第二十二話 医師エイモスの所見

 かつてこの世界には、医者と呼ばれる職は三種類存在した。処置医と魔導医、そして魔法医師である。


 処置医と魔導医は扱う世界が違った。処置医は肉体的フィジカルな傷病、地球世界で言うところの外科や内科を主なカテゴリとし、大掛かりな手術こそ行わないが縫合や生体創傷の処置、疾病の治療、投薬の知識と技術を持ち身体的なアプローチを旨とする。


 対して魔導医の扱う世界は現実世界アーカディアのみならず幻界アストラルまで範囲が広がっている。魔導のからんだ事故や悪意にいんを発して負った傷病は、対象者が持つ魂の界まで影響が及ぶことが、ままあるからである。


 これを治療する魔導医は、医術に加えて幻界アストラルにおける元素星エレメントの性状に関する知見と洞察が求められる。一部の魔導医は実際に、幻界アストラルに干渉する治癒の魔法を使える者も


 今は、。魔導医が行えるのは幻界の診察のみである。


 そして魔法医師も、今は。彼等は名の通り魔法を実際に使用して他者を治癒する事をもっぱらの生業とした者であった。その治癒魔法は、今や帝国に独占されているのだ——黒騎士によって。


 それが、先の大戦でアルター国と獣の連合が、帝国ガニオンに後塵を拝した一因でもあった。あの戦争は『死んだら終わってしまう者たち』と『死んでも生き返る者たち』との不平等アンフェアな戦いだったのだ。




 ——なぜ大魔導師は、そんな魔法を編み出したのか?


 解いた黒騎士以外、誰も知らない。答えを見出せない。

 まさに使途は不明のままである。


 ノエルの使途不明呪文ジャンク=スペル、第十三番。


死門クロージャ』。


 ある一連の体系を持つ魔法式の群、それらの発動権限を大陸規模で完全に制限する魔法。黒騎士が所有する、この忌まわしき呪文によって、サンタナケリア大陸において帝都に籍を置かない魔法医師は職を追われてしまったのだ。




◇◆◇




 子供たちが呼びに行ったのはエイモス医師なのだが、そこは騒ぎ立てる彼らのことで「すっごいよ。すっごいんだから」とベッドの前で大仰に、アキラが行なった映像魔法のあれこれを舌足らずに熱弁した結果。


 言葉ではよく意味が取れないので、管制室にはケリーとノーマも、遅れてやって来たのである。入り口から数歩進んで蛇を見て、右腕を三角巾で吊った狼が呟いた。


「こいつぁ……すごいな。確かに」


「ケリー。腕はいいのか?」

「ああ、まぁ、しばらくは不便だ。次の出撃は、どうするかな」

「もう出撃の話か? 怪我人は治療に専念しろよ」


 ダニーとケリーが話す。犬と狼の会話は平時でも戦闘時でも、ざっくばらんな物言いである。痛まない左肩を隣のノーマに軽く手で支えられながら、狼が尖った鼻先を蛇の映像まで近づけてまじまじと見つめるのは、羽根の砲座の部分であった。傍にリッキーとエリオットの砲撃班が寄ってくる。


「ずいぶん細かい……砲座付近が赤いな、これ上に被って映ってるのはウォーダーの羽根か?」

「ね。こんな形してるんだぜ」

「ここと、ここ。両舷五番から背中に向かって赤い線が走ってますよね? ねえリザ、五番って照準がしょっちゅう狂うんだっけ?」


 振り向いて声をかけるエリオットに、リリィの脇腹をつんつん人差し指でつついて遊んでいたリザが気づいて答える。


「え? ああ。うん。要塞の時もずれて困ったんだ」

「じゃあやっぱりリザのせいじゃないんだ」

「だからいっつも言ってるじゃない。五番はメンテしないと、何か動きがおかしいんだってば」


 彼等のやり取りに声を出したのは。

元素星エレメントノードの衝突だと思う。艦長」


 医師エイモスである。先に部屋に呼ばれた彼は早速に艦長から要請を受け、蛇の映像の周りをぐるぐると移動しているところであった。元帝国の魔導師であり医師でもあるエイモスは幻界の存在も無論既知のものであり、蛇——無限機動の本体が幻界の生物であることも理解していた。


 エイモスの発言に周囲が集中する。虎が促す。


「極? 元素の陰陽のことか、先生?」


「そうだ。元素四大の中では、火星イグニス水星ハイドラ風星エアリア大地星タイタニア相克そうこくの関係にあるから同時使用が難しい」


「確かに、それは禁忌だ」


「普通は駆動系の接合点ジャンクションには大地星タイタニアの陽相三番『固着』と水星ハイドラの陽相二番『流動』の複合で、滑らかな接続ジョイントを作り出すはずだ。これは生物でも機械でも、魔力マナ化合エンチャントするなら基本は変わらない」


「うむ」


「しかしこの五番砲塔は後方の脈が異様に太くなっている。魔力マナの流圧が高い証拠だ——原因はわからないが、おそらく水星ハイドラの脈に風星エアリアが混ざり込んでいると思う」


 医師の言葉にリンジーが反応した。この子は本当に、こういう話が好きらしい。

「えっなんで? それじゃ壊れちゃうよ」


 驚く子犬に優しい顔を向けて医師が続ける。


「そうだ、風星エアリア大地星タイタニアと混ぜると相克を起こすから陰相の『風化』を強く発現しやすい。それに対抗して大地星タイタニアも陰に転じて『硬化』の相を出す。結果として接合部ジャンクションが『麻痺』を起こす。それを無理に動かそうと照準を設定すると『振戦』が起こる。だから砲が震えるはずだ。いつも一定間隔、一定方向のズレじゃないんだろ?」


 目を向けられて、リザが慌てて答えた。


「うん。うん。右にズレたり左にズレたり。そう、確かに揺れる感じでさ」


 赤毛の子猫の回答に周囲から感心した声が漏れる。艦長が続けて訊ねた。


「理由はわかった。原因はどうだろうか? 先生」

「そうだな……どこから混ざってくるのか……」


=指を差せ、アキラ。格納庫の上。二本の赤線が交差している場所だ=

「え? う、うん。先生。ここ」

「うん?……これは。動脈か? しかし、それだと……」


 急に。エイモスの表情が険しくなった。


=さて。この医師は気づくかな?=

(なんかあるの?)

=ここでは言わん。お前の身のためだ=

(ええ、勿体ぶってるなあ)


 腕を組んだままの艦長が、黙ってしまった医師に聞く。

「先生、問題があるのか?」


「いや……おそらく。脈のよじれを改善するか陰性を制御する式を張るかで、症状は改善するはずだ。問題ない」


「治せる、と?」「治せる」


 その二人のやり取りを、顔を行ったり来たりして聞いていたミネアが、最後に艦長の方をじっと見据える。

 医師の答えを聞いた虎が、天井を見上げて息を吐く。視線を少しミネアに戻して。


 ごく普通の声で、言った。


「——なんとかなるかもしれねえな」


 ぎゅうっと、ミネアが顔を。口元を幼くしかめて子供のように。それは久しぶりに虎が見る、彼女が子猫の頃に何度も見た顔で。


 蛇の映像をぶわっと突き抜けて。ミネアが入り口に駆けて行った。アキラの横を通り右腕で目頭を隠して。リリィは即座に目で追って叫んだ。


「ミ、ミネアっ」

「そっとしとけ、リリィ」


 止めたのは狼である。


 彼も虎と同じく幼い頃からの猫を知っている。

 逃げて泣くのが癖なのだ。




◇◆◇




「……ッ! はッ。はッ」


 目の前に開けた格納庫の扉から。


 夜の国境山岳の黒々とした峰が、輝く竜脈の河とともに駆けるように後方に流れて行くのが眼に映る。そろそろ砂の荒野も終わるのだ。


 吹き込む気流に髪をなびかせ遥か先、遠く連なる山々に向かって。牙の見える口を大きく開けたミネアが叫ぼうとする。が。


「はッ。はぁッ!」


 また声が出ない。いつもそうだ。



 ——雉虎の子猫は昔から、泣き方をよく知らない子供だった。


 虎に拾われる前のことは、あまり覚えていない。親が死んだのか親とはぐれたのか、記憶に留めるには戦地の彼女は幼すぎたのだ。


 気付けば煙火のくすぶる瓦礫の街をただ独りで彷徨っていた。見つけたのは血まみれの虎で、彼には灰犬と狼と狐の戦友がいた。


 岩のようにゴツく大きな爪の生えた虎の右手で、簡単に抱えられるほど小さな子供がミネア=セルトラだった。その姓をどうして虎が知っているのか、彼女は今でも教えてもらえていないままなのだ——



 ぎゅううっと胸元のシャツを破れんばかりに掴む。


「……ぐうッ」


 悲しいのは嫌いだ。嬉しいのも嫌いだ。感情を露わにするのが嫌いだ。露わにできずに胸が苦しいからだ。無表情が楽だ。彼女が出せるのは不細工な怒りだけだ。


 リリィみたいには、できない。モニカみたいにも。あのちびたちのようにも。みんなが蛇に来てから少しだけ、感情が出せるようになったのかもしれない。それでもこころが揺さぶられるのは、今でも苦手だ。


 ——迷惑はかけられないから。彼らはいつもボロボロで、戦いはいつも負けいくさで、いつも逃げ回っていたから。みんな強くて立派で優しいのに。魔法の戦争は、それでは勝てない。


 機械の蛇の中で、みんな、いつも傷だらけで焦燥していた。私は役に立たない。立たなかった。だから大きくなるまで。

 絶対に迷惑は、かけない。誰にも甘えない。自分でやる。なにもかも。そう思って生きてきたんだ。だから——

 

 泣かないわけじゃなかった。むしろ猫は泣き虫だった。


 今だってその目から大粒の、ばらばらと溢れる涙が、吹き込む風に巻き上げられて飛んで行く。でも。ウォーダーが治せると言われて、まだこの蛇と暮らせると聞いて、その気持ちを。こうやって。


 わからないのだ。


 叫んで涙をこぼして表すのが正しいのか、ミネアにはわからない。だからいつも逃げる。独りになるのだ。

 大きく開いた口から、声にならない叫びを吐いて。やがてミネアが口をゆっくりと閉じる。上下していた肩から少しずつ力が抜けて、心臓の痛みが収まっていく。


「……はぁ」


 落ち着けば。さっきまでの自分が。馬鹿みたいだ。いつもそうだ。




「もういいのかい? 子猫ちゃん」


 ぶわっと振り向けば、格納庫の後部入口の鉄扉に右肘をついて頭を支えたモニカが無表情で見ていた。


「あ。あ、モニカ、なに?」

 慌ててミネアがぎゅっぎゅっと、腕で涙を拭いながら言う。


「なに? じゃないよ。今夜に限ってどういうこったい、みんな全然、飯食いに来ないじゃないか。かたしちまっていいのかい?」

「え? いや、やだよ。食べるよ」


 急に子どものような返事をするミネアにちょっと笑って、モニカが格納庫を親指でくいっと指差す。


「もうここで食いな」「え?」

「食堂車はしまいだ。今から交代で来られても飯が冷めるじゃないか。竜脈でも見ながら一緒に食いな。持ってきてやるから。みんな、呼んできなよ」




◇◆◇




 獣の全員が腰を下ろすだけの十分な敷布がさくさくと持ち出されてきたところを見ると、この宴席のようなスタイルの食事は、竜脈搭乗の際はままある事なのかもしれない。


 そうアキラが思うくらい、子供たちをはじめとした面々の準備は手馴れたもので、格納庫に暖かい鍋と料理の盛った大皿と、いくつかの瓶と小皿が並ぶのに、さしたる時間はかからなかった。


 敷布の上にそっとケリーを座らせて、狐のノーマが両手を天井にかざし、ゆらゆらと揺らす、と。ぽわり、ぽわりとあちこちに。まるで竹で編んだ灯篭のような緩い暖色光のあかりが庫内のそこここに浮かび上がって獣を照らした。


 やや楽しげなその光景に、文句を言うのはリッキーである。


「ええぇ、だったら俺もう少し我慢したのにぃ。もっかい食べようかな」

「さっき食べたじゃん。ほら手伝ってよ」


 後方入口から大皿に乗ったパンを運んできたフランが注文をつける。後ろからシェリーとログがかしゃかしゃと飲み物を運んでくる。

 岩男のログが器用に両手で持っている多くのタンブラーは鉄製で、飲み口がクチバシのようにぎゅっと突き出て曲げてある。シェリーは逆にグラスボウルに入った、地球でいうマスカットほどの大きさをした紫の果実を大人たちの席に運んだ。


「ああ、すまんなログ、シェリー」

 礼を言った虎が格納庫の端からぼおっと様子を見ているアキラに手招きした。


「アキラっ、お前はこっちだ」

「あ、は、はい」


 見れば艦長の敷布に同席しているのはロイとエイモス医師の二人である。ダニー、ノーマ、ケリーはすでに別の敷布で舌鼓を打っている。向こうにはミネア、リリィ、サンディの三人の娘と子供たちが集まっていた。


(ううっ、上座だ。やだなあ)

=まあ、そうなるだろうな。観念しろ=


 だって上座って結局仕事の話しかしないじゃん、と会社の飲み会を思い出しつつ座るアキラの目の前に、飛竜がタンブラーを差し出す。


「炭酸の酒で大丈夫か? 青年」

「はい。あの。ありがとうございます。少しだけですけど」


 答えつつ両手で受け取って中を覗くが、軽く泡立った透明な液体が入ってるのみで、酒特有のアルコール臭はしない。


「これって……」

=本当にただの炭酸だな。酒は、あっちだ=

「え?」

 

 顔をあげると。飛竜が鱗に覆われた指先で、器用にボウルの果実を一つつまんで。アキラのタンブラーのクチバシにそっと置く。ころころと内側に転がって「ぽちゃん。」と落ちた。


 しゅうううと泡立って。ふわあっと。微かな甘い上品な香りと強いアルコール臭が漂う。鼻を膨らませて目を丸くするアキラに。


露の実メールも、初めてか?」


 さすがにそろそろ慣れてきたロイが笑った。同席のエイモス医師にもタンブラーを差し出しながら言う。


「ケリーの手当てをしてくれたのは助かった。礼を言います。それと——」


 やや面食らったのは受け取った医師だけでなく、隣で見ていたアキラも一緒で、飛竜があぐらで座った膝を両手で掴み、ぐっと。深く頭を下げたのだ。

「ウチの子の手当てもしてくれて、ありがとう」


 虎は笑っている。


(ウチの子って?)

=あの青猫らのことじゃないか? どうも最初の時の気にしようといい、後見人でもやっているのだろうか=


「ああ、あの青い子——リッキーだったか。あれは女の子の、なんだったか……たしかリザ。か」

「リザ=フレミング」

「そう。その子の手際が良かった。私は少し毛を整えて止血判を張り替えただけだ。大したことはしていない。それに」

 医師が額の止血判を指でこんこんと小突く。 


「こちらも手当てしてもらっているから、あいこだ。かしこまられると困る」

「そう言ってもらえると有難い。ありがとう」


 飛竜が頭を上げた。虎はボウルの実を二つほど手に取ってそのまま口に放り込んでガリガリと豪快に噛み、ざっとタンブラーの水を口に流し込む。ふうっと一息吐いて、医師に目を向けて言った。


「——どうなんだろうな。先生、あんたの見立ては?」


 話を振られて、胡座をかいたエイモスは両手で持ったタンブラーに目を落とす。少し考えて。


「正直、実際に別の界を診るのは初めてだ」

「だろうな」

「私は処置医で魔導医でも魔法医師でもない。幻界アストラルの在り様に関してもなんの経験もない。幻界に触れたことがないんだ。ただ……」


「ただ?」


 医師が顔を上げ、義眼の瞳で虎を見る。


「ノエルの十番を手に入れた頃、私は竜脈に触れる機会が多くあった。よく出かけていたのはダクステの海峡だ」

「ダクステ海峡……帝都ルガニアからは、だいぶ南ですな。西エルピカ脈の終域の辺りでしょうか」


 隣から言うロイに、医師が答える。


「そうだ、ファガンとの戦闘地域を避けて西域を海沿いに南下して、ムストーニア本島の近くまで小型無限機動ベスパーでドライブする。まあ、調査隊だな。本来の目的は昼間も話したが竜脈の本支流の出現パターンの記録だったんだが、そのせいでどうしても搭乗ランディングの機会が増えてな」

「まあ、そうでしょうな」


「おかげで、経験以上の知識がある……石ではなく、こっちに焼き付いてしまった」

 エイモスがこつこつと左の額を指でつつく。


(何度も竜脈に潜ったってこと?)

=そうだ。要塞の所長と一緒だ。自分が経験していない分野の知識が、竜脈に潜るたびに雑多に流れ込んできたのだろう=


 虎が引き続き訊いた。


「つまり幻界に手を加えた経験はないが……」

「そうだ。幻界を調整する知識は、持っている」

 医師の言葉に、虎が頷く。

「うん、うん……そうか……充分だ」


 管制室では見せなかった、そんな表情で何度も頷く。ロイは目を伏せ何も言わずタンブラーを口に運ぶ。


 医師は一息ついた後、言葉を続けた。


「ただし。幻界アストラルに手を入れるのは君だぞ、アキラ君」

「え? え、はいっ」


 急に振られて驚くアキラに医師が笑う。


「私はもう自由に魔力マナが使えない身体だ。本当なら蛇の診察すらできない立場だったのを、えるようにしてくれたのは助かった。同じように、蛇の身体に手を入れる際も手伝ってほしい。頼めるかな」


「はい、それは。治したいって言い出したのも俺ですし」

「おかげで少しでも借りを返せる。やれることは、やるよ艦長」


 医師が虎に向き直って言うのに、珍しく飛竜が茶化す。


「借りを返しすぎですな」

「じゃあ貸しだ」「おいおい、怖いな」


 三人が笑った。


(ううっ、大人の会話だ)


=情けないなあ、ついていけこれくらい=

(うるさいっ。でもなんだか……先生に任せっきりになりそうかなあ)


=呼んでみて、正解だったろ?=

(なんだよ、レオンと同じセリフじゃん)

=そうだな=



◇◆◇



「なあ。アキラ。聞きたいことがあるんだが」

「はい?」

「お前、獣を見るのって、初めてなんじゃねえか?」

「えっ! いや、あの」


 いきなりの質問にぎくりとするアキラにかまわず虎が話す。


 アキラが炭酸で割った露の実を半分ほどあける間に。さらに三つ、虎はかじってぐいぐいと飲んでいた。離れた席からはわいわいと、狐のぼんぼりに照らされた子供たちの声が聞こえてくる。


「なんとなく、な。お前の視線は好奇の視線だ。まるであれだ、外に連れ出した子どもだ。獣だけじゃねえ、お前は見るもの聞くもの、初めてのものが多いみたいだな」


「そ、その、失礼しました」


「かまわねえんだ。それは、かまわねえ。お互い様だ。それにな、アキラ。この蛇に乗る連中なんて行きずりだろうがなんだろうが一癖ふた癖はあるんだ、昔からな。いちいちそんなことは詮索しねえのが普通だしならわしなんだが、さすがに俺も長いこと生きてて、獣を知らない人間に会ったことは一度もないもんでな」


「そうなのか? 君は?」

 横からエイモスが訊く。


(どうしよう?……別大陸で、通すかなあ)

=まあ別世界と言えば荒唐無稽すぎる、しかたないだろう=


「まあ……はい。俺のでは見たことなくて」

=いい表現だ=


 アキラの返事に、席の三人が呆れたような納得したような顔をする。ロイが首を傾げて息を吐く。


「変わった人間だとは思っていたが」

「いい。いい。ロイ、俺たちもアキラとそんな違うわけじゃねえ」

「……まあ、そう言われれば、そうですな」


「え? それってどういう……」

「食わずに飲むのは身体に悪い」「わっ」


 驚くアキラの横には岩の男がかがみ込み、片手に持った皿を差し出す。上には焼きたての香ばしいパンのような食べ物が盛られてかすかに湯気を立てていた。

「あ。い、いただきます」

「うむ。お主は線が細い。沢山食え」

 

 薄くて固めのパンは一口大で、焦げ目がつく程度に火を通してある魚の切り身と香草が挟んである。むしゃっと頬張ると少し辛めのソースが染み出して旨い。


「おお、おいひい」

「当然。皆さんも」

 そう言ってログが敷布に皿を置いたのに、それぞれが手に取って口に運んだ。思えばこの食事は、口の形状がそれぞれ違う獣たちの誰もに配慮した型と大きさである。口元の毛を親指で軽く拭いながら艦長が喋る。


「獣の俺らが言うのもなんだが。よく、知らねえんだ」

「えっ?」


「獣の起源は、誰も知らないのさ」


 話を継いだのはエイモスである。見回すアキラに虎と飛竜が頷いた。要塞の所長の言葉をアキラが思い出して、そろりと伺う。


「あの……場所によれば、ずいぶん扱いが酷いとか、聞いたんですが」


 その台詞に艦長とロイの視線がわずかに交差し、ちょっと虎がアキラを手招きする。首を寄せたアキラに。虎が言う。ひそひそ声なのである。そしてそろそろ酒臭い。


「子供らには、そういう話題、振るんじゃないぞ」

「わ、わかりました」


「いいか。アキラ。獣と獣から、獣は生まれる」

「はい」

「ヒトと獣から、獣が生まれることもあるんだ」

「そうなんですね」

「問題はな」


 そう言って。

 虎が薄目で離れた子供たちを見る。


 相変わらず賑やかに、ミネアとリリィとサンディの席で子供たちははしゃぎながら食事をしていた。ちゃっかりリッキーやエリオットも皿に手をつけているようである。その様子を視線の端に置きながら。


 艦長がさらに小声で。


(ヒトとヒトから獣が生まれることがある)

「え、ぐっ。もご」

 声を上げかけたアキラの口を素早く押さえたのはロイだった。


 それでも。ぴくっと。

 

 遠くでリリィの耳が。肩が動いた。こちらからは背中なので表情は見えない。アキラの口を押さえたままロイが艦長に小声で訊ねる。


(その話は、改めた方がいいのでは?)


(かまわねえ。こいつは早くに知っとくべきだ。いいか。アキラ。ヒト同士から生まれた獣は、悲惨だ。元々は獣の形はしていない。ヒトの子供と変わらない。育ってから突然、変わり始めるんだ。毛が生えたり、耳が生えたり、牙や尻尾が生えたりしてな)


 口を押さえられたままアキラが頷くので、ロイがゆっくり手を離した。ぷはあっと息をするのに艦長が続ける。


(そりゃあな、化け物のようだ。ヒトから見ればな。多くの子は、親に見放され、棄てられる。いいか。アキラ。旦那は嫁の浮気を疑う。獣と寝たのか、ってな。それで潰れる夫婦もいる。病気を疑う連中もいる。だから街から追い出される。それでも最後まで。いいかアキラ。最後まで。我が子を棄てられずにかばって一緒に暮らしてもだ。それを襲う連中もいるんだ)


(お、襲う? どうして……)

(獣は魔力マナが強い。竜紋態ドラゴニアを見ただろう青年?)


 ロイが継ぎ足し、また艦長が話す。


(獣は子供でも竜紋態ドラゴニアが出せる。最初から、魔力マナに身体が馴染んでるんだ。だから訓練すれば、簡単に魔導も魔法も習得する。欲しがる奴はさらおうとする。嫌う奴はヒトに対する脅威だと、獣を感染する病だと、そう触れ回って襲うわけだ)


(で、でも帝国は今は獣を襲わない、と)


(そうだ。よく知ってるな。帝国は、戦争が終わって人狩りを始めてからは、本当に獣を襲わなくなった。理由はわからねえ。俺らのような魔導機乗りは攻撃してくるがな。今は当面、獣を襲うのはファガンの連中だが、他の国にも、獣に偏見を持つ連中は、まだまだいる)


 そこまで言って、艦長が曲げた背を戻す。

「まあ、そんな連中から、あの子らを守るのも俺らの仕事だ」

 

 送る視線の向こうに、淡い明かりに包まれて飯を食う子らの姿がある。陽気に声を上げて飯の取り合いをしている彼らがそんな世界に産まれたち試練に晒されているとは、アキラには思い及ばなかった。

 

 艦長がこきこきと肩を鳴らす。虎でありながら前屈みの猫背がこたえるのだろうか。


=確かに骨格や構造は、虎より人間に近いのかもな=


「あ、あの。艦長。失礼かもしれませんが」

「うん?」


「手を見ても、いいですか?」


 少し眉と耳が上がって驚く虎が、笑って右手を差し出す。

「感染しても知らんぞ」

「そんな冗談、言っちゃ駄目です」

「ふっふ。そうか。すまん」


=……お前、たまに思い切りがいいなあ=

(だってさあ。気になるじゃん)


 両手で触れる虎の右手はでかい。


 差し出された手は甲側がふさふさとした体毛に覆われて、確かに虎の毛色をしている。しかし手の平側は。地球の食肉目に特有の肉球のような盛り上がりはない。


 むしろそのしょうは霊長目——ゴリラやチンパンジーのような厚ぼったい硬い皮に包まれた、しっかりと皺も相もある『モノを握れる手』をしている。


=人間の手だな=

(そうだね。人間だ)


 まじまじと虎の手を見るアキラに横から、エイモスが訊いた。


「冗談と言い切れる根拠は、なにかな?」

「……? 根拠って、特には……」


「それまでヒトだった子が獣に変わる。だから病と信じているものもいる。そのこと自体は、残念だが自然なことだ。でも君は違うな」


「それは……その……」

「君のに、訊きたいことがある」


「……なんでしょう」


「私の昔からの所見なのだが」

 座り直してエイモスが言った。


「獣は感染症などではない。『式』だ」


「え?」

「ヒトの身体の中に、獣の『式』があるのではと、私は思っている」


 ウサギが。こちらを見た。


 居住まいを正す片目で盲目の医師の、まだらの白髪を緩い風が巻く。遠くで灯篭の暖かい光に、談笑する獣たちが照らされる中。


 ウサギだけが。こちらを見ている。

 何を思うのか表情はない。


「魔法式のような『式』が、ヒトの体を設計しているのではないだろうか? その式の中には、獣たちのように『ある時に唐突に発現するもの』も、あるのではないのだろうか?」


=……この医者は……=


「そして君にとって、それは常識の範疇で。だから獣を『感染うつる病のはずがない』と、最初から思えるのではないか?」

「えっと、その——」


「以前からずっと考えていた私が、竜脈に潜った時に。ある幻想が飛び込んできた」

「幻想、ですか?」



螺旋らせんだ。式は、螺旋をしている」



 黙り込むアキラに。

 右手をついて背を捻り、席を伺うリリィに。


「それは果たして幻想か?」


 医師が問うのだ。誰に、というわけでもなく。

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