第十二話 傷跡
緯度の高い北東砂漠は、この時期の日没が早い。
昼第4時を過ぎた頃より、帝国兵を乗せてゆっくりと飛ぶバイクタイプの『
藍から下へ黄金色のグラデーションに色づき巨大な月を浮かべる薄暮の空を、光点を浮かべながら滑らかに徐行する何台もの飛空バイクは、砂岩の丘の向こう、これも光の点滅している数本の鉄塔が見える小山のような影へと降りるようで、ひとつ、またひとつと姿を消していった。影から発するごおおおと低い稼動音だけが凪いで静かな砂漠に響いている。
ひときわ高い岩棚に腰掛けて
砂の舞わない夕刻に一服しに出てきたのだ。痛み止めの日課である。外でわざわざ巻くのもやはり日課で、手元で鈍く光る銀色のローラーには、六つ。刃物で彫り込んだような縦線の小さな傷があった。
巻いたタバコを少し捻って火をつけたタイミングで、左手首の腕輪がヴァーヴァーと震え出す。唇の端に挟んだままふうと煙を吹いて、曲げた右手の人差し指でこつっと腕輪を叩いて男が言った。
「捕捉したのか?」
『はい。100キロリーム(1キロリーム=約1.2キロメートル)圏内に入りました。方角は西北西、砂漠の端を東進してアイルタークへ越境するようです。竜脈にドライブする予定かと思います』
報告は本部の情報と合致していた。ちりちりと音を立てて口元の煙草を吸い、また煙を吐いて男が言う。
「さっき指令が入った。明日には
『ではクリスタニアに誘導するのですか?』
「そうだ、カタは本部がつけると言っている。まあ付かず離れず蛇の後ろを塞ぐだけだな」
わざと軽く語ったつもりだが、無線の声はトーンが落ちている。
『本部も勝手ですね、竜脈が出るのに輸送艦でどうやって獣と戦うんですか』
「ふふ、やるだけやるさ」
素直に男が認めた。魔力の奔流である竜脈下では全ての性能が段違いに上がるのだ、無限機動も、魔導機も、そして獣たちも。人間だけが、そんなアドバンテージを持たない。不利な戦いになるだろう。
もともと男が取り回している辺境第一中隊のベスビオは、戦闘特化の船ですらない。戦闘艇こそ輸送艦なりに積んでいるものの、装備は
(26億ジュールか、そんなものさえなけりゃあな……)
今回も辺境の巡回が任務だったはずで、爆縮騒ぎに加えて現れた蛇の件がなければ早々に、こんな埃っぽい砂漠からは引き上げていたはずなのだ。
ただ聞いているのは、獣の船はファガンの魔導師連中みたいに好戦的ではないということだ。中には年端もいかない獣人もいるらしい、おそらく戦闘よりも逃亡を優先するだろう。
加えてクリスタニアの湖にある辺境本部から単独で深追いはするなという指令も下りている。後ろから追い立てるだけの役割だが、それが幸いなことなのかどうかは判断がつかない。最近、なんとなく本部の動きが不審なのだ。
いずれにせよ、後を追うのに待ち伏せの形になっている今の位置取りは宜しくないので無線で命令する。
「マトモに鉢合わせはまずい、本体をもう少し南の高い丘陵へ隠す。モノローラは戻って来てるのか?」
『ほぼ戻りました。発進には問題ありません。吸い終わりましたか?』
頭痛も止んだので吸いかけのタバコを弾いて、男が言った。
「かまわん。迎えに来てくれ」
その言葉のあとすぐ、低く唸っていた稼動音が段々と大きくなり砂岩の丘陵にもびりびりと地鳴りが伝わってきた。
夕暮れを背に空を飛行していた七、八台のモノローラが、座席部分はそのままに前後同型の外殻カウルのみぎゃああんとコマのように水平に
砂漠に巨大な無限機動が現れる。
鉄塔は艦の背中に立った通信塔だった。丘陵全体に柔らかな砂煙が舞う。汎用型の無限機動ベスビオは炉心2億3000万ジュールの輸送艦である。
銀色に輝く頭足類の外套膜のような船体の両端には鋭角のヒレに見える翼が先頭から後部まで流れ、今は幅を狭く閉じている。船体後方には一本の太く長い尾が波打っていた。全長はウォーダーの倍はありそうな大型艦で、周囲を飛んでいたモノローラが灯りを点滅させながら側面の扉から船内へと消えていった。
入れ替わりに、扉から一台の小型ビークルが飛び出し、男の立つ丘へと向かってくる。迎えの者なのだろう。
獣の船がやってくるであろう西方の、もうだいぶ傾いてきた太陽を見ると、わずかに男の髪がそよぐ。
それがいつかは、人間にも獣にも、わからない。
しかし、アーダン砂漠に吹く西の風は。竜脈の予兆なのだ。
(
そんなことを男が思う。
◇◆◇
「うっわ……ナニこれ、若返ってるし」
部屋の鏡の前でアキラが自分の頰を撫でながら呆れて呟く。この世界に来て初めて見た鏡の自分は、記憶に残る十代後半、高校生か大学の頃の面影に見えた。
=ひょっとしたらと思ったのだが。日本人の外見は今ひとつ年齢と一致しないので黙っていたのだ。というよりお前の場合は、少し睡眠不足だったのではないか?=
そう答える声に、アキラが「うーん」と唸る。つい先日までは会社で連日連夜のハードワークであったのを思い出す。疲れていたのだが、その疲労が今は全く残っていない。思えば要塞の所長にも、この船の艦長にも物怖じせず話ができたのは、気力が戻っていたせいかもしれない。
アキラは現在、ウォーダー腹部に当たる生活車両の個室に通されていた。
最初に着艦した格納庫のさらに後ろで、案内してくれたウサギによると後方には厨房も食堂も寝台も貨物車両すらあるらしい。「蛇はアタシらのお
エイモス医師が不可思議な呪文を持ち出して交渉を始めた際に、これは当然なのだろうがアキラを含めて数人は人払いされた。部屋には幹部と医者だけが残り、アキラは取り敢えず身の回りを整えるようにと個室を用意してもらった——
ところが、見ているのだ。後ろからじいっと。
(増えてる……)
客船の個室を思わせる木目を基調とした部屋の扉は鉄板で、それがやや開いて覗いているのは先ほどの四人の子猫たちと、さらにコーギー犬の少年一人、チンチラの少年とドワーフウサギの少女が一人ずつ、合計で七人の子供たちがわちゃっと扉の隙間に集まっているのが鏡に映っている。少しおっかない。
(誰? ねえエリオットあれ誰?)
ハッハッハッとコーギーが舌を出す。
(リンジーうるさい。重い。あとベロ乗せないで)
(前に出過ぎだってば。扉開いちゃうだろ)
(だったらそこ譲ってよリッキー)
(暑いぃ。アンタらなんでそんな体温高いの?)
「くぉらっ! おまえら!!」
「びゃっ!!」
外の廊下から女性の大声が聞こえたと同時に、何人かの男子たちがばだだだっと部屋に転がり込んで来た。女子の数人は廊下側に逃げている。
廊下には畳んだ服を持ったリリィと、もう一人はズボンとシャツの上から白のエプロンを着たネズミの娘が仁王立ちしていた。
金髪のショートヘアーから伸びる耳はリリィよりも広く外に開きふぁたふぁたと動く。目元から頬にかけてつんつんと流れる毛は
「お客さんに失礼だろうが! リッキー! あと二時間でドライブだってのに何やってんだい。持ち場に戻りな」
ネズミが猫に怒鳴っている。尻餅をついたまま鼻を尖らせてリッキーが言い返す。
「だってダニーが! 後から紹介してくれるって言ったんだぜ!」
「後は後でもドライブの後でいいだろうが。帰った帰った。フラン! シェリー!」
「はははいっ」「あーい」
チンチラの男子フランとドワーフウサギの女子シェリーが返事をする。ネズミは手に持っていた
「さっきの戦闘で吹っ飛んじまった鍋の代わり、仕込み終わったんだろうね? あれがなきゃ晩飯が回らないんだ、わかってんのかい?」
「ええっ!」隣でリリィが驚愕する。
「あ、あ、えーとですね」「まだでーす」
「ほーら! さっさと厨房に戻りな!」
一喝されて子供達は皆ばたばたと持ち場へと戻って行った。
感心して見ていたアキラに、柄杓を持ち替えて彼女が右手を差し出す。
「モニカ=パインストン。モニカだ。この船じゃ飯炊き工兵、あと狙撃をやってる。ネズミの作る飯は食えるかい?」
アキラはそんな冗談より目のやり場に困った。握手した彼女は近付けば青猫のリッキー少年とそんなに身長も変わらない。140センチほどだろうか、まともに見下ろせば胸元がくっきり見えるのだ。
「ア、アキラです。トオノ・アキラ」
目元が泳ぐその挙動に気付いたモニカがにっと笑って少し悪い顔をする。さらにやや前かがみで。上目遣いに広い耳をことさら動かしながら甘えた声で言ってくる。
「なーんだい、口笛の一つでも吹くかと思ったら。そんな
ネズミの悪い顔が真顔になって。握手したアキラの瞳を下から覗く。
「うーん?」「あ、あの」
「はいはーい。青少年を誘惑するのはそこまで。パインちゃん」
リリィがすたすた部屋に入ってきて傍のベッドに着替えを置いたので、モニカがアキラの手を離す。表情はふざけた感じに戻っている。
「パインじゃなくてモニカだっての。なんだよリリィつれないなあ」
「ご飯は何より優先されるのです。作って早く。さあ。さあ。」
真面目な顔でにじり寄るリリィにモニカが押されてドアに戻る。
「わかった、わーかったよ。——またねアキラくん」
そう言ってモニカはちらっとアキラに視線をやり、
残ったリリィがとさっとベットに腰掛けぽんぽんと叩いてアキラを促す。
「えっ?」「着替え。こっちこっち。ほらほら」
言われるままにアキラが腰掛けると、リリィが同意を求めてきた。
「……でかいよねっ!」
「なにがっ?」「またまたあ」
目の前でにっとウサギが笑う。
間近に向かい合えば。
真っ白な産毛に覆われたウサギは、澄んだ瞳が大きく鼻から口元が幼く可愛い。頰の後ろに少しだけ白い毛がふわっと固まっているのがいいアクセントに見えた。
さらさらと輝く青白い髪を揺らして。改めて自己紹介をしてくる。
「リリィ=ストラウド。副操舵長兼ロックバイク班ね。ほら。言って」
「え?」
「ちゃんと覚えたか、言って。ほらっ」
「えと、リリィさん」
「そうそう。よくできました。で? アキラくん」
「は、はい」
「アキラくんは、どこの人?」
アキラが。答えに詰まる。
「……えっと。なんと言いますか、はは」「うん?」
「この大陸の人間じゃなくて、俺」
「……砂漠にいたのに? 内陸だよ?」
「それなんですよねえ……」
リリィが、ぐっと。顔を近づけて。
「え? あ、あの」
「それじゃあ、ね。アキラくん。これ見て、これ」
ぴこぴこと左の耳を動かして指差す。
「?……」
疑問に思ったアキラが目を凝らして。
ぎくりとした。
縫い傷がある。
きれいな産毛に覆われたウサギの左耳の真ん中辺りに幅の半分ほどまで食い込んだ痛々しい傷があるのだ。
だいぶ古い傷で、しかもあまり縫い方が上手くなかったのか、かなり雑な処置に思える。様相から見るに、左耳は一度ちぎれかけたらしい。
思わず伸ばした右手をガシッと掴まれる。じっとアキラを見る笑顔はそのままに、リリィがたしなめた。
「触るのは、だめだよお」
「ご、ごめん。つい……その……」
ぎりぎりと細い指先で掴まれた手首がみるみる紫色に染まる。すさまじい握力に腕が震え出す。リリィがじいっと邪気のない目でアキラを覗き込んでくる。
「人間は。ね。信用できないんだよね。ひどいこと、平気でするし、ねぇ」
笑顔が近い。
アキラの額に脂汗が浮かんだ。
「でも。なんかキミはね。その人間とはちがうんだよね、アキラくん」
「そ、そうなんですか?」
「うん。髪の色だけじゃなくて……なんだろう、匂いがしない。砂漠でも。今も。しなかったよ。なんで?」
「匂い……ですか?」
リリィが力を緩め、アキラの右手を鼻先に近づけて、すんすんと嗅ぐ。
「え? な、なに?」
「うーん。しない。焦った匂いも。嘘つきの匂いも。悪い匂いもしない。どういうこと? けっこう意表をついたと思ったんだけど……」
=汗腺の成分変化か? そこまで身体を再現していないからな=
(あ、ああ。そうなんだ)
「えっちな匂いもしなかったよ?」
「んんん?」
=性欲などリソースの無駄だ。=
(ええええ……けっこう大事なことだと思うんですけど……)
「でもパインのめっちゃ見てたよね?」
「あうあ? え、いや、そんなには」
声とウサギの両方を相手してわたわた焦るアキラに、リリィが真面目な顔をする。
「まあ、悪いヒトじゃないのかなあとは思うから聞くけど。いい?」
「え? は、はい?」
「あのねえ、——爆縮のこと、知ってる?」
(ああ……やっぱそれ気になるよねえ)
=うーん、少し目立ち過ぎたか=
アキラが眉間をハの字にしかめて首を傾けぐったりした顔をしたので、ウサギは合点がいかない。
「あれっ? ナニその反応?」
「スズメがですねぇ」「え?」
「……今考えたらやっぱスズメ1900羽って少なくない?」
=そうか?=
「ねーえ! なんの話? ごまかそうとしてるなら怒るよっ」
「あのですね!」「ぴゃっ」
「まず。ここがどんな世界でどんなひどい人間がいるのか知らないけど。自分は女の子にケガさせたり子供いじめたりはしないんで。そういう趣味ないんで。」
「……えっと」逆にリリィが押されて言葉が出ない。
「で。砂漠の爆縮の件は、知ってます。理由も知ってる。けど言いません。」
「えっなんで」
「秘密でもなんでもないです。でも最初から話すとものっすごくめんどくさい話だし、どこまで言っていいかわかんないので今は言いません。いつか機会があれば言います。要塞から出るの助けてもらっておいてごめんだけど。以上。」
若干の沈黙の後。
「ぷふっ」リリィが吹き出す。
「な、なに」
「ぶふふ……あは、あははは。鼻の穴なんでそんなふくらんでるの?」
「ふ。ふくらんでない。」
=ふくらんでる。力み過ぎだアキラ=
「あはは。まあいいや、本題。これ」
笑いながらリリィが畳んだ服からぶわさっとシャツを開いて持ち上げる。でかい。それを置いて今度はバッと広げたのが見事なトランクスである。これもでかい。そして尻に巨大な穴がある。
「こんなのしかないんだよねーどうする?」
「でっか……」
「これでもケリーの一番小さいやつなんだよねえ。ほかはもうダボダボだから無理。まあほら、こんなのは着こなしですよ着こなし、アキラくん。靴はねえ、もうしょーがないからそのままでいいよねえ。さあ脱ごうか」
「はい?」
「いや、脱いで? 今さら恥ずかしいとかないよね? ハダカだったよね?」
アキラが思い出して両手で顔を覆った。
「……あああああそうだったああ」
「あははは、なんだ面白いなあアキラくんはー」
結局アキラは囚人服の上下だけ脱いでケリーのシャツとズボンを拝借した。ズボンの尻にも大きな切り込みがあるが、これはボタンで自在に閉じる仕様になっていた。
自分ですると言ってるのにリリィが「いーからいーから、ほらっ」と無理やりアキラの前に座り込んで足首をとって甲斐甲斐しく裾を折っていく。ぴっぴっとズボンの裾を引っ張りながら話すリリィによると、この船の乗組員は全部で十八名とのことであった。
「じゃあ、まだ全員、会ってないのかなあ」
「そだねー。きっと動力班じゃないかなあ、あそこはみんな分配室からなかなか出てこないから。犬のサンディには、会ってないよねえ?」
「犬で女の人は、見てないですね」
「えっ……」
その言葉にリリィが。
しばしアキラをぼおっと。見つめて。
「リリィさん?」
そして。急に。にっと笑って言った。
「サンディも、でかいぞっ」
「だからなにがっ?」
「またまたあ、ほら立ってみて」
言われてアキラが立ち上がる。かなりぶかぶかのシャツも袖を捲ってゆるく着崩すようにリリィが襟を緩めて裾をちょいちょいと引っ張る。そしてベッドから少し離れて全身を上から下まで見る。
「うん。これは、いいんじゃない?」
だぼっと大き目であることには変わらないのだが、なかなか様になった。ウサギのセンスはいいらしい。
腕を上げたり下げたりして、捲った袖の降り具合をアキラが確かめる。リリィがそばに寄ってきた。
「……どうしたんですか?」
「ね。艦長は何のヒト?」
「え?」
リリィはちょっとだけ首を傾げ、視線を投げてくる。アキラがどぎまぎする。
「サンディは犬の人でしょー、艦長は?」
「え、えっと、虎の人?」
「ミネアは?」
「あ、あの猫の人?」
「アタシは?」
「……ウサギの、ヒト?」
「そっかあ」
兎がアキラの肩におでこを乗せた。横顔に触れる長耳の産毛がくすぐったい。まとめた髪をふわふわと揺らしながらリリィが呟く。
「あたしたちのこと、ヒトって呼ぶんだアキラくんは」
「え! えと。ダメでしたっけ?」
肩にもたれたままのリリイが薄く目を伏せる。
「ううん。そう呼ばれるのって、どれくらいぶりかなあ、と思って」
今はもう遠い。それでも忘れられない。
ウサギの記憶が蘇る。
——その街には、よく雨が降っていた。
町工場の煙突から立ち上る煙と同化するどろどろの雲の下、油臭い水溜まりに額を浸けて土下座した子兎は、ただ馬鹿のようにぶつぶつと呟いていた。
逃げてばかりの小汚い獣は、人に見つかれば火掻きや鉄棒で殴られ追いやられて、とうに身体は限界だった。
獣がウチの子に近づくなと。
あの獣を潰しておくれよと。安心して寝れないじゃないか、と。
下手に整った顔立ちであったため、しかし弄れば感染ると
殴ってはわざと逃し、また捕まえて殴って血を流させて、逃げていくのを
嗅ぎたくなくても激しく
「……やっぱ匂いしない。変わってるねアキラくん」
「そ、そうなんです?」
「うん。でも、落ち着くから、いいかな」
——蛇の補給に立ち寄っただけの、薄汚れた街だった。
視界をぼんやりと煙らせる雨の中、その人間どもを一人残らず震え上がらせた凶悪な鋼鉄の蛇から降り立った、屈強な虎と妖狐と銀狼と、そして傘を差した雉虎の子猫は、右腕をだらりと伸ばして頭を垂れるずぶ濡れの、耳のちぎれかけた兎の少女を見下ろしていた。
いつから着ているか分からない、汚れきったワンピースはきっと白かったはずなのだろう。膝をつけても痛めた腕が曲がらない。泥に伏して切れた唇の端からぷくぷくと吹き出すよだれの混じった血の泡と一緒に、同じ言葉を馬鹿のように、ただもう馬鹿のように、馬鹿のように呟いていた。
断られたら、死ぬしかなかった。
「乗せてください助けてください」と——
目を閉じたまま、何も言わない。アキラが声をかける。
「あの? リリィさん? わっ」
両の肩をつかんで首筋を引き寄せて。
リリィが——
アキラに頰を擦り付けた。
真っ白でふさふさの毛は暖かく、柔らかな匂いに包まれる。
そして離れて。いつもの調子に戻る。
「んー? 逃げない? 嫌がらないね」
「そ、そんな。嫌がるなんてない、絶対」
じっと見ながら微笑んで、それから。にいっと。
満面の笑みで長い耳をぴこぴこ動かす。
「えへへへへへっ」
「え? え?」
「じゃねー。服、やっぱり大きいのしかなかったねー。ごめんねー」
妙に早口でそれだけ言ってリリィが手を振り、急ぎがちに部屋から出て行った。
鈍く弱く、ウォーダーの駆動音だけが部屋に残る。アキラは、すとんとベッドに腰を下ろした。顔が上気しているが、心のうちが少しだけ締め付けられる。
=感傷に浸っているところ、申し訳ないが。いいか?=
「……うん。なに?」
=なぜウサギの耳が縫ってある?=
「え?」
=この世界には復活の呪文すらあるのだぞ。当然、治癒系の魔法ぐらい存在するだろう。普通の人間ならともかく、あれだけ魔力を使いこなす獣人たちが、なぜ耳を縫って治すのだ?=
「ええ……そんなのあるなら所長さん治してあげたら良かったのに」
=使えるわけではない。さっきのノエルと言うのもそうだが、私がなんでも式を見つけているわけではない。それに治癒の魔法があるなら、あの手練れの所長が使えないというのも、おかしな話だ=
「そうだね、なんか変だ……てかお前って、どこで呪文とか探してくるの?」
=竜脈に潜るのだ=
「え? そうなの?」
=所長が言ってただろう? この世界の魔力は竜脈を本流にして、隅々までうっすらと空気のように繋がっている。だから私はこうやって世界にアクセスできているし、お前の出自も改竄できた。そこには式や情報も流れている=
「うん」
=しかし逆に虎の
「あー、パスワードみたいな、って。量子コンピューターってさ、そういうの解くのが得意なんじゃないの?」
=おそらく〝鍵をかけた事実〟が鍵になっている。
アキラの顔つきが真剣になる。
「まぁ……この世界では、魔法に鍵をかけられるってことだよね」
=そういうことだ。帝国兵の隊長のヘルメットで発動していたのは、あれは治癒系の魔法だった。だから帝国だけは——=
かんかん、と、扉が軽くノックされ部屋に犬のダニーが入ってくる。
「アキラくん。着替えは済んだ——ようだな。ちょっと来てくれないか」
「あ、はい。なんでしょう?」
「レオンがな、どうしても君を呼んでこいって言って聞かないんだ。艦長の許可が出たから一緒にエイモス先生の話を聞いてほしい。内密な話だ」
困り顔でダニーが言った。
時刻はそろそろ夕刻である。
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