第二十九話 五番「光壁」


 風の吹き荒れる明け方の平原に。

 南北に対峙するふたつの大軍に挟まれて。


 その光球は地平に轟音を鳴り響かせ巨大化していく。激しく輝く光の直径は既に数十メートルを越えてなお膨らんでいくのだ。


「巻き込まれるぞ!! 下がれ!! 下がれ!!」

「第二第三無限機動ベスビオ!! 位置を修正しろ!!」


 眼前に輝く光球から目を離すことなく、空を覆う無数の帝国軍モノローラから互いに怒号が飛ぶ。北に位置する四艦のベスビオは菱形に陣を張っていた。全ての帝国兵が遮光の障壁に包まれる中、光球のすぐ前に浮かぶ先頭の艦首に、なにひとつ魔法の壁を張る気配もない影が、漆黒の法衣をはためかせる。


 黒騎士グートマンである。

 ただ一人の男が、黒手袋の右手を掲げ、この巨大な魔法を操作していた。


 対して南の軍は。おびただしい数の機械の蟲の群れなのだ。


 地鳴りをあげて走り来る地上の蟲は、さそりのような節足動物に似ている。全体を頑強な外骨格が覆い、それぞれの節から伸びた鋭い関節肢の先端が、平原の土砂を突き刺し巻き上げて突進してくる。最前の肢は巨大な鎌で、尾は鋭い槍状に反り返っている。


 飛ぶ蟲はヒレの生えたウツボのようで、頭部が異様に大きい殻に包まれ、鼻の穴と鋭い牙の生えた口のみで目がない。胸元からは蜻蛉に似た六本の肢が生えている。ひときわ大きい背中のヒレを羽ばたかせ、ゆらゆらと舞うように空中を飛び回っていた。


 ファガンの魔導器『幻蟲アズラノイド』の群は、自律型の攻撃特化の機械である。ひたすら前進し遮蔽物は殺傷し破壊する。蟲を止める方法は、これもまた破壊のみなのだ。

 他より先んじて疾走し光に巻き込まれてぐしゃぐしゃと潰れて形を失う個体もあるが、それでも。ぞろぞろぞろぞろと南の平原を埋め尽くし、凶悪な手足を生やした魔導器が押し寄せてくる。鎌を掲げて平原を尖脚で移動し、飛ぶ蟲たちは不快な羽音を立てて飛翔していた。


『接触3秒前。2……接触しました!!』


 黒騎士の兜に声が届く。

 開いた右手が拳に変わる。


 一瞬、音が止んで。

 眩い光線が地平線の彼方まで走り抜けた。

 強烈な爆発による衝撃波が平原を東西に横切る。


 ノエルの使途不明呪文ジャンク=スペル。五番。


光壁アムラクノス』。


 摂理の天秤を傾ける魔法の壁である。


 巨大で透明な分厚い壁が、ガニオン・ファガン南方国境帯に出現した。

 西は地平の向こう、おそらくは国境平野を越えてダクステの海岸線まで。そして東は、遥か遠方に微かに見えるエマトナ山系に到達し、やがて山々の崩落する地鳴りが届く。


 同時に天にも亀裂が入った。東西に出現した壁の上空より衝撃が抜けて、雲が割れて弾ける。


「うおおおおっ!!……」


 北側の、大きく揺れるモノローラの上で。明け方の空を走った衝撃波を見つめて帝国兵たちが声を上げる。

 光壁アムラクノスの発現時、その内壁より数キロの範囲だけは。衝撃が大幅に減衰される。


 この壁は。

 味方に危害は決して与えないのだ。


 対して壁外の南は。猛烈な爆風が地平の土砂を吹き飛ばす。地を埋め尽くしていた無数の蟲たちが壁の出現とともに打ち払われ、姿を瓦礫に変えていく。がらがらと空中に舞う千切れた蟲の外骨格の、その向こうに。


 南の空に。七人。


 帝国の国境防衛軍三千数百人に対して。ファガンの魔導師は七人であった。そしてその呼び名は正確ではない。


 。ファガンは、そう呼ぶ。


 七人の魔術師は六人が東西に一列に距離を取り、空中で奇怪な円盤に搭乗していた。複雑な文様を浮かべた水平な円盤の下方には結晶のような棘が幾本も伸びて、彼らの背後には巨大な魔法陣が——それは緩やかに回る滑車のようで中心の大きな光陣の周囲を九つの小さな光陣がぐるぐると周回していた——浮かび上がり、盤上で平然と立つ全員が足元まで布の垂れた法衣を纏い、胸の前で開いた両の手の人差し指と中指を緩くつけたまま、この爆発と衝撃に、微動だにしない。


 その六人の列より前に。ひとり。


「うふ。うふふふ。うふふふふふふふ」


 囁くような笑い声のはずなのに。空を飛ぶ帝国兵たちが総毛立つ。遥か壁の向こう、数キロ先の点景でしかないその円盤のひとりの笑い声が、耳元まで届くのだ。


「いつもながら、ぬしの壁は理不尽じゃあ。黒騎士よ」


 声は少女であった。


 吹き荒ぶ爆風の余波に巻き上がる八つの束になった銀髪の下は、まだ幼さの残る顔立ちで、しかし法衣は胸元も太腿をもはだけ妖艶な白肌を隠そうともせず、乳房の前でとんとんと指をつけて放して声を出す。

 両の瞳は赤い。そして全身に。その柔肌に浮かび上がるのは。毛細血管のような紫の文様だった。目尻より耳元、頰にかけても流れる文様をひくひくと歪ませ、唇を上げて少女が笑う。それが合図であったかのように。


『OnTRLLWon MN NoNTRLLWon MoN OLLouM』


 後方の六人がじゅを唱える。ざらざらざらざらと。瓦礫溢れる大地より無数の蟲が湧き出てくる。羽根のあるものは飛び立ち、節足のあるものはがしゃがしゃと音を立てて前へ前へと溢れて、やがて地よりそびえ立つ魔法の壁にわらわらと群がり始めた。


 ベスビオの艦首よりそれを見下ろす黒騎士が、壁越しに宝石の顔面を少女に向ける。


「此度の越境は 何事だ

 ファガンの狂い姫よ」


「ううん? うふふ。主がつれないからじゃあ」

 髪を揺らして首をかしげ、両手をぱあっと開いて。甘えるように声を上げる。

「東の爆縮は、主の仕業か? ううん? 天雷バベルが解けたのか?」


「それを訊くため

 軍を進めたと言うか」


わらわの蟲を止められるのは、主の光壁アムラクノスだけじゃからのう。こうして呼ばねば、ろくうてもくれぬではないか」


 黒騎士の右手が拳に握られる。わずかに振り絞り、そして躊躇なく一言も発せず振り抜いた瞬間。

 轟音とともに壁の向こうに群がる魔導器が一気に吹き飛んだ。どれほどの蟲が飛散しただろうか。「うおおおっ!!」と叫ぶ帝国兵たちとは対照的に、しかしやはり。


 七人の魔術師は空に縫い付けられているが如く。その場を動かない。


「つくづく呪われた娘だ

 爆縮は私の業ではない

 むしろ我等は 貴様の陽動と見ている

 下手な芝居ではないのか アヌジャカ」


「——ほう? ほうほう? 主ではない? 妾でもないぞ? では誰であろうな? シュテの坊主どもかの? ううん? これはまた愉快ではないか黒騎士よ」


「私に 愉快という情感はない」

「うっふふふふふふふ。そうか。そうか!」


 少女の赤目が見開いた。口から肉厚の舌が覗く。


「主のそれが!! 良い!! うふふふ!! ならば爆縮などどうでも良いわ!! のう黒騎士!! 遊べ!! そののっぺらなぎょくの鏡に妾を映せ!!」


 響き渡る声に合わせるように呪文がこだまして、なお一層次々に。平原に魔導の蟲が涌く。黒騎士が右手の拳を顔の横に上げた。後方の帝国兵のモノローラが一斉に駆動音を大きくする。


 魔術師の姫アヌジャカが、ほろほろと笑う。


「ううーん? 兵を送るか? よいぞ。こい。こい。ほれ。蟲の餌になれ。どうせ死んでも生き返るのじゃろう? うっふふふ。あわれじゃのう黒騎士よ。もう少しまともなたまは持たぬのか——」


 刹那。旋風つむじかぜが舞う。

「おう?」

 姫の乗る円盤の目前に一陣の不自然な風が空気をねじり、そこから。ぬるうっと黒い布が巻き上がって。唐突に。


 身の丈はあろう刃が空を切って振り下ろされた。

「布っ切れか! 久しいの!」

 それもまた布のような薄い刃を、少女が素手で受け止める。衝撃が空を揺らす。


「私が相手では不服か? ファガンの狂い姫よ」


 黒布の中より現れたのは、これもまた漆黒の鎧に全身を包んだ、長髪で痩身の騎士である。顔のほとんどが真っ黒な宝石で包まれ口元だけ露出し、両手に握る二本の曲刀は腕より長く縦に構えれば見えぬほど薄い。いかなる仕組みなのか、黒布はぐるぐると騎士の周りを巻いた旗のように周回している。


 姫の口が妖しく歪む。

「相変わらず〝なまくら〟を持ち歩いておるか。うっふふ。魔導の者が獲物とは、無粋よのう!!」

 振り下ろす腕より光の軌道がほとばしる。が、また。ふわりと騎士は布のうちに掻き消えてつむじとともに布すら消えた。直後。姫が振り向く。


顕現自在フラッグマイン!! 後ろじゃ!!」


 後方円盤の一人の眼前に。それは一本の糸のような視界の塵が唐突に巻き上がって布となり、内から音もなく刃が振り下ろされた。


「NoNTRLL……ふおっ!」

 盤上の魔術師が詠唱を止めて両手を構え壁を張る、が。難なく切り込んだ紙より薄い曲刀がすらりと半円を描いて、魔術師の左腕を飴のように切り落とした。千切れた二の腕の切断面より一拍遅れて血飛沫が噴き上がる。


「うあああああ!!」

 魔術師の叫びに反応してか。黒色の騎士に向かって一斉に蟲がたかった。ガシャガシャと鉄の肢をからみ合わせて団子になる禍々しい魔導器の中より。


 それもまた一瞬で。


 漆黒の旋風が舞い上がり、固まる蟲が木っ端微塵に弾け飛ぶ。ぐるぐると相変わらず黒布は騎士の周りをはためいて回っていた。

 呻いて膝をつき残った右手で傷を焼く魔術師を、長髪の騎士が一瞥して姫に振り返る。


「手駒が足らぬのは、そちらではないか? 赤目の姫よ」

「ちょこまかとうざいわ!!」

 叫んだ姫が両の手を大きく開いて天に掲げる。


「EnoRRRqon MallRRRGoN!!」


 唱文一詠、姫の円盤より。透明な樹木の如く、びしびしびしびしと。空中を棘だらけの枝が覆い尽くしていく。西へ。東へ。枝のいくつかは飛び交う蟲を貫いて爆発を起こした。棘枝はゆうに数キロ四方に渡り壁と平行に張り巡らされ、その隙間を縫って蟲が飛ぶ。


出処でどころも知らぬうたなぞなくとも、壁は張れるぞ黒騎士ども! うっふふふ。引っかかって破れてしまえ布っ切れ!」


 布の騎士はぬうと唸って旋に消えた。やや壁に近い空間まで退行してまた現れる。その時グートマンが右の拳を振り下ろした。


「打ち払え」


 後方より鬨の声が上がる。帝国兵のモノローラが一斉に光壁に突進していく。がりがりがりと壁の向こうを尖肢で削って群がる蟲を眼下に、不条理の壁は北より突撃するモノローラをどぷりと液体のごとくに素通しさせるのだ。続々と。蟲が飛び交う壁の向こうに帝国兵が飛翔する。


 巨大なだけではない『光壁アムラクノス』の大いなる特性『敵性遮断』は魔導物理の別がない。味方は全て通し害意あるものは光弾も蟲も人間も通さない。摂理を無視した透明な魔法の長城なのだ。向かってくるモノローラの大軍を睨みつける姫の表情が歪む。


「むぅう……たしかにあの壁は便利じゃのう……うん?」


 目を凝らせば。ベスビオの黒騎士が背を向けている。


「なんじゃあ? 手下まかせで帰るのかグートマン!!……さてはまたもや、他所で人攫いかあ? ううん!?」


 叫ぶアヌジャカの前方で遂に帝国兵と幻蟲が衝突した。国境守護隊の兵士たちは砲撃を行わず長槍を構え、その切っ先は魔力にて鈍色に輝き、飛ぶ魔導の蟲たちを易々と貫く。が、相手も手数が多い。尖兵の幾つかは蟲に集られ叫び声をあげて落下していく。


「もう平野は幾万に殖えたのじゃ!! 難儀なことよのう!! 主の後継でも探しておるのか!? ははは!! 手近なものに産ませれば良かろう!!」


 吹き荒ぶ風に法衣をはためかせて姫が叫ぶ。


「なぜ土地を求めずくだらぬ下民を集めおる!! 版図に餓えた前帝ガニオンのが、まだ幾らか解りやすかったわい!!」


 罵倒にわずかに首を向けた黒騎士の、兜に包まれた石が輝く。


「穢れを祓い 獣の呪いを解くのだ

 貴様と遊ぶ暇はない」


「んんん?! そうか?! そうか!! じゃが壁はいつまで保つかのう黒騎士よ!! 消えればまた妾が蟲をやるぞ!! 主の人間どもを屑肉に変えに行くぞ!! よいのか?! よいのか黒騎士——!!」


 咄嗟に。姫が身体を翻した。

 一閃が襲いかかる。


 紙縒こよりに縒った黒布が矢のように飛ぶ。先端に刃を光らせて。八つある姫の髪束の一つが解けてぶわあっと広がる。盤上で布がたちまち開いてまたもや長髪の騎士が現れ、細身の身体を宙に浮かばせる。


「卿ひとりにしか目が行かぬか? その赤目、抉ってもいいのだぞ?」

「どこまでも邪魔くさい!! 破り捨ててくれるわ!!」


 姫が獣のように構えた両の爪を振り下ろせば、周囲の空気がばりいっと甲高い音を立てて宙に掻き傷が描かれた。黒布がさらりと躱して袈裟懸けに刃を通す。これも姫が躱す。

 逃げてなかなか当たらぬ黒布に爪を振り回すアヌジャカの肢体が上気し、瞳はいよいよ赤く、全身に紫の血管が強く浮かび上がる。


「うふふふ!! ふふふふふふふ!!」




 遠くで夢中に布を追う姫より視線を離したグートマンの前に、忽然と現れたのはこれもまた黒い鎧に覆われた大柄の騎士である。やはり顔貌はほぼ宝石で固められ、見える顎と口元には髭を蓄えていた。


「こちらはフーコーひとりで事足りるでしょう。別働隊がエマトナ山系を南南東に越境いたしました。街にはハンマー二機を向かわせております」


「街はお前に任せる サルザン

 民は慎重に集めよ クレセントは誰でも良い

 ソフィアの代わりを 急がねばならない」


「平野は十万を越えようとしております。そろそろ物資も、追加が必要かと」


「好きにするといい 民を病ませぬように

 狂い姫の 言い分を聞いたか」


「嘘かもしれませんぞ」

 グートマンより一回り身の丈のでかい、サルザンと呼ばれた騎士が答える。


「嘘なら嘘で 動きようもある

 カーベリラは辺境に 向かっているな」


「数日後には大陸を横断してクリスタニアに」


「良かろう 壁は数日保つだろう

 それまでに追い払えと フーコーに伝えよ

 私はムストーニアを回る 続報を寄こすといい」


 黒騎士の言葉に、サルザンが頭を下げた。




◆◇◆




 グートマンが放った光壁の衝撃波は大陸南部より天空を伝わり、帝都ルガニアの平野をも揺らした。それは一瞬であったが、スラムの人間たちは一様に空を仰ぎ放射状に広がる雲の流れを伺い、そして誰もが。

 平野の中央に聳え立つ、魔光を天に放つ尖塔の断崖に、目をやるのだった。


 その帝都の一室で。近づく衝撃を察知したイングリッドは寝間着のまま椅子に腰掛け読んでいた本を閉じて、ぐっと机の端を掴んで身構えた。

 どおんっと。一度大きな縦揺れが襲い、しばらくぐらぐらと部屋が揺れるに任せて目を伏せる。やがて段々と揺れは収まり、また部屋に平穏が戻ってくる。


 ふうっと一息吐けば、部屋の扉をこんこんと誰かが叩き、声がした。


「卿の光壁アムラクノスが発動いたしました。お変わりありませんか?」

「問題ない。見回りご苦労」

「はい……それと、こんな時間に申し訳ありませんが」


 扉に目を向け、イングリッドが苦笑する。


「部屋着だ」

「い。いえ。ここからで結構です。報告が早い方がいいと思いまして」

「手短に頼む。報告とはなんだ?」

 どうやら扉の向こうは一般兵らしい。声が続く。


「辺境第一中隊より北サンタナケリア脈の異常の報告です」

「私に? 辺境本部ではなく?」

「はい。イングリッド様といいますか、竜脈研究班に、です。主幹は、この衝撃でもおそらくお起きにはならないはずですので」


 こんな衝撃波でムーアが起きることはないだろう。確かにそうだと微笑みながらも、イングリッドが記憶を探る。確か第一中隊といえば、昨日あたりアーダンの砂漠で獣たちの無限機動と一戦交えた隊との報告が入っていた。竜脈に搭乗する際の戦闘とは聞いていたが、異常とは、その脈のことだろうか?


 妙な勘が疼く。

「……わかった。見ておこう」「宜しくお願い致します」


 部屋の向こうで足音が遠ざかっていった。

 少し宝石の左目を擦って、イングリッドが机に立てかけていた計器盤を手に取り、脇の仕掛けを操作する。かりかりとダイヤルを回すと、やがて目当ての報告文が画面に映し出された。


『北サンタナケリア支流脈にて獣と遭遇。戦闘に入るも獣は支流に搭乗し逃亡。現在も追跡中。異常を確認されたし』


「……これだけか?」

 イングリッドが呆れる。兵士の報告以上のことが何も書かれていない。とんとんと画面を指で叩き考えて、近い時刻の自分宛の文書を探る、と。蛇の画像が出てきた。知らぬわけではないが見るのは初めてである。画像は蛇が大きく揺らぎながら竜脈に魔導錨アンカーを繋いでいるところらしい。


「うん?」


 数体。蛇の近くに獣の影が浮いている。翼を広げ他の獣を抱えた一体と。もう一体は。イングリッドが画面脇の別のダイヤルを回す。かちかちと音を立てるたびに画像が拡大され、荒くぼやけていく。


「これは……人間?」

 見たこともない漆黒の髪。そして。虹色の障壁の内側に。


「……竜紋? いや、色がおかしい……撮影器の故障か?」

 ほんの微かに。青い紋が写っているのだ。


 計器盤から目を離し、イングリッドが天井を仰ぐ。獣の無限機動に人間が乗っている。そのこと自体は、ままあるかもしれない。しかし竜脈搭乗時に紋を出す人間であるなら、それは。


「魔導師、か?」


 だが。それならなおのこと。なぜ帝都ルガニアなのだ。竜脈研究班なのだ。辺境本部ではなく。魔導師発見の知らせを、なぜクリスタニアに報告せず——


 がばっと前かがみになってもう一度。イングリッドが計器盤を掴んで報告文書を読み返した。


『——現在も追跡中。異常を確認されたし』


「竜脈に逃げた獣を、? 辺境防衛隊が? 追い払えば終わりではないのか?」


——〝その〟異常を確認されたし——


 イングリッドの腕に鳥肌が立つ。しかし同時に可笑しくもなり、ふっふふと声がこぼれた。


「……なるほど、最もはかりごとに縁のなさそうな『竜脈班われら』を選んだか。これは怒れば良いのか?」


 かたりと。机の上に計器盤を置いて、イングリッドが両の腕を頭に組んで椅子に寄りかかる。ベージュ色の薄い寝間着の胸元を少し膨らませ、そして大きく息を吐く。


 中隊に追跡命令が出ているならば。

 それを出したのは他でもない。


 クリスタニアの辺境本部のはずなのだ。


「砂漠を越えるなら、小型無限機動ベスパーが要るな」





◆◇◆





 助手席の魔力検波盤パルスコープを睨みつけながら兵士が言う。

「南西5000リーム! 4000、3000!」

 運転するもう一人が操縦桿をぎゅんと右に切ってフロントを南西に構えた。車体の頭部を思い切り下げる。魔力の壁が大地星タイタニアで地面に張り付く。


 夜の荒野の彼方から。砂煙が向かってきた。

 びりびりと車が揺れる。

 二人の全身に脂汗が浮かぶ。


「2……くるぞッ!!」

 ばし! ばしばしばしと砂が障壁を打ち、そして。

 

 猛烈な爆風が襲い掛かった。


「ぐおッ!!」「ぬうッ!!」

 最初の一撃が車体を大きく揺らし、天に舞い上がる塵が星を隠す。一気にフロントが砂で埋もれて外が見えなくなるのに任せて、車内の二人はただひたすら衝撃波が過ぎ去るのを、席に身体を埋めながら耐える。


 時間にして。1分もあったのだろうか。

 ごおおと唸る嵐の余波が段々と収まり、風が吹き、それもやがて止んだ。魔導壁バリアに張り付いた砂のせいで、中は真っ暗である。運転席の兵士が喋った。


「障壁、外しますよ」「ああ」

 返事を受けてサイドレバーの一本を大きく引く。


 どざあああっと。

「うおっ!……はははっ」

 肩の力が抜ける。消えた壁から降りかかる砂に車が揺れた。



 ドアを開けて車外に踏み出せば、なんてこともない、荒野は静まり返り風もなく、見上げれば数分前に見たのと変わらない夜空が美しい。運転手の兵士も続けて下車し、黒くツヤのあるフロントにかかる土砂をばっばっと払いながら言う。


「なんだったんでしょう今のは? 情報、届いてましたか?」

「いや。所長からは、なにもない。しかしすごいぞ。見てみろ」

「え?」


 言われて運転手も天を仰ぐ。星々は変わらず美しい。が。


「……これは……どこから来たんでしょうか」


 空が割れている。遥か南西より僅かに浮かぶ雲々が、放射状に千切れて吹き流れているのだ。放射の起点は地平をかたどる山々より、どうやらまだ向こうのようだった。


 おそろしく遠くで。


「何か、あったんだろうな。あの方角は——」

「ファガンですね」


 星空を見ながら語る二人は、アーダンの要塞でアキラを守護した上位兵であった。昨晩の要塞修復の際に所長マインストンに呼び出され、クリスタニア市の偵察任務を受けたのだ。

 もちろん秘密裏で身分秘匿である。二人とも厚手の私服にぼろぼろの、ポンチョのような外套を羽織っていた。私服の中には対魔導戦用の防御服プロトームを着込んでいる。


 髪を短髪に刈り込んだ強面で、一回り体格のでかい助手席の男は、帝国の魔導砲ビーキャノンの爆発からアキラを庇って背中を叩いた兵である。

「黒騎士か?」


 ボンネットの砂を払い終わった運転手の兵士はやや背は低く癖毛の金髪、少し細面の顔立ちで、歳は今のアキラの風貌に近く、地球で言えば大学生ほどにも見える。

「かもしれませんね」


 青年が車の窓から計器盤をがちゃがちゃといじると、車体にぼうっと緑色の光の筋が幾何学的に浮かんで、ゆるい振動音とともに僅かに車が浮いた。ほっとした顔で体を窓から離す。


「異常ありません。本当にビクともしませんね、コイツは」

「そうそう壊れんよ、所長の虎の子だ」「ええ」


 車の鼻つらをぽんぽんと叩くと、ふおんっと。緩やかに幾何学的な文様が浮かんで消えたので、少し驚く——明らかに。兵士たちが通常勤務で運転しているロックビークル等とは。


 なにかが。違うのだ。

 それが何かは、まだ青年には、わからない。


 そんなわずかな所作を後ろで理解したのか。大男がボンネットを大回りして助手席に戻ってドアを開けて、座りしなに声を出した。


「フューザ」「はい?」

「お前もそろそろ、魔導機だの無限機動だの、しっかり勉強したほうがいいぞ」


 急にそんなことを言われて少しフューザが目を丸くする。ふわふわと揺れるショートの巻き毛の後ろをかりかりと掻く。

「いちおう、運転も上級試験を——」「例えば、な」


「はい」

 声を遮られても、フューザは嫌な顔は、しない。バクスター上位兵は、たまにこういう話し方をする。そして、こんな話し方をする時は。


「コイツは——ヴァルカンは、決して俺たちを見捨てない。なぜかわかるか?」


 奇妙で。大事なことを言う時なのだ。

「わからないです。謎かけですか?」

「いや、事実だ。それが所長の依頼だから、だ」


——魔導の基本は使役と依頼である。


「やっぱり、わからないですね」「だから勉強しろ」

 肩を少しすくめて、フューザが運転席に乗り込んだ。


 ぶわあっと車体の基底部が緑色に強く輝き、後方左右に二基埋め込まれた大型の魔導槽ダクトセルに薄青の火が灯る。ゆっくりと浮上する車体は全身に美しい緑の流紋をみなぎらせ、徐々に南東に向きを変える。


 膜のような風防障壁ドラフトバリアが全体を包み込み白く輝いて流れた。


 小型無限機動クロムヴァルカンは乗員八名、無充填最大航行距離2500キロリームを誇る大陸縦断などの超長距離移動用の攻撃車輌である。3800万ジュールの小型魔導炉一基に25万ジュール大型魔導槽二基を備え、モノローラと同等の機動力と瞬発力を誇るが高空は飛べない。


「交代の時間が来たら、起こしてくれ」「了解です」


 助手席のバクスターが外套のフードを目深にかぶって、しかしまだ目を閉じない。緩やかな駆動音を唸らせて車が発進する。たちまち加速する窓の景色に少し目をやりバクスターが考える。


——蛇はおそらくアイルタークに越境するのだろう。医師エイモスは不思議な人物だった。少なくとも要塞で、短期間ではあったが彼は誠実に職務をこなしていた。そして話せば知的な人物でもあった。

 そんな医師がただ漠然と帝国ガニオンの方針に飽いて越境するとは、考え難いのだ。本当になにも、目的がなかったのだろうか?


 それに加えて。あの身元不明の、魔導師の青年である。


(あの魔導は、凄まじかったな)

 バクスターが思う。ただ。


 これら二人を乗せた蛇は東に向かったはずなのだ。今の進路は南東、クリスタニアである。仮に二人の動向が気がかりなら、所長はなぜ蛇を追わずに湖の都を調べろと命令したのか? 詳細は不明であった。


 それでも。

 マインストンもまた、ターガ魔導会の派遣魔導師なのだ。


(考えるだけ無駄か)


 腕を組んで深く椅子に座りなおし、睡眠に入る。横のフューザは要塞を出てから休憩しつつも、言わなければいつまでも運転を変わろうとしない。若い彼にとって小型とはいえ無限機動の運転は、快適で刺激的なものなのだろう。



 砂塵を巻上げて無限機動が疾走する。

 二日もすれば、彼らもまた。クリスタニアに到達するのだ。


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