そうに——


「……ミネア?」


 しかし、その日。

 彼女は姿勢を正して坐り直し、まっすぐこちらに向き直った。


「ミネア? どうしたの?」

 


「今日は、お別れを言いに来ました。マーガレット伯爵令嬢」



◆◇◆



 突然響き渡った警報にマーガレットが跳ね上がる。

 心臓が止まるかと思う。だがそれより。


『探波100キロリーム圏内に艦影を確認!! 全員戦闘配置!!』


 来た。もう身体は動いていた。


 部屋着を払うように脱ぎ捨てクローゼットの薄い防御服の上下を掴んで身につける。上腕、前腕の覆いを捻れば音を立てて装着されていく。腹のバックルを閉じ、がしゃりと胸当てを背中で留める。外套を羽織り最後に長いブロンドを、ぎゅっと後ろで結ぶ。

 訓練した。あれから。ミネアが去ってから何度も何度も。わずかな時間で臨戦体制に入れるように。


 部屋の扉を勢いよく開ければ兵士が二人、すでに廊下で待機していた。


「蛇で間違い無いのか? 速度と方角は?」

「間違いありません。後続の辺境第一中隊の無限機動ベスビオからも通信が入りました。現在時速120キロリームほどで東に航行中です」


「通信が? なぜ私に通さない」

「あ、あの、導師が『自分が話すからよい』と」

「……勝手な真似を。次からは私に通せ。いいな!」

「は、はっ!!」


——なんで。どいつもこいつも。私を子ども扱いするんだ。

 早足で管制室に向かいながら、ぎゅっと口をつぐむ。



 確かに、あの時はそうだ。あれでは子どもと言われても仕方がない。


 あと数日もすればアルター国は帝国ガニオンと休戦協定を結ぶであろうこと、その条件の中に獣人放棄条項と、ここアイルターク地方カーン辺境の割譲が含まれていること、獣の艦である無限機動ウォーダーとその乗組員は、それをもっていかなる領域からも庇護されない放浪艦となり、いつ誰から攻撃されるかわからない立場に立つことを、ミネアは言葉に齟齬がないように、ゆっくりと話して聞かせた。


 だがなにも耳に入らなかったのだ。晴天の、水星ハイドラの気配が少し空気を涼しくさせる東屋で。こんな昼下がりに。いったい目の前のミネアは何を言っているのだろう? と。だが次の言葉に、やっとマーガレットは反応した。


「——だから、もう私たちは、ここには来ない」

「……どうして?」


 一通り丁寧に話しても、そんな質問しか返さない彼女に、でもミネアが真剣な目で向き合って。


「ここが、これから帝国ガニオンの領域だから」

「お父様と私を、カーン領を見捨てるってこと?」

「ちがう。私たちが来ると、メグと伯爵の立場が——」


「じゃあさ。じゃあ、いっしょに戦えばいいじゃない」

「戦うって……」

「ウォーダーと、カーンと。いっしょに。そしたら」


「……帝国と?」「強いんだよね。ミネアも。イースも」


 顔を上げてまっすぐに見る。ミネアの言葉が止まり、また寂しそうな目をして答えた。


「私たちは、そんなに強くない」「嘘」

「嘘じゃない。メグは……知らない」

 猫の眉間に苦悶の皺が寄る。それだけは言わないつもりだったのに。でもミネアもまた、大人ではなかったのだ。


「あなたは、戦場を知らない」


 その一言のなにがどう心に突き刺さったのか自分でもわからないまま、マーガレットの目からぼろっと大粒の涙がこぼれた。食いしばって、堪えて。それでもぱたぱたとテーブルに跡がつくほどどうしようもなくぐずぐずになって。そんな顔で立ち上がりたくも歩きたくもなかったから。


「戻ろう、メグ」「ほっといて!」


 どうして人は。


 最後の最後のかけがえのない瞬間に、拗ねて意地を張って素直になれずに、後悔するのだろう。もう会えないと、ミネアは言ったじゃないか。立ち上がって追うべきだった。もっときちんと話せばよかった。でもテーブルに突っ伏したまま、ただ泣いて。泣けばどうにかなると本気でその時の自分は思っていたのだろうか。


 気がつけば側には父テオドールが黙って立っていたのだ。そして庭園の向こう、遠く郊外の砂漠から独特の、もう何度も小さい頃から聞き慣れた音が響く。


 蛇の飛び立つ駆動音が、聞こえた。


 午後の陽を浴びて鈍く輝く無限機動の格納庫の影に、小さく。その姿が見えたような気がした。その時はじめて。はじめてもう本当に二度と会えないと、わかって。


「ミネア!! ミネアァッ!!」

 東屋を駆け出して。

「うわあぁあああああああ!!」


 ほんとうに、泣いたのだ。




 それからマーガレットは髪を結わえるようになった。帝国の一領土として併合が決まるやいなや父親はシュテ国に魔導師の派遣を打診、それは国家の体をなさない地方領主としては異例のことで、しかしターガ魔導会は依頼に応じすぐさま数名の導師を寄越してくれた。入境した導師たちとの面会にも彼女は立会い、話に参加し、父の要務を手伝ったのだ。


 導師の一人フォレストンは呆れるほどちんちくりんの少年だったが、その魔導に関する造詣の深さは今ですら底が知れない。自分よりずっと年下のはずの彼は箱入りのマーガレットを時にたしなめ皮肉も漏らすが、決して彼女の浅学を小馬鹿にするようなことはなく、聞けばなんでも答えてくれた。


 彼女の努力は鬼気迫るものだった。それには時にフォレストンも、苦言を呈することもあった。


「いいかぁマーガレット。怒りの陰陽を忘れるなよぉ。怒りは勇気も力も生むが、こころを麻痺もさせてしまうんだぞぉ」

「麻痺? 麻痺とはなんだ?」


「こころの感覚が鈍るんだぞぅ。自分がどこにいて、何をすべきで、どれだけできているかが、大雑把になってしまうからなぁ」


「……いちいちおまえは、言うことが年寄り臭い」

「魔導師ってのは、そんなもんなんだなあ。どっちにしたって、りきみっぱなしじゃいつかどっかで壁にぶつかるぞう」


 そう言ってにいっと笑う顔だけは、おでこの広い普通の少年なのだが。彼の知識は魔導のそれだけではなく大陸の歴史、地理、地政と、様々な分野に明るかった。それを学べば学ぶほど、あの時の東屋での自分を思えば火が出るほどに恥ずかしい。あまりに物を知らない言い分だったのだ。


 彼がいなければ。来てくれなければ。マーガレットは独りでただ足掻いて空回りしていただけかもしれない。父テオドールが病に伏した現在でも、伯爵代理としてこうして艦を動かせるのは彼の力が大きい。


 まさに言葉通り、フォレストンは〝導師〟だったのだ。

 それはもう、重々にわかってはいるのだが。




◆◇◆




「フォレストン!!」「わあっ」


 管制室に入るなりマーガレットが大声を出す。すでに他の兵士と計器類を見ながら指示をやり取りしていた少年が驚いて振り向いた。


「おまえッ! 私を通さずにベスビオと何を話したッ!」

「でかいでかいっ、声がでかいマーガレット」


「……なんで私を通さない」

 むっすり顔のマーガレットに。フォレストンがぱりぱりと頭を掻く。


幻界通信クロムコール使ってきたからだぁ」

幻界通信クロムコール?」

「そうだぁ。おまえ、受けられないだろお?」


 幻界通信クロムコールはフォレストンと所長が行っていたような、霊術による通信方法である。相手方を暗号で指定して送信するのが基本だが、受け手が霊術に秀でた魔導師か、もしくはそれに準ずる特殊な魔導器を所持していなければ通話できない。

 そしてこのリボルバーに幻界通信を受信する機器は積んでいないのは、マーガレットも知っている。ベスビオのことは詳しくは知らないが、発信してきたということは積んでいるのかもしれない。


 だが、おかしい。


「辺境の部隊が? なんでそんなプライベート用の通信を?」

「なんかなあ、通信に割り込まれたんだと」

「割り込まれた?」


「そうだあ、逆位相とか使うやつが乗ってるらしいんだなあ」

「ああ……そうなのか」


 マーガレットが納得する。虎の艦長なら、それくらいことは朝飯前だろう。しかし相変わらずだ。あの蛇が様々な搦め手を使って危機を乗り越えてきたのは、いつもミネアの話の種だったことを思い出して、少し笑みがこぼれた。


「なんだあ?」

「いや。なんでもない。そうか、じゃあ仕方ないな」

「だろう? 蛇を追ってベスビオも100キロリームほど後方につけてるらしいなあ。予定通り、今のところ東西で挟み撃ちの形だなあ」

「了解だ。あと30分ほどか?」「そうだなあ」


 なんだか納得したのか満足したのか、妙にマーガレットの機嫌が直って正面モニタに目をやったので、それ以上は何も言わずにフォレストンも視線を外し、しかし。気づかれないようにもう一度、ちらっとポニーテールの横顔を見上げる。


 まあ、嘘はついてない。言ってないことはあるが。




——その着信ピンをフォレストンは自室で受けることにした。兵士と二人で廊下を歩き、扉の前で確かめる。


オルトレクトシェックマークOrt Lekt SEHk Mke0315だなあ?」

「オルトレクトシェックマーク0315。はい。向こうの鍵はそれで合ってます。姫には伝えていいですか?」

「どっちでも、いいぞお」

 ドアを閉めながらにっと笑って兵士に答えた。


 本棚に囲まれた机の椅子にどさっと身を投げて、すぐ。右手をふっと上に振れば目の前に光球が現れた。フォレストンが呟く。


OLSHEMオールシェム0315」


 声に反応して、ぶうんと低い唸り声を光が放った。


『——ずいぶん幼い声だな、首都エールカムの魔導師か? こちらは辺境第一中隊ベスビオ』


「リボルバーだあ。なんだって幻界通信なんか使ってきたんだあ?」

『蛇に逆位相を使えるやつがいる。聞かれたくない』

「ああ」『……建前はな』


 鼻眼鏡の奥から、訝しげに光球を見つめる。

「ふーん。何を考えてるんだあ?」


『作戦を変えようと思う』「うん? 命令違反じゃないのかぁ?」


『命令は蛇を南進させることだ。細かい判断は現場でも文句はないだろう? こちらは後方100キロほどで付けている。ちなみに蛇は傷追いだ、ベスビオとリボルバーで挟めば南に逃げると思う』


「だったらそのままで——」

『念を押したい。おそらくだが、あの蛇には人間の魔導師が乗っている』

「……魔導師? そんな話は聞いてないなあ」


 フォレストンがすっとぼけた。黒髪の青年の件は、アーダンのマインストンからすでに聞いている。


「確証はないのかあ?」

『ない。だから念のためだ。人間の魔導師は獣以上に厄介な時もある、それに獣どもも結構な実力に見えた』

「で、どう作戦を変えるんだあ? 魔導師の件、本部に連絡入れたんだろぅ?」


『入れてない』「うん?」

『辺境本部には連絡を入れていない。信用できない』

「……おいおいおいおい、それで幻界通信かあ?」


帝都ルガニアには連絡してある。そもそも今回の命令はどういうつもりだ? なぜクリスタニア市まで蛇を追い込む必要がある? 国からは獣の討伐命令など出ていないぞ。帝国領外に追っ払えば済む話じゃないのか?』


「なんでそんなことまで、俺に話すんだぁ?」

『ターガ魔導会は情報を掴んでいないのか、知りたくてな』

「知ってて、俺が言うと思うのかぁ?」

『信用されなきゃ言わんだろうな、だから全部話した』


 ぎいと、椅子の背に身体を預ける。


「——正直な話、魔導会は今回のことは情報つかんでないんだよなぁ。本部が信用できないとして、アンタはどうしたい? 本部に背くのかあ?」

『そんなことはしない。命令通り蛇を南にやる。ただ時間を稼ぎたい』

「時間を?」

帝都ルガニアが動いてくれれば、クリスタニアに調べが入るはずだ。時間が欲しい。そういう戦い方がしたくて話している』


 フォレストンの幼い顔がため息で潰れた。どいつもこいつも。ほんとうっにめんどくさい。猫に会いたい娘がいて、本部は蛇を連れてこいという。所長は黒髪をターガに行かせてやりたいそうで、今度は時間を稼げというのだ。

「で? どのくらい稼げばいいんだあ?」


『一日以上』

「はあ? そんなに引っ張れるわけないだろう?」

『帝都からクリスタニアまでは距離がある。できれば数日』


「いや無理だ無理だ。どうやってそんな」

『まあ聞け。あと一時間ほどで蛇とぶつかることになるが——』


 隊長が話す作戦に、フォレストンが少し驚き、そして少し疑う。


「——そんなこと、なんで辺境の中隊長が知ってるんだあ? 魔導師上がりかあアンタも?」

『死ねば知恵もつくさ』

「ああ。〝死に残り〟かあ。何度かやっちまってんのかあ?」

『次あたりが限界だろうな。家族もいたらしいが、もう記憶もない』

「そうかあ」


 少年が、だぶだぶの法衣の上から、右の鎖骨の下あたりをさする。誰かれ、人並み以上に身につけた魔導や智慧には代償が伴っているのが、この世のならわしか。しかし今そんなことで共感しても意味がない。


「やるだけやってみるけど、保証はできないぞう」

『それでいい。任せる』





——結局、いい感じに乗せられてしまったんじゃないかあ? とも思うのだが。請け負った以上はしかたがない。そう思うフォレストンが。


「さーて」「うん?」


 くいくいと。マーガレットの隣で急に両手を組んで前にぎゅうっと伸ばし、首を左右に振り始める。左右の肩を交互に回し、腰に手を当てて。胸を反って。肩甲骨を締める。明らかに柔軟をしているようだ。


「……なにやってるオマエ?」

 いきなり隣で体操を始められたマーガレットがきょとんとして少年を見下ろすが、意に介する風でもない。手首をぶるぶると揺らしながら答えた。


「うん? だって今から喧嘩するんだろう? 蛇と」

「いや、喧嘩ってお前。まあ、そうだが」

「準備運動だあ。変かあ?」「……変だ、すっごく」


「まあ、横で見てるといいぞお」


 そう言ってフォレストンがにっと笑うのでなんだかわからずに照れくさくなるマーガレットに、兵士の声が響いた。

「視認しました。距離40キロリーム」



 朝陽を浴びた厚ぼったい雲の下。

 山塊の遠くに飛ぶ蛇の姿が、モニタに小さく映った。

 まだ遠くに、ほんとうに小さく。


「……ウォーダー……」


 その呟きに、背中に回したフォレストンの腕が止まる。ちらと、あどけない女艦長の顔を見上げるのだ。


 釘付けになって。気丈に振る舞ってきた自分を。気持ちを。

 過去に持っていかれそうになるので。

 メグは、唇を噛んだ。

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