第二十六話 逢魔時


 漆黒の、翼の中から現れたのは鳥の頭部であった。


 からすに似ている。

 下に垂れた嘴が黒くぎらぎらと輝き、幾重にもしわの寄ったまぶたが。


 閉じているのだ。その鳥は翼を広げながらも目を閉じたまま、空に浮いている。まるで眠っているかのような表情であった。

 翼は広い。蛇の翼より遥かに大きく硬質で、眼前の空にシンメトリーの影をかたどって、さらに。異変はそれだけでなく。


 いつからなのか。晴天だった空に雲が湧いている。まだそれは少なく、しかし厚ぼったく固めた綿のように。


「……なんだ、あれは……」

幻界生物アステロイドだよ! 艦長!」


 後方から叫ぶモニカに虎が我に返り、操縦席のミネアを見る。猫は操縦桿を握りしめたまま全身の毛を逆立てて空に広がる黒い翼を睨みつけていた。目元から鼻先に汗が流れる。


「反応は? 戻らないのか?」

「——だめ。全然言うこと聞かない」


 見えないペダルをかんかんと踏むが蛇は低く震えたままである。苛だたしげに足元を覗こうとした、その時。


 ばりいっ と。


「ぐ!! ううっ!」

「ひっ!」「うおっ!!」


 一斉に上がった周囲の叫びに驚いたのは、アキラとエイモスの二人で。獣たちが皆、頭上の耳を伏せている。リリィに至っては長い耳を両手で押さえ「うううううう!!」と苦しそうにしゃがみこんでしまった。


 ばりっ ばき ばき ばきばき と、どこからか。


「え? え? なに? 何の音?」


 それは。

 鴉が〝目を開ける音〟だった。


 横一文字に閉じていた皺だらけの瞼を段々と開くたびに獣たちの耳元で大きく不快な音がこだまする。上と下とに畳まれる瞼の内側から現れた、薄い膜の張った血糊のような赤黒い瞳に。


 その赤に。呼応するかの如く。


 空にどろどろと叢雲むらくもが湧き上がる。鴉のせなより這い出て膿み垂れ下がった、ぼこぼこの。


 赤い。

 それもまた赤黒の。

 無数の雲が。世界を覆っていく。


 ウォーダーの振動が早まる。砲塔の両翼を目いっぱいに広げたまま威嚇するかのように頭蓋をわずかに沈み込ませる。そして。


「うおっ!? おいダニー!!」

「いや! 私ではありません!」


 周囲に虹色の魔光が走った。誰の命令でもなく蛇が壁を張った。全身が七色に輝き魔力の塊が体躯を覆う。


 最後尾まで壁が走ると次には透明で輪郭だけだった内壁が、機械が。その姿を半透明に浮かび上がらせたので、はっとして。片手で耳を押さえたままミネアが操縦桿を素早く右に傾けると。


 ごうっ。と。蛇の巨体が右手に、わずかにスライドする。速い。


「う。動いたっ。艦長! 反応が戻った!!……でもなに今の速さ?」

「——ッ!! 全員オールッ!! 戦闘態勢!!」


 片耳を押さえ肘を付いた艦長が半透明の天井を見上げて叫んだ。リッキーたちが素早く主砲操作盤に飛びつき着席する。さらに蛇の室内が色濃く強く。ほぼ六割ほどの不透明度まで内壁が回復してきた。


=まずいぞアキラ=

(えっ。いや。なんで!? 反応も視界も戻ったじゃん!)


=だからだ。蛇が、獣たちに『手を貸せ』と言ってるのだ=


 声の返答にアキラが正面、浮かんできた管制室計器盤の向こうにまだぼんやりと見える巨大な鳥の顔を見る。

 もはや瞳は真円に開いていた。すっと翼が動き胸元が毛羽立って。


 開いた嘴から大音響の。不快で甲高い叫びが上がった。

 赤い世界に鴉の声が響く。


「ぐうッ!!……くそッ」

 また獣たちが一斉に耳を押さえた。リリィはもう、しゃがみこんだまま震えて動かない。


 その声が合図だった。上空を覆う赤黒い雲のあちこちが乳房のように垂れ下がり、血が澱んで溜るように下方に色彩が膨らんで。


「ミネア逃げてえッ!! 上から落ちてくるッ!!」


 振り絞るパメラの大声に周囲の飛竜も猫たちも驚いて天を見る。声の届いたミネアが空を仰ぐと膨らみ垂れた雲のあちこちから。どろおおおっ、と。真紅の液体が柱となって降ってきた。

 まるで溶けた蝋のような粘性の血の柱が次々に海に垂直に降り注ぐ。ミネアが瞳孔をぎゅうっと絞り、その時間差を読み取って。

「ウォーダー! 右舷転進!」

 

 操縦桿の動きに応えた蛇が宙を走る。一気に左に首を曲げS字に蛇行し主砲を素早く畳み上げる。直後に血の柱が降り注いで落ちた。畳んだ主砲が扇のように斜めに弧を描いて動き、今度は左に舵を切った。


 鴉の正面を横切るその時に。一斉に。主砲が水平に並び相手を捉える。


「右舷一斉発射!!」

「右舷!! 発射!!」


 虎に続けて叫んだ飛竜の合図で一、五、六番砲塔が火を噴いた。

 しかし鴉が翼を閉じる。

 

 畳めば種子の殻に似た翼に着弾した光球が、激しく爆発を起こす。が、ダメージが通っているように見えない。黒煙の中からくるまった鴉が勢いよく。


「うおっ!!」


 ふたたび広げた翼から一斉に。無数の鋭角の刃が噴き出してきた。


 小さいが数が多い。避けきれない。刃のいくつかが激しい音を立て、蛇の障壁に突き刺さりばきばきとヒビを走らせた。船内にも衝撃が響きアキラと医師もよろめく。


 その時。


「ミネアッ!! 上ッ!!」

「しまっ……!!」


 またパメラが悲鳴をあげたが、遅かったのだ。どざああっと。蛇の左障壁に血の柱が垂れた。真紅の液が一気に凝結し、ずしりと重みを増してウォーダーが斜めに傾いた。管制室の全員が足を踏ん張る。


「レオン! リリィ! 座れ! 席に着け!!」

「ま、まずい……艦長! 舵が効かな——」

「散らせるかロイ!」


「すぐにでも。」


 飛竜が開いた右手の甲をぐうううっと肩から後ろに引いて構えて。


「ぬぅっ!!」

 勢い良く右手の掌底を。赤く固まった蛇の左舷に向かって突き出した瞬間。風星エアリアが衝撃波を発する。障壁に張り付いた大量の液が、内側から巨大に膨らんで破裂して、空に飛び散る。ロイが叫んだ。


「制御しろ! ミネア!」「りょ、了解!」


 雲から次々に溢れ落ちてくる血の柱を、蛇がかろうじて横滑りしながら回避する。首を回し目で追う鴉が、今度は嘴をぐうっと引いて。


 突き出しざまに大きく開く。

「くっ!」「ひいっ!!」


 獣たちが即座に耳を押さえたが次に発したのは奇声ではなかった。轟音を立てて、漆黒のガスの球が煙の尾を引きながら嘴から飛び出した。しかしその黒球はあらぬ方向へと空を飛び去り。


「えっ?……うわぁ!!」


 蛇が激しく揺れた。


 黒煙が。黒い線が空に残り、その黒に。蛇が吸い寄せられる。動きが鈍る。操縦が効かない。


=なんだこれは? 重力場か?=


 宙に撒かれた砂鉄のように細かい煙が蛇を引き寄せて離さない。必死にミネアが左舷に首を振ろうと棹を傾けるが、蛇全体がガクガクと揺れるばかりでその引力を振り切れない。頭上にぐわあっとまた赤い柱が垂れてきた。


 すかさず。その天を睨んだまま、虎が指示する。


「逆だ! ミネア! 右に切れ!」「えッ……」

「飛び込め! 回り込むんだ!」


=そうだ。スイングバイだ=


 ミネアの鼻先から汗が飛ぶ。思いきり。があっと両手で大きく右舷の黒煙に向かって舵を切った。

 堪えていた蛇の頭が急旋回し景色が横に流れる。動力炉付近の犬たちが一斉に空を引き回される。蛇と身体が一体化したように乗組員全員が空中を移動する。


 赤黒い天を横切る砂鉄の棒に蛇が勢いよく突進して。そこから。

「巻き込んで回り込め!!」「了解!!」


 まるで生きた蛇のようにウォーダーは高速で黒煙を縦にぐるりと旋回する。しかし、落ちない。全員が髪の毛一本逆立てることなく蛇の中で天地を逆にする。

「うおおおっ!!」

 全員が周囲の計器盤に手を付いて掴まる。


 主砲車両の猫たちは思わず椅子にしがみついて目を閉じた。大人たちは額に、鱗に、脂汗を流したまま首を振って回転する世界に目をやる。


 緑色に輝く腹を見せた蛇が上下を逆にしたまま、黒煙の引力を振り切って飛び出した。左舷砲塔が大きく翼状に開いて一斉に。逆さのまま鴉に照準を合わせる。虎も逆さのまま叫んだ。


「撃てロイ!!」

「左舷!! 発射!!」「は、発射!!」


 仰向けの蛇からまたしても。六本の主砲がすべて火を吹き光球を撃ち出した。すかさず鴉が反応して両翼を閉じる。速い。が、しかし。故障のない左舷は右舷主砲群より威力が高い。起こる爆発に少し押されて鴉がひるむ。


「このッ!!」

 砲撃の反動に合わせて。ミネアが操縦桿を左に巻き戻した。蛇がぎゅるうっと錐揉みで旋回し天地が元に戻ったのでまた乗組員たちから声が上がる。次々に縦回転する世界に、艦内で起立した獣たちは皆、中腰で身構えたままである。


 今度はゆっくりと開いた翼の向こうから。ぎらぎらと鈍く輝く赤い瞳でこちらを睨みつけるその顔面には、傷一つ付いていない。


 忌々しそうに。鴉がわずかに嘴を開いて唸り声を上げる。



 もはや幻界は迷路か牢獄に似て。

 縦に幾本もの細い血の柱を生み続ける雲の下で、しばし蛇と鴉が睨み合った。動力炉前のダニーが声を出す。

 

「ど……どうなってるんですかね。なんですかウォーダーの、この動きはっ?」

「わからん。だがこれが本来なら、たいしたもんだ。ロイ、聞こえるか?」


「聞こえます。砲撃を大地星タイタニアで重く、ですな?」

「そうだ。アレはどうやら防御に自信があるらしい。鳥のくせに飛んで避けようとしねえ。逆手に取る。初撃が勝負だ」


 その台詞に。アキラが驚いて虎を注視する。

(ええっ、さっきの状況でもう対策練ってるのこのヒトたち?)

=離脱も早かった。戦は手慣れているようだな=


「了解です。リッキー、主砲に大地星タイタニア付与エンチャント——」

「待てロイ! 仕掛けてくるぞ!」


 飛竜の指示を虎が止めた。鴉が翼をぎゅうっと折り畳んで。一気に広げた翼から出てきたのは砂鉄の霧だった。


「なッ!! コイツの攻撃はどういう——」


 ガス球ではなく。全身からぶわあっと鴉が霧を噴き上げる。ウォーダーを取り巻く虹色の障壁に灰のように霧が薄く黒く張りつく。


「また操縦が——艦長!!」

 叫ぶミネアは操縦桿が効かない。蛇の全身ががたがたと振動して砲塔を広げたまま低い唸りを上げる。その頭上から。


 二つの血柱が。左舷前方の障壁発生塊と後尾部にどろおっと垂れ落ちてきた。激しく飛沫を上げて蛇を血まみれにする液体は管制室の頭上までだらあと流れ広がって視界を遮る。飛ぶ蛇の唸りが大きく響く。いよいよ動きが鈍くなる。


 空にはりつけにされた蛇が震える。


「かっ、艦長!! 艦長!!」

 ぎしぎしと効かない操縦桿を握りしめながら猫が振り返って見るが、虎は。そこから押し黙ったまま、固まった血の隙間からわずかに見える遠くの鴉を睨みつけている。リリィとレオンも黙って虎に目をやり、アキラはこめかみに手を当てた。


(ど、どうするのっ!? 何かできること——)

=ない。=

(な。ないってオマエ)


 沈黙したのはロイとモニカも同じだった。急に。大人組はすべて、何かを感じたように喋らなくなる。ノーマが顔の横で右手首をぎゅっと握る。ロイは俯き中腰になりモニカは両の手をぶらんと腰骨まで降ろす。


 鴉が。はじめて。

 ぎゅうっと身体を前に丸めて尾羽を見せた。


 現れたのはあまりに巨大な。凶悪な。鉤爪であった。距離から察するに爪の全長は7、8メートルは下らない。蛇の障壁など簡単に貫いてしまうであろう、それが八本。

 獣の本能なのだろうか。ミネアも。リリィも。鋭い爪が視界に入った途端に全身が総毛立った。もう一度ミネアが虎を振り向く。


「か、艦長っ。」「来るぞミネア!!」


 思わず前に向き直ったミネアの視界に入ったのはこちらに向かって一直線に空を突っ込んでくる鴉の姿だった。その凄まじい勢いを殺すことなく直前で体躯を起こしてその巨大な鉤爪で。蛇を上下から——



「やっぱり最後は爪か。そりゃトリだもんなあ」

 虎が笑って。すぐ。



 咆哮とともに振りかぶって。

 その馬鹿でかい光球は一瞬で。

 蛇と鴉の間に現れて。

 

「ガアアアアアッ!!」

 虎が叫んで右手を振り切った。腕に真紅の紋が噴き上がる。光球が鴉の眉間にめり込んで鼻面から上嘴を凹面に変形させる。すかさず。


二連撃レイド2! 重詠唱オーバージャック!」

 ロイが強く握った両の拳を思い切り自分の胸の前で。がしいっ! と打ち付けた。勢い余って鱗が飛び散る。同時に。

 顔面がひしゃげた鴉の胸元に二つの光球が現れて翼の根元にめり込んだ。思わず鴉が背を丸める。そこに。


三連撃レイド3! 重詠唱オーバージャック!」

 右手を一瞬高く掲げて思い切り。ノーマが振り下ろす。同時に。

 丸まった鴉の背中にこれも巨大な光球が発現し、上から。


「ギャアアアアアアアアアア!!」

 鴉を撃ち下ろした。まるで背骨から折れ潰れた格好の鴉がたまらず叫び声を放つ。


「ぐおっ!! なんなんだコイツの声はッ!」

 また獣たちが耳を押さえる。鴉はそのまま後方にぐるんぐるんと回転しながら海へ落ちていく。虎が叫ぶ。


「モニカ散らせるか!」「任せな!」


 モニカが両手をぶわっと広げて二本の血柱に魔力マナを放った。固まった血がばしいっとひび割れて、そのまま乾いた蝋のようにぱあんっと弾け飛んだ。


「ダニー! 障壁解除! ミネア急降下だ!」

「了解!! 障壁解除します!!」

「きゅ、急降下、了解!」


 眼下では鴉が大きな水飛沫を上げて海に墜落したのが見て取れた。蛇の周辺から、奇怪な引力を発する黒煙の張り付いたままの壁が消えた。その瞬間ミネアが操縦桿を勢いよく降ろして足盤ペダルを踏み込む。


 煙が本体の壁面に寄るより早く、ごおっと振り切って。

 ウォーダーが一気に海面へ降下する。


「ダニー! 障壁再開! ロイ元素付与エンチャント!」

「障壁再開します!!」

「リッキー! 大地星タイタニア付与エンチャント!」

「え、エンチャント了解!」


 降下する蛇の周囲にまた虹色の壁が発現し、左右の砲塔が薄く黄色に輝きだした。海面がぐんぐんと迫り、やがて盛り上がり。


 またもや巨大な水飛沫を上げて。

 鴉が勢いよく海面から——


「こいつで止めだ」


 ゼロ距離であった。


 鴉の眼の前でぎゅっと鎌首を上げて急停止した蛇が左右の砲塔を、これもまた閉じた翼の如くに真正面に向ける。ばっさりと広がった黒翼の内に現れた顔の、赤の瞳が大きく広がったのは驚きか。


 蛇の主砲が火を噴いた。

 まともに鴉が顔面を撃たれる。

 爆煙とともに海面遥かに、その黒い身体が吹き飛んで。再度。


 海に落ちて沈んでいった。




 鴉が消えて、やがて、ばらばらと。天地を貫いてあちこちに垂れ下がった血の柱が次々にひび割れて砕けて海水へと落下する。周辺がぼこぼこと泡立ち赤黒く染まり、次第に色は青く戻って水面が凪いでいく。

 天を覆っていた叢雲が、少しずつ霞んで、数を減らして。それもまた青空に掻き消えて、空が平穏を取り戻していく。


 椅子に座って呆然と成り行きを伺っていた猫たちも、だんだんと変わっていく景色を見ながら、落ち着きを取り戻してきた。沈黙が続く蛇の中で、意外に。最初に喋ったのはノーマである。


「……艦長の魔力マナは、扱いやすくて楽よね」

「おい」「ぶっ、くっくっ」

 珍しくロイが吹き出す。


「ふふ、褒めてるのよ」

「……そりゃどうも。どうだ、終わったのかこれは?」


 誰にと言うわけでもなしに虎が訊くのを受けて。数人がそれぞれ、艦内のあちこちで半透明の壁から周辺を伺うが、空と海とは最初の頃に戻ったまま、変化もないように思えた。

 きょろきょろと、リッキーとエリオットも世界を見回して。しかしリザが、気付いたのだ。


 彼女に抱きついたままの白猫が、まだ。震えている。


「パメラ?」

「……疑ったら、ダメなの……」

「え?」


「〝いない〟と思わなきゃダメ!! 探したら!! ダメなのッ!!」

 

 白猫の大声が蛇に響いた。全員が主砲車両に目を向けた。

 空から。目を。意識を離して。


=居たぞ、アキラ=


 それが隙になるのだろうか。ふと。虎が。

「——くそッ!」

 振り返って天を睨む。嫌な気配が、当たった。



 漆黒の両円錐が三体。


 宙に浮かんでいる。が、それよりさらに。

 獣たちの心臓をぞろりと撫で伏したのは。

 唐突に浮いて現れた三体の前方に。


 ざあああああっと膨れ上がった海水を滴らせながら、

 空に浮上してきた、またひとつの固く閉じた黒翼である。


 ゆっくりとひらく。


 嘴の上面から両目の周囲、眉間にかけて。

 ぐずぐずに焼けただれた赤い皮膚の見えた、


 鴉であった。

 その形相は凄まじい。



「まいったなこりゃあ……」


 虎が苦笑するが、その鼻先に汗が垂れた。悪いのは増えたことではない、やれていないことなのだ。仕留めて、いない。それがまずい。

 だがしょうがない。タフなのだ相手が。虎も、飛竜も。獣たちが息を大きく吐いて身構える。彼らもまたタフなのだ。


 何度もあった、こんなことは。これくらいで折れたら死んでいる。


「ミネア」「は、はいっ」


「懐に入る。幸いこっちの動きは上々だ、連中に負けていねえ。だが前の一匹は後回しだ。奴には一回手の内を見せた。警戒してるはずだ」


 またしてもどろどろと叢雲が湧き上がる。三体の、殻のような閉じた翼に赤いぎざぎざの亀裂が入ってじわじわと開いていく。


「斬撃系の魔法に切り替えたほうがいいんじゃないかい?」

「私も、そう思います。どうも彼奴らは打たれ強い」

 モニカとロイの声が届く。


「切って増えたりしねえだろうな」

「ふふ、どうですかな」


 冗談で笑うロイは、しかしすでにぎりぎりと何度も拳を握っては開き、その腕にゆらゆらと紋を浮かばせていた。


 ざあああと開いた三体の、翼の中から現れたのは同じような鴉の顔だった。目を閉じたままゆるゆると大きく羽を空に広げていく。

 奴らは〝群れ〟なのだ。先頭の鴉はすでに翼を限界まで開いて首を引き、ただれた額で蛇を睨む。


 雲が、広がる。空が赤く黒く——しかし。


=アキラ。=

(え。えっ? なにっ?)


=この勝負、引き分けだ=

(ええっ?)


 いきなり蛇が大きく揺れた。強い振動が獣を襲う。

「うおっ!?」


 がががっ、がががっ、と。断続的な震えにミネアが思わず強く操縦桿を握るが、振動が止まらない。続いて。


「うわああああっ!!」


 猫たちが叫んだ。強烈に前後に蛇が揺れた。今度は獣たちが大きく揺り動かされる。振り回される。医師とアキラが床に倒れた。

 虎も思わず膝をついて座り込むが目は鴉から離さない、が。しかしその鴉の表情が。


 驚いているのだ。先ほどの威嚇の表情が消えて、空を、周囲を鴉が伺う。そして後方の三体の翼がだんだんと。閉じていく。また種子に戻っていく。


「ミネア! どうなってるんだ!」

「ちょ、ちょっとウォーダー!!」

 ミネアがふたたび操作しようとした瞬間。強い衝撃が蛇を揺らす。大きく獣たちがのけぞって。空を見ればそこに。


 飛んでいたのは〝木の葉〟だ。

「ええ?」


 あちこちに木の葉が飛び交って。中にはいくつかの大きな枝葉も混ざっている。空の雲が消えていく。三体の種子も、だんだんと世界の果てに遠ざかっていく。

 傷ついた鴉が、鴉だけが。嘴を大きく開けて何かを叫んでいるが声が届かない。叫んで。叫んで。しかしまるで空の向こうに引きずり戻されるかのように、それもまた遠ざかって。


 いきなり警報がけたたましく響いた。


=時間切れだアキラ=






 無限軌道の基底部が山岳森林帯の樹上に半分埋もれるほどに、周辺の木々が盛り上がってきていたのだ。ざざざざあっといくつもの木の枝を折り飛ばしながら、ウォーダーは森の上ぎりぎりを滑空していた。

 墜落間近の警報に、まずはっとしたのはダニーである。


「ミネア! 高度あげろ!!」

 目の前には更に高く森が伸び上がっている。


「ぐううっ!!」

 ミネアが思い切り操縦桿を引き上げた。その瞬間。

「うわああああ!!」


 まるでそれは先の戦いのモノローラに似て。巨体の蛇が山腹に連なる森の上空を、勢いよく滑るように舞い上がる。木々を散らす基底面の裏が緑に強く発光して、主砲群が自然と動いて後方にきれいに閉じる。


 艦内は急勾配に晒された。角度にして四十度ほどでごろごろと数人の獣たちが後方へ転がる。

 リリィとレオンは席にしがみついたまま「うおおおお」と森と空が映る正面モニタから目を離さず、アキラとエイモスの人間組はすでに部屋の壁まで滑って背をつけ座り込んでいた。虎はぎりぎりで空席に掴まりミネアに叫ぶ。


前後角ピッチ戻せミネア! 傾けすぎだ!」

「りょ、了解ッ!!」


 ミネアがモニタに映る外界の地形を見ながら、今度は慎重に。左から反時計回りにねじ込むように操縦桿を回す。と。


 山腹をぐるりと。生きた蛇のように。


「うっ? うっ……うう」


 その巨体で速度も落とさず、しかし滑らかに。またしても自ら主砲を片側だけ開いてバランスを取りつつ、ウォーダーが大回りで森と丘陵を回避して尾根の間をすり抜ける。


「うっ うっ うっくっ」


 さっきから変な声で唸っているのは当のミネアで。

 前屈みになり。


「おいミネア?」

「ううっ ううっ くっ」


 前屈みになり。


「おい?」


 ぐんっと足盤ペダルを踏み込んだ。一気に蛇の速度が上がる。全員に加速度がかかる。虎が叫んだ。

「うおおおおおっミネアおまえ何やってるんだ!!」


 わずかな操縦桿の操作で右に左に。所々に突き出た樹上を綺麗に避けながら。ウォーダーが大きく翼を開いて森の上を低空飛行する。ぶわあっと。飛び去る後に木の葉を舞わせながら。


「ううううっ。うおおおおッ!!」

「うっひょおおおおおおおお!!」

 叫ぶミネアにレオンとウサギが合わせてくる。


 本物の空を。蛇が飛ぶ。


 薄雲が流れる晴れた空の下、森の緑がどこまでも連なっている。

 時に勢いよく蛇行し、また直進する。速度が上がる。上がる。


『いっけえええええええ!!』

「どこにだッ! 止まれオマエらっ!」




=どうやら、なんとかなったようだな=

(そ、そうだね。課題は多そうだけど)


 蛇は現実の世界に、その性能を取り戻しつつあったのだ。

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